街道まで
ふぁああ、んん…
森の中、あくびで開いた口をぱかぱか空いた手で叩きながら歩いている少年、ソクラは、それでも無用心ではなかった。
グルルルル…
茂みの方から飛び出して唸り声をあげているのは、犬のような、それでも犬にしては大きな眼、太く長い牙を持つ魔物。
ハウンドドッグと呼ばれるそれは、好戦的であり群れをなし、時には人間をも獲物として襲う。
広くこの世界では、人間の身近な危険として注意を払われている魔物である。
魔物は、交配によっても数を増やす一方で、魔素が集まり濃くなったところからも生まれる。
そのため魔物はあまねく存在する魔素同様、あまねく存在する危険として、人間の生活を脅かしている。
ところで、この世界において魔物は魔素から生まれる、という現象は知られているが、その理由や仕組みは、魔法陣と魔術の関係同様、謎とされている。
しかし、魔法陣同様、この仕組みについてもソクラにはある程度検討が付いていた。
召喚、だと思うんだけどな…
召喚とは、生物を生み出したり、或いは生物を別の場所から呼び出したりする魔術の総称である。
その魔術はおよそ個人の持つ魔力では行使することのできるものではなく、遺跡から得られたり、苦心の末発明された魔法陣によって発動される。
だが、それも魔法陣の開発の困難さから、後者の用途の魔術、遠隔地への移動手段として用いられている程度である。
ソクラは、魔素が集まった場所で、自動的に召喚の術か陣が発動された結果、魔物が生じているではないかと考えているのだ。
最も、この考え自体は、これまで全く鑑みて来られなかったわけではない。
ただ、魔法陣が意図もなしに発動されるわけがない、との理由から、この仮説はこれまで否定されている。
魔法陣はあくまでも、発動する者が魔法陣の表す効果と同じ効果を念じたときのみ発動するのである。
意思がなければ、発動するはずがない、とするのは当然であった。
もちろん、そのことはソクラも知っている。
しかし、彼にはこの点についても自説を持っていた。
曰く、魔素には意思がある、だ。
魔素が濃くなると、魔素自身がその濃さを軽減するべく魔素が魔法陣をなして魔物召喚という形で魔素を消費しているのではないか、というのである。
魔素が意思を持つこと自体を証明することが非常に困難であるため、ソクラはこれを仮説、或いは信念ともいうべきか、ともかく、自分の心の中にしまっている。魔術師たちにさえ、打ち明けたことがなかった。
いつか、これも証明したいよね
などとのんびり考えながら、ソクラはようやっと、正面のハウンドドッグに注意を向けた。
呑気な彼だが、すでに、両手を広げた彼の胸の前には様々な図形の描かれた手のひら大の紙が大量に、ざぁ、と浮かんでいる。
ローブの胸に常備している『空中浮遊』の魔法陣を発動し、懐に仕込んであるお手製の魔法陣たちを素早く発動できるようにした、これが、彼の臨戦態勢である。
これまでの道のりで、すでに食料に困らないだけの肉と果物類を手にしているため、狩りのための弓は肩に掛けたまま、剣は腰に挿したままである。
また、群れで狩りを行うハウンドドッグが一体で目の前に飛び出してきたことから、ソクラが他の魔物の動きを警戒しているということもある。
何体いるにしろ、とりあえず、この一体、だよね。
と思考も戦闘に切り替えて、何枚かの紙の端を指でなぞる。一枚目に描かれた陣と、指先が赤く光ると同時、ソクラは意識をハウンドドッグに向けた。光とともに陣が消えようとしたとき、ソクラの目の前に拳大の火の球体が生じ、一直線にハウンドドッグに向かって飛んでいく。ハウンドドッグはそれを見て直線上から飛びのくが、それを追うように火でできた球体は未だ空中のハウンドドッグに向かい、他の動作を許さぬまま、直撃。すぐさま火炎はハウンドドッグの身体を覆い尽くし、やがて煙を上げて火が消え、ハウンドドッグは真っ黒な毛皮の代わりに灰となった身体を晒して事切れた。
火の初級魔術、『火の玉』である。
一方、その頃には他の魔法陣も発動を終え、ソクラの身体は暖かな光に包まれている。
火の初級魔術である『肉体強化』と光の初級魔術である『自動回復』さらには水の初級魔術『知性強化』の光。
自身の強化を終え、残りのハウンドドッグの出方を見るソクラに
ぐっぐぉぉ…
キャンキャン…
という数体のハウンドドッグの断末魔が届いた。
不審に思うソクラの前に、がさがさと茂みを割ってでてきたのは、
ゴブリン!?なんでこんなところへ!?
ゴブリン。数十体の群れで主に洞窟などを住処に、辺りの魔物を餌に生活する魔物である。ゴブリンは、ハウンドドッグとは比較にならない脅威として、人間には認識されている。人間の獲物である棍棒や剣を操り、中には魔術の行使までできる知能が、彼らを恐ろしいまでの存在にしているのだ。
この周辺に、住処になるような場所があっただろうか。
いささか不自然な気もする。近くに川や洞窟などはなさそうだった。
しかし、その不自然に気を取られている場合ではない。
ソクラは、血走った目を向けるゴブリンに囲まれているのだ。
後ろも…。囲まれた、な。数十体のゴブリンを同時に相手…
うぅん、森が焼けちゃうのは嫌だし、『火の玉』ばかりも使えないな…
などと考える内に、ソクラの視界は、木々とゴブリンで埋め尽くされた。
ハウンドドッグの狩りをしていたところに人間がいたことに驚いたのだろうか、すぐにこちらに飛びかかっては来なかったものの、今にもその血の滴る剣をこちらに向けることは明らかだった。
先手必勝!
