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ご飯、まだ?


 浅い眠りの中、人の気配で目が覚めた。

まるでホラー小説のプロローグのようであるが、私には当たり前の日常。


 私は今、病院に入院している。

風邪が悪化して肺炎を起こしてしまったのだ。

入院が必要とのことで、私の腕はチューブで点滴につながれている。

不便このうえないが、まだこれは外せないようだ。


 病室は大部屋で、この部屋には私と、隣のお婆さんの二人だ。

昨日までは、もう一人お婆さんが居たのだが、退院して行った。

私は、そのお婆さんを羨ましく見送ったのだ。

ただ、病気が治ったから羨ましいのではない。

この病室から解放されることが、羨ましかったのだ。


 寝不足の目を擦っていると、朝日がブラインドの隙間から差し込んできた。

入院しているほうが疲れる。家でゆっくりしたい。


 病院での生活の中で、最大の苦痛は赤の他人と同じ空間を有することと退屈。

食事が運ばれてきて食べたその後は、ひたすらベッドに何をするともなく横たわっていなければならない。

ずっと横たわっていたり同じ姿勢で居ると、体のあちらこちらが痛む。


 そしてもう一つの最大の苦痛が始まった。

「看護婦さーん、ご飯まだ~?」

まただ。さっき食べたじゃないの。

隣のお婆さんは叫び続ける。そう。お婆さんはどうやら、認知症らしいのだ。

頼むから叫ばないでくれ。黙ってナースコールでも何でも押せばいいのに。

看護士もウンザリだろうけど、私もいい加減ウンザリしている。

夕べもこの声で、ほぼ眠れなかったのだ。

夜中だろうが、容赦なく叫び続ける。


 だいいち、夜中真っ暗なんだからご飯の時間じゃないことくらいわかりそうなものだけどね。

それが認知症なんだろうけど。

「かぁんごぉふさぁあああん!ご飯まだぁあああ?」

クソ、元気じゃねえか、ババア。こっちは眠れなくて体が辛いのに。

きっと、昼間にガアガア寝て、また夜騒ぐつもりなんでしょ。

もうこうなったら、私も婆さんの昼夜逆転生活に合わせるしかないのかもしれないが、なかなか昼間は眠れない。


「佐藤さん、もうご飯食べたでしょう?」

看護士もたいへんな仕事だ。何度も繰り返されるこれに付き合わなければならないのだから。

「ええ?食べたっけか?食べてないんだけどねえ。おかしいねえ。」

おかしいのはアンタだよ。しっかり食べてる音がしてたよ。


「あらっ、佐藤さん、また入れ歯外したまま食べたの?ダメじゃない、丸呑みしたら消化に悪いよ?」

「あげなもんつけて食べても、ご飯が美味しくもなんともないわ。」

「でも、佐藤さん、歯がないと噛めないでしょう?」

延々とそういうやり取りを聞かされる。まったく、言うことを聞かない。

年を取ると頑固なものだ。


「佐藤さんは、おかゆにしないとダメね。」

ナースステーション前で看護士同士が困り顔で話していた。

ナースステーションの前をガラガラと点滴を押しながらトイレに行くと、エレベーターに乗っておかっぱの女の子が同じく点滴をガラガラと押しながらやってきた。小さいのに可哀想。

彼女はアイコちゃん。心臓が悪いらしい。彼女はいつも、2階の小児病棟からエレベーターに乗って、3階に遊びにくるのだ。


 佐藤さんは、アイコちゃんが来る時だけは、なぜか正気に戻る。かわいい孫のことでも思い出すのだろうか。

「あらあ、アイコちゃん、いらっしゃーい。」

先程までご飯を食べてないとダダをこねてた人とは思えない。

「こんにちは。おばあちゃん。」

佐藤さんは目を細めて、かわいいねえ、とアイコちゃんの頭を撫でる。


 アイコちゃんは、誰が見ても天使のように可愛い。陰鬱な病室がぱあっと花が咲いたように明るくなる。

佐藤さんもアイコちゃんを可愛がるし、またアイコちゃんも佐藤さんに懐いていた。早く彼女が退院できたらいいのに。私は不憫に思った。アイコちゃんが来る間だけは、佐藤さんが大人しくなる。普通にお婆ちゃんと孫がお話をしているように、微笑ましい光景だ。折り紙を教えたり、お話を聞かせたり。

