夜の卵 【ウマレカワル】
男は、夜の街をひた走る。
喉はとっくに呼吸をすることに悲鳴を上げていて、破けるのではないかと思うほど喘鳴を繰り返し、心臓は今にも全身に血を送ることを止めてしまうのではないかと思うほどに爆発寸前だった。
夜陰に紛れて、とある路地裏のゴミ箱の陰に身を潜めた。
もう体が限界を向かえているらしい。
ここまでか。
そう思った時に、初めてアイツを刺した時に滑って刃物で自分の手も傷つけたらしいことに気付いた。
必死に逃げる時にはアドレナリンが出ていて痛みにも出血にも気付かなかったのだろう。
とりあえず、男は、自分のシャツの袖を引き裂いて、手首の上あたりを止血した。
「随分手ひどく傷ついているねえ。」
そう問いかけられ、男は飛び上がって驚いた。
目の前には、いつからそこに居たのか、わからないが、女が男を見下ろしていた。
その女は妖艶な美しい女で、巫女の着るような着物を身に纏っていた。
巫女であれば、その色は白であろうが、その女の身に纏っているものは、玉虫色に輝いていた。
まるで、どこか異国の民族衣装のようにも見えた。
男は立ち上がると、すぐにポケットからナイフを取り出して、その女に突きつけた。
「てめえ、誰だ。余計なことはするなよ?ちょっとでも動いてみろ!刺すからな!」
女は少しもひるまずに、椅子に座ると、目の前に乱雑に置かれた、卵を一つ取り上げて、差し出した。
「この卵はね、願いを叶えてくれる卵。夜の卵さ。」
この女は、この期に及んで商売をしようってのか。頭がおかしいのか。
「おい、俺を見れば、俺が何をしてきたか、大体わかるだろう。」
「知ってるさ。人を殺めちまったんだろ?アンタ、自分の人生を変えたいって思わないかい?」
女はそう言うと、真っ赤な唇を引き上げて笑った。
そりゃあ、俺だって、本当は人なんて殺したくなかった。
生まれ変わることができるのなら、そうしたい。
男はさらに、女の鼻先に刃物を突きつける。
「通報しやがったらタダじゃおかねえからな。」
男は女を値踏みするように上から下までねめつけると、ある考えが浮かんだ。
この女を人質にするか。いやまて、まだそこまでは追い詰められてはいない。
まだ誰もアイツの死体には気付いていないだろう。アイツの死体は、あの車通りの多い橋の高架橋の下の草むらの中だろう。
悲鳴すらもかき消してくれた。
女から身包みを剥がすか。
そう考えているときに、女はさらに卵を差し出した。
「持ってお行き。お代はいらないよ。ただし、タダではないけどね?」
この女は頭がおかしいのか、度胸があるのか。
こんな状態にも関わらず、まだ卵を差し出してくる。
よし、この女が卵を渡す瞬間に、殺して身ぐるみを剥がしてしまおう。何がしか、逃走資金になるくらいの金を持ってるかもしれない。
卵を差し出した瞬間、男は刃物を女につきたてようと、襲い掛かった。
すると、突然、体が動かなくなり、息ができなくなった。
男は、そのまま、膝から崩れ落ちた。
卵は手から滑り落ちると、男の顔の上で割れ、ぬるりと口の中へと吸い込まれていった。
そこで、男は意識を失ってしまった。
***************
ヒロキは、地元の高校を卒業して、工場に勤務している。
高校を卒業して田舎で就職できる職場など、だいたい限られている。
世間知らずの高校生だった者が、いきなり工場で気の荒い男ばかりの職場に放り込まれるのだ。
怒鳴り散らされれば、誰でも萎縮して失敗してしまう。
ヒロキは、どちらかと言えば内向的な性格で、はっきり物も言えないし、おっとりした性格だったので、おどおどした態度が上司の苛立ちをさらに逆撫でするし、周りの同期の者たちからもバカにされていた。
失敗するたびに、工場長に怒鳴られ、職場の人間からは、ダメ人間としてバカにされる。
こんな人生はたくさんだ。ヒロキは自己嫌悪に陥っていた。
できれば生まれ変わりたいとヒロキは常々思う。そんな職場でも、ヒロキは耐えていた。
ある夜ヒロキは一人、安酒を飲める店に立ち寄り、そして、一人ほろ酔い加減で、路地を歩いていた。
すると、一杯飲み屋が並ぶ軒先に、不思議な店がひっそりと佇んでいるのを見つけた。小さな露店のような店だが、その店先には、今まで見たことのないような、絶世の美女が微笑んで手招きしているのだ。ヒロキは誘われるように、その店に吸い寄せられた。その店は不思議な店だった。縁台の上には、真っ白な卵が乱雑に並べてあり、その女はその中の一つを取り上げて、ヒロキに差し出した。
