聖女がただ、帰るだけの話
「……成功したか」
そのときのことを説明すると、穴に落ちた、という以外に説明しようがない。自分の部屋の中でぼんやりと座り込んでいたときに、ぽかっと穴があいた。こっちに来い来い、とばかりに落ちていったはずなのに、やっぱりこっち!とばかりに別の方向に引っ張られて、暗い中をあっちに行ったりこっちに行ったり。
ぐるん、ぐるんと目が回るし、怖いし、もう泣いてしまいそうになったとき、どすん、とどこかに落ちた。「いったぁ……」と、痛みに顔をしかめて呻いてしまった後に聞こえた、『成功したか』というその言葉に、はてと顔を上げた。あれ、ここって私の部屋だったよね? テレビなんてついてたっけ。でもその割には、しっかりと男性の声が聞こえた。
「ひっ!」
「……君が、聖女なのか?」
見知らぬ男性が、尻もちをついた私の上に覆いかぶさるように近づく。男前だ。テレビでも、人生レベルでも見たことがないような男前。なのに、この世の不機嫌の全てを詰め合わせたように、彼の眉間には深い皺が刻まれている。私、何かしたっけ。いや、むしろ私が何かをされているのでは?
一体、ここはどこなんだろう。
男前なのに不機嫌そうなその人は、輝くような長い銀の髪の持ち主だった。空の色みたいな真っ青な瞳が、しっかりと私を見つめている。
彼は不機嫌なその顔を、さらに私に、じわりじわりと近づけて――。
「あ、あの、あなたは、誰……ひいっ!」
本日二度目の悲鳴を上げてしまった。ぐわし、と彼は私の両手首を握ったのだ。本能的な恐怖が駆け抜け、さらに大声を出そうとしたそのとき、彼の瞳に浮かんでいた感情の色が、初めに見たときと比べて変化していることに気がついた。不機嫌だったその顔色が、なぜだかとろんと微睡んでいるときのような、うっとりとしているような?
「……美しい」
「は」
まるで、何かに傾倒しているときのような、というか……。
「美しいあなた様とまたお会いすることができ、私は恐悦至極のまるで天にも昇る気持ちです。全ての神に感謝し、生きとし生ける者に喜びの感情を伝えねばと今確信いたしました。今すぐ私は神殿に向かい、全財産をなげうってでもあなたの幸せを祈り」
「なになになに、怖い怖い怖い近い! 聞いたことがないフレーズのオンパレードすぎる! 神殿って何!?」
男前の彼は、私と出会えたことに感謝の言葉をささやきながら、なぜか抱きしめんとばかりに近づいてくる。しっかり片腕を掴まれていて、暴れようにも、細いように見えて力が強く、振りほどくことができない。確実に、目か頭がおかしくなっているとしか思えない言動だった。大丈夫か。いや大丈夫じゃない。
とうとう、もうだめだ――というくらいに近づいてしまったとき、視界の端で何かが蠢いた。剛速球の『何か』が、銀髪の男性の頭にぎゅるんとぶつかり、男性の頭が面白いくらいに震えた。ばちこーん!という効果音が聞こえた気がした。
頭に謎の『何か』が当たった男性は、そのまま、ばたりと倒れてしまった。……生きてますか?
カーペットの上に倒れてそのまま動かなくなってしまった男性……に、ぶつかった丸い何かが、のそりと起き上がる。そして、「おい、ニルス。正気に戻ったかよ」と話しかける。丸い四本脚の何かは、可愛らしい声を発した。四本脚。そう、短い四本の足。もしくは脚……?
