眼球を舐める女
少し強い雨が窓を打ちだした。
私は窓を見つめて、軽く舌打ちをした。
傘をさしても、足元が濡れるのがいやだ。
それかと言って、長靴を履くのは恥ずかしい。
濡れるしかないか。私は駅までの距離の憂鬱を図る。
憂鬱は雨だけではない。
最近、通勤の時、どこからともなく視線を感じるのだ。
何か見られてるような感じがして、振り向いてみれば、
人混みに紛れてどの視線かはわからない。
疲れているのかな。最近激務をこなしているから。
私は、冷めたコーヒーを無理やり流し込み、覚悟の傘をさす。
案の定、会社に着くころには、膝から下はびしょ濡れだ。
そのうち乾くだろう。
私のデスクに、熱いお茶が、トンと置かれた。
「おはようございます。雨、ひどいですね。」
事務員の女の子がお茶を淹れてくれた。
私はありがたくいただく。
「ありがとう。ホント、参っちゃうよな。」
他愛無い会話。熱いお茶が、本当に落ち着く。
良い娘だな、本当に。地味だけど。
私の平凡な一日が今日も始まる。
そうだ、私は平凡を愛する。
何の変化もない一日が、愛おしいのだ。
もう、変化のある一日はごめんだ。
少し前まで、メンタルを病んだ彼女が居た。
どれほど、この女に振り回されたことか。
ああいう女は、世界が全部自分を中心に回っていると思っている。
仕事中も何も遠慮なしに、携帯にメールしてくる。
すぐに返事しないと、しつこく携帯を鳴らし、仕方なく見ると、
すぐに「死にます」と書いてくる。
私は何度も、職場を抜けて、トイレで連絡をする。
仕事が手につかなかった。ついに、私は決断し、彼女に別れを告げた。
死ぬのなんだのと喚き、自分の手首を切った画像を送ってきたりしたが、
断固とした態度で、もう関係を続けるのは無理だと伝えた。
プライドを傷つけられたのか、それから一切連絡をとってこなくなった。
彼女は私でなくてもいい。振り回せる相手なら誰でもいいのだ。
今、本当に心から平穏を満喫している。
もう女など、こりごりだ。
私は仕事を終え、夕食を適当に済ませて、家に帰りシャワーを浴びて
床についた。誰も私を、惑わせる者はいない。私の眠りを邪魔する者はいないのだ。
その夜、私は久しぶりに夢を見た。
夢の中で、私は眠っているのだ。
眠っているのに眠っている夢を見るとは、何ともこっけいなものだ。
まどろんでいると、私は部屋の空気が流れることに気付く。
誰かがドアを開けたのか。空気の流れは徐々に私の周りでざわめく。
誰か来る。私は気配を感じた。私は起き上がろうとするが、何故か体が動かないのだ。
そして、柔らかな感触が私の頬に触れる。女だ!女の髪の毛。私は声を上げようとする。
すると、その女の顔が近づいてきて、私の視界は右目が閉ざされた。
何かざらっとした感触が私の眼球を撫でたのだ。生ぬるい吐息がかかる。
視界が開ける瞬間、長い舌が見えた。眼球を舐められたのだ。
私は飛び起きた。
「ゆ、夢か。」
私は全身が、いやな汗にまみれていた。
嫌な夢を見た朝は、暗鬱とした気分だ。
今日も雨が降り続いている。
まったく、何であんな気味の悪い夢を見たんだろう。
まだまだ、精神的に私も安定していないのかもしれない。
もう、あの女は居ないんだ。何を恐れる。
雨は憂鬱だが、私にとっての平凡な愛すべき一日は始まった。
携帯の電話番号は変えた。今のマンションに引っ越したのは、
あの女には知られてないはず。
僕はあの気味の悪い夢と、彼女を結び付けている自分の自意識過剰に
一人で失笑した。彼女は、納得したじゃないか。だいたい携帯のアドレスを
