銀髪の少女
「あ、あんた……」
春鷹が精一杯声を出してもその一言が限界だった。
今春鷹の目の前にいる、店内を静まり返らせ、人生のベテランである店主さえも黙らせた人物は一人の少女であった。
「兄! やっと見つけた! 兄だ! 兄だよ! 兄兄兄あにあにぃぃぃ!!」
静まり返った店内に少女の絶叫が響き渡る。
足首まで伸びた長い銀髪を振り乱し、腕を大きく広げ、少女は春鷹の胸に飛ぶように突っ込んでいった。
客観的に見れば、離れ離れだった兄妹が感動の再会を果たしたのだろう、と見て取れる光景なのだが、いかんせん少女の格好が問題だった。
前述した通りの長い銀髪と日本人離れした顔立ち、左右で違う瞳の色、透き通るような白い肌、外見を見ればかなりの美少女の類に入るその少女。
すらりと伸びた手足は鞭のようにしなやかで、形のいい小振りなお尻、胸部には主張しすぎず、かといって控えめな訳ではない二つの乳房が揺れているのだ。
そんな抜群のプロポーションを持つ少女は、何も服を着ておらず、生まれたままの姿、いわゆる全裸で春鷹の胸に飛び込んでいったのだった。
「兄いいいいいいいい会いたかったわんんんん……」
「わ、わん……? じゃなかった! 服! 着てない! あんた何で全裸なんだ! 恥ずかしくないのかよ!?」
「んんん?? わたしは生まれてから死ぬまでこの格好だよ? あ、もちろん死んでからもだけど、えへへ」
「えへへじゃないよ! なんだそのよく分からない生い立ちは! 服を着ないなんてどっかの部族か?! 俺は正体不明の部族に妹はいない!」
「ぶぞく? 種族は兄の家族だよ!」
「だから俺はお前みたいな妹知らないんだってば!」
まるで外で猛威を振るっている台風が擬人化してこの店に入ってきたのではないかと思わせるほどの喧騒が春鷹と少女によって巻き起こる。
素っ裸の美少女をいきなり見てしまった客達は口をあけっぱなしで固まる者、南無阿弥陀仏を唱えながら合掌している者、杯からこぼれても尚酒を注ぎ続ける者、様々な反応を見せてくれた。
春鷹の腰に足を回し、首に腕をまわしてガッチリと組み付いている少女が少し落ち着いたのと同時に、店内の止まった時間が動きだした。
「「「「うぉおおおお! 鷹やんに春が来たぞオオオオオ!!!」」」」
「うわっっ!!」
動き出したと同時に割れんばかりの大歓声が店内に轟き、やんややんやとお祭り騒ぎが始まった。
突然の来訪者が素っ裸なのはお構いなしに野次は飛ぶ、皿も飛ぶ、酒瓶も飛ぶの大混乱である。
このお店にいる常連達は春鷹の事をよく知っている。
彼は初めてこの店に訪れてから教まで常に一人で店に訪れ、友人と呼べる人物が一人も居ない事を知っている。
元々彼は若く、それでいて死を悲観していない気さくな人物だった。
昔からこの店に訪れている常連達はすぐに春鷹の事を気に入り、息子や孫のように接してきた。
そんな彼の元へこんな美少女が飛び込んできたのだ、これほど嬉しい事は無い。
パンチパーマの団十郎なんて腹から血を出し目からは大粒の涙を流して嗚咽を繰り返している。
無表情の店主もうんうんと頷き、やはりその瞳にはうっすらと涙が滲んでいた。
「まて! まてまてまて! 皆落ち着け! おいこら誰だ人に短刀投げたの!」
春鷹が騒げば騒ぐほど、客達のボルテージもあがってゆく。
未だ春鷹に組み付いている少女は不思議そうに、だが満面の笑顔でその光景を見続けていた。
***
「ふう……少し整理しようか」
「いいよ! 兄がそう言うのならそれがいいんでしょ!?」
「はぁ……なんなんだこいつは……」
「だからー兄のしんあいなる妹だよぉ、忘れちゃったの?」
未だ冷めやらぬお祭り騒ぎを背に、春鷹は頭を抱えながらテーブルの上に突っ伏していた。
そしてそれをじっと見つめる少女。
春鷹には2人の妹が居た。
一人は10歳下の妹、春鷹の両親が離婚し、再婚相手として父が連れてきた人の連れ子だった、名は睦月と言う。
