雪精
山脈の峡谷へと飛び込んだピヨスケは、その後もイリスの指示に従いながら進んでいる。
左右のほとんど垂直に切り立った岩壁は遥か上空、稲光りする分厚い暗雲にまで届いており、見上げれば逆に空へと落ちて行きそうな錯覚にすら襲われる。
谷底は降り積もった深雪に覆われており、さながら純白の大河を思わせる。
イリスが言うには太古の地殻変動によって山脈が裂かれたことで出来た地形らしく、ここまでに何度となく岐路を通過してきた。
この複雑な経路、さらにこの過酷な環境では、龍の国の場所が知られていないのも当然のことか。
俺がそんなことを考えていると、少しずつ周囲に粉雪が舞い始めた。
風も少しずつ強まっているような気がする。
「ピーちゃん、この先は気流の乱れが酷いわ。
そろそろ下に降りる準備をして頂戴」
そうピヨスケに着陸の指示を出すイリスに、俺は少し疑問を抱いた。
「ピーちゃんなら多少の風雪くらい大丈夫じゃないのか?」
魔力を通じて周囲の霊素を操ることで飛行を補助するピヨスケは、ある程度の物理現象なら意に介さないはずだ。
そんな俺の問に対する答えをイリスは説明してくれる。
「この先は気性の荒い精霊が大量に住み着いてるのよ。
その精霊達の魔力が干渉することで霊素の操作も難しくなるし、こっちの魔力もかき乱されるわ。
妾くらいの力があればそんなの問題にもならないのだけれど、ピーちゃんだとさすがにちょっと辛いはずよ」
精霊と言うのは、精霊界で生まれた純粋な精霊界の生物が、こちら側——すなわち物質界——に溢れ出てきた存在だ。
当然その肉体は霊素だけで構築されており、ピヨスケをはじめとした霊獣の親戚みたいなものとも言える。
——了解ですー!
ピヨスケはイリスに返事をすると、ゆっくりと高度を落とし始めた。
真っ白な雪上へとピヨスケが羽をおろしたところで、イリスが軽快に飛び降りた。
分厚いブーツと手袋とコートで身を固めた俺は、それに続いて「よいしょ」というかけ声とともに着地しようとし、予想外に足が膝上まで雪に突き刺さったことで体勢を崩した。
イリスやピヨスケは普通に雪の表面に立っているので、雪の層はあまり厚く無いのだろうと考えていたのだが大はずれだった。
これも魔力のなせる技なのだろうか。
俺も魔力が欲しい。
「イリス、その雪上歩行?みたいな魔法、俺とクレア様にもかけてもらえないかな」
そんな俺のお願いに、イリスは少し困ったように答える。
「自分の身体を操作することは感覚的に簡単に出来るのだけど、他人への魔法付与ってよくわからないのよね。
次までに人間の魔法使いの本でも読んで勉強しておくから、悪いけど今回は我慢して頂戴ね」
ううむ、そもそも彼女は魔法使いでは無いのだし、それなら仕方ないか。
だが、ここを徒歩で進むのはさすがにクレア様には辛いだろう。
そうなると、久しぶりにあれをするか。
俺は一度コートを脱ぎ、未だピヨスケの背に乗っているクレア様へと呼びかける。
「じゃあクレア様、俺の背中に乗って下さい」
それを聞いたクレア様は、顔には出さないものの俺の身を案じた言葉をかけてくれた。
「この雪では貴様も大変ではないか?」
ああ、なんて優しいんだクレア様。
まあ、肉体的には少し大変かもしれないが、俺は彼女の役に立つことで幸福を感じられるのだ。
俺は笑みを浮かべながら、心配しないで下さいと言う風に答える。
「俺はクレア様の乗馬ですから」
それを受けてクレア様は、「そうだったな」と呟いた後、俺の首に腕を回して背中に抱きついてきた。
俺はその彼女の上から大きなコートを羽織り直すと、しっかりと支えられるように彼女の腰と太ももの位置を調整した上で、コートに付いているフードを深く被った。
そんな俺にしがみつきながら、俺の顔の隣から顔を出したクレア様の白い吐息が、俺の視界にも入ってくる。
「では頼むぞ」
耳元で聞こえたクレア様の囁きに、俺は元気よく「はい!」と返事をした。
俺たちが雪道を歩き始め、しばらくの時が流れた。
初めはパラつく程度だった降雪も少し強まって来たが、まだ俺の歩行の支障になる程ではない。
だが果てしなく切り立った岩壁に挟まれた天を見上げれば、激しく複雑に絡み合った気流に乗った雪が轟音と共に、雲すら見えないほど吹き荒れている。
魔力等の感覚は俺には分からないが、それが視線の先の光景と同様に乱れていると言うのなら、確かにピヨスケが飛行出来ないと言うのも納得出来る。
そのピヨスケは俺の右隣を人型となって歩いている。
雪上歩行では小さい人型の方が力の消費を抑えられるらしい。
また、彼女は寒さに対する耐性を持っているのだが、俺とお揃いが良いとのことで彼女もコートに身を包んでいる。
なんとも可愛いことを言ってくれるものだ。
俺たちの少し前方にはイリスが歩いている。
いつものシンプルな黒いドレス姿が見た目にとても寒そうだが、もちろん彼女はそんなことは感じていないだろう。
彼女は今回の旅の荷物一式を纏めた背負い袋を持っており、この中でダントツの肉体能力を持つ彼女にクレア様を任せなかったのもそれが理由だ。
……と言うのは良い訳であり、本当は単に俺が格好付けたかっただけだ。
背中にクレア様の温もりを感じながらそんな風に皆の様子を観察していると、俺たちを先導していたイリスがぴたりと歩みを止めた。
なんだろうと思い彼女のさらに前方へと視線をやると、降り積もった雪がモコモコと盛り上がり始めていた。
なんだあれ、ちょっと気持ち悪いな。
俺がそんなことを考えていると、耳元でクレア様が「雪精だな」と呟いた。
「スノーマン……雪だるまですか?」
そう訪ねる俺に、クレア様は淡々と解説してくれる。
「精霊があたかも自らの肉体のように雪を操作しているのだ。
言わば雪のゴーレムだな」
クレア様の言葉に耳を傾けながら前方の雪の盛り上がりを眺めていると、それはやがて極端に太った猫背の巨人のような形状を作り上げた。
体長はこの前のトロルに匹敵しているし、横幅を考えれば質量はそれを遥かに上回るだろう。
眼窩と口腔に対応するのだろう窪みだけが存在するシンプルな純白の相貌が凶悪でない分、与えられる恐怖感はトロルよりマシではあるが、その圧倒的な迫力は俺をひるませるには十分なものだ。
そのため少し足が竦むが、同時に視界に入っているイリスのおかげで逃げ出したくなる程のものではない。
そのイリスが肩越しに語りかけてくる。
「この先結構この子達が出てくると思うけど、妾が全部つぶしていくから気にせず足を進めて頂戴ね」
そして彼女が前方を振り向き一拍置くと、雪精は強烈な爆発音とともに飛散した。




