不安
しばらくの間朝食のメニューを眺めていた俺は、気を取り直して前々から気になっていた事をトールさんへと尋ることにした。
「そういえば、魔の領域がかなり広がって来てるみたいですね」
この世界の歪みは、俺にとっても全く他人事ではない。
トールさんもその顔を真剣なものに変え、俺の振った新たな話題に乗ってきた。
「ケーゴさん達もそれでこちらの方へ移り住んで来られたんでしたっけ。
遠方出身の冒険者から伝え聞く所では、ここ数年で魔王軍がかなり勢力を増してるみたいです。
それに応じて各地の魔物も活発化しているようですね」
今何気なく出て来たけど、魔王なんてのもいるのかこの世界は。
少し表情を険しくした俺の不安を取り除くように、トールさんは話を続ける。
「でも、この辺りはまだまだ大丈夫ですよ。
それに、これだけ優秀な冒険者が集まっている村です。
そんじょそこらの魔物程度なら、攻めて来た所で返り討ちですよ」
確かにその点についてはとても頼もしい。
実際、それは俺が移住先としてこの冒険者村を選んだ大きな理由の一つでもある。
「この辺りには強い魔物はいないんですか?」
そんな俺の疑問に、トールさんは答える。
「北方の山脈や南方の森林地帯にまでいけばかなり強力な魔物もいますが……。
この村は元々、北の坑道の先と南の森の先にある二大国家の中間地点である上に、強い魔物が少ないという理由で冒険者達の溜まり場となってきた場所ですからね。
俺みたいな駆け出し冒険者でもやっていけるように、近辺にならそこまで大きな危険は無いと言えます。
ただ……」
そこで一度言葉を区切ったトールさんは、最近気になる噂を耳にしたと告げた。
「西の先、アークフリューゲン王国の勇者に敗れた強力な吸血鬼が、この周辺に逃げ延びて来たらしいと言う話を聞きました。
あくまでも噂でしかありませんが、もしそれが事実なら近々大規模な討伐隊が組まれるかもしれません」
ふうむ。
この世界には、本当に安全な場所なんて存在しないのかも知れない。
「そんなに強いんですか?」
まあトールさんを含めた冒険者達の様子から察するに、そこまで深刻な事態では無いのだろう。
そう考えながらもさらに尋ねる俺に、トールさんは答える。
「西の方では伝承にも現れるような、かなり有名な吸血鬼だったらしいです。
二つに結んだ黄金色の長髪が特徴で、見た目は美しい少女の姿をしているらしいのですが、高い魔力を持った存在の強さは外見だけでは判断できませんからね。
もっとも、いくら王国の勇者と言えども人間が個人で対抗できたのですから、さすがにこの冒険者村に対する脅威にはなり得ないでしょう」
この世界での勇者と言う存在の位置づけがいまいち分からないけど、もしかすると俺のような——と言うのも何だかおかしな気がするが——、転生者の可能性もあるのだろうか。
仮にそうだとすると、トールさんがその吸血鬼に対して抱いている印象よりも強めに見積もっておいた方が良いかも知れない。
吸血鬼に対する警戒感を少し上げた俺はそこで、食堂のカウンター席に腰掛けている少女らしき人物に気がついた。
外観的にはクレア様より少し上、中学二三年くらいに相当する年齢だろうか。
この位置からでは顔は見えないが、地に着く程にも長い流れるような金髪を、黒いリボンを用いて低い位置でツインテールとして纏めており、その身は控えめなデザインの黒いドレスに包んでいる。
「その吸血鬼って、あの子みたいな感じですか?」
そう言いながら少女へと視線を向ける俺に、トールさんも追従する。
「見た目には俺が聞いた雰囲気とだいたい一致してますね。
まあ、相手は吸血鬼ですから、こんな晴れた日に朝から外には出ないでしょうが」
笑みを浮かべながらそう答えるトールさん。
よく考えてみれば、それもそうだ。
非常に珍しいことではあるが、都市間の最短ルートに位置するこの村には、冒険者に護衛された貴族や豪商が立ち寄らないとも限らない。
彼女もおそらくその類なのだろう。
同意を返しながら改めてトールさんへと向き直った俺は、手元のコップの水へと口をつけた。
俺とトールさんが食堂に入ってから、それなりの時間が経過した。
……それにしても、クレア様遅いな。
トールさんと会話を交わしながらも俺がそう考えはじめたとき、食堂内に突如異変が生じる。
何故か皆が急にざわつき始めたのだ。
俺がそのざわめきの中心を見やると、そこには信じられないものが存在した。
それは、ボルギスの戦斧亭のウェイトレス制服に身を包んだ、クレア様その人だった。
青を基調としたデザインの制服が、彼女の純白の肌や髪をより強調している。
それはこの食堂において、他の誰よりも美しく神秘的に咲き誇る、一輪の可憐な白い花のようだ。
ゆっくりとこちらに近づいてくる彼女に、言葉すら失い見蕩れる俺。
周囲の冒険者達も、彼女の方をチラチラと眺めているみたいだ。
あ、あの男、今クレア様をちょっといやらしい目で見たぞ。
見た目幼いクレア様に色目使うなんて、危ない人のレッテルを貼られても知らないぞ。
そんなことを考えながら隣にチラリと目をやれば、なんとトールさんまでもがクレア様を見つめたままだ。
そこで、俺の心の中の不安が急激に増大してきた。
それはあの無人島を離れて以来、あえて心から追い出していた一つの可能性。
よくよく考えてみれば、霊獣の育ての親だということを抜きにしても、あれほど可愛らしいクレア様に近づきたいと思う男が出てくるのは当たり前のことだろう。
そしてあの無人島生活から今まで、クレア様が俺と一緒にいてくれた理由は何だ。
彼女がこの世界で生きる為の手伝いをしながら、その身を危険から守ってきたからではないのか。
それならこの世界を俺なんかより遥かに良く知り、いざという時はその大きな力で彼女を守れる、彼ら冒険者達の方がよっぽど適任と言えるではないか。
そしてあの可愛らしいウェイトレス姿も、もしかするとそんな冒険者達へのアピールなのではないか。
心に湧きあがる嫌な感情を俺が必死に抑えつけている間に、クレア様は俺の眼前へと到達した。
そして彼女は感情の窺えない深く蒼い瞳で俺を見つめながら、静かに言葉を発する。
「貴様らの注文は妾が聞いてやろう」
注文?
そうだ、ここには朝食を取りに来たのだった。
だが今はそんなことはどうでもいいとばかりに、俺はおそるおそる口を開く。
「ク、クレア様、その格好は……」
内からこみ上げる恐怖に押しつぶされそうになりながら言葉を発する俺。
だが、そんな俺に対してクレア様は表情一つ変化させずに答える。
「なに、妾の飼い馬が喜ぶだろうと思ってな」
クレア様のその言葉を聞くと同時、俺の中に募っていた不安は刹那のうちに吹き飛んだ。
ああ、俺は馬鹿だ。
俺が彼女に抱いている思いと、彼女が俺に抱く思いが、未だ全く異なっていることは分かっている。
だが、彼女と共に積み上げたあの日々が、あの経験が、あの繋がりが。
そんな簡単に、断ち切れる訳が無かったのだ。
今はただ、彼女の期待に全身全霊を持って答え続けよう。
俺はカウンター奥に宿の主人の姿を見つけると、猛烈な勢いで駆け出した。
「グレアムさーん!
あの服今夜も貸し出していただけませんかねー!!」