口を開いた物体は、タヌキだった。ふわふわ、もふもふの紛うことなきタヌキだった。
「えっ、たぬ……しゃべ? いや、たぬき……?」
「おう、嬢ちゃん。災難だったな。とっさのことでフォローが遅れちまってすまねぇ。ニルス。起きろ。嬢ちゃんが混乱している。頭の中ははっきりしたか?」
「……なんとかな。助かった」
銀髪長髪のイケメンは、頭を押さえながらカーペットから起き上がった。銀髪長髪のイケメン――いやニルスという青年の、先程までのおかしな様子はすっかり消えて、不機嫌そうな仏頂面に変わっている。本当にさっきと同じ人なのかと困惑しそうになるほどだ。
じろり、と目の端で睨まれたので、私は小さく肩を跳ねるように驚いてしまった。
「ニルス、やめろ。お嬢ちゃんは何も悪くねぇ。むしろこっちが巻き込んだ側だろ?」
「わかっている。……睨んだわけじゃない」
「なら、もう少し愛想を持て」
タヌキに怒られるきらきらしたイケメン。それってどんな状況なのだろう。いや、そもそもの状況がわからない。いったい、ここがどこで、何が起きているのか。
「ああ、嬢ちゃん。悪いな」
先に、私の視線に気づいたのはタヌキだった。同時にニルスという人もこちらを見て、すぐに顔をそらす。タヌキに可愛く謝られて、どうしろというのだろう。
「混乱しているよな。最初に言う。お嬢ちゃんは巻き込まれただけだ。すべてはこの国の責任だ。国を代表して、いや、その国自体も腐っているわけだが、謝罪させてほしい。そしてどうか、驚かずに聞いてくれるだろうか――?」
***
タヌキが言うには、ここは私の世界ではないらしい。
タヌキが説明している間、銀髪の青年ニルスは、ずっとむっつりとした顔で椅子に座っており、私も用意された椅子に座って、とにかく最後まで話を聞こうと、じっくり腰を据えることにした。そうする以外に、今は何をすればいいのかわからなかった、ということもある。
私は『聖女』として、異世界から召喚された。
『聖女』とは、異世界の扉を通り抜ける際に『聖女の力』を得た人間なのだとか。『聖女の力』は『瘴気』を抑えこむことができ、この世界ではとても貴重なものだった。
そして世界にはときおり、『時空の綻び』というものが生まれる。適正がある人だけが、綻びを通り抜けて、異世界に行くことができる。その綻びがある場所が、ちょうど私の部屋だった。
私は高校を卒業したことを理由に引っ越したばかりなのだけれど、まさかこんなことになろうとは。紹介してくれた不動産屋を恨むしかない。いいや、不動産屋がそんなことを知るわけないので、怒るべきところはそこではない。
もし、私の部屋の住人が異世界に旅立ち、そのため行方不明者だらけになっていたら大変なことだが、適正がある人間はそれほど多くはないらしく、さらに綻びは一度使うと片方側の扉は閉じてしまうとか。
つまり地球側の扉が使われると地球側には鍵がかかり、今度は異世界側の扉しか通れなくなる。ならば行き来自由、というわけではなく、綻びを使用できるのは一人につき一度限り。じゃあ異世界側にいる私が今すぐにもとの場所に戻れるのか、と言われるとこれも違う。行き来できるタイミングは、月の満ち欠けで決まるので、今すぐに帰れるわけではない。
「あの、聖女とか、瘴気とか、ごめんなさい、私、あんまりそういうファンタジー? 的なものに触ったことがなくて。状況が……あまりよく……」
「あー……。そっちの世界は、俺達と常識が違うもんな。嬢ちゃんが混乱するのは無理がない。なあ?」
「……そもそも無理に理解する必要はない。君には関係がない話だ」
タヌキは椅子の上に立ったまま腕を組んでいるが、隣に座っているニルスはそっぽを向いて冷たく言い放った。
いや関係あるでしょ。こうして巻き込まれているだから、というところは言わないでおく。人付き合いのコツとは、思わず喉から出そうになる言葉を、どれだけ呑み込めるかにある、と私は知っている。
ちなみにここまでずっと説明してくれているのはタヌキである。彼を自分のことを、タヌーと名乗った。タヌキだから……? それはほんとに名前なのだろうか。適当に言ってない?