最初に変えたのは彼女の方だ。まったく音信普通になったのだ。
自分の中で、言い聞かせたはずだった。
しかし、私はその次の日も、その次の日も同じ夢を見た。
なんなんだ。気持ち悪い。
毎日、夢で女が眼球を舐めに来る。私は精神を病んでしまったのか。
ことり。私のデスクに熱いお茶が置かれる。
「最近、石田さん、元気ないですね。どうかされたんですか?」
地味な事務員の女性が話しかけてきた。
「え?そう?そんなことないよ。大丈夫。いつも、ありがとうね。」
彼女が薄く微笑んだ。ちょっとだけ天使に見えた。
相変わらず、通勤中に感じる視線と、あの悪夢は続いている。
私は自分自身がわからなくなってきた。
一度会社を休んで心療内科を受診するか。
毎日、右目の眼球を舐められる夢を見始めてから、なんとなく、
右目の視力が落ちたような気がする。
私は気になって、眼鏡店で視力を測ってみた。
やはり、右目の視力がかなり落ちている。私は怖くなった。
私はどうなっているんだ。
数ヵ月後、眼科に通っているが、私の視力はどんどん落ちて行き、
眼科も原因不明の病状に頭を捻っていた。
私、このまま、右目見えなくなるのかな。
心療内科も受診したが、私には異常はないようだ。
一応、精神安定剤を服用しているが、あいかわらずあの女は眼球を舐めに来る。
そして、ついに、私は右目を失明してしまった。
何も見えなくなってしまった。
そう思った。
ところが、ただ一つ、見えるものがある。
目の端に、小さな女が鎮座しているのだ。小さいというより、かなり遠くに居る距離感だ。
誰なんだ。お前が、私の眼球を舐めにくる女か。
女は日に日に姿を大きくしていった。たぶんこっちに近づいてきている。
そして、ある夜、私は意を決して、こっそりと布団の下にハサミを忍ばせた。
案の定、その夜も鎮座する女は眼球を舐めに来た。
今だ!私は長く垂らした女の舌を掴んだ。そして、ハサミで切った。
やった、ざまあみろ!俺の目をこんなにしやがって。
女はのたうちまわって苦しんだ。
私は、そこで目が覚めた。
もう、私の眼球は舐めさせないぞ。
私は、平穏な日々がまた戻ってくるような希望で胸が膨らんでいた。
私は舐める女に勝ったのだ。
今日は、空が雲ひとつなく、晴れ渡っている。
まるで私の心のようだ。
会社に着くと、後輩男子が、お茶を運んで来た。
「あれ、彼女は?えーと、何て言う子だっけ?事務員の。地味な眼鏡の子。」
「え?そんな子、うちには居ませんよ?」
後輩はキョトンとした。
「嘘、だって毎日俺、お茶をいれてもらってたんだよ。」
私は朝、会社に一番乗りで来る。正確には二番乗りだ。
何故なら、あの事務員の子のほうがいつも先に来ていたから。
きつねにつままれたような気分だった。
私はその日から、あの眼球を舐めにくる女の夢を見なくなった。
私はは勝利したのだ。
また私の愛すべき平凡な一日が始まる。
もう、電車の中で視線を感じることもなくなった。
よかった、私は治った。視力もほとんど見えなかったが徐々に回復してきた。
そして、私は会社にやはり今日も一番乗りに着く。
その私のデスクに、熱いお茶がことりと置かれた。
私は一気に全身が粟立った。
そしてゆっくりと見上げる。
すると、やはりあの地味な眼鏡の女子事務員がお茶を運んだお盆を持って
立っていた。ただ、一つ、今までと違うのは彼女はマスクをしていた。
「酷いですよ、石田さん。何も、はさみで切ることないでしょ?」
そう言うと、彼女は手でマスクをずり下げ、口をあけた。
彼女の舌は、縦に二つに割れて、まるで大蛇のようだった。




