異常者
今、私の目の前に、長く急な階段を目の前に
はあっとため息をついている老女がいる。
手にはスーパーの袋が二提げ、重さを示して袋は
その手に強く食い込んでいる。
「お持ちしましょうか?」
と私が申し出ると、老女は驚いたように振り向いた。
「いえいえ、そんな。見ず知らずの方に。申し訳ないです。」
老女は笑顔でやんわりと遠慮をしてきた。
警戒されているのだろうか。
「私、この階段の先のアパートに越して来たばかりなんですよ。
怪しいものではありませんから。もしよろしければ、お持ちします。」
私は満面の笑みで手を差し出した。
老女はさらに驚いた顔をした。
「まあ、偶然。私も、そこに住んでいるのですよ。
いつ越していらしたの?」
と言うので
「昨日越してきました。ご挨拶が遅れてすみません。
木村と申します。どうぞ、よろしくお願いします。」
と答えた。
今日の夕方、あいさつ回りをしようと思っていたのだ。
これで断る理由もなく、老女は遠慮しながらも私に袋を差し出した。
「アパートは間取りが狭いでしょう?
お一人でお住まいになるの?」
老女がそう聞いてきたので
「ええ、離婚してしまいまして。」
と答えた。
「あら、そうなの。ごめんなさい。立ち入ったことを。」
「いいえ、平気です。」
私は努めて満面の笑顔で答えた。
女一人、これからどう暮らして行こうかとは思っているが
そんなことは、この人には関係のないことなのだ。
「そう。私もひとりぼっちなんですよ。
おじいさんに2年前、先立たれましてね。」
老女は寂しく笑った。
私は世界の不幸を一人で背負ったみたいなことを思っていた自分を恥じた。
そういう別れもあるのだ。
別れは、みんな辛い。
老女の部屋は、私の2軒隣だった。
「ありがとうございます。」
と老女が満面の笑みで玄関先で袋を受け取った。
なんて可愛らしくはかない老女なんだろう。
私も、将来はこんな可愛らしいおばあちゃんになりたい、と思った。
老女の名前は田口さん、201号室に住んでいる。
あらためてその日の夜、粗品を持って訪ねた。
部屋は老女の一人暮らしでも、キチンと片付いていて、几帳面な人柄が伺えた。
しかし、老女は弱々しく、やせ細っていて、今にも倒れそうな雰囲気だった。
私のような動ける者が、こういう人の力にならなくては。
私はそう思い、何か私でできることがあれば、何でもおっしゃってくださいね、
と田口さんに言った。
「ありがとうございます。」
田口さんはとても謙虚な大人しい感じの人。
ご近所さんが、良さそうな感じの人でよかった。
翌日、私が仕事から帰ってくると、アパートの周りの草が綺麗に刈り取られていた。
草刈があったんだ。
私は田口さんの部屋を訪ねた。
「すみません、もしかして、今日草刈があったんですか?」
そう訪ねると、田口さんは
「ああ、いいんですよ。木村さんは引っ越してきたばかりで、お仕事がおありでしょう?