幼い頃から春鷹に懐かず、微妙な距離感が縮まらぬまま春鷹は現世を去った。
もう一人……一匹と言ったほうが正しいのだろう。
春鷹が12の時、父親と喧嘩をし、家を飛び出して家の裏山を歩いていた時に見つけた元捨て犬であるシベリアンハスキー、名は春鷹から文字を取り初春と名付けた。
初春は春鷹にべったりで、春鷹が家を出て一人暮らしをするようになってからは春鷹から貰った玩具を死ぬまで愛用していた。
その扱いはまるで、それが兄とでも言わんばかりだった。
よって現在目の前にいる奇想天外な少女は、全く一欠けらも脳細胞の片隅にも妹として存在していないのであった。
「なぁ、人違いじゃないのか?」
「どうして同じこときくの? 兄は兄だよ、匂いも外見も全部わたしの兄だよ?」
「むむむ……あ、そうだ、あんた名前は?」
何度目かの同じやり取りをした春鷹は、もっとも基本的な事を聞いていない事実にやっと気付いた。
「わたしの名前? いつもみたいに呼んでよ」
「だからそれが分からないから聞いてるの」
「忘れちゃったの……?」
「あー忘れた忘れた。だから早く教えてくれ」
一向に話が進まない事にイラつき、ぞんざいな言い方をしてしまった事に一瞬後悔したが、その後悔はすぐに消えた。
「ずっと離れ離れだったもんね! 仕方ないよ! わたしの名前はもがみ、はつはる! 死にました! えっへん!」
「はい……? えっへんて……誇る事じゃないって……はつはる……?」
「なあに兄? 久しぶりだよね!」
少女の登場で店内の時間が止まったように、少女の放った言葉に今度は春鷹自身の時間が止まってしまったのだった。
「おーい。兄? 何で眼と口を開いて固まってるの? にらめっこするの? はつはる変な顔得意だよ! うぼぁあ!」
それとは対照的に、初春は固まる春鷹の眼前で目も当てられないようなきわどい変顔を繰り出して春鷹に抱きついた。
テレビならモザイクがかかるレベるではないだろうか。
「はつはるって……なんでお前がウチの飼い犬の名前知ってるんだ?」
「何でも何も……わたしが飼い犬のはつはるだから?」
「いやいや、犬、わかる? 英語でドッグ。あんたどっからどう見ても人間だろ」
「あーそっか! そういうことか! そりゃそうかあ! あへへへ!」
「何を一人で勝手に納得してるんだ……じゃない! そんな事より大輔さん何か着る物無いですか?!」
しがみ付いてくるはつはるを無理やり剥がそうとしても、その華奢な身体のどこにそんな力が有るのかと思うほどの力で逆に締め付けられている春鷹が、店主へと助けを求める、が。
「これほど嬉しい事はねぇ……死んでからただの一人も連れが出来ない鷹やんにまさかこんなベッピンの外人さんを連れて来る甲斐性があるたぁなぁ……」
「あぁ……聞いてない……なんなんだよ……こいつ一体なんなんだよ……」
店主である大輔は腕を組み、瞼を閉じてうんうん、と何度も頷いて感慨の波に酔っているだけであった。
春鷹はそんな店主に諦めの視線を送り、未だ全裸で背後から抱きついているはつはるという名の少女の事を脳内で整理していた。
「駄目だ! ぜんっぜんわからねえ! お前誰なん!?」
だが春鷹にこんな少女と生前知り合いになった記憶は無い、むしろこんな美少女であれば嫌でも脳裏に焼きついているはずだろう。
健全な男子諸君であれば今の光景は前屈み必然といった状況なのだが、いかんせん幽霊というのは三大欲求というものがほぼ失われている為、性欲も湧かず女子の裸を見ようが美女に迫られようが前屈みになる事が無い。
例外的に生前の欲求度合いが強すぎるとまた違った存在となってしまう幽霊達もいるのだが……それはまた別の話である。
彼らは眠くならないから寝る必要も無いし、腹も空かないので食事を取る必要も無い、では何故居酒屋であるこの【合縁奇縁】にみな集まり杯を交わすのか?
