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GOOD MORNING  作者: 琴羽
13/31

第1章(12)

――どこに行けば東野に会えるのだろうか。

今朝は爽快な目覚めを迎えて、早い時間から身体を動かしているが今日も東野が現れる気配はない。

「くそっ。こんなことになるなら、バイト先くらい聞いておけばよかった」

日課になりつつある朝の素振りを終えて、ベンチに腰を掛ける。そして、朝一番にコンビニで買っておいたパンを二つ、ビニール袋から取り出してベンチに置いた。

身体を少し動かした後に食べる朝食の時間が、ここ最近の楽しみになっていた。いつもはツナマヨパンとクリームパンと決めていたが、今日は少しだけ奮発して、クリームパンより10円だけ高いメロンパンを買ってしまった。いつものようにツナマヨパンを頬張りながら、この後に待っているメロンパンに思いをはせる。

最後の一かけらを飲み込んで、いよいよメロンパンを食べようと手を伸ばすと、その瞬間黒い影がすぐ脇をかすめていった。

メロンパンへ向けて伸ばした手の先を見ると、そこにはあるはずのものがない。

――そしてベンチから数メートル離れた先、このベンチの上になければいけないはずのものをくわえた黒猫が、挑発的な顔をしてこちらを見つめていた。

「んなあ!!??このくそ猫、返せ!」

慌てて立ち上がって怒鳴りつけても、まるで気に留めた様子もない。それどころか、おちょくるように身体を掻いて余裕をアピールしている。

「バカにしやがって……よくも俺の大事な楽しみを奪ってくれたな」

下手に刺激しないように、一歩一歩少しずつ距離を詰めていく。ついに、あと一歩の距離まで近づくことに成功したとき、意を決して黒猫に向かって腕を伸ばした。

が、黒猫はするりと腕をかいくぐり、また少し俺から距離をとる。

もう一度近づいて捕まえようとしても、また寸前のところで逃げられる。そんなことを何度も繰り返しているうち、黒猫は飽きてしまったのか、ついに走って逃げだした。

「はあ、はあ……待てよ、このくそ猫!」

俺がこんなに楽しみしておいたメロンパンを、パンの価値も分からないあんな獣に奪われるなんて許されない。

だが、猫の身体は身軽で早く、全力で走っても徐々に距離を離されてしまう。加えて、朝の運動の後だと言うこともあって、早くも体力が底をつき始めている。

肺の中の空気は空っぽになり、口の中の唾液がどろりとして気持ち悪い。

「はあ、はあ……おまえなあ、このメロンパンはちゃんと中にクリームが入ってるタイプなんだぞ!?こんな甘いもの猫が食ったら絶対に腹壊すからな!?」

必死に叫びもむなしく、黒猫は走ることをやめようとしない。そしてついに、黒猫は塀を飛び越えて、どこか民家の中へと入っていってしまった。そこが猫の家なのか、それともただ隠れるために使っているだけなのかは知らないが、それきり猫は姿を現さなかった。

「俺、なにやってるんだろう……」

メロンパンのために躍起になって黒猫を追いかけ回し、気が付けば馴染みのない場所までやって来ていた。

「おまえ、本当に何やってんだ?」

うなだれる俺に向かって、大柄な男が突然話しかけてきた。

顔を上げてみると、そこに立っていたのは大坪さんだった。

「大坪さんこそ、なにやってるんですか」

周りを見ずに走ってきたものだから、今自分がどこにいるのか分からなかったが、どうやら何かのお店の前にいるみたいだ。

「何してるって、そりゃあ仕事に決まってんだろ。おまえこそ、うちの店になにか用かよ」

店の中を見渡してみると、そこは一面に酒、酒、酒。

そしてご丁寧なことに、そこかしこに“大坪酒店”と、店名が記されている。

「ま、まあ俺のことはさておき……大坪さんって酒屋の店主だったんですね」

着ている洋服は普段通りのラフな格好だが、おそらく制服だと思われる酒屋のエプロンがやけに似合っていた。

「いつも早い時間から練習に参加してますけど、お店は大丈夫なんですか?」

「あん?大丈夫なもんかよ。昼過ぎまではちゃんと働いてるけど、それ以降は全部せがれに押し付けてるのさ」

――余計なお世話だって言うのは分かっているけど、大坪さんのところの家計は大丈夫なんだろうか……

「そうだ、せっかくだし何か買ってくか?チームメイトなら特別に2割引きだ」

「いや、俺ほとんど金持ってないんで……それに、酒はもう金輪際飲みませんから」

二週連続で限界を超えるまで飲まされたことを思い出し、自然と体が震えあがる。今週こそ飲まされずに済むだろうか……

「ちっ、しょうがねえ。やっぱり酒は土曜までお預けだな」

「いや、絶対に飲みませんから……」

大坪さんは「分かった分かった」と言いながら苦笑いを浮かべているが、この顔は絶対に分かっていない。どうせ今週も無限の日本酒と格闘するのだろう。

そこで会話が一区切りを終えて、ふと一瞬の静寂が訪れる。

すると大坪さんは、寂しげな表情を浮かべて微笑んだ。

「あいつは、ちゃんとグラウンドに来て練習してるか?」

“あいつ”と言うのが誰を指すのか、大坪さんの口ぶりからすぐに理解できた。そして、その問いかけに対して満足の行くような返事を、俺はすることができない。

答えに窮して迷っていると、大坪さんは察したように薄く笑った。

「ったく、あいつはいったい何に悩んでんのかな。俺にはいまいち分かんねえや」

大坪さんだって、東野の異変には気付いている。俺なんかよりも、ずっとずっと長く東野のことを見てきたのだから当たり前だ。けどそれでも、あの日に土手で出会った二人組の男のことや、その二人が口にしていたことを話す気にはなれない。