ですから、今回はお伝えしなかったんです。次回からお願いしますね。
階段下の掲示板に1週間前くらいに告知が出ますからね。出席できない場合は
都合の良い日に先行してされてもかまいませんから。」
そうニコニコとして答えた。
本当にいい人だ。
翌朝、朝刊を取るため、ドアポストの蓋を開け手を突っ込んで朝刊を
引き出そうとした。すると、指に鋭い痛みが走って、思わず手を引っ込めた。
朝刊の間から、巨大なムカデが、バサっと音を立てて落ちた。
私は戦慄し、指は激痛が走り、みるみる腫れ上がった。
私は慌てて、手を氷で冷やし、すぐに近くの病院を受診した。
私は手を包帯でグルグル巻きにされ、家に帰ってきた。
夫がもう私の居場所を突き止めたのか。
私は戦慄した。
夫は陰湿な男だった。私は離婚はまだしておらず、実は
離婚調停中だが、実家に身を寄せていればしつこく付きまとうし
実家にも迷惑がかかるので、私は意を決して、夫の知らない場所で
一人暮らすことにしたのだ。実家にも私の住所は知らせていない。
実家のほうも警察に巡回してもらっている。
住民票にも閲覧制限をかけてもらっている。
夫はストーカーと化したのだ。
私は陰鬱な表情のまま、不自由な利き手を使えず、左手で鍵を回していた。
そこに、田口さんが玄関から出てきて、私の手を見るなり驚いた。
「まあ、木村さん、どうしたの?その手は。」
そう言い、目を丸くした。
「実は・・・」
私は今朝の出来事を口にした。
「まあ、痛かったでしょう?お気の毒に。もしかして、草刈があったから。
それでムカデが出ちゃったのかしら。」
田口さんは意外なことを口にした。
そうか、きっとそうだ。私は疑心暗鬼になりすぎていた。
そういう単純なことなのかもしれない。
私は一気に気分が楽になった。
田口さんがおだいじに、と言った。
考えすぎよね。
私は、ほっと胸をなでおろした。
薬が効いてきたせいか、痛みはだんだんとなくなり
腫れも徐々に、日を追うごとにひいてきた。
私は、今日も会社に通うため、駐輪場へ向かう。
自転車に乗り、坂道を下りる。
行きはくだりだから楽々だ。
そろそろ交差点だからブレーキかけなきゃ。
そう思い、自転車のブレーキを握る。
握った感触が軽い。
ブレーキがスカスカで利かない。
嘘!止まらない。このままでは交差点で車とぶつかってしまうかも。
私は機転をきかせて、自転車を飛び降りた。
私はアスファルトに倒れこみ、肩を思いっきり打ち
手のひらと膝を擦りむいた。
キキーっと言う音とともに、ガシャーンと音がした。
私の目の前で、自転車が乗用車の下敷きになっていたのだ。
あとで警察が調べたところ、私の自転車のブレーキが緩めてあり
ブレーキワイヤーが外れていたそうだ。
前の日使った時はそんなことなかったのに。
悪戯だろう、ということで、警備を強化します、とのことだった。
私の自転車を轢いたドライバーも前方不注意、一旦停止をしなかったことで
咎められ、私の自転車も保険で全額弁償してくれるとのことだった。
ドライバーは何度も私に頭を下げた。
本当に大事にいたらなくてよかったと心底喜んだ。
一歩間違えば殺人者になっていたのだから、運が良いといえば運が良い。
しかし、誰が、私の自転車を。
私はまたネガティブな陰湿な男の顔を思い浮かべていたのだ。
手が治ったばかりだというのに、膝と手のひらを包帯だらけにして
帰ってきた私を見て、田口さんはまた驚いた。
「まあ、どうしたの?その怪我は?大丈夫?」
私はなんだか粗忽者みたいに見えるので、きちんと経緯を説明した。
「まあ、怖いわね。誰がそんなことを。
そういえばこの辺に最近不審な男性がウロついてるって話よ。
木村さんも気をつけてね。」
私は愕然とした。
夫だ。
突き止められたのだ。
私は恐怖に青ざめた。
あの男だったらやりかねない。
きっと私を殺したいほど恨んでるに違いない。
異常者とはそういうものだ。受け入れられなければ恨むだけなのだ。
また逃げなければならないのか。
私は途方にくれてしまった。
一晩中眠れなかった。
