旅立ち
ふん ふん ふふーん♪
拾った木の棒を指揮棒のように振り振り、鼻歌を口ずさみながら、朝日の降り注ぐ森の中、人里目指して歩く人影があった。
ソクラこと、ソクラテス・ステア。
鼻歌が趣味の15歳。
薄桃色の、柔らかいほっぺが自慢だ。
そんな彼、ソクラは、この世の頂点とも言える6人の魔術師の弟子として、その魔術を余すところなく学んだ、たったひとりの少年だった。
魔術。体内の魔力を魔素に変換し、その意のままに自然現象を操る、この世で最も基本的で、重要な技術。
この魔物の闊歩する世界において、その生命と衣食住を支えるその技術は、しかし、体内の魔力量によって威力と発動できる魔術の種類に大きな個人差がある。
魔力量の多い者はより高威力で高難度の魔術を行使することができ、結果、個人の仕事効率はほぼ魔力量の多寡によって決まってしまう。そのため、魔力の少ない人間にとってこの情勢は優しいものではなく、常に彼らは飢餓、或いはもっと直接的な生命の危険に晒されていた。
かくいうこの少年、ソクラにも、実は、魔力がない。
少なくとも、魔術師たちが検知できるだけの魔力はなかった。
魔力量の多寡が魔力の検知精度をも左右するため、この世で最大魔力を持つと考えられる魔術師に検知できないとなれば、それは凡そ無と言ってしまってよかった。
そのため、学び、或いは開発してきた魔術も、自分の魔力では到底行使できないものばかりである。
彼は、初級魔術すら行使することはできなかったのだ。
しかし、ソクラを拾い育てた闇の魔術師であるブラウは、そんなソクラに、魔法陣を教えた。
拾ってすぐ、まだ生後間もないソクラの魔力量を見て、魔法陣こそ、彼の生きる術、いや、方法だと考えたのだ。
魔術ではなく、魔法。魔法陣こそ、ソクラの生きる道だと教えたのだ。
そう、この世界には、魔素を行使する方法が、
魔術が使えなくとも魔素を操ることができる方法が、
存在する。
魔術のように体内の魔力ではなく、世界にあまねく存在する魔素を直接行使する方法。
魔法陣。
それは、過去の魔術士たちが試行錯誤の末に偶然生み出すことができたものであったり、或いは過去の魔術世界の遺跡から見つかったものであり、高度なそれは別として、日常で使われるような初級魔術の内で開発され、公開されている魔法陣ならば誰でも知っている。
識字率の低いこの世界においては、文字を解する者より多いほどだ。
一方で、それほど多くの魔法陣が開発、周知されているわけではなかった。
むしろ、洗濯や排水に使われる『水の渦』、乾燥に使われる『そよ風』など、生活に密着したものが幾つか知られている程度、といったほうが正確である。
同じ初級の水魔術であっても『水の渦』と『水の玉』で似通った点の全くない図形であることから、魔術とそれと対を成す魔法陣の関係は、属性を表す部位すら未だ謎であるとされており、多くの魔術士たちが研究に研究を重ねている。
その複雑さから開発は困難を極め、ひとつの魔法陣を発見できれば10年は遊んで暮らせるだけの報奨金が掛けられているほどだ。
それでも、ブラウはソクラに少しでも多くの魔法陣を教えるべく、その頭脳を魔法陣の開発に費やし、いくつかの新たな魔法陣をも教えることができた。
そのかいあってか、いやブラウの思った以上に、幼いソクラは、魔法陣が導く自然の支配力に興味を惹かれた。
やがて、魔力量の多寡がその生活の全てを左右することを知るようになり、更に魔法陣にのめり込んでいくようになる。
そして、10歳になろうかと言う頃、ソクラは、魔法陣が如何にして魔素に指令を与えているかに気づくことになる。
魔法陣のどの部位が、どの魔素にどのような指令を与えるか、その全てについて仮説を得たのだ。
それからの約6年は、彼のその仮説を検証するために費やされた。
すべての魔術師に師事し、その知る限りの魔術を魔法陣で再構築した。
