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GOOD MORNING  作者: 琴羽
12/31

第1章(11)

「えっと、確かこの中に住んでるんだったよね?」

物音が頭にガンガンと鳴り響く。気持ち悪いし身体は怠いし、そもそも自分が今どこにいるのかさえわからない。涙で固まった瞼を無理矢理こじ開けて周囲の状況を確認すると、少しずつ昨日の記憶がよみがえってくる。

――ああ、また昨日も途中でつぶれたのか……

いったいどうやって戻ってきたのかは覚えていないが、ちゃんと自分の段ボールハウスの中で横になっていた。

「水、飲みてえ……」

口の中はカラカラに乾き、気持ち悪さは限界まで達している。

「こ、このボロっちい段ボールの中に人が住んでるのかなあ?」

さっきから聞こえてくる人の声が耳障りだ。誰かが家の前でたむろでもしているのだろうか。

なんとか這うようにして家の外に出ると、そこで力尽きた。

「う、うわっ。出てきたと思ったらいきなり倒れたぁ!」

まだ少し幼さの残る少女の声がすぐ目の前から聞こえてくる。

「この人がミソラの言っていた、私と同じの人なの?」

どうにか顔を上げると、そこには十代中盤ほどの少女が立っていた。記憶をなくしてからの一週間、チームメイト以外の人間とはほとんど出会ったことはないはずだが、どうしてかその少女の顔に見覚えがあった。

「あ、起きた」

幼さを残したふっくらとした顔と肩の下まで流れる柔かな黒髪、そしてなにより特徴的なのがその瞳――

彼女のその目を見た瞬間、いったいいつ出会ったのか、一つの心当たりにたどり着く。

「あんたひょっとして、この前協会の近くで俺のことを見てた――」

カラカラの口を開いた瞬間、吐き気がどっと押し寄せてきた。

「奴だよ、な?っう、おええええええええええぇぇ!」

「って、えええええええええ!!!???なんでこの人いきなり吐いてるの!?おかしくない!?」

実際のところ、昨日のうちに吐くものは吐ききっていたため、胃袋の中には少し胃液しか残っていなかった。だがそんなことは、この少女にとっては関係のない話で、いきなり目の前で男が吐き出したという事実に変わりはない。

「こんなのが、こんなのが私と同じだなんてヤだああああああ!!!!」

少女は訳の分からないことを叫びながら、全速力で逃げ出すように走り去っていった。

「結局、あいつはなんだったんだ……」

誰もいなくなった月曜の朝の河川敷に、再び力尽きて倒れこむ。

そして、半ば意識を失うように眠りに落ちていく。


「はーあ。あのバカオヤジだけじゃなくて、こいつもか……ホント、どっちが年上だよ」

夢の中で、そんな声が聞こえた気がした。

「あ……」

再び目を覚ますと、すぐ目の前に見知らぬピンク色の小さな水筒が置いてあるのが目に入ってきた。いったい今が何時なのかは分からないが、明らかに通勤通学の時間は過ぎているだろう。この水筒の持ち主は容易に想像できた。

「悪い……」

もうここにはいない水筒の持ち主に感謝を告げながら、一息で水筒の中身を飲み干した。

「っぷは!!」

カラカラの喉は潤いを取り戻し、眠っていた脳は目覚め始める。

それに合わせて、空っぽの胃袋が食料を求めて暴れだす。

「ぐ~~~」

間抜けな腹の虫の鳴き声が、余計に空腹を意識させる。

――東野は、もう食べたかな?

いつも朝早くグラウンドにやって来ては自主練習をしている東野とは、近くのコンビニで朝食を買って一緒に食べることが多い。

だが、グラウンドの方を見てみても、そこに練習に打ち込む東野の姿はなかった。

辺りには健康のためにウォーキングをしている老人が一人いるだけで、あまりにも閑散としていて、何の物音も聞こえない。

「今日はもう練習しないつもりなのかよ……」

先週はあれだけ夜中まで騒いでいたにもかかわらず、朝一番にグラウンドに来てはバットを振っていた。だと言うのに、今日はもう陽が高く昇っている頃になっても姿を現す気配はない。

