爆走
残業が終わり、俺が会社を出る頃にはもう10時を回っていた。
しかも、そんな俺の疲れ果てて陰鬱な気分を上塗りするように、雨がぽつぽつと頬を叩いてきた。
ついてないな。
俺はかばんを頭に乗せ、駐車場へと急いだ。駐車場につくころには、スーツといい、靴といいびしょ濡れになるほどに、雨が強くなっていた。まったく、駐車場がこんなに離れているなんて。地下に駐車場があればいいのに。俺は行き場のない怒りを、どうしようもない場所にぶつける。ポケットの薄いハンカチでスーツの表面を拭いてみるが気休めにしかならないことはわかっているので、諦めて俺は濡れた上着を助手席のヘッドレストにかける。
車のエンジンをかけ、ワイパーをフルパワーにして、駐車場から道路へと車を静かに走らせた。
家までは30分。帰れば、本当にシャワーを浴びて寝るだけだ。働くために生きてるみたいな人生だな。ふと自虐的な笑いが出た。最近、ずっとこんな日が続いている。生きていくためには、働くしかないのだけど、時々自分の生きる意味について、考えさせられる。
市街を抜け、自宅のある郊外へと車を走らせる途中にトンネルがある。トンネルに差し掛かったところで、俺は前方に何かが居ることに気付いた。俺はぐんぐんとその何かに近づくにつれて、それを確認して小さく舌打ちした。
ちっ!自転車かよ。
最近は健康志向からか、サイクリング人口が増え、しかも道交法で自転車は車道を通ることを義務付けられているので、運転者からしてみれば、自転車は走行の邪魔でしかない。
何もこんな雨の夜中にやらなくてもいいだろう。危ねえな。俺は、そのサイクリング野郎の非常識に腹を立てた。だんだん近づいて行くと、その姿があらわになってきた。全身に真っ赤な、全身タイツのようにピタっとした服を身につけているのだろうか。シルエットは人型でかなり細かった。俺はふんと鼻をならした。
まったく、あんなもの、何が楽しいのか。自分を極限まで追い込んで、体を鍛えているのだろうけど、結構つらいだろう。この交通機関や車という便利がものがあるというご時勢に、まったく俺には理解できない。あそこまで自分を追い込んでつらい思いをしてスマートな体型を維持するくらいなら、俺はデブで結構だ。自分の張り出した腹をさすった。どうせ容姿がこれなんだから、スマートになったところで、俺はモテない。
さらに自虐的に笑いながら、俺はトンネル内で、その自転車を対向車がいないのを確認して、大げさに避けて追い越した。追い越した直後、サイドミラーで確認した。俺はぎょっとした。その自転車の男がのっぺらぼうに見えたからだ。まさか。見間違いだ。そう思って、もう一度確認すると、正確にはのっぺらぼうではなかった。口のみが大きく耳まで裂けていて笑ったのだ。しかも、赤い服だと思っていたのだが、全裸ではないか?しかも、赤はまだらだ。もしや、血?
俺は心臓が喉元まで競りあがった気分になった。
嘘だろう?いやいや、在り得ない。見間違いだ。怖い怖いと思っているからそんな見間違いをするのだ。
俺は冷静になるよう自分自身に言い聞かせる。
俺は自然と足に力が入り、アクセルを踏み、サイクリング野郎はぐんぐんと後ろへ引き離されていった。
「ふうっ。」
俺は、額に薄っすらと汗をかいていた。疲れてるんだな、俺。あんな見間違いをするなんて。今日は帰って早く寝よう。そんなことを考えながら、運転していると、サイドミラーに違和感を感じ、俺はまたサイドミラーを確認した。何かが近づいてくる。ぐんぐんと距離縮めてきた。車でも、バイクでもない。
まさか!俺は自分の車のスピードメーターを見る。60キロ。その間にもぐんぐんとそれは距離を縮めてきた。自転車?嘘だろう?自転車がいくら早いからって60キロは出ないだろう。俺は気味が悪くなり、アクセルを踏みさらに加速した。70キロ。それでもなお、距離はぐんぐんと縮まってくる。
ばかな!俺はさらにアクセルを踏む。80キロ。すでにもう、赤い人型が確認できる距離まで近づいてきた。やつが追いついてきた!俺の心臓は早鐘のように鳴った。でもこれ以上スピードを出せば、この雨の中、運転をあやまってしまう。俺は焦燥感にかられた。その間にもぐんぐんと距離は縮まっていく。ついに顔が確認できるほどの距離まで追いつかれてしまった。すると、口がまた耳元まで裂けて、そいつは笑った。
「在り得ない!」
俺は車の中で大声で叫んだ。
ついに、自転車は俺の車と並んだ。その自転車に乗った男は、全身血まみれだった。
「わあああああああ!」
俺は絶叫した。
すると、その男は片手で俺の車のサイドミラーに手をかけた。
在り得ない!このスピードの車につかまるとか!自転車の範疇をとっくに超えている。
俺は振りほどこうと、車を蛇行させた。
すると、サイドミラーに掛けられた手が、ずるりと滑った。俺の真っ白な車のサイドミラーが男の血で真っ赤に染まった。やった!引き離したぞ!
そう思った瞬間、俺はガードレールを突き破り、谷底へと車ごとダイブしていた。
落ちる瞬間、バックミラーには爆走をやめた男と自転車が映っていた。
なんなんだ、お前。