私は、ちょっとの間考えた後で、よし、と心の中で頷いた。困惑があるのなら、呑み込むべし。できることなら、笑顔つきで。多少、顔が引きつっているのは御愛嬌と思ってほしい。
「とまあ、ここまではなぜお嬢ちゃんがこの世界に来たのか、という説明なんだが、根本的には少し足りない。あ、すまない。お嬢ちゃんの名前を聞き忘れてたな。教えてもらっても?」
タヌーが私に尋ねた瞬間、なぜか銀髪のイケメンが、ちらりとこっちを見たので緊張した。
「えっと、日下……なずなです」
「ナズナね。日本人は下の名前がファーストネームってやつだったな。オッケーオッケー。ついでにいうと、こいつはニルスだ」
「……」
「おい返事くらいしろ」
イケメンが妙に日本に詳しいタヌキに叱られていた。ぽこんっと尻尾で叩かれて微妙に揺れている。それにしても無愛想なイケメンである。無愛想、というか、行動が読めないというか。
「そして、ここからが本題」
ニルスという人を見ていたタヌキ、いやタヌーだったが、びしっと短い指を立てて、こちらにアピールする。
「世界の綻びから、異世界人が落ちてくることを、俺達は『世界を渡る』と言う。だが、今回の場合は、違う。ナズナは、世界を渡ったわけじゃない。この国のトップが、『聖女召喚』を行い、ナズナを呼び寄せたんだ」
「私を呼び寄せた……? ん? 待って、この国のトップって、つまり」
「そう。我が国の国王だ。聖女召喚とは、その名の通り異世界から、無理やり聖女を呼び寄せる召喚術のこと。俺たちは聖女が召喚される場所を王城から、このニルスの屋敷にするように、国王の座に描かれた魔方陣を捻じ曲げた」
じゃあ本来なら、私はこの部屋ではなくてお城に召喚されていた……ということなのだろうか? どうしてそんなことを? という疑問が顔に出ていたのだろう。
「召喚術とは、召喚された者に無条件に好意を持つようにする術式だ。つまり、ナズナ、お前に国王に対して偽りの気持ちを植え付け、国王は無理やりお前を使役しようとした。そんな非人道的なことは、許されるわけがない」
……あまりの衝撃に、声が出なかった。
タヌーは言葉を選んで慎重に私に伝えたが、つまりは国王に対する好意を無理やり植え付けられ、日本に帰る気持ちを失わせるということ。そして聖女として働かされ続けようとしていた、と教えてくれた。
あまりにもひどすぎる。
でも、今の私は自分の感情を操られているわけではないようだ。自分は自分のままだし、心に違和感があるわけではない。操られていたら、そんなことすらわからないのかもしれないけれど。
彼らの言葉を嘘か本当か疑う気持ちは、少しずつ薄れていた。なんせ、タヌキが動いて喋っている。すくなくとも、私が知っている現実ではない。
勝手に喚び出されて、勝手に利用される。そんなの絶対に嫌だ。だから私は、この人たちに、感謝した方がいいのだろう。
ここまでの怒涛のような説明を、自分の中でなんとか呑み込む。ふと顔を上げると、タヌーの隣でじっと座っていたニルスさんの瞳が、不思議な憂いを帯び始めていることに気がついた。ニルスさんの眉間に入っていた皺はいつの間にかなくなり、うっとりとこちらを見つめている。……なんだかおかしな感じだ。「……あの」 正直、ものすごく不安になって、タヌーに視線を移動させる。うむ、とタヌーは頷いた。
「俺達は国王の召喚を邪魔した。そのとき召喚術がさらに妙な感じで捻れちまった。本来ならナズナが国王に好意を抱くはずが、こいつ……ニルスがナズナに好意を持つようになっちまったってわけだ」
「美しい……本当に、君は美しい……」
「そ、そんなことある!? ひ、ひいいいい、近い近い近い」
「君の声、一生聞いていたいくらいに愛し……ぐ、いとし、く、く、俺を、いっそ殺せ……!」
「葛藤している! 眉間の皺がすごい! 気の毒がすぎる!」
「すまんな、ナズナ。元の世界に戻るまでだ。ふいにスイッチが入るとこんなことになっちまうが、どうか耐えてくれ」
「どうか、殺してく、れぇ……」
「いや耐えるというのなら、私ではなく、むしろニルスさんの方なのでは……!?」
***
こうしていろんなわたわたがあった後、私はしばらくの間、この屋敷に滞在することになった。もとの世界に帰るまでの間、他に行き場所がないので、仕方ないともいえる。月の満ち欠けがもとの世界に行けるように時間を指し示すまで、なんとあと三か月もあるという。
私はニルスさんに『使っていい』と言われた部屋の窓をあけた。この屋敷は、ニルスさんの持ち家だそうだ。
窓の外は真っ青で、高い空がどこまでも広がっていて、どこからか白い鳩が飛び立っていく。街は今まで見たこともないような外国の風景のようで、立派な部屋はどこかのお城の中のよう。
「……とんでもないことになっちゃったな」
ぽつりと呟いた私の言葉が、広く静かな部屋の中でしん、と吸い込まれていく。
唐突に部屋の扉が叩かれたので、びっくりして振り返る。「はい!」と力いっぱい返事をすると、入ってきたのはメイドさんだった。え、メイドさん?
