狼少女
私には兄がいた。
大きくて頼りになる、私の出来ない事をさらりとこなす大好きな兄がいた。
幼かった私は兄に多大な迷惑をかけたが、その都度兄は私を責める事をせずただ優しく、私を見守り可愛がってくれた。
もちろん厳しく叱られた事も当然ながらある。
彼のお気に入りだった動く玩具、がんぷらと言う物を壊してしまった時だ。
玩具は偉大だ。
一人の時、兄と遊ぶ時、親と遊ぶ時、噛みつき、引っ張り振り回して遊び疲れたら玩具を抱いて寝る。
そんな私だからこそ鬼の形相で怒る兄の気持ちが痛いほど理解出来た。
だが兄は一通り怒った後、私の頭を優しく撫でながら「やるよ、気に入ったんだろ?」と壊れたがんぷらを私の胸に抱かせた。
私はとても残酷な事をしてしまったのだと、ベッドに潜り込み、壊れたがんぷらを抱きつつただひたすらに反省した。
それからしばらくして兄は家を出て行った。
一人暮らしをするんだそうだ。
私は、自分ががんぷらを壊したから出ていくんだと思い、泣いて謝りながら兄を引き留めたが、兄はいつもと変わらない優しい笑顔を浮かべながら「ちょいちょい帰ってくるから」と告げて生まれ育った家を後にしたのだった。
兄は一人暮らしを始めて一年に一度、決まった日に我が家に帰って来た。
私は毎年その日が来るのを心待ちにし、前日になるとそれはもうソワソワソワソワ落ち着きがなくなり、家族に笑われたものだ。
数年が経ち、私も8歳になった年の事。
大好きだった兄が死んだ。
突然の事だ。
交通事故だったらしい。
だが私には死ぬと言うことがあまり理解出来ず、兄がくれたがんぷらを腕に抱き、悲しみにくれる両親と妹をボンヤリと眺めていたっけ。
リビングに寝かされた兄の遺体は驚くほど綺麗で、ひょっとしたら顔を舐めたら昔のように優しい笑顔で「やめろよ、くすぐったいだろ」と目をこすりながら起き出してくるのではないかと思ったほどだった。
そんな兄の横で泣いている両親と妹を見ているうちに、よく分からないが兄の身にとても大変な事が起きたのだと思った。
しかしそれ以前に兄から教わった大事な事がある。
人を悲しませるのは悪い事だ。
そう兄から教わった。
なのに兄は人を悲しませている。
兄は悪い事をしている、寝ていないで起きるべきだ。
私はそう思い兄の耳にかじりついた。
だが兄の耳は氷のように冷たくて、あの木漏れ日の光のように優しくて、大地をポカポカと照らす太陽のように暖かかった兄とは別人のように思えた。
ぽかりと掌で叩いても、顔を舐めても、腕を引っ張っても、足の裏を鼻で突いても全く起きない。
一体兄はどうしてしまったのだろうかと、首を傾げていると涙で目を腫らした母がそっと私を抱きあげて「もうお兄ちゃんは起きないの、長い長い眠りについたのよ。だからそっとしておいてあげましょう?」と絞り出すように呟いた後、私を抱きながら崩れ落ちるようにまた泣き出してしまったのだ。
兄の葬儀も終わり、私は火葬場の煙突から昇る白い煙を遠めに見ながらもう兄とは会えないんだなと思い、精一杯の愛を込めて「さようなら、ありがとう」と大好きだった兄へ別れを告げた。
やがて時が経ち、私は14歳になった。
まだ若い気持ちでいたがどうやら時は待ってくれないらしい。
ある日曜日の朝、食事を終えて一休みしていた時の事だった。
私は腹部に強烈な痛みを感じてリビングでテレビを見ていた妹へ助けを求めた。
痛みに苦しむ私を移動用のカートに乗せ、顔を真っ青にした妹が病院へ駆け込む。
下された診断は――――胃捻転。
残念そうな主治医の表情と真っ青な妹の表情を見た限り、私はもう駄目なのだなと思った。
私の主治医は小太りな人の良さそうな人間で、患者からの評判もすこぶる良い。
大型犬である私がここまだ生きるのは珍しくここ最近は週一回のペースで健康診断に来ていたのだが……どうやら朝食を食べた後に発症したようだ。
腹部がガスで膨れ上がり――とまぁ私の死に様は省略するとして、妹が連絡したのか私が来院した数時間後に父と母が病院へ飛び込んできた。
母は既に涙で顔をぐしゃぐしゃにしており、父は気丈に涙を堪え落ち着いた態度で私の頭を撫でてくれた。
予想通り、私の命の火は最早消えかけているようで思うように体が動かず小さく鳴く事しか出来なかった。
主治医と家族が話した結果、私は安楽死の処置をされる事となった。
残り数時間の命だ、苦しんで死ぬよりは家族に抱かれながら眠るように息を引き取りたい。
だからその決断をした父を恨みも責めもしない。
だからそんな苦しそうな顔をしないで欲しい。
大型犬の寿命は十歳が精々、それを十四歳まで生きられたのだ、大往生だろう。
あぁ、そういえば兄が先にいるのだったな。
私が二番目に来たらどんな反応をするだろう?
またあの優しい笑顔で頭を撫でてくれるだろうか?
勿論父と母と妹も同じくらい大好きだ。
きちんと別れの挨拶をしなければいけない。
犬の十四年は長いようで短い、ずっと寝ている、なんて笑われた事もあるが仕方ない。
一日に六度朝が来るようなものなのだから。
それに寝ていたとしても私の背中をゆっくりと撫でていてくれた事もきちんと覚えている。
だからそんなに泣かないで欲しい。
大往生なのだ、笑って見送って欲しい。
母よ、兄の優しい笑顔は貴女から生まれた物だ。
だから最後に母の優しい笑顔を見せておくれ。
父よ、兄より大きいその手でもっと撫でてくれ。
家族がいない所で赤ちゃん言葉で私に話しかけたりおやつをくれたり、飲みかけのビールを分けてくれた事はちゃんと墓まで持って行くから安心しておくれ。
妹よ、私の次に兄が大好きだったな。
その華奢な腕で私を担げるのはどういう仕組みなのだ。
まだ兄が家にいた頃、兄にべったりだった私を恨めしそうに睨んでいた事があったな。
もっと素直になればよかったと兄が死んだ日に私を抱き締めながら号泣していたな。
あの時は死ぬかと思ったぞ。
だが私は死ぬ、遠慮しないでもっともっと抱き締めておくれ。
腕に命の火を吹き消す薬剤が入った注射が刺し込まれる。
どくどくと血流に乗り、薬剤が心臓に流れ込んでくるのが分かる。
あぁ、もうそろそろ本当にお別れだ。
ありがとう、私はこの家族に拾われて幸せだった。
貴方達が私を受け入れてくれなければ私はあの林の中で命を散らしていただろう。
大好きな兄よ、今からそっちに行くよ。
さようなら、大好きな家族達。
先に行って貴方達が来るまで待っています。
私は、朦朧とした意識の中、最後の力を振り絞り父、母、妹の顔を一舐めして小さくワン、と鳴いた。
それが私のさよならとありがとうの挨拶だ。
こうして私は死んだ。
姓は最上、名は春風、享年十四歳。
シャープでセクシーで平均よりちょっと体が大きいシベリアンハスキーの生涯は素晴らしい物だった。