夜の卵【解かれる】
彼女は長くない。
少年は思った。あれだけのものを、背負っていればね。
だが、それも仕方ない。
世界はバランスによって均衡が保たれているのだから。
「次のニュースです。昨夜未明、〇〇区路地裏で、通り魔と思われる事件が発生しました。被害者は十代くらいと思われる女性、数十か所の及ぶ刺し傷が見られ、搬送先の病院で死亡が確認されました。警察では、身元の確認と共に犯人の特定を急いでいる模様です。」
いい気味。澪は心の中だけでそう呟いた。身元は分かっている。彼女の名前は、海部 優菜だということを。そして、犯人は彼女に一方的に好意を寄せていた、北村 裕太だということも。
だって、優菜が悪いんだよ。自分に彼氏がいるのに、私の彼を盗ったんだから。自業自得。北村が優菜に好意を寄せていることを知りながら、私は彼を応援して煽ってきた甲斐があったわ。彼女が北村にストーカーされているのだけでも面白かったのに、まさか殺してまでくれるとは。彼には感謝しかない。
親友だと思っていた優菜の裏切りを知った時はショックだった。いつだって優菜は自分の悩みを聞いてくれる唯一無二の親友だと思っていたけど、彼女は違った。彼が私と優菜を二股かけていると知らずに何でも彼女に相談してきたのだ。
「最近、なんか彼の様子が変なんだよね。約束をドタキャンしたり、電話の着信があると慌てたり。もしかして浮気してるのかな。」
「澪の考えすぎだよ。もっと彼を信じてあげれば?」
あっけらかんとした彼女の明るい答えに私は何度安堵したことか。きっとあの底意地の悪い女は陰で私を嘲笑っていたに違いないのだ。
その夜、澪は夢を見た。優菜が泣いている。
「痛い、痛いよお。澪、助けて・・・。」
彼女は全身血まみれで澪に縋ってきた。
「い、いやっ!来ないで。」
「澪、どうして?どうして私がこんな目に合わなければならないの?」
そんなの、アンタが悪いからじゃん。私の所為じゃない!
澪は全身に汗をかいてベッドから飛び起きた。夢・・・。その日から澪は同じ悪夢にうなされる日々を送った。澪は日々憔悴し、疲弊していった。優菜は私を許さない。目に見えてやせ衰える澪を周りは心配した。
「やっぱり親友の死がショックだったんだね。」
違う。今も、優奈の亡霊が私を苦しめているのだ。
逢魔が時、フラフラと川辺を歩いていると、橋の下に何やら小さな灯りが灯っているのが見えた。近づいてくるにつれて、それが屋台で所狭しと並べられているのは白い卵だというのが確認できた。
「おや?お嬢さんは、この店が見えるんだねえ。」
そこには、今まで見たこともないような派手な巫女のような衣装を身につけた、美しい妙齢の女性が鎮座していた。この店が見えるとはどういうことだろう。
「お嬢さんは、第四の色を見ることができる目をお持ちと見受けた。」
「第四の色?」
「そう、第四の色。世の中は赤、青、黄色の三原色で出来ているだろう?つまり、第四の色は、この世に存在しない色。」
よく意味がわからなかった。関わらないほうが良いとは思ったが、どうにも白い卵に惹かれてしまう。
「おひとつどうだい?お代は要らないよ。」
「無料なんですか?これ。」
「ああ、お代は要らない。ただし、タダではないけどね?」
無料と言いながらタダではないとはどういうことなのだろう。澪は戸惑っていた。
「やめといたほうがいいよ。」
不意に後ろから男の声がして澪は振り返った。そこには長身で黒髪、大きく切れ上がった目に漆黒の瞳の美少年が立っていた。自分と同じくらいの年齢だろうか。卵を手渡そうとした巫女の女があからさまに顔をしかめて舌打ちをした。
「邪魔するんじゃないよ。矢田の人間に用はないんだ。お帰りよ。」
強い調子で、彼に食い下がる。矢田と呼ばれたその少年は眉毛ひとつ動かさずにこう言った。
「本当にタダじゃないんだよ。君は、高い代償を払わされることになる。」
「余計なことを言うんじゃないよ。八咫烏の出る幕じゃないんだ。どこかへお行き!」
澪は不穏な空気に耐えられずに、黙ってその場を走り去った。ヤタガラス?何のことだろう。とりあえず、関わらないほうがいいと澪は感じた。
「ふん、なんだって言うんだい。あんたたちだって、私と似たようなことをしているじゃないか。代償を払わせるか払わせないかの違いだけで、あんたらだってうら若き命を見殺しにしているだろう?通り魔に殺される命を知っていて見殺しにしたくせに!」
女は腕を組んで、矢田を睨む。
「僕らは業を見送るだけだ。さだめに従って終わる命を導くのが僕らの存在の意味だから。」
「綺麗ごとをお言いでないよ。代償を払わせるのが何が悪いっていうのさ。」
「いい加減、もう恨みは捨てて解かれてくれないかなあ。」
矢田クロード。漆黒の八咫烏の使者。彼も女と同じ、この世とあの世の狭間に生きる者。女と違うのは、彼は現世の人にも見ることができること。女のように、第四の色を見ることのできるものだけが見えるわけではない。恨みを捨てろだと?