彼女は綺麗に染まった紫色の髪を揺らして、私を見て、にこっと微笑んだ。ああ違う、染めているんじゃない。本当にその髪の色なんだ。まさに異世界、という言葉を思い浮かぶ。
「ナズナ様、お疲れではありませんか? 湯浴みの準備を行いましたので、よければぜひ」
湯浴み。お風呂のことだろう。「え、あの、えっと」ともごもご返事をしてしまった。背中も流してくれるとも彼女は言ったけれど、そんなの恥ずかしすぎるので辞退した。
お湯が溜められたバスタブの中に沈んで、綺麗に磨き上げられたタイルを見つめる。ちょうどいい温度で、石鹸からは、いい匂いがする。
「……こんなの、久しぶりだな」
家にいるときは、いつも家事やバイトで追われていたから、こんなふうにゆっくり過ごす時間なんてなかった。いや、家といっても自分の家ではなく、叔母とその家族の家だ。自分の居場所なんてものはなかった。寝に帰って、ときどきお金をむしり取られて――。
だからお金を貯めて、やっと逃げ出せたと思ったのに、次に来たのは異世界だったなんて。考えてみると、少しだけ笑ってしまう。
「タヌー……は、タヌキなのかなんなのかよくわからないけれど、ニルスさんは、魔法師団長、だったっけ」
ニルスさんは国の中でそこそこの立場に就いているらしく、そのため国王が行う聖女召喚に、事前に細工を行うことができた。メイドさんも、優しかった。私は人の優しさに弱い。すぐにころっと騙される。お湯の中に顔の半分を沈み込ませて考える。
こんな場所に連れてきて、と怒る気持ちはあるけれど、タヌーやニルスさんは、理不尽な行いを阻止しようとしてくれた。それはきっと、感謝すべきことだ。
「……よしっ」
湯船の中で拳を握って振り上げる。この屋敷にいる間に、せめて自分に何かできることを探そう。
そう思って、湯船から上がって部屋にいくと、テーブルに上に温かなホットケーキが置かれていた。今、作りたてというばかりにふわふわで、二段に重なっていて、なんとバターもちょっとついている。
「うわあ。お昼ご飯はさっき食べたから、おやつ、ということかな……? ホットケーキなんて、いつぶりだろう……」
自然と口元が優しく笑顔を作っている。誰かが作ってくれたホットケーキ。それだけで嬉しくて、大丈夫だよ、がんばれ、と言ってくれているみたいだ。
「……よし、がんばろう」
私の小さな決意の言葉と一緒に、よく磨かれた銀のフォークとナイフが、きらりと光ったような。そんな、気がした。
***
自分にできることを探そう、と決意したものの、たかだ十代の小娘にできることなど、そう多くもなく。ニルスさんは「何もしなくてもいい」と眉間に皺を寄せて話した。
ホットケーキを食べた翌朝、さっそく私はニルスさんの執務室に行ったのだが、にべもない態度である。
「メイドさんに、よくしていただきました。おやつもすごく美味しかったです。何もしないのは、さすがに私が気にします。なんでもいいので、お手伝いさせてほしいです」
「あんなケーキが二枚ある程度の貧相なもので、うまいとはな」
ニルスさんの言葉だけ聞くと、トゲトゲしているように感じるが、もともとそういう人なのだろう。彼の表情に悪意は見えない。しかし唐突に彼は私の手を掴み、「君の白魚のような手が傷つくのは俺自身が許せない」と哀を含んだ表情で、言葉を絞り出す。
「…………」
「…………」
すぐにスンッと素に戻ったらしく、険しい顔で私の手を握っている自分の手を睨んでいた。
「あの、なんだか、その、すみません……」
「君が謝るな。さらに情けなくなる」
苦虫を噛み潰したような顔とは、まさにこのことだろう。
ニルスさんにはなるべく近寄らないようにしよう、と私は誓った。
最終的に、メイドさんや使用人がするような仕事をさせてくれる、ということに落ち着いた。
叔母の家にいたときも同じようなことをしていたから、その方が慣れている。らくちん、らくちん、と思っていたはずが、やはり異世界との勝手は全然違う。まず、機械が存在しない。全部手作業。ときどき魔法。異世界に来たのだからと都合よく魔法が使えるようになるわけはなく、私はひいこらするしかない。もちろん失敗もたくさんする。こんなはずじゃなかったのに、と悲しくって屋敷の隅に隠れて泣いてしまうときもある。
そんなとき、「大丈夫よ」とメイドさんたちは声をかけてくれる。タヌーはお腹をぽこぽんっと叩いて、「ナズナは真面目だな。俺なら毎日ごろごろして過ごすけどなー」と笑っていた。ちなみに、タヌーはニルスさんの屋敷の客人扱いらしい。人ではないので客タヌキといえばいいのだろうか?