「じゃあねえ、おばあちゃん、ばいばーい。」

一通り遊んでもらって満足したのか、自分の病室へと帰って行った。


 その晩もやはり佐藤さんの叫び声が響く。

「看護婦さあ~ん、ご飯まだあ?」

もう、何時だと思ってんのよ。私は布団を頭から被る。


「おや?これを?私にくれるのかい?ありがとうよー。」

そう言いながら、佐藤さんが何かを咀嚼している音がする。

「おいしいねえ。もぐもぐ。おいしいおいしい。」

私は訝しく思い、隣のカーテンに映る影を見た。

佐藤さんが体をベッドから起こして、口にさかんに何かを運んで食べている。

誰かが食べ物を与えているようだ。

「はあ、お腹いっぱい。ご馳走様。」

そう言うと静かになった。私は、誰かが食べ物を与えた事を大丈夫かと心配したが、内心ほっとして眠りについた。


 次の日の朝、隣のベッドから苦しそうな息遣いが聞こえた。どうしたんだろう?佐藤さん、具合が悪いのだろうか?私が心配している側から、おええとえづいて、床に吐しゃ物が飛散する音が聞こえた。

これは大変だ。私は急いで、自分のベッドのナースコールを押した。

「どうされましたあ?」

スピーカーから看護士の声。

「さ、佐藤さんが!具合が悪そうなんです!すぐに来てください!」

「はい、わかりましたー。」

私は、すぐに佐藤さんの病室を覗いた。

「大丈夫ですか?」

吐しゃ物のすえたにおいに、こちらまで吐き気がした。

床には吐しゃ物が飛散していて、私はもろにそれを見てしまった。

吐しゃ物の中に、何か違和感を感じた。

緑色の吐しゃ物。それは、見たことのある形だった。

「か、カエル?」

嘘でしょう?なんで、吐しゃ物の中にカエルが。しかも、胃液で少し溶けている。

私は思わず口を塞いだ。

看護士がかけつけて、吐しゃ物を始末して、もう一人は佐藤さんの意識確認をした。

「佐藤さん、佐藤さん、大丈夫?私がわかる?」

ぐったりとした佐藤さんは、薄目を開けた。

「わかるよー。看護婦さーん。」

良かった。意識はあるみたいだ。


 佐藤さんはそのまま、検査室へと運ばれた。

私は、自分が見た物をにわかに信じられなかった。

きっと気のせいよ。佐藤さんが食べた何かがカエルに見えただけだわ。

でも、緑色の体には、小さな目が。

自分のすぐ足元で見たのだ。

いやいや、やはりあり得ない。

そう思いつつも、夕べ佐藤さんのベッドを訪れた誰かが、佐藤さんにカエルを与える姿を思い浮かべてしまうのだ。


 佐藤さんは2時間ほどで、病室に戻ってきた。

「かあんごふさあああん。ご飯まだぁ?」

あれだけ吐しゃしておきながら、ご飯を食べるのか。大丈夫なんだろうか?


 私は、佐藤さんに何も異常が無いことに驚き、また、不謹慎ながら、少しがっかりしていた。

最低だと思われても、本当にこちらが参ってしまう。とっくに点滴が外れても良さそうなのに、私はまだ点滴でつながれている。これも全て佐藤さんの所為のような気分にさえなる。