簡単な事だ。
それが人だからだ。
欲求が人間を人たらしめているからだ。
幽霊になったからと言っても人同士の繋がりが無になるわけではない、独りでは楽しく無いし面白くない。
繋がりが無くなれば自分という存在が分からなくなり、自我を失い、動物霊さながらに彷徨い成仏する事無く輪廻転生の輪から外れてしまう。
少し説法臭くなってしまったが、そう言った理由を含め彼ら幽霊は集い語らい、成仏してゆく。
もっとも、死んだ彼らが世の理を理解している訳ではなく、ただ本能的に人としての繋がりを求めているだけなのだが。
「わからずやー! じゃあこうすれば兄もきっと分かってくれるよ!」
「何がだよ」
「今からはつはるは本当の姿に戻りまぁす! そーれっ!」
「わけわか……ん……あれ? どこいった?」
頭を抱えてカウンターに突っ伏している春鷹の背後に押し付けられていた二つのマシュマロの感触が消えた。
はつはるの意味不明な言動に疑問を持った春鷹が呆れたように後ろを振り向くが、銀髪全裸の姿が無い。
キョロキョロと周りを見渡しても、眼に入るのはまだしみじみしている大輔と、どんちゃん騒ぎを続けている酔っ払い達だけだったが、その中の一人がこちらを凝視し、顎が外れるのではと思わせるほどに口を大きく開けながらカウンターの下を指差している。
「アォンッ!!」
「うわっ! いてっ! おわわわっ!」
春鷹が不思議に思いカウンターの下を覗こうとした途端、野太い大きな獣の吠え声が店内に響いたのだった。
頭半分がカウンターの下に入っていた春鷹が突然の吠え声に驚いて咄嗟に頭を上げた結果、後頭部をカウンターに強かに打ちつけ、バランスを崩してそのまま盛大に床へと転げ落ちた。
「兄! 兄! これでわかる? 私だよ! はつはるだよ!」
転倒した拍子に、後頭部の同じ場所をまたしても打ちつけた春鷹が悶絶していると、吠え声の主である身体の大きな毛むくじゃらの犬が春鷹の身体に飛び乗るように圧し掛かってべろんべろんと顔面を舐め回し始める。
「いっつ……うぶっ! おば、おばえ! ひゃめれ! くるじいがら息できなっ、死ぬっぶぁ!」
「やだなぁ! もう死んでるってー大げさだよ兄ったら! あははは!」
傍から見たら大型犬に襲われているようにしか見えないのだが、酔っ払い達はそれを見て大笑いしており助ける気など微塵も無いらしい。
それにはつはるは喋っているにも関わらず、その太い舌は舐める事を止めていない。
むしろ軽く噛み出してさえいる。
「いいかげんに…………しろおおお!! とうりゃ!」
「キャッ!」
顔面を蹂躙されながらも、春鷹は慣れた様子ではつはるの腹部を両手でがっしりと持って力任せにぶん投げたのだった。
黄色い声をあげて跳ね飛ばされたはつはるも、空中で体勢を正してストンと着地する。
両者共に荒い息をしていたがその理由はそれぞれで、春鷹は鼻や口を塞ぐ程の舌で嘗め回され呼吸困難に陥り、はつはるは興奮がマックスに到達したようで、その大きな口を開け鋭い牙をむき出しにしながらハッハッハと犬独特の呼吸をしていた。
「お前……ホントに初春なのか……」
初春の唾液でぬるぬるになった顔を袖で拭き、唾液の生臭さに顔を顰めながら荒い息をする大きな犬を見つめる。
四肢はしっかりと地を踏みしめ、グレーとホワイトの毛並みは犬種独特の温かさを持ち、その強面の顔は絶滅した狼の風貌を感じさせ、双眸には左右違う色の眼球がらんらんと輝いていた。
見間違う筈が無い、今、春鷹の目の前に佇んでいるのは幼い頃、山で拾い、苦楽を共にした愛すべきもう一人の妹。
普通の体格よりも少し大きく育ってしまったシベリアンハスキーの初春だった。
「もーっ! やっと思い出したのー?」