ときどき、部屋には夜食にホットケーキが届けられる。夜食だからか、基本は手のひらサイズ。夜に胃もたれしないように、という思いやりなのかもしれない。私が失敗してしまった日には、必ず。それ以外はときどき。夜に一人で食べるホットケーキは、ちょっと罪の味がする。でも、美味しい。
それから少したって、私はニルスさんのお使いで、ニルスさんと一緒に外に出ることになった。いつも一緒に行くメイドさんが、腰を悪くしてしまったようで、その代理である。外でメロメロモード(と、勝手に私が命名した)になってしまったら大変なのでは……? と心配してしまったが、『気を引き締めていれば問題ない』とのこと。じゃあ常に気を引き締めていれば、と思ったけれど、それはそれで気苦労があるだろう。やっぱり、これからもニルスさんには必要以上に近づかないようにしよう。
お使いといっても、街の観察のようなものらしい。ニルスさんは、今いる領地の領主さんで、街の様子を直接見ているのだとか。ちょうどその日はお祭りの日で、私は、わあ!と大きな声を出さないように必死だった。舞い散る花吹雪、美味しそうな食べ物。楽しそうな人たち。もしかして、遊園地という場所はこんな場所なんじゃないかな、と考えた。私は行ったことがないから、想像しかできないけど。
「もしやここは遊園地ですか」と尋ねると、「君は何を言っているんだ」と呆れたような声を出された。考えてみたら、異世界に遊園地なんてあるわけないので、ニルスさんが不審そうな顔をするのは無理もない。
「すみません、遊園地、というものがこっちの世界にはあって。これが噂に聞く遊園地なのかと、思わず興奮してしまい」
言い訳めいたことを言うと、ニルスさんは訝しげな顔をした。
「……行ったことがないのか?」
「え? まあそうですね」
その日の夜に届いたホットケーキは、なんとクマさんの形だった。ちょうど、街のお祭りでクマさんのパンを見た後だったから、わあ、と私は嬉しくなった。
ホットケーキは、私がいないときにいつもこっそり届けられる。誰が作ってくれているのかわからないから、ありがとう、と空に浮かぶお月さまにお礼を言った。
***
「ねえ、この世界に来て、もう一ヶ月だけど、向こうの家は大丈夫なのかな?」
「え、今更すぎねぇか?」
タヌーは、ぽこぽこん、とお腹を叩いた。
庭の雑草をえいやえいやと抜いていたときに、ふと疑問が浮かんだのだ。タヌーは自分のお腹を叩いた後、私の頭の上に乗って、ゆらゆらと揺れて遊んでいる。
すでに、この世界に来てひと月たっていた。そうなると、次に心配なのは家賃である。向こうの世界に帰ったときに家賃滞納で追い出されていた、なんてことになれば洒落にならない。
「いやまあ、説明してないこっちが悪いか。大丈夫。異世界の人間がこっちに来ている間、向こうの時間はそんなにたたない。ひと月がせいぜい一時間とか、そんなもん。三ヶ月こっちにしても、時間はたったの三時間」
「こっちの世界の方が、進むのが早いってこと?」
「いいや。扉があいてる方が早くなる。つまりはかわりばんこだ。あっちの世界に、この世界の誰かが行けばあちらの世界の方が早くなる。逆もまたしかり。時間の方向が変わるんだよ」
「時間の方向……」
水は高い方から、低い方に落ちるというけれど、そんな感じでシーソーみたいな関係なのだろうか。なんだか法則性が曖昧だ。でも、異世界に法則性を求めることがそもそも間違っているのかもしれない。
「でも、時間がくっついているのは、扉があいている間だけ。あとはくっついたり、離れたり。まあいろいろってやつだ」
「すごく異世界って感じだね」
「そりゃあそう。二つの世界がくっついてる方がおかしいんだからな」
「なるほどたしかに」
屋敷のお手伝いをして、毎日誰かと話をして。そんなふうに、一日いちにちが過ぎていく。ときどき、私は美味しいホットケーキを食べる。ニルスさんには、相変わらず近づかない。その方がお互いにとって平和だからだ。