 私は溜息をつき、点滴を押しながら、トイレに向かった。

ナースステーション前で看護士同士が話をしている。

吐しゃ物、異物、などの言葉が聞こえてきたので、私は聞かない振りをして、耳をそばだてた。

「カエルだったの。」

「えー、うそぉ、なんで?佐藤さん、歩けないじゃない。自分で食べるのはあり得ない。」

やっぱり。あれはカエルだったんだ。私はそれを聞いたとたんにまた、胃の奥のものがせりあがってきた。


 誰が佐藤さんにそんなものを食べさせたんだろう。佐藤さんも、カエルと食べ物の見分けくらいつくだろうに。

私がいくら考えてもわからなかった。


 トイレに行く途中、エレベーターが開き、今日もアイコちゃんが遊びに来た。

きぃきぃガラガラガラガラ。アイコちゃんの点滴棒は、少し調子が悪いようだ。他のに比べて、きぃきぃという金属音が酷いような気がする。アイコちゃんの行き先を見ると、やはり私達の病室へと入っていった。

よほど佐藤さんに懐いてるのね。少しの間静かになりそうだから、トイレから帰ったら少し眠ろう。


 その夜も、消灯したのに、また佐藤さんが騒ぎ出した。

「かぁんごーふさあん。ご飯まだあ?」

たぶんしばらくは、看護士も無視をきめるつもりだろう。看護士だってやってられない。

私は溜息をつき、常夜灯をともして、睡眠をあきらめて本を読むことにした。

本の文字を追っているうちに、私はどうやらしばらく眠っていたらしい。


 佐藤さんが誰かと話す声で目がさめたのだ。

「おいしいねえ、おいしい。ありがとうねえ。」

私はデジャブを覚えた。また夕べと同じだ。私は佐藤さんが吐しゃしたものを思い出して気分が悪くなった。

いったい誰が、佐藤さんにあんなものを。

私は、佐藤さんのベッドをカーテン越しに見つめた。

佐藤さんの側に、誰か居る。小さな影。女の子。

しばらくすると、その小さな影は動いた。

きぃきぃきぃきぃ。ガラガラガラガラ。

私は、その音を聞いてぞっとした。


 嘘!アイコちゃんが?どうして。確かに小さな後姿は、おかっぱの少女そのものだった。


 私は、それから眠れなくなった。そういえば、昼間、アイコちゃんを病院の中央の吹き抜けの庭で見かけた。一階の自動販売機でジュースを買って飲んでいた時に見かけたのだ。点滴をつけたまま座り込み、なにやら土を弄っていた。病人、しかも、あんな小さな子が外に出ているのに、看護士は誰一人注意しない。大丈夫なのだろうかと、心配になり、声をかけようとしたのだ。すると、彼女は土いじりをやめて、中に入ってきたので、私はほっとしたのだった。


 アイコちゃんが、もし、佐藤さんにあんなものを食べさせたとしたら?私は、想像してはいけないものを想像してしまった。まさか。まさかね・・・。


 朝方、少しうとうとしていたら、看護士の悲鳴で目が冷めた。

「きゃあああ!」

何が起きたのだろう。

私は、気になり体を起こすと、のろのろと点滴棒をつきながら、隣のベッドを覗いた。


 看護士の女性が呆然と立ち尽くしている。すぐに、私の鼻をまた吐しゃ物のすえたにおいが突いた。

「いやああああ。」

看護士の悲鳴が続く。

「どうしたんですか?」

私は、隣を仕切っているカーテンを少し開けた。

そのとたん、私の目をグロテスクな風景が捉えた。


 床の吐しゃ物の中に、何かがうごめいているのだ。

「・・・嘘っ!ミミズ!」

騒ぎを聞きつけて他の看護士もかけつけた。

信じられない数のミミズが、床を這い回る。

私は我慢できずに、自分も胃液を吐いてしまった。まだ何も入っていない胃からは胃液しか出ない。

佐藤さんはぐったりしている。

すぐさま佐藤さんは、運び出されて、大量のミミズと吐しゃ物は大急ぎで片付けられた。


 私もしばらく、看護士に介抱され、ようやく気分がよくなってきたところで、思い切って看護士に昨日の出来事を話してみようと思ったのだ。


「あのう、もしかしたら勘違いかもしれないんですけど。ひょっとしたら、佐藤さんに異物を与えてるのは、アイコちゃんかもしれないんです。私、見たんです。アイコちゃんが、夜中に佐藤さんのベッドから離れるところを・・・。」