それが終わったのが、昨日。
パーティを終えてぐっすり眠った後、ブラウたちからいくつかの餞別を受け取って、旅に出たのが今日この日のことだ。
今鼻歌を高らかに歌い上げ、思わず鼻水が垂れて大慌てのこの少年、ソクラこそ、真に魔法陣を扱う者、魔法使いとでも呼ぶべき者であり、この物語の主人公である。
これは、その彼が如何にしてその目的を達するのか、或いは達成せず鼻水垂らして鼻歌を歌い続けるのか、それは誰にも分からないが、ともかく、彼の物語である。
と、その彼、ソクラは柔らかな日差しを受け、
「うーん、いい気持ちだなぁ。あ、うぐいすが鳴いてるや」
などと旅の始まりを満喫していた。
元来、暢気なのである。
昨晩、約3年ぶりに集った6人の魔術師たちによる盛大な送別会から考えれば、どうにもおだやかな、あからさまに言えば退屈な道のりにも関わらず、全く飽きたような様子もない。
アースガルドの下へ来てからの日常だった、さわさわと靴を撫でる草の感覚、頬を撫でる優しい風すら、これが旅が始まって一日目のものと思えばこそ、新鮮に感じられるのだろう。
ソクラは森の中を一路、といっても道などないが、最寄りの村、ソコナ村へと向かっていた。
魔術師たち含め僅かばかりの人間としか面識がないばかりか、これから行くソコナ村へは、まだ一度もソクラは訪れたことがない。
にも関わらず、知り合いの数に対して驚くほど人見知りしないソクラは、
友達 何人 できるかなッ
などと、自前の節を付けて歌い出しており、
とりあえず街道に出れば、一人か二人は、行き交う人がいるだろうなぁ
と、未だ見ぬ出会いが楽しみで顔がにやつくのを止められなかった、いや、そもそも止めようとも思わなかった。
しかし、威勢のいいことを歌いあげていたソクラではあったが、その勢いも、旅立ってから3日までであった。
一週間掛けて山越え谷越えしても、一向に街道に辿り着かず、それどころかそこからただ単調に続く森をさらに一週間歩き続け、さすがに辟易し始めている。
もはや柔らかな日差しすら鬱陶しい。
好奇心の強い分飽きっぽいのである。
13歳のときに育ての親であるブラウに本をねだろうとしたのも、また、新たな弟子のところへ旅立つことを決めたのも、その好奇心だけでなく、ブラウの住処、その周辺に飽きたことが、また一因であったことは疑うべくもない。
「すぐ」って、どれくらいなのか、聞いておけばよかったな
と考えて、さらに
そもそもソコナ村って、所属はどの国になるのだろう
などと準備不足が明らかになって、自分の迂闊さを呪いたい気分になってきた。
そもそも、ソクラは、地理や歴史が苦手だった。
なのに――
と後悔するも先には立たず、時折魔法陣を展開して自分の進む方角が間違っていないか確認することしかできない。
今もまた初級土魔術羅針盤の魔法陣を展開して、方角を確かめている。
目的のソコナ村は、アースガルドの住処から南、街道に出て西、としか聞いていない。
あぁ、しまったなぁ、まったく、ねぇ…じゃなかった、おししょーさんの話を鵜呑みにするなんて…
ぼくは馬鹿だ…全く浅はかで愚か…あぁ、もう、穴があったら入りたい…。
短絡的に一気にそこまで考えてしまって、ぶんぶんと首を振って、また歩き出した。
鼻歌まで、さすがにやや低い曲調だが、復活している。
短絡的で、しかし立ち直りの早いソクラだった。
立ち直った彼は、今の羅針盤の陣について風の属性を加えて天候を動かすことはできないだろうかと、得意の魔法陣について考え、暇を有意義に使うことにした。
しかし、もちろん、このような思考はもはや両の手どころか両足合わせた指の数でも足りないほど繰り返しており、結局、如何な好きな魔法陣についても、
さすがに限度があるよなぁ
と、すぐに嫌気が指す。