胸の前に浮かぶ魔法陣の数枚を選んで発動。発動した魔法陣の結果の確認もせず、振り返って腰から小ぶりの剣を抜き、迫るゴブリンに向かって走りだす。魔術によって加速された動きは、ゴブリンの予測を遥かに上回っていたのだろう。狼狽えるゴブリンは満足に剣を振り上げることもできず、ソクラに横薙ぎに首を切り裂かれ、血飛沫を上げて膝を崩す。
その後方では、『光の矢』が数本飛び出し、何体かのゴブリンを後続含め貫いている。同時に『地の壁』が展開され、木々と合わせて、ソクラの後方のゴブリンたちには、ソクラを視認することすらできなくなった。
ソクラは首を撫で切ったゴブリンの脇を走りぬけ、更に後ろで目付きを変えて棍棒を振りかざすゴブリンに向かう。ソクラが間合いに入った瞬間、待ってましたとばかりにゴブリンが振り下ろす棍棒はしかし、そこでぐっと身を縮めて棍棒を持つ手に踏み込んだソクラには、かすりもしない。そのまま剣の柄に左手を添えてゴブリンの脇を撫で切ってから、四方から詰めかけるゴブリンたちをぐるりと見回して、ソクラは左手で魔法陣を発動させる。
瞬間、ソクラの周囲が赤く光ったように見えたのと前後して
ドゴォォォン
轟音が鳴り響き、ソクラ目掛けて詰めかけたゴブリンたちを、その四肢含めてバラバラにしながら吹き飛ばす。木々も草花も巻き込まれ、爆心から10メートル周囲は、草一本残らないブスブスと煙を上げる空き地となった。
火の中級魔術『業火爆発』である。
と、もうもうと立ち込める煙の中心から、一陣の風。ソクラは自らの周囲に展開した『水の障壁』に守られ焦げ一つ無い身体を『空中浮遊』に乗って先ほど作った石の壁の上に移す。
数瞬ソクラを見失ったゴブリンたちだったが、すぐに石の壁の上にその姿を見つけ、仲間を失った怒りに任せて詰めかける。壁と木々を避け回り込んでいたゴブリンたちが石の壁をよじ登ろうとしている様子に注意しながら、ソクラは周囲を見やりゴブリンの数を確認する。
残りは、20匹くらいかな。
先ほどの爆発で少なくとも10体は葬ったはずだから、ゴブリンの集団の数としてもやや多い気がする。それでも20匹ならばと、視認したゴブリンそれぞれに意識を向けながら、魔法陣を発動し、石の壁に手をつける。
すると、ソクラの周囲から色が消えたように、辺りが暗くなる。すぐにその暗い空間がソクラに吸い込まれるようにして明るさを取り戻したが、同時、石の壁にできた影が蠢きだし、ゴブリンの足元を捉えだす。
走り寄っていたゴブリンはその足を影に取られ、ビタンと全身を打ち付けて転倒する。壁を登りかけていたゴブリンたちは勢いよく地面に落とされ、尻餅をついた。だが、それだけで闇の上級魔術『闇の門』は終わらない。
ふぅ、と溜息をつくソクラを他所に、ゴブリンたちは立ち上がろうとするが、影に取られた部位が影から抜けないことに気づき慌てだす。しかし、いくら力を込めても抜けないばかりか、影に付いた部位すらずぶずぶと嵌り込んでいくのではどうしようもない。
やがて、両手を影の縁に付いてこらえようとしていたゴブリンの左右の手が影に落ち込んでいくのを見届けて、ソクラはもう一度周囲を確認する。数体のゴブリンを見逃していたようだったが、それもこちらから背中を向けて逃げていくのを見て、ソクラは剣を拭ってから腰に差し、残った魔法陣を懐にしまった。
さて、と。魔法陣を描き直してから、出発、かな。
思いながら、ソクラは石の壁の上から、向かう先を見やった。すると、十分も歩かないで済みそうなところで、森が一直線に切れているのが見えた。
おそらく、街道だろう。
ソクラは、ようやくだぁと感慨にふけりながら、懐から新しい紙とペンを取り出そうと
ガシャーン
その時、街道のほうから、何かが壊れるような音が聞こえてきた。
ぴくんと顔を上げて、なんだろう、馬車か何かがこけたのかな、と思うソクラだったが、深く考えることなく、サラサラと魔法陣を描いていく。
しかし、
うらぁぁ
グガァァ
と、人と魔物の雄叫びと、金属を打ち合わせるような音を聞いて、さすがのソクラも紙とペンをしまって、
さっき逃したゴブリンと、人間が戦っているのかもしれない。しまったかなぁ。
などと暢気に罪悪感に囚われながら、それでも真剣な顔つきで、街道に向かって駈け出した。