死んでいるけど生きている。
『現在、台風21号の影響で関東地方全域に大雨暴風特別警報が発令中です。突風による被害も予想されますので外出を控え…………』
電気屋の店頭に設置されている展示用のテレビから、今日本に上陸して猛威を振るっている超大型台風への注意喚起を促すアナウンスが流れている。
横殴りの暴風は道行く人が差している傘を根こそぎ破壊し、滝のように降り注ぐ大量の雨は花壇の土をえぐり、排水溝の許容量を超えた水流はゴボゴボと逆流して道路を侵食している。
傘を差す事を諦めた人や、唸る暴風に傘を破壊されてしまった人々が足早に帰路を急いでいる。
だが既に電車やバスは運休を始めており、駅の改札前では途方にくれた人々がスマホを片手に各々へ電話をかけている。
そんな中、傘やカッパといった雨具を一切身に着けず、退屈そうに道行く人々を眺めている青年の姿があった。
不思議な事に、青年はこの暴風雨の中だというのに雨に濡れた形跡が無く、ただただ平然と退屈そうにしているのだ。
「はぁ……つまんね……。何か変わった事でも起きないもんかなぁ。例えばこの雨でカチコチに凍った魚の冷凍車が横転して、中に入ってた魚達が一斉に道路をスケートしたりとか……起きねーよなぁ」
実際に起きたら面白いでは済まされない事を言っているこの青年の名は最上春鷹。
年齢22歳――は生きていた当時の年齢であり、現在の彼は故人、死人、言い方は様々あるが世間一般的に言うと彼は幽霊である。
「しゃーない……いつもん所行くか……ん? あれ、何であの人俺見て手振ってるんだ? うーん……知らない人だよなぁ」
彼の視線の先には、繰り返し大雨暴風特別警報と繰り返している店頭のテレビの前でスーツに身を包んだOL風の女性が満面の笑みで春鷹に手を振っていた。
だが数秒後、ストライプの入ったグレースーツを着た優男風の男性が春鷹の体をすり抜けて、その女性に近づいていった。
「何だ……生きてる人かよ。しかし人の体を勝手に通らないで欲しいぜ、生身の体が通ると気持ち悪くてしょうがない」
生きている人間には春鷹の姿を認識する事は出来ないので勝手にも何も無いのだが。
稀に死んだ人間――幽霊や魂魄を認識出来る生者もいるのだが、その数はほんの僅かでしかない。
仲睦まじそうに笑いあうスーツ姿の男女をしばらく見続けた後、春鷹は音も無く踵を返し、雨風に翻弄される人々の間を縫ってその姿を消した。
その数十分後。
「あれ? おっかしーなぁ……確かにここまであの人の匂いが続いてたのに……どこ行っちゃったんだろ」
先程まで春鷹が座っていたベンチの前に、足元まである長い銀髪をなびかせながら腕を組んで首を傾げる女性の姿があった
ラクダのように長いまつげをしぱしぱと瞬かせ、意思の強そうな瞳は左右で色が違っており、透き通った湖面を連想させる青い瞳に程よく黄色がかった茶色の瞳がただの人間で無い事を連想させるが、この女性も全く雨風の影響を受けておらず、生ある存在では無い事が伺える。
「もう……絶対見つけてやるんだから!」
悔しそうにそう呟いた後、彼女は唇を真一文字に結び、人間ではありえない高さの跳躍を繰り返してビルの間へと消えていったのだった。
***
「おー! やってんなー暇人達!」
「おう、鷹やんじゃねーか。ここに来るお前も暇人だろうが」
「ちげぇねぇ!」
「「あっはっはっは!」」
交通量の多い国道から一歩入った裏通りの更に奥、雑居ビルがひしめく中でポツンと建つ廃墟となった居酒屋に春鷹は訪れていた。
この居酒屋は昭和初期から続いていた店であったが、店主が病に倒れた際、継ぐ人物が居なかった為に閉店を余儀なくされたのだった。
土地の権利は遠縁の親戚へと移行しているのだが、雑居ビルの奥まった所に在る為、重機が入れず解体費用がかさんでしまう、という理由で長年放置され続けている。
そんな店内にはあちこちにレトロなポスターや看板があり、ラベルの風化した一升瓶等も飾られていた。
古き良き昭和を体現している店内の家具達も経年により埃にまみれ、天井には所々蜘蛛の巣が幅を効かせている。
誰からも忘れられた廃墟の居酒屋のはずが、店内には驚くほどの人が入っておりカウンターで女性を口説いている男や、カウンター横のテーブルでは腹部に短刀が刺さったままのパンチパーマをあてたヤクザ風の男性が、同じく腹部から血を流した強面の老人に説教をくらっていたり、ここを訪れる人種は様々だが……全員が幽霊であるという事は共通であり、それだけで打ち解けるには充分だった。