私がそう言うと、看護士はキョトンとした顔をした。

「アイコちゃんって?誰ですか?」


私はそう問われたので、

「2階の、小児病棟に心臓病で入院している、髪の毛がおかっぱの可愛い子ですよ。アイコちゃん。」

と答えると、看護士の顔が青ざめて強張った。


「アイコちゃんは・・・。1年前に亡くなりましたよ。」


私は戸惑った。

「え?でも、毎日佐藤さんのベッドに遊びに来てましたよ?それ、別の子じゃあないんですか?」

「今、小児病棟に、アイコという名前の子はいませんよ。」

「でも、毎日、佐藤さんと遊んでたんです。佐藤さん、アイコちゃんが来る時だけ、正気に戻って、すごく可愛がってましたよ。アイコちゃんが来るとすぐわかるんですよ。点滴棒がアイコちゃんのだけ、きぃきぃという金属音がするんです。」

それを聞いた看護士は、手を口で覆った。


「その点滴棒、1年前アイコちゃんが使ってて、壊れたのでもう処分してるんです。」

私は全身が、あわ立った。嘘でしょう?今まで、私達の病室に遊びに来てたのは・・・。


その日から、佐藤さんは個室で面会謝絶となった。悪質な悪戯が横行していると判断した病院による措置だった。


 アイコちゃんは、もうこの世に居ない。じゃあ、あの子はいったい誰?

私は消灯時間になっても、なかなか寝付けなかった。すると、エレベーターが開く音がした。

ピンポーン。


きぃきぃきぃきぃ。

ガラガラガラガラ。

きぃきぃきぃきぃ。

ガラガラガラガラ。

きぃきぃきぃきぃ。

ガラガラガラガラ。


私の心臓は早鐘のように鳴った。

来る。近づいてくる。

この点滴棒の音。

アイコちゃんだ。

今日はこの病室には佐藤さんは居ない。

私だけ。


入り口でピタリと音が止まった。

いやだ。来ないで。

私は、布団を頭まで被って震えた。

きぃきぃきぃきぃガラガラガラガラ。

だんだんと音が近づいてくる。

もう心臓が爆発しそう。

シャー。

カーテンの開く音。

私の口はカラカラに渇いた。

いやだいやだいやだ。こないで。

ここには佐藤さんはいないから来ないで。


「おばちゃん、かくれんぼ?」

アイコちゃんが無邪気な声で言う。私は心臓を鷲づかみにされたように動けない。

ウフフと彼女が笑う。


「みぃ~~つぅ~けたああああ。」

ベッドの側に立っていたはずのアイコちゃんの顔が、私の目の前にあった。

布団の中だ。

私の意識はそこでブラックアウトした。


 翌朝、ブラインドから洩れる日差しで目が覚めた。

あれは、夢だったのだろうか。私があの子を怖がるばかりに。

夢と現実が、よくわからなくなってしまった。


「お食事ですよー。」

起床してしばらくすると、朝食が運ばれてきた。

あら、今日はお蕎麦なのね。

私は、久しぶりのまともな食事に喜んだ。

病院食というのは実に味気ないので、たまにはこういう物が無性に食べたいのだ。

カーテンの陰から、看護士が手だけ出してテーブルに食事を置く。

「ここ、置いときますねー。」

そう言うと、そそくさと去って行った。忙しいのだろう。

「いただきます。」

私は手を合わせると、まずはお蕎麦から箸ですくって口に運ぶ。

「おいしい、おいしい。」

食事をしていると、カーテンが開いて、久しぶりに主人が顔を出した。

「どうだ?調子は。」

そう言って私を見たとたんに、表情を強張らせた。


「お前!何を食べてるんだ!」

そう言うと、私の手から乱暴にお蕎麦のお椀を取り上げた。

「え?何って?お蕎麦だけど?」

「これのどこが蕎麦だ!」

私にお椀を向けると、その中には無数のミミズがのたくっていた。

「いやあああああ!」


きぃきぃきぃきぃ。

ガラガラガラガラ。


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