さて、その一人寂しい思考に更けるソクラにもようやく、待ちに待った、恋い焦がれた、そろそろないと物語も何も語れずの、人との出会いがありそうだった。
もちろんそれが、彼の旅の道筋を大きく決めてしまうことになろうとは、この暢気な少年は知るよしもない。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
所少し変わってソコナ村からコッコラ街を繋ぐ街道。
人一人見当たらぬ街道のど真ん中を、ソコナ村に向かってひた走る一台の馬車があった。
二頭の白馬の引くキャビンは落ち着いた緑色を基調とし、細部に金色の装飾がなされた豪奢なもので、しかし嫌らしさを感じさせない、ただただ貴さでできた馬車だった。
まさしく、その中心に描かれた水と風を形にした紋章は、この国の王族専用馬車であることを示していた。
しかし、その御者は、ぱっと見ではそれなりの格好をしているようではあるが、よく見れば、王族の馬車に似つかわしくない、髭面の粗野そうな男であり、加えて、王族が一体田舎村へ何を急ぐのか、ひたすらに鞭を振るっている。
急ぐ御者、黄ばんだ乱杭歯を噛み締めたその顔には、しかし、焦りよりもむしろ喜びと興奮が満ちており、いっそ笑い出しそうな雰囲気すらあった。
およそ王族の用事とは思えない。
さもありなん、キャビンには今、髭の御者の仲間が二人、付き添いが一人に加え、白いドレスに包まれた少女が、手足を縛られ猿轡を噛まされた状態で乗っているのだ。
彼らはこの少女の拉致・無力化に成功したのだろう。
どうやらこの先のソコナ村でその身柄と引換に報奨金を手に入できるらしく、もはや表情に緊張は見られない。
笑いを我慢するので必死、といったほうがいいかもしれない。
実際、キャビンの中にいる同年代の片目の筋骨隆々といった仲間から
「く…くくくっ…く、はーはっはっはァ!やったぞ!やった!なぁオイ!」
などと声を掛けられれば、
「ああッ!やってやったぜ!あとは村で金と交換するだけだ!」
がははははは!
我慢の限界である。
と、キャビンから別の声。
「ひひひ。っても、なんか勿体ねぇ気もするけどなぁ、見ろよ」
こいつ、とんでもねぇぜ。
と声を上げたのは仲間内三人で最も若い男だ。さらりとした金髪で、遠くからならば爽やかな好青年とも見えるかもしれない。
しかしながら彼の眼はどんよりと曇っており、視線すら定まっていない。これでは近づく女性も端からヒール抱えて逃げ出すだろう。
「確かにな!このしれぇぷりぷり肌!むしゃぶりつきてぇ」
「はっ!それもツラがあってこそだろぅが、おらぁ、ハッ!こいつほど整ったツラぁ、見たことねぇぜ!」
片目が返せば御者席から髭も乗っかってくる。
しかし、その言葉のあと、
「「「ま、それもこの魔力の強さがなけりゃぁな…」」」
ぐぅっと調子を下げて異口同音。と、その揃った声が面白かったのか、また
く…はーはっはっはーァッ!
がははははは!
ひひ、ひひひ…
と笑い声を上げる。
「ま、売っちまうにかぎらぁな!見張りさんもいることだ!」
「ふふ、いや失礼。そうして貰いたいものですね」
三人の意見をまとめた一言を髭の御者がいえば、これまで黙っていた、この仕事の付き添い人である紳士然とした男が、激しい揺れに乱れたタイを整えながら、この馬車最後の乗客である、魔術で昏倒させている少女の首に付けられた、金の首輪を見て短く言う。
紳士然とした格好はしているが、少女を見やる血走った眼は完全に商品に対するものであり、やはりこの馬車に相応しい人間ではないようだ。
話が一段落して、髭の御者が前に注意を向け直し、更に鞭を入れようとしたところで、遠くに黒い塊がいくつか見えた。
人よりは小さく、どうやら犬ほどのサイズのようだ。
それが幾つか見える。
「ちっ、あと少しだってのによぉ…オイ!面倒だがもうひと狩りだ!」
髭の御者は、そうキャビンに声を掛けた。