「こいつ……脳内に直接……っ!?」
口を動かさず、ワンワン言ってるわけでも無いのに春鷹には初春の声が聞こえる。
元々異種間で意思の疎通は不可能に近いのだが、魂の繋がりが強力であればこのような事態も起こりうる。
だが当の本人達にそんな事が分かるはずも無く、春鷹は自分の犬が実はエスパーだったのでは? という変な勘違いをしてしまうのも仕方ない事だと思われる。
「のうない? よく分かんないけどこの身体でもお話し出来るね! やったぁ!」
「あ、あぁ……そうか……そうだよな……犬って寿命短いもんな……」
ひとしきり初春を撫で回した後、春鷹は床に座り込み初春の瞳を見つめながら、妹もこちら側に来てしまった事に少しばかりの悲しみを抱いていた。
「んー? でも主治医のおじちゃんは大往生だって言ってたよ?」
「そうなのか?」
「うん。おっきい犬は大体10歳くらいで死んじゃうんだけどー私は14歳で死んだよ!」
「そりゃ凄いな! で? 何で死んだんだ? 変なもん食ったのか?」
「よく分かんない。突然お腹がぎゅーって苦しくなって気付いたら死んでた! えへへ!」
「えへへってお前……ずいぶん軽いな」
「だって大往生は凄いって今兄も言ったじゃん? だからいいかなーって」
「そうか、そうだな! いやあ死んでまたお前に会えるなんて思ってもいなかったぜ!」
「私もだよー! 死んだ後お散歩してたら兄の匂いを見つけてね! 追いかけて来たんだー!」
「ったく……死んでまで散歩かよ。お前らしいな。ん?」
と春鷹はそこまで言って、店内がやけに静かになっている事に気が付いた。
初春のもこもこした体毛を愛でながら視線をテーブルに運ぶと、皆一様に優しい柔らかい目で春鷹達を見ているのが分かる。
「あいつらみんな鷹やん達が眩しいのさ。この店に飼い犬が主人を探して訪ねて来たなんて事ぁ長い幽霊生活で初めてだ。泣かせるじゃあねぇか……まさかあのベッピンさんが犬だとはびびったがな! あっはっは! グスッ」
カウンター越しに目に涙を溜めた大輔がジョッキを煽りながら笑っていた。
泣きながら笑うとは器用な人だ、と春鷹は思ったが春鷹と初春の再会を自分の事のように喜んでくれる大輔と客達を思うと自然と胸が熱くなる。
「ありがとう」
「ん? 兄なんか言った?」
「何でも無いよ。気にすんな」
春鷹は不思議そうに見つめる初春の顔を引き寄せ、もこもこの頭に顔を埋める。
意図せずして目頭が熱くなるのを感じた春鷹は大輔達に悟られ無いように初春の毛で涙を拭いて立ち上がった。
「大輔さん。そろそろ行くよ」
「おう。よかったなぁ鷹やん、今度はその嬢ちゃんも一緒に連れて来い。ペット禁止だなんて無粋な事言うヤツなんてこの店にゃいねぇからよ」
「あぁ、そうするよ。それじゃあ」
「アォンッ!」
「忘れちゃいねぇよ嬢ちゃん……いや初春ちゃんだっけ? またな」
親指をぐっと突き出す大輔の顔は僅かに綻んでおり、春鷹はそれが彼の笑顔だという事に気付いていた。
犬になった初春の言葉が他の人に通じる事は無いが、吠えた雰囲気で察した大輔の言葉に気を良くした初春は、尾を高らかに振り春鷹を先導するように開かれた扉をくぐっていく。
「言ったろ?」
続けて店から出ようとする春鷹に背後から大輔が声をかける。
「ん?」
首だけで振り返った春鷹にブイサインを突きつけながら大輔は続けた。
「こんな日には何かが起こる。ってな」
「あぁ。本当だったな」
誇らしげな顔をしているのであろう大輔は扉の外へ消えてゆく二人の姿を見続けていた。
「あ! あいつ扉閉めてねぇじゃねぇか!」
呆れるように肩をすくめる大輔の言葉に反応するように、店の扉は音も無く閉まったのだった。