第1章(10)
少しずつ日も落ち始め、メンバーにも疲れが出始めたころ、城崎さんのにぎやかな声が聞こえてきた。
「どわっ、すまねえ!暴投だ!」
声のした方向を向いてみると、どうやら城崎さんが東野に向けて投げたボールがすっぽ抜けて、とんでもない方向へ飛んでいってしまったみたいだ。
飛んでいったボールは土手を超えて、ランニングコースの方まで飛んでいったようだ。それを追いかけて東野は走っていく。
「ったく、城崎さんのノーコンは相変わらずだな」
ボールは草の陰に隠れてしまっていて、東野は探すのに手間取っている。俺はちょうど近くにいたので、探すのを手伝いに向かう。東野から少し離れた場所を探してみるが、なかなかボールは見つからない。
腰をかがめて草をかき分け続けていると、近くから男の声が聞こえてきた。
「あれー。おまえって、もしかして東野?こんなところでなにやってるんだよ。ユニフォームなんて着ちゃってさあ」
慌てて顔を上げると、少し離れた場所では見知らぬ二人の男が東野と向き合うようにして立っているのが見えた。東野とは同年代だろうか、洒落た私服を着ている二人の男はニヤニヤといやらしい笑みを浮かべている。
一人は少しだけ長く伸ばした髪を茶色に染めていて、もう一人は黒髪で短く切りそろえている。チャラついた印象を与える二人組だが、遠目でも体格がいいのがハッキリとわかる。目の前にいる東野が小柄なこともあって、より一層二人のがっしりとした体格が際立って見える。
――なんだかあの二人、嫌な感じがする。
「おまえら、安倉と佐々木か……!?卒業式以来だな」
「そーだな。まさか、おまえがまだ野球を続けてるとは思わなかったよ。球拾いしか能のないゲロ野郎がさあ」
黒髪の短髪の方の男が一歩前に出て、じろじろと東野のことを見つめている。
“そのせいで、同じ部員からはゲロ野郎と罵られたよ……”今朝、東野から聞かされた話を思い出す。あの二人は、間違いなく高校時代のチームメイトだと確信した。
だが、チームメイトと呼ぶには抵抗があるほど、両者の間にはあまりにも険悪な空気が漂っている。
「うるせえよ。俺がどうしてようと俺の勝手だろ」
「そりゃあそうだ。けどよお、あまりにも可哀想なんだよ。才能もないのに必死に頑張っちゃって。そもそも、ご飯3杯食っただけでゲロ吐いてるやつが、スポーツなんてできるわけがないのによお」
黒髪の男がそう言うと、同意するようにもう一人の茶髪の男も腹を抱えてげらげらと笑いだす。いったいなにがそんなに面白いと言うのか。二人の感覚がまるで理解できない。
「ごちゃごちゃうるせえな、練習中なんだから邪魔すんじゃねえ」
そう言って東野は、再び無くしたボールを探し始める。だが、それが気に食わなかったのか、黒髪の方の男が東野の腕をつかんで引っ張った。
「おいおい。せっかく久しぶりに合ったっていうのに、その反応はないだろ。もう少しお話ししていこうぜ」
突然腕をつかまれた東野は、遠目に見ても分かるほどに苛立っている。すぐに手を振りほどき、今にもその喉元に指を突き立ててしまいそうなほどの顔で睨みつけている。
「ま、安心したよ。大学をやめたって風の噂で聞いてたからさ、落ち込んでるんじゃないかと思ってたのよ。けど、こうしてのん気に野球ごっこができてるようなら大丈夫そうだな」
――東野が、大学をやめた!?