この店を切り盛りしていた店主もやはり故人となり、幽霊になっても尚この店に留まり来客をもてなしているのだ。
店主曰く「俺がこの世から消える時はこの店が取り壊される時。今は死んだヤツラしかこねぇがな!」だそうだ。
「でよぉ! 俺はオジキに言ってやったんだよぉ! 俺ぁオジキの為ならいつでもこの命、投げ出す所存でありやす! ってなぁ……オウコラ! 聞いとんのか若造がぁ! おおん!?」
「聞いてます聞いてます。てゆーか団十郎さんその話、いつもしてませんか?」
春鷹はお気に入りの梅酒が入ったグラスを片手に、呆れた様子で問いかける。
団十郎と呼ばれたパンチパーマの男は一瞬息を詰まらせるも、そんな事は関係無いとばかりに酒を煽る。
この居酒屋は廃墟であり、ここに存在する者は全て幽霊だと言うのに何故酒を飲んだり出来るのか。
それはただ単純に古臭い言い回しになるのだが、物にも魂はある、という事だ。
仮に一升瓶の酒を飲みきってしまったとしても、日が経てば自然と元通りになっているのだ。
雑居ビルの奥間に埋もれ、日も当たらない幽霊の幽霊による幽霊の為の居酒屋、その名も【合縁奇縁】。
現世に未練を残し成仏出来ずに彷徨う幽霊達が集って心残りや悩みを語る。
希に何が心残りなのか分からない幽霊も訪れるのだが、春鷹もその一人だ。
数年前、合縁奇縁から少し離れた河川敷で、何日もボンヤリ座って過ごしていた春鷹を見かねた店主が声を掛け、合縁奇縁へと導いてくれたのだった。
それから現在に至るまで、退屈になるとこうして合縁奇縁へ足を運ぶのだった。
「なぁ鷹やん。知ってるか?」
「んぁ? 何がだ?」
変わらず管を巻く団十郎から逃げるようにカウンターへと席を移動した春鷹に、降り止まない豪雨が店の窓を叩いているのを見ていた店主が、カウンター越しに口を開いた。
「こんな日にはなぁ、決まって何かが起きるんだよ」
「何かって?」
「さぁな。生き別れた親兄弟が運命の再会を果たしたり、長年燻っていた未練がすっきり晴れて昇天する奴がいたり、その時その時で違うんだ」
「ふぅん……じゃあ今日は何が起こるんだろうな。面白い事だったらいいんだけど」
店主が窓の外を見ながらしみじみと語る話を半分聞き流していた時の事、店の扉に設置された錫作りのベルがカランコロンと鳴り、新たな客が入店してきた事を知らせる。
「おう、いらっしゃ……い……」
店主は笑う事が得意では無い。
と言うよりも、喜怒哀楽を表す為の表情筋が死滅しているのでは無いかと思わせる程に無表情なのだ。
なので来客を笑顔で迎えると言うことがほとんどと言っていいほど無い。
笑ったとしても口角を少し上げるだけの些細なものだ。
そんな店主が店に入ってきた新たな客を見た途端、よく分からない表情を浮かべていた。
最初は開いているか分からない一重の瞳を限界まで開ききり、次に焦点を合わせないように眼球がキョロキョロと泳ぎ回る。
感情に乏しい表情筋はその機能を出来る限り発揮して、頬が緩ませたり、鼻の下を伸ばしたり、と忙しい。
半開きになった口は何かを伝えようとパクパク動いているのだが残念ながら言葉が追い付いておらず、魚のようにパクパクパクパクと開閉を繰り返しているだけ。
春鷹はそんな店主の表情が面白く、原因である客には目もくれずただニヤニヤと店主の顔を眺めていた。
「こんばんは。こちらに私の兄が来ていませんか?」
店主の表情筋が働きを取り戻した原因である、来訪者が口を開いた。
その瞬間、電流が流れたような激しい衝撃が春鷹の身を貫いた。
初めて聞く少し低めなハスキーボイス、だがその声はどこか懐かしく、春鷹が幼かった日々を連想させる。
長いこと失っていた大切な何か、それが舞い戻ったかのような喜びが波となり春鷹の心を揺さぶる。
ふと気付けば騒がしかった店内も、無人のように静まり返っている。
「あのう……ここに兄は……おかしいな、言葉が通じて無いのかな?」
春鷹は錆びたロボットのようにギ、ギ、ギと首を動かして、衝撃の波をもたらした声の主へと向き直る。
「はあ……あぁ……」
吐息とも嗚咽とも取れる声が相対する声の主から漏れる。
だが春鷹も言葉に詰まり、ただ口を半開きにして目の前の光景を見る事しか出来なかった。