もう一度小さく腹の虫が鳴った。

「とりあえず、コンビニでも行くか」

そして、コンビニで買った安いパンをゆっくりかじっていても、いっこうに東野はやってこない。いつまでも待っているわけにもいかず、日課になっているストレッチを開始する。

そんな風に、一人でもできる練習を、誰かがこのグラウンドにやってくるまでひたすら続けたのだった。


「297!298!299!はぁ、300……!!」

日が傾き始め、だんだんと夕方と呼ぶべき時間になった時、ノルマに設定していた素振り300回をようやく達成することが出来た。

「はあ……くそ、もう限界だ」

倒れるように地面に座り込んで、荒くなった息を吐きだした。

投げ込み、走り込み、ストレッチ、筋トレに素振り。たった半日の間に、これでもかと言うほど体を痛めつけた。東野は普段、これだけのメニューを平気でこなしているのだ。

「やっぱ、あいつはすげえな」

「誰がすごいって?」

いつの間にやって来ていたのか、すぐ隣には制服姿の彩が立っていた。

「ああ、彩か」

「水筒、返してもらおうと思って」

ベンチの上に置きっぱなしになっている、ピンク色の水筒を指さした。

「今朝は本当に助かったよ。ありがとう」

「普通に歩いてたら、地面にうつぶせに倒れたあんたがいるんだもん。“水をくれ~”って呻いてるし、ほっとくわけにもいかなかったからね」

「いや、本当に悪かった……」

「いいっての。バカオヤジのせいで酔っ払いの相手は慣れてるし。ただ、あんたに水筒を貸したせいで余計にお茶を買う羽目になったから、一つ貸しね」

「わ、分かった……」

彩は水筒を返してもらいに来たと言っていたはずだが、一向に立ち去る気配はない。それどころか、俺の隣に「よいしょ」と腰を下ろし始めた。

「あんた、予想以上に頑張ってるじゃん」

「頑張ってるって、なにがだよ」

「何がって、練習に決まってるでしょ?あんたってもともと野球がしたくて入ってきたわけじゃないし、正直期待してなかったんだけど……いい意味で期待を裏切ってくれたよね」

「そりゃあ、新参だからってチームの弱点にはなりたくないからな」

記憶喪失を語る男がいきなりチームに加わると言ってきたら、誰だって不審に思うだろう。だからせめて、ちゃんと認められるためには実力をつけなければいけない。

だから、東野や彩の厳しい練習にも頑張ってついていった。

「うーん。なんとなくさ、今のあんたってちょっと東野さんに似てるんだよね」

「どこがだよ。俺はあいつと違って、何か一つのことに全力で打ち込むなんてできないよ」

ふと隣を見ると、真剣な顔をした彩が俺のことを見つめていた。

俺と東野の、どこが似ていると言うのか、彩は普段よりも少しだけ低い声で語り始めた。

「どこが似てるっていうと、ちょっと言いにくいけど……東野さんもあんたも、自分の居場所を守るために、がむしゃらになってるところかな」

始め、彩の言っていることが理解できなかった。

確かに俺はようやく見つけたこのチームと言う居場所を守るためにがむしゃらに練習をしているのかもしれない。記憶を失ってしまった俺にとって、自分の居場所はこのチームにしかないのだから。

――でも東野は違う。

「東野さんも同じだよ。だってあの人は大学を中退して自分の居場所をなくしてるから」

昨日、二人組の男が言っていた言葉を思い出す。

東野は高校を卒業した後、大学を中退している。

「………………」

どんな風に反応を返したらいいのか分からずに黙っていると、彩は不服そうな顔をして首をかしげた。

「ここって、もうちょっと驚いてもいい場面だと思うんだけど。もしかして東野さんから聞いてた?」

「まあ、そんなところだ」

まさか東野の元チームメイトから聞かされたなんて言えるわけもなく、適当な言葉でごまかした。

「じゃあさ、中退することになった、その理由とかは聞いてたりする?」

「いや、俺が聞いてるのは中退したっていう事実だけで、なにも知らないよ」

あの二人組は、東野が大学を中退した理由については触れなかったが、なんとなく想像はできる。

きっと……

「野球がらみ、とか?」

「そ。正解。私も詳しいことは分かんないんだけどさ、大学でも野球部に入ってたらしいんだけど、部内でちょっとした問題を起こして辞めさせられちゃったんだって。それで、野球ができないなら意味がないって、そのまま大学も辞めたんだ」