だとすれば、東野は高校卒業後に大学を中退して、フリーターとなり今の野球チームに入ったのだろうか。俺は東野についてまだまだ知らないことが多すぎる。
そんなことを考えていると、怒りに身を任せた東野がついに相手の胸倉をつかんでいるのが目に入った。
「おいっ!!」
俺はとっさに声を上げたが、興奮している3人のもとには届いていないみたいだ。二人の間に割って入ろうかとも思ったが、あまりにも張り詰めた空気がそれを許さない。
「俺がやってるのは野球ごっこなんかじゃねえ」
東野は激しい瞳で相手を睨みつけながら、ギリギリと胸倉をつかむ腕に力を込めていく。
「これが野球ごっこじゃなければなんなんだよ。こんなオヤジだらけの草野球チームなんてよ!まあ、ベンチ入りもできないお前にはお似合いのチームかもしれねえけどな」
胸倉をつかまれていない、もう一方の茶髪の男が高らかに笑う。
「て言うかさ、なんでおまえまだ野球やってるの?ド下手くその才能なし男のくせに、意味がねえって分からねえかな」
「んだと?」
「高校時代おまえよりも数倍上手かった俺らですら普通の大学生やってんだぜ?なのにおまえは大学も行かねえで、いつまでも野球に未練たらたらかよ」
そう言い終わるか終らないかのうちに、茶髪の男は腹を抱えて苦しそうに笑いだした。
その瞬間、東野の頭の中で何かがはじける音が聞こえた気がした。だが、我慢の限界だったのは俺も一緒だ。一気に駆け寄って、高笑いを続ける茶髪の男へ大きく手を振り上げる。
「いい加減に、しろ!!」
大きく振り上げた手を、男の顔面ギリギリまで振り下ろし、そして手が鼻にぶつかるその瞬間にぴたりと止めた。
「んだよ、てめえ!!あぶねえじゃねえか!」
「そのユニフォーム、あんた東野のチームメイトか?」
二人の男は敵意むき出しの目で俺を睨む。東野はあっけにとられた様な顔で呆けている。
「俺のチームメイトを、バカにするな」
対峙する二人の男は身長が高く体格もいい。
――もし、激昂した彼らが襲ってきたとしたら……
できる限りの強い瞳で睨みつけつつも、心臓は大きく高鳴り、脇は汗で湿り始める。ただ、それを相手に見透かされないように、気持ちだけは強く保つ。
お互いに何も口にすることなく、無言のにらみ合いを続ける。
「ちっ、興が冷めたな」
長い茶髪の男が舌打ちをし、こちらに背を向けた。
「おい、佐々木。行こうぜ。暴力事件で内定取り消しなんてなったらバカらしいぜ」
長髪の男は、もう一人の黒髪の男をひきつれて歩きだす。だが、なにが気に食わないのか、短髪黒髪の男の方は、歩きながらも東野のことを睨みつけている。
それを東野は……
空っぽの目で見つめ返していた。
「あ、ボールあった」
ふと、張りつめた空気の中に、東野ののん気な声が聞こえてきた。地面に落ちているボールを拾いあげると、俺の顔を見て笑いかけた。
「さ、とっとと練習に戻るぞ」
片手でボールをいじりながら、グラウンドに向かって歩きだす。その背中が、やけにいつもより頼りなく見えた。
――あんたは、あれだけ好き放題にバカにされて、どうしてそんな風に笑えるんだ?
あんたは今なにを考えてる……?
「――東野!!」
夕方になり日も沈んで暗くなり始めたころ、突然大坪さんの声がグラウンドに響いた。見れば、東野はグラウンドの真ん中で尻もちをついていて、すぐそばにはボールが転がっている。
「なにぼーっとしてんだよ。ぶつかったところ、怪我はないか?」
どうやら、練習中に飛んできたボールが東野の足に当たったようだ。練習中の不注意なんて、らしくない。
「す、すいません大坪さん。全然大丈夫です!」
そう言って慌てて立ち上がる東野の顔はまだ痛みを隠しきれていない。そして、それに気づかない大坪さんじゃない。
「東野、少しベンチで休んでろ。集中もないのに練習を続けたって意味ねえよ」
東野は反論しようとしたのか口を開きかけたが、結局素直にうなずいてベンチへと下がっていった。
「東野君どうしたんだろうね。さっきから明らかに練習に身が入ってなかったし、なにかあったのかな?」
ベンチへと歩いていく、その小さな背中に向かって、草薙さんは心配そうにつぶやいた。
東野の様子がおかしくなったのは、考えるまでもなくあの二人組のせいだ。どうして彼らは誰かの悪口をこんなにも簡単に言えるのだろう。こんなにも汚い心を持った人間に出会ったのは、この短い経験の中で初めてだ。
この世界には、こんなにも醜い人間がいる。
これほど懸命に努力している人間のことを、平気でバカにするような醜い心の人間がいる。
記憶を失ってから触れる初めての悪意に、恐怖を感じずにはいられなかった。
「大丈夫かい?あんまり顔色がよくないけど……」
