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怖い女

「あたしと別れて。」

ゆりかは、男にそう告げた。

「なんで?俺、悪い所あったら直すから!」

そう男はゆりかにすがった。


悪い所ですって?全てよ。

ゆりかは言わずとも心の中で、そう鼻で笑ったのだ。

もうこの男とも終わりだ。

目の前のやせ衰えた、顔色の悪い冴えない男を見てゆりかは踵を返すと、二度と振り向くことはなかったのだ。


1年前のことだ。

給湯室から女子社員の話す声が聞こえたのだ。

「ねえねえ、香坂さんって、結婚してすごく素敵になったと思わない?」

「そうそう。あたしも思ってた。奥さんが何でも、すごくかわいい人らしいの。」

「そうなの?でも、香坂さんって言ってはなんだけど、以前は普通だったわよね?」

「奥さん、すごくセンスいいらしいのよ。服だって、全て奥さんが見立ててるらしいの。そう惚気てた。」

「あーあ。いいなぁ。あたしも早く幸せになりたいー。」

「何でそこで、それが出てくるのよ。」

「奥さんって、いわゆる、上げマンってのでしょ?あたしもそういう女になりたいわぁ。」

「アンタじゃダメダメ。だいいち、今日のブラウスとか。」

「なによ、アタシにセンスがないっていうの?」

「まあね。」

「ひどーい!」


 確かに。香坂さんは、以前はごく普通のサラリーマンで女子社員の間でもそんなに噂になるほどの男ではなかったのだが、結婚して確かにかっこよくなった。これも隣の芝効果なのかもしれない。

ゆりかは面白くなかった。実は、ゆりかは以前、香坂に交際を申し込まれたことがあったのだ。勿論、優良株でもない、普通の社員で、ルックスも普通、これといって取り得のない、自分にとってプラスにならないような男と付き合うはずもなく、にべもなく彼を振ったのだ。ところが、結婚して、かっこよくなったばかりか、仕事でも頭角を現して来て、次の人事ではかなりいいところまで行くのではないかと噂されていた。その頃、ゆりかは、付き合っていた時機課長候補の男に、振られていたのだ。ゆりかを捨て、専務の娘と付き合いだしたのだ。ゆりかは捨てられたのだ。プライドの高いゆりかにとって、これほどの屈辱はなかった。


 何が上げマンよ。

その日からゆりかの、攻勢は始まった。

「香坂さん、ちょっとお話があるの。」

ゆりかは上目遣いに彼を見つめた。

そりゃあ、男は以前告白した女から、そんな態度をされれば、揺れるものだ。

ゆりかは、相談をするふりをして、バーに誘い、本当はお酒は強いほうだけど、酔ったふりをして、香坂にしなだれかかった。

「ごめん、嫁が待ってるから。タクシー呼んであげるからね。」

そう言うと、一人タクシーに乗せられたのだ。

このことが、余計にゆりかの闘争心に火をつけた。

ゆりかは、別れ際に無理やり香坂を抱き寄せ、キスをした。

あっけにとられる香坂を残し、彼女はタクシーの中から笑顔で手を振ったのだ。


 それから、男を落とすことなど、彼女には容易かった。

彼の衣服にわざとファンデーションをつけたり、上着のポケットにピアスの片方を入れたり。

彼と会う時は、わざと多めに香水を振り掛けたりと、あの手この手で攻勢をかけた。

彼が家に居る時を狙って、携帯に電話したり、携帯に出なければ家の電話にかけたりもした。

奥さんが出ると、わざとウフフと声を出して笑ったり、無言だったり。

とにかく、上げマン女を不安に陥れてやりたかったのだ。


「ゆりか、もうこういうことは止めてくれないか。」

彼は、ゆりかに対して苦言を呈してきた。

「なんのこと?」

ゆりかはあくまで惚けた。

そんなに言うのなら別れてもいいのよ?と言うと男は黙るものだ。

ほら、あたしが骨抜きにしてやったわよ。いい気味。

「奥さんは、元気?」

ゆりかはニヤケながら聞いた。

元気なわけないわよねえ。崩壊寸前なんでしょ?