「おまえは知らないだろうけどな、あいつをスカウトしたのは俺なんだぜ?だから、あいつが何を考えてるのかとか、今まではなんとなく分かってるつもりではいたんだが……今回ばかりは、どうしてあんなに様子がおかしくなったのか、まるで分かんねえんだ」

――話した方がいいんだろうか。あの時、見聞きしたことのすべてを……

だが、東野は二人組の男に傷つけられても、何事もなかったかのように俺に向かって微笑んで見せた。

俺が誰かに話してしまえば、東野のその精いっぱいの強がりを無駄にしてしまうような気がして、どうしても話す気にはなれなかった。

「大坪さんにも、分からないことがあるんですね」

「分かってるつもりではいたんだけどなあ……あいつは生粋の野球バカで、俺らと一緒に野球をするのが何よりの楽しみなんだ。だから、そのあいつが野球を捨てられるわけがねえと思ってたんだが……」

大坪さんは大きなため息をついた後、しんどそうに表に設置されていたベンチに腰を掛けた。そして、胸のポケットから煙草を一本だけ取り出して火をつけた。

――この人、今仕事中だったよな?

「あ、これ嫁には内緒な?」

口から煙を吐き出しながら、大坪さんはいたずらっぽく笑う。いくら今は客がいないとは言え、店の営業中に店主が堂々と表でタバコを吸っていていいのだろうか。

「どうせうちには常連しか来ないし、多少はサボっても怒られないのさ」

「いや、別にそこはいいんですけど……」

大坪さんは相変わらずとんでもない自由人っぷりを発揮しているが、もはやツッコむ気にもなれない。

けど案外、これだけ自由奔放だからこそ、チームのみんなは大坪さんを尊敬しているのかもしれない。

東野だって、その一人だったはずだ。

「はーあ。東野のやつだって、せがれとそんなに年齢は変わらねえんだが、どうにもうまくいかねえもんだなあ。なんだか、あいつにとって野球が負担になってるんじゃねえかって、そんなことまで考えちまったよ」

大坪さんは、やがて短くなったたばこの先を灰皿に押し付けて火をもみ消すと、力のない顔で笑った後、うつむいてしまった。

そして、小さくつぶやくように言葉を零す。

「あいつの人生は、野球がすべてだから。チームのために少しでも上手くならなきゃとか、そう言うのが全部、負担になってるのかもな」

うつむいた大坪さんの顔は見えないが、きっと普段からは想像もできないような頼りない顔をしているのだろう。大坪さんはいつだってでかい態度でベンチの真ん中でふんぞり返っていて、することすべてが破天荒でも、それでもチームの誰からも頼られていた。

「東野は本当に大坪さんのことを尊敬してるし、大好きなキャプテンだと思ってるはずです」

そうでなければ、あんなに熱量のこもった練習を毎日続けられるわけがない。たとえそれが、自分自身を追い詰めてしまうことにつながっても、東野が大坪さんに対して抱いている想いを否定したくなかった。

「ふ、まさかこんな新入りに励まされるとはな。俺があいつをスカウトしたんだから、俺が支えてあげてやらなきゃダメだよなあ……」

大坪さんはようやく顔を上げる。

その顔はもう、さきほどまでの力ない表情ではない。どこか吹っ切れて、覚悟を決めた顔に見えた。

「さて、休憩終わりのもう一本……」

「って、また吸う気ですか」

再び胸ポケットへと手を伸ばす大坪さんの動きを片手で制す。するとひもじそうな顔をしながら、「ケチ」と一言つぶやいて手をひっこめた。

「しょうがねえ。話もひと段落したところで、また仕事に戻るとするか」

大坪さんは重い腰を上げて立ち上がる。

「おい、新入り」

「なんですか?」

真面目な顔をして、見つめてくる。ふと、俺はいつまで新入りと呼ばれるのだろうと、そんなどうでもいいことが頭をよぎった。

「お前はもう立派なチームメイトだ。俺がいないときは、お前が東野のことを支えてやってくれ。それでもきついときは俺がみんなを助けてやるからよ」

――東野、お前は今どこで何をしてる?

大坪さんの姿がこんなにも大きく見えて、今まで覚えていた悩みや不安が小さくなっていくのを感じていた。

今もどこかで悩み続けている東野に、大坪さんのこの言葉を届けたい。

「俺、このチームに入って本当によかったです」

深々とおじぎをした後、店に背を向けて歩き始めた。グラウンドに戻れば、いつものようにそこで練習をしている東野がいることを願いながら……


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