草薙さんは俺のことも心配して顔を覗き込んでくる。いつだって、草薙さんはそうやって誰にだって優しくする。
草薙さんやこのチームの人たちはこんなにも優しいと言うのに、その一方で平気な顔をして悪意を吐き出す人間がいる。
そして、そういうやつらが真面目に努力をしている人間の足を引っ張っていく。
ベンチでうつむいている東野の姿を見ていると、そんな現実を突きつけられているような気がしてくる。
――この世界は、思っていたよりもずっと醜くて不条理だ。
「ちっ、暗いと取り辛くてしょうがねえ。うちにもナイター設備くらいできないもんかな」
大坪さんはやりにくそうにフライをとった後、小さな声でぼやいていた。
「今日はこれまでだ!さっさと撤収して、店に移動するぞー!」
「え、店ってまさか……」
先週の悪夢が鮮明によみがえる。飲めども飲めども無限にあふれてくる酒の山と、夜明けまで続く無限の時間。あれが、今日も行われるのだろうか。
「大坪さん、予約はバッチリっす」
「おお、でかしたぞトモノブ!」
大坪さんから練習の終わりが告げられた瞬間、さっきまで疲れた表情をしていたメンバーがみんな浮かれはじめた。
「っしゃあ!今日は飲むぞー!」
「って、今日もまた飲む気!?今度はもう家まで運んであげないんだからね!?」
城崎親子は、相変わらずどっちが親だかわからない。
「はは、相変わらず彩ちゃんは敦也くんに手厳しいね」
「これくらい厳しくしないとダメなんですよ、あの人は。それより、草薙さんは今日の宴会には来るんですか?」
「うーん、僕はちょっと、ね」
草薙さんは少しだけ渋い表情をして、すぐ隣を歩く千種さんの方を向く。草薙さんの腕の中には、ぐっすりと眠った茜の姿がある。
ふとその瞬間、千種さんの身体が傾いた。
「――千草!?」
とっさに草薙さんが手を伸ばし、よろめいたその身体を支える。
「あ……宗谷君、ごめんね。ちょっとめまいがして……」
「大丈夫かい?ごめん、病み上がりだっていうのに、今日一日付き合わせちゃったせいだね」
千種さんは草薙さんに支えられながら歩いているが、まだ少しだけふらついているように見える。千種さんは一週間前、この町の病院で入院していたはずだが、なにが原因で体調を崩していたのかは聞いていない。
一方、今から宴会が始まると言うのに、東野の調子は相変わらずで立ち直った気配すら見せていない。
「心配事、二つも重なっちゃった」
寄り添う二人と、頼りなく歩く一人の背中に向かって彩はつぶやいた。
「東野さんの様子がおかしくなったのって、途中ボールを取りに行ってからだよね?あんた、何か知らない?」
――よく見てるな。
いつから東野の様子がおかしくなったのか気づいていることには驚いたが、それでもあの時のことを誰かに話していいのか判断はつかなかった。
誰にも話すなとは言われなかったが、それでも誰かに言いふらされるのは嫌がるだろう。
「俺も知らないよ。いつから様子がおかしくなったのかも気づかなかったし」
「そっか。ならいいんだけどさ」
先週と同じ居酒屋に向かう途中、彩の歩幅に合わせて歩いていると、気づけば集団の一番後ろに来ていた。
そんなことも気にせずに、彩は少しうつむいたまま、のんびりと足を進めていく。
――彩は、俺の嘘に気づいているだろうか?
「何があったのかは知らないけどさ、東野さんはただの野球バカだから。そんなに心配しなくてもいいんじゃないかな。だからあんたも、少しは元気だしなよ」
「俺、元気なさそうに見えたか?」
「だいぶね。なんだか、今にも泣きそうな顔してたから」
「全然自覚なかった……俺、そんな顔してたのか」
確かに東野や千種さんのことは心配で、東野のことを馬鹿にしたあの二人組の男には怒りを覚えるが、今にも泣き出しそうな顔だと言うのは大げさだろう。
「東野さんのこと心配してたんでしょ?きっとあの人なら大丈夫!」
「お前って……案外いい奴だよな」
「はあ?案外ってなんだ!」
思っていたことを素直に言ったら、思い切り殴られた。だけど、ズキズキと頭を支配する感覚はきっと痛みだけじゃない。
「やばっ、もうみんな着いてんじゃん!」
ずいぶんと距離を離されてしまったほかのメンバーは、もうすでにお店の前に到着しているのが見えた。城崎さんは俺たちを急かすように大げさに手招きをしている。
慌てて駆けていく彩の後ろ追いかけて、お店までの道のりを急いだ。
そして今宵も、終わらない宴が始まった。
「おら新入り!飲めやあああああ!!!!」
「お、大坪さん。もう勘弁して……ごぼぁっ」
この人たちはこんなに夜遅くまで飲んで、次の日の仕事は大丈夫なのだろうか。
そんなことを考えているうちに、俺の意識は途絶えていった。