「元気だよ。彼女はいつもニコニコしている。彼女が気付く前に、とにかく止めてくれ。」

意外な答えだった。憔悴しきって、旦那を猜疑心の目で見て、責め立てて嫉妬に狂っていると思ったのだ。

どんなに鈍い女でも、あそこまでやって気付かないの?よほどのバカなのね。


 そんな関係を続けていたある日、ゆりかに思わぬ出会いが訪れた。ゆりかをバーで見初めて、付き合ってほしいと迫られたのだ。その男は、ベンチャー企業の若社長で、実業家。何軒か店を持っていて、行く行くは全国にフランチャイズチェーン店を展開しようとしている野心溢れる男だった。ルックスもオシャレのセンスも、ちょっとかっこいいサラリーマンの香坂とは比べ物にならなかった。ゆりかは、あっという間にその男と恋に堕ちた。


 それに、最近の香坂は様子がおかしかった。結婚してかっこよくなった香坂は、見る見る痩せて行き、肌のつやも悪くなり、時々体を壊して、会社を休むようになったのだ。会社でもわざとおおっぴらに、香坂にべたべたしていたので、社内でも不倫の噂はあっという間に広がっていたので、ゆりかと付き合いだしたことにより、香坂が疲弊して痩せて肌のつやもなくなり弱った、つまり、ゆりかは下げマンだという噂が広まり、ゆりか自身もプライドを傷つけられ、香坂を誘惑することに躍起になって、自分を下げマン呼ばわりした女達を見返してやりたかったのだ。奥さんが、かわいそう。ゆりかは必死でみっともない。すればするほどゆりかの評価は下がっていったのだ。


 フン、もう香坂なんていらないわ。あたしは、社長夫人になって、こんなしみったれた会社なんてやめてやるんだからね。しばらくすると、ゆりかは実業家の彼からプロポーズをされたのだ。


「好きな人ができたの。プロポーズされたわ。」

寝耳に水の香坂は、驚いた顔をした。

「だからさようなら。あなたには、かわいい奥さんがいるでしょう?あたしは独身だから、あなたと別れようと、他の人と結婚しようとも、あなたに何も言う権利はないのよ?じゃあね。」

そう告げると、香坂はうなだれた。


 いい気分。これでこんな生活ともおさらば。結婚したら、豪華なマンションに住んで、優雅に暮らすの。この前の土曜日に、契約して来ちゃったしね。結婚式は彼の望みで行われないのだけど、ハネムーンはハワイに行くわ。彼が全て手配してくれる。頼りになる男よ。あなたなんかと大違い。


 香坂に別れを告げ、結婚を理由に退職願を出し、辞職してから1週間後、それは突然の出来事だった。結婚相手の彼と急に連絡が取れなくなったのだ。携帯に何度かけても、その電話番号は現在は使われておりません、と乾いた女の声が告げるばかりで、彼のマンションに押しかけたが、そんな人物はここには住んでいない、と言うのだ。そう言えば、いつも彼と会う時は、外かホテル、もしくはゆりかの部屋だったような気がする。部屋に行きたいと言っても、オフィスも兼ねてるからと、あげてくれなかったのだ。そのあたりで気付くべきだった。結婚詐欺というやつに引っかかったようだ。だが、ゆりかは一切金銭は騙し取られておらず、デートのお金も、彼がいつも出してくれていたから、実際には被害に遭っていないのだ。結婚詐欺というより、婚約不履行というべきだろう。


 いったい何のために?ゆりかは絶望のどん底だった。


 そんなある日、途方に暮れて職探しをしていたゆりかは、仲睦まじく手を繋いで買い物をしている夫婦を見かけた。香坂と奥さんである。香坂は別れを告げた時の香坂ではなく、元通り、颯爽とした香坂に戻っていたのだ。


 その1ヵ月後、さらにゆりかは信じられないものを目にする。なんと、ゆりかを騙した男が、香坂の奥さんと会っていたのだ。通り掛かりの喫茶店。香坂の奥さんは、男に厚みのある茶封筒を渡していた。男はそれを受け取ると、挨拶を交わし、店を出て行った。ゆりかは、走って追いかけたが、男は人混みに紛れて見失ってしまった。


 これは、全て仕組まれたことなのではないか。だとしたら・・・。

ゆりかは、香坂の奥さんのあとをつけた。そして、香坂の家についたのだ。あの女を問い詰めてやる。

そう息をまいて、ゆりかは玄関から庭に潜入した。すると、女の歌声がしてきた。


「いつわらないでいて。女の感は鋭いもの~」

どこかで聞いたことのある曲。

「あなたは嘘つくとき、右の眉があがる。」

古い昭和の曲だ。

「あなた浮気したら うちでの食事に気をつけて

私は知恵を絞って 毒入りスープで一緒に行こう~」

玄関から侵入するゆりかの足が止まった。

洗濯物を干しながら歌っている。


ふとゆりかは思い当たった。急に痩せて、顔色が悪くなり、病気がちになった香坂のことを。

「部屋とワイシャツと私 愛するあなたのため~」

歌はまだ続いている。


女は気配に気付き、ゆりかの方を見た。

青ざめるゆりかに、女は氷のように冷たい微笑を浮かべたのだ。

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