「アンタは生まれ変わりたいと思っているんだろう?」
そうズバリ言い当てられて、ヒロキはドキっとした。何も言わず、黙っていると、さらに女は続けた。
「この卵はね、願いを叶えてくれる卵。夜の卵さ。」
「夜の卵?」
ヒロキはその不思議な卵を受け取った。
「お代はいらないよ。ただし、タダではないけどね?」
ヒロキは戸惑った。お代はいらないのに、タダではないとはいったいどういうことだろう。
ヒロキは少し、気味が悪くなり、
「やはり返します。」と卵を返そうと顔を上げると、そこにはもう女もその店も無かった。
「嘘だろ?」
ヒロキは何度も目をこらしたが、やはり女も店も無い。
あるのは、今、女からもらった卵だけだ。
「俺は夢でも見ていたんだろうか。」
しかし、この卵の説明がつかない。気味が悪いので、置いて行こうかとも考えた。
「願いが叶う夜の卵」
ヒロキはこの言葉が引っかかった。もし、本当に生まれ変わることができるのなら。
このクソみたいな人生におさらばしたいのは本音だ。ヒロキはそっと、卵をポケットに忍び込ませて家路を急いだ。
その夜、ヒロキは眠り始めてすぐに金縛りに遭う。
暗闇に見知らぬ男が立っていた。ヒロキは体を動かすことが出来ず、焦った。
金縛りに遭っているヒロキに男は近づいてきてのしかかってきた。
「カワレタ、カワレタ、カワレタ」
と耳元で囁かれて意識を失った。
あくる朝、ヒロキ固い寝床で目覚めた。
ここはどこだろう。目を擦りながら、ようやく視線が定まると、冷たい白い壁に囲まれた、ドアには鉄格子の窓のある部屋に自分が居ることがわかった。ヒロキはパニックになった。
なんだよ、これってまるで・・・。刑務所みたいじゃん。
しばらくすると、本当に警官が部屋を覗いて、ヒロキは何故か手錠と腰紐をつけることを強要され、取調室に連れて行かれた。何が何だかわからないので、ヒロキが訪ねると、ヒロキは殺人犯だと言うのだ。
「俺はやっていません!」
ヒロキがいくらそう言っても、刑事は信じてくれなかった。
「その傷が証拠じゃないかね。しらばっくれても、その傷と、被害者を指した刃物の跡を調べたらすぐにわかるよ。それに、アンタが持っていた刃物には被害者の血液と、アンタの血液がついてたんだ。これ以上の何が証拠になると思うかね?」
少し年配の刑事が呆れたようにヒロキを見下ろした。
俺じゃない!俺はやっていないんだ!
ヒロキは、朝からの違和感を確かめるために、刑事にトイレに行かせてくれるように頼むと、渋々、トイレの前に見張りを立たせて、許可した。
「やっぱり。俺じゃない。」
ヒロキは、鏡を見て、自分じゃない誰かが写っている鏡を見つめた。
俺は、誰かと入れ替わっている。あの卵屋の所為か。
確かに、俺は、生まれ変わることを望んだ。
だけど、殺人犯に生まれ変わることなんて望んじゃいない。
助けて、誰か。
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男は道端で意識を失っていたはずだが、誰かの声によって、ようやく起こされた。
助かった。俺は生きてる。
男がそう思った瞬間に、手には手錠をかけられた。
「確保しました!」
無線にそう叫んでいる警察官。
ああ、あれは俺の夢で、俺は捕まってしまったんだ。
男は、口の辺りに違和感を感じてぬぐうと、袖に黄色い卵の黄身のような物が着いた。
それでも、男はやはりあの卵を売っていた女は、夢なのだろうと思った。
男は留置場に留置され、固い寝床に転がった。
明日からは地獄のような日々が始まる。
疲れからか、男は、ぐっすりと眠ってしまった。
男は夢を見た。見知らぬ部屋に男は立っていて、ベッドには見知らぬ男が眠っている。
男はその男に近づく。
できることなら、殺人を犯した自分の人生を無かったことにしたい。
俺もこの男のように、普通の暮らしがしたいんだ。
そう願うと、男はあの言葉を思い出した。
「アンタ、自分の人生を変えたいって思わないかい?」
男に近づくと、願った。
俺の人生と代わってくれ。
すると、男はその見知らぬ男の体にすっと吸い込まれた。