お前に何がわかる。たった一人、愛する男に裏切られて殺された私の気持ちがわかるはずがない。
「前にも言ったけど、あんたは裏切られたわけじゃない。」
「ふん、そんなこと信じられると思うか?」
「あんたは本当は現世の身が滅んだ時に、解かれてまた現世に紡がれるはずだった。他の人間と同じように、前世の情報を全て消去されて。現世の言葉で言えば、初期化かな?でも、あんたの恨みが強すぎて、最後の紡ぎで引っかかってしまった。」
「そんなことはとっくに知っている。」
矢田はおもむろに、卵を一つ手に取ると、女の前にかざしてみせた。すると、夜にも関わらず、その卵はあたたかなオレンジ色の光を放ち、中を透かして見ることができた。女は、それを見て言葉を失った。その中には、かつて愛した男が丸くなって閉じ込められていたからだ。驚きに目を見開く女に矢田の薄い唇が三日月のように笑う。
「彼もまた、あんたへの未練で現世に解かれることはなかったんだ。こんなの不毛だとは思わない?」
「嘘だ!」
「嘘じゃない。彼も、犬神の一族に騙された一人だからね。彼はあんたの死を悲しむあまり、現世に紡がれることがなかったんだ。」
「私の所為だって言うのかい?」
「さあね。ただ、もう穢れを卵にしてこの世に放つことに何の意味があるのかなと思って。」
「人は信じられない。だが、人は愚かで可哀そうな存在だ。穢れは決してこの世から無くならない。それであれば現世は一度滅べばいい。」
「何故そんな結論になるかなあ。」
「矢田のものが何と言おうが、私は卵を現世に放つことをやめないよ。」
女は絶望を忘れるにはもう長く時が経ちすぎていた。幾百年もの間、世に代償を払わせて恨みを晴らすことでしか自分の居場所を保つことができなくなっていた。
「仕方ない、じゃああんたに卵になってもらうしかないな。」
矢田が静かにポケットから白い紙を引き出した。それは人型に切り抜いてある。式神!認識するとともに、目にもとまらぬ速さでそれは女の額に張り付いた。
嫌だ・・・。解かれたくない。解かれてしまえば、きっと。
あの人の記憶もなくなってしまうのだ。
矢田クロードが呪文を唱え始めた。やめろ、やめてくれ。私から、あの人の記憶を奪わないで。
女は気付いた。愛する男を恨みながらも自分は、その男を忘れることを恐れていた。恨むことで記憶から消えてしまうことを阻んでいたのだ。
遠ざかる意識は漆黒の闇に飲まれて行く。今、私は解かれているのか。佳代子、すまぬ。お前を救うためにその魂を狭間に留まらせて私の傍に置き、穢れの卵を産ませたことを申し訳なく思う。私がいなくなってもお前はあの世とこの世の狭間で生きて行けるだろうか。それだけが心残り。どうか、佳代子を現世に紡いでやってくれ。あの哀れな子をもう一度。