「ナズナも、ずいぶんこの屋敷に馴染んだわね」と、言ってくれたのは、最初にお風呂の案内をしてくれた優しいメイドさん。いつの間にか私は、すっかり彼女にとって同僚のような立ち位置になってしまった。彼女は、うふふ、と恥ずかしそうに笑って、「ごめんなさい。私、最初は旦那様がご婚約者様を連れてこられたと思ってしまったの。旦那様にも、春がやってきたのかしらと思って」と口元を押さえた。それはニルスさんに申し訳ない勘違いだが、いきなりやってきた見知らぬ女に部屋を使わせるとなれば、そりゃあ不思議に思うだろう。「変な勘違いをして、ごめんなさいね」と赤い顔で繰り返す彼女に、「わかる、変だったよね」と頷くしかない。
彼女はちょっとほっとした顔をして、続けた。
「でもナズナも、きっと私たちと同じなのね。この屋敷に仕えている者たちは、みんなニルス様に御恩があるの。どこにも行けないような事情がそれぞれにあって、ニルス様は私たちに場所をお与えくださっているの」
私は目を見開いた。この屋敷に仕えている者たち。それは、この優しいメイドも、使用人も、温かな笑顔の庭師のおじいさんも。たくさんの人の顔が浮かんでいく。
私は正直にいうと、信じられない思いだった。
だって、みんな優しいから。
辛いことがあったのなら、普通、人は辛く当たるものなのではないだろうか? 少なくとも、私が知っている人はそうだった。
「……ホットケーキを、焼いてくれる人も?」
だから不思議に思って呟くと、「ホットケーキ?」とメイドさんは首を傾げた。
その夜、私は窓の外を見つめた。
ふわふわのホットケーキみたいなお月様が、空の上に浮かんでいる。ふわ、ふわと、湯気がたって、とろんと溢れたバターは、お星さま。少しだけ、息を吸って。
ぱたん、と窓を閉めた。
***
「そこで、何をしているんですか?」
夜の厨房で問いかけると、その人は驚くほどに動揺していた。ガタガタ、がたん、と大きな音を立ててボウルを落とす。中に入っていた卵が、わずかに床にこぼれる。
長い銀の髪をひとまとめにしたニルスさんは、驚愕の面持ちで私を見ていた。やっぱりそうだったんだ、と私はあまり驚かなかった。
「ホットケーキを作って、届けてくれていたのはニルスさんだったんですね」
「何を意味がわからないことを。誰かが厨房の片付けを失念していたんだろう」
あくまでも、誰かの忘れ物、という言い方をしているニルスさんの眼光は鋭い。その表情を見ていると、やっぱり気の所為じゃないかな? と不安になってくる。
でも、そんなわけがない。
「ホットケーキというのは、この世界にないんですね。アウラは知りませんでした。最初の日に私がホットケーキを食べたことを、ニルスさんは知っていたのに」
アウラというのは、メイド仲間のことである。
ニルスさんはさらに眉間の皺を深めた。
「……たまたま、目にしただけだ。知っていただけで、俺が作った理由にはならない」
「茶色くて、平べったく丸い形。普通なら、ケーキとは言いません。パンと言いませんか?」
そこまで言い切ると、ニルスさんは口を閉ざした。旗色が悪いと思ったのだろう。厨房にはランプが一つあるだけで薄暗い。けれど。
そんな中でも、ニルスさんの顔がびっくりするほど赤くなっていることに気がついた。
なんてことだ。
「すみません! ただ、お礼を言いたかっただけなんです」
なのに私ときたら。追い詰めたって、仕方がないだろう。「いや、いい」とニルスさんは私に背中を向けた。大変なことを言ってしまったような気持ちだった。どうしよう、とお腹の前で両手を組んで、ぴくりとも動けなくなる。ニルスさんは、まるでこちらを拒否するように背中を向け続けて、ボウルを拾う。逃げ出したかった。嫌な汗が、背中を伝った。
喉の奥に、声が詰まった。
顔を下に向ける。
でも、それでも。
「本当に、美味しかったです、ありがとうございます……」
言えたことは、それだけだ。消え入りそうな声で伝えた。ニルスさんは無言だった。
自分の自己満足で、こんなところに来てしまった。今すぐ逃げ出したい気持ちを抑えて、私はただ、じっと下を向いて立っていた。なのに、ふわんと柔らかで、鼻孔をくすぐるような、幸せな匂いが漂う。