男は喜びのあまり、「カワレタカワレタカワレタ」と繰り返し笑った。
朝、起きると、男はベッドの上だった。
おかしい。留置場の寝床はもっと固かったはず。
のそりと体を動かすと、怪我をしたはずの手が何事も無かったかのように綺麗になっている。
手を見た瞬間、男は違和感を感じた。
これは俺の手ではない。妙に生白くて、指が長い。
男は確認すべく、見知らぬ部屋のベッドから降りると、洗面所へ向かう。
そこには、見知らぬ男が立っていた。
色白で気の弱そうな男。
男は全てを理解すると、自然と頬が緩んだ。
「マジか!ほんとうに俺は生まれ変わることができた!」
男が狂喜乱舞しているときに、携帯電話が鳴った。
これは今日から俺の物なのか。
電話に出ると、それはその男の上司らしく、早く会社に出て来いと叱られた。
どんな人生だって、殺人犯よりマシさ。
男は、その部屋の作業着に着替えると、会社へと向かった。
男は、工場で働いた経験がなく、ヒロキ以上に不器用だったので、これまで以上に会社でバカにされた。
ただし、男がヒロキと違うのは、気が短いことだ。誰とでもすぐに喧嘩をした。
そのことがますます男を職場に居づらくした。しかし、男は職場を辞めずに辛抱した。
せっかく殺人犯としての人生を歩むことを免れたのだ。
十数年働いて、ようやく男も仕事に慣れ、工場長への抜擢も考えられるようになるほどになったが、男はまったく人望が無く、元工場長である課長からも疎ましがられ、なかなか出世させてもらえなかった。
「俺の目の黒いうちは、お前を絶対に工場長になんかしないからそう思え。」
課長からそう言われて、ヒロキと人生を変わった男は、プチンと何かがキレた。
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十数年、模範囚として、刑務所で暮らし、ようやくヒロキは出所の日を迎えた。
出所してみれば、世の中の風当たりは冷たく、日々日雇いの労働を見つけながらの生活。
そんな生活に、元の暮らしを懐かしく思い出す。
上司に叱られるくらい、なんてことはない。
日々、何不自由なく、月給をもらい温かい寝床で眠れた日を思い出し、あの頃に戻りたいと思う。
元の生活に戻りたいと願っていたヒロキは、また、卵屋に出くわした。
その女は、あの頃とまったく変わらぬ美貌で、裏路地に不思議な店を構えていた。
そして、また願いを叶えてくれる卵をくれると言う。
元凶はこの女だったと言うのに、ヒロキは藁をも掴む思いで、また卵を受け取ってしまった。
そして、元の生活に戻りたいと願い、橋の下でダンボールに横たわった。
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男はまた人を殺してしまった。
男の足元の、元工場長だった、嫌味な課長はもうすでに無機物と化していた。
自分はどっちに転んでも人を殺してしまう運命だと知り、必死に逃げた。
その途中、またあの卵屋に出会った。
「なあ、アンタ。あの卵をまた俺にくれよ。俺を助けてくれ。」
男は今度は、自分から女に縋りつき、卵をもらった。
そして、また生まれ変わりたいと願う。
そう願いながら、男は潜伏先のホテルのベッドで眠りに落ちた。
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ヒロキは、昔の自分のベッドで目覚めた。
「願いがかなったんだ!」
ヒロキは涙した。長い夢だったのか。
誰かが、部屋のチャイムを押した。
ドアスコープを覗くと、何故か警察官の姿があった。
恐る恐るドアを開けてなんでしょうかと問うと、いきなり、逮捕状を見せられて、手錠をかけられた。
なんで?
ヒロキは元工場長殺しで逮捕され、また刑務所に逆戻りしてしまう。
「どうしてこんなことに」
ヒロキは絶望した。
そこで、やっとあの卵屋は悪だと気付いた。
「俺は大馬鹿者だ。」
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卵屋から卵をもらった男は、目覚めると、胸に痛みを感じた。
胸に刺さったナイフは、自分が課長に突き立てたものだ。
男は自分は課長にに生まれ変わったのだと気付いた。
そのまま意識はブラックアウトした。