いつあの陰湿な男が押しかけてくるかと思うと。
朝方、少しの間だけ、居間のいすの上でウトウトした。
私は、目覚ましの音ではっと目を覚ました。
とりあえず働かなければ、食べていけない。
思い体を起こし、コーヒーを淹れ、新聞受けに朝刊を取りに行った。
朝刊を引き出すと、がさっと何か封書が落ちてきた。
私はその封書を開け、中から紙を取り出した。
「ついに見つけたぞ。」
中には一言だけ、そう書いてあった。
私は、ついに見つかった!一瞬そう思って戦慄した。
でも、何かがおかしい。
これは、夫の字ではない。
夫はもっと、汚い字だ。
自分の字にコンプレックスを持っていて、何かにつけ
短い文章でも、パソコンを使ってプリントアウトする男だ。
達筆すぎる。
丁寧な、きちんとした、ハネとトメ。
完璧な字。
代筆を頼んだのだろうか。
私は気持ちが悪くなった。
密かに玄関に防犯カメラをセットしたのだ。
次の日、私は朝、部屋中に充満する、異様なにおいで目を覚ました。
においの元を辿ると玄関口だった。
玄関にたどり着いたとたんに、私は気分が悪くなった。
私は反射的に口覆い、窓と言う窓を全部開け放ち、玄関も全開にした。
すると、玄関ポストの投函口に、ポリ容器が2本突き刺さっていた。
よくみると、一つは酸性の洗剤、もう一つはアルカリ性の洗剤だった。
私は朦朧とする意識の中、警察に電話し、到着した警察官が
救急車を呼んだ。
幸い、私は軽症で済んだ。
それよりも、警察から告げられた真実に、精神的なショックを受けたほうが
私にダメージを与えたのだ。
どうして?田口さん。
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「あの女、最初、親切ごかして、私に近づいてきたんです。
荷物を持ちましょうとか何とか言って。
頼んでもいないのに、半ば強引に、私の買い物の荷物を
奪い取ったんですよ。
何かといえば、訪ねてきて、実家からもらったとか何とか言って
野菜や米やお菓子を食べきれないからとくれたり。
もちろん、全部ゴミ箱に捨ててやりましたよ。
私はあの女に施しを受けるほど困っていないし
だいいち親切を押し売りしてくる人間にろくな人間はいないのですから。
私たちがまた一からコツコツ蓄えてきたお金を狙ってるんですよ。
離婚してお金にも困ってるようだし。
あんな大きな声で電話してれば、事情なんて丸聞こえよ。
離婚した理由なんかも察しがつくわよ。
私たちがどんな思いをしてあのお金を溜めてきたことか。
こんな安アパートに追いやられたのも、親切なふりをして
近づいてきて、私たちの家に入り込んで、めちゃめちゃにした
あの業者のせいなんだから。
親切なふりをして、私たちを追い詰めた。
次から次にお金を騙し取り、ついには家も失ってしまった。
あの男がやったんですよ!
私は何もやっていません!あの女は、私からお金を奪おうとしたから、
バチが当たったのよ!」
老女の絶叫が取調室に響いた。
「でもね、田口さん、あなたが玄関ポストに洗剤の容器を押し込む姿が
防犯カメラに写ってるんですよ。動かさざる証拠ですよ。
田口さん、これはね、殺人未遂なんですよ。大罪です。」
「あの女が悪いのよ。私に親切にしたりするから。
あの女が・・・・あの女が・・・・・。」
取調室に、どこからともなく深いため息が響いた。
「あのおばあさん、以前リフォーム業者にだまされ、財産をほとんど騙し取られて
おかしくなったそうですよ。普段は普通に生活しているんですけど、
極度の人間不信から、ほとんど近所付き合いはなかったそうです。
お人よしで人を疑うことのなかった人間がこっぴどく騙されて、おかしくなっちゃったんですね。
おじいさんも2年前亡くなり、ますます人間不信がひどくなったようです。
被害者宅にムカデを入れたり、自転車のブレーキに細工したのも彼女のようです。」
「そうか。被害者が生きていただけでも、よかったな。
これで死んでいたら殺人だ。可哀想だが罪は罪だ。」
二人の刑事は、枯れ木のような老女を見つめた。