一息で話し終えた彩は、沈んだ夕日に変わってゆっくりと浮上する月を眺めている。

そして、月に向かって一言

「バカだよね」

とつぶやいた。

東野さんの選択はバカだったのだろうか。たかが野球のために大学をやめて、今はこうしてフリーターをやりながら草野球に興じている。

仮に世間一般の常識からはズレていたとしても、それでも自分のやりたいことができる人生なら、一概に間違いだなんて言えないのかもしれない。

「でもさ、東野さんってなんとなく、自分の居場所を守るために野球に逃げてる気がするんだよね」

「……どうして?」

「最初に言ったじゃん。あんたと東野さんは似てるって。東野さんが野球に打ち込む場所はこのチームしかないし、チームから必要とされなきゃいけない。それに、間違いなく東野さんは大坪さんに恩義を感じてるし」

「恩義……?」

「うん。東野さんは大学を中退した後に、関東でも有数の野球チームに入ろうとしたんだけど、実力不足で入団を断られたんだって。そして、どこにも居場所がなくなった時、途方に暮れてこの辺りをさまよっていた東野さんを大坪さんがスカウトしたんだ。だから、東野さんがあんなに必死に練習するのは、大坪さんやこのチームに恩を返すためでもあるんだと思う」

俺の中にあった東野さんのイメージが少しずつ崩れていく。

俺は東野のことを、野球が好きで好きでしょうがなくて、ただそれだけのことしか考えていないようなやつだと思っていた。

けど実際は、野球をする理由が“ただ好きだから“だけじゃないことを知ってしまった。

「確かに、俺と同じなのかもしれないな」

大好きな野球ができる場所を与えてくれた大坪さんのために、少しでもその野球で貢献しようと躍起になって練習を続けている。

「でもさ、だとしたら……」

もし、彩の言うと通り東野が俺と同じなのだとしたら……そこから先を口にするのははばかられた。

「なんとなくさ。うちのチームに入ってからの東野さんって、野球をしてるんじゃなくて、野球をやらされているだけみたいな気がするんだよね」

その頭の中にとどめた言葉を、彩は迷わず口にした。その言葉は、なんとなく口にしてしまうことが怖かった。

「そりゃあ、私はこのチームに来る前の東野さんは知らないし、何が原因で今になってこんなに様子がおかしくなってるのかも分かんないけどさ……もしかして、似た者同士のあんたなら、少しは分かるのかなって……」

――まただ。

また彩は真面目な、寂しそうな顔をする。どうにもこの顔は好きになれない。

どうして彩はこれほどまでに誰かのことを心配したり、気を遣ったりできるのだろう。

「すげえな、彩は」

「……へ?なんで!?今の話の流れでどうして私が褒められてるわけ!?ちゃんと話聞いてた!?」

「わ、悪い。ただなんとなくそう思ったから」

「ま、いいけどさ。どうしてかは分からないけど、私をほめてくれたわけだし」

一時は頬を膨らましてご立腹の様子だったが、すぐに機嫌を直していつもの様子に戻ってくれた。

やっぱり、いつも通りの表情が一番落ち着いた。

「東野とは、また今度詳しく話をしてみるよ」

「うん、お願い。たぶん私じゃ力になれないと思うからさ」

そう言って小さく笑った後、彩は勢いよく立ち上がった。そして、おもむろにベンチの上の水筒をカバンに突っ込むと、くるりと身体を回転させて俺の方を振り向いた。

「じゃ、頼んだからね?また明日来るから!」

彩は大げさに手を振って、元気よく走り去っていく。

――相変わらず、足速え……

やがて彩の背中が見えなくなったのを確認して立ち上がる。今日一日身体を痛めつけたせいか、立ち上がると身体中が悲鳴を上げているが分かる。

「とりあえず、もう少しストレッチしないとな」

もしかしたら、今になって東野か誰かチームメイトが現れないかと期待をしながら、足や肩の筋肉を伸ばした。だが、10分ほどその作業を繰り返しても結局誰もやってこない。

やがて、太陽と月は完全に入れ替わり、辺りの暗さに我慢できずグラウンドを後にした。


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