え、と顔を上げると、ニルスさんはフライパンの前にいた。ホットケーキを焼いている。
声もなく、何度も瞬きをした。
「少し待て。もう少しで焼ける……なんだ。どうした?」
驚き、固まったままの私に、ニルスさんは振り返って不思議そうな顔をした。
私はほんの少しだけ、笑った。もしかすると、泣きそうな顔に見えたかもしれないけれど、薄暗かったから、見えなかったらいいな、と願った。
***
焼きたてのホットケーキは、美味しかった。お皿は二枚。私とニルスさんは、小さなテーブルに向き合って座った。
「ホットケーキは、昔食べた。それがとても旨かったから、ときどき作りたくなる」
ニルスさんは、そう語った。
昔食べたホットケーキが美味しかったけれど、レシピがわからなかったから自分で再現したのだと。まさか彼にこんな可愛らしい趣味があったのかと驚くばかりだが、人の趣味はそれぞれである。むしろ、私にはなんの趣味もないから、少しだけ羨ましいくらい。
「……旨いものを食べれば、少しは元気になる」
「それで、私に届けてくれたんですか?」
「……」
返事はない。けれどそれが返事みたいなものだ。ちょっとだけ笑って、「ありがとうございます」と伝えた。「美しい君のその言葉の方が嬉しいよ」とすぐに輝かしい表情で言われたので、少し待ってから、「大丈夫ですか?」と尋ねると、「死にたい」と彼は死んだ目で呟いていた。本当に申し訳ない。
「……ニルスさんは、優しい人なんですねえ」
ふふ、と吹き出すように笑った後で、失礼だったな、と思って口を閉ざす。
ニルスさんは、目を見開いて、ぎゅっと唇を噛むような顔をしていた。はて、と私は瞬いた。
それから夜のホットケーキは、ニルスさんと二人の、秘密のお茶会に変わっていた。
「今日は、チーズを練り込んでみた」と新作のホットケーキが出されることもあるし、「どれだけ高く詰めるか、一度試してみたい。食べる人間のことまで考えると難しいが」とニルスさんの夢を聞くこともあった。私は紅茶の淹れ方を同僚に教えてもらって、ホットケーキのお供として紅茶を出した。
「ホットケーキを昔食べたというのは、いつ頃のことなんですか?」
「……十八年前だ。無性に食べたくなったのは、十年ほど前からだな。一人で試作を重ねた」
「十年ほど前……あの、ニルスさんって、おいくつなんですか? 私は十八歳です」
「二十三歳だ」
「い、意外とお若い!」
「意外と?」
「困っていることはないか。もしあるのなら、力になろう。君が元の世界に帰るまで補佐をすべきだと思っている」
「いいえ、特には。みなさんによくしていただいています。……あのう、それより、ニルスさんは魔法師団長なんですよね? こんなにお屋敷にいていいんですか?」
「問題ない。溜まっていた休暇を使っている。誰が聖女として召喚されるかわからなかったが、万全の体制を整える必要があったからな。俺がいないところで問題ないよう、抜かりなく準備は終えている」
「……もしや、なのですが。以前お使いとして外出したのは、私の気晴らしのため、なんて……」
「…………」
「あっ。すみません。これも気づかないふりをすべきでした」
「うわっ! 美味しいです! 今日のホットケーキ、いつも以上に美味しいです!」
「……そうか? ふん。君の紅茶の腕も上がったな。これなら執務中に……」
「これなら、執務中に?」
「なんでもない。それより、君、タヌーをよく膝に入れているだろう」
「え、はい。それが何か……?」
「あいつは、姿が変わったとはいえ、もとは人間の男だ。そのようなことはやめておくように」
「はい……え、はい!?」
外は、雪が降っていた。蛍のようにときおり輝く、不思議な雪。それは空の魔力をはらんだ、温かな雪だという。蛍のような雪が落ちる庭で、特別に外のお茶会をすることにした。じっと、空を見上げた。
それは暗い夜空に、星の光が落ちてくるようで。
「わあっ」と、声を上げた。あとで子供っぽかったことに気がついて、すぐに口を閉ざした。でも、ニルスさんも穏やかな顔で夜の空を見上げていたから、まあいいか、と思うことにした。
「……ニルスさんの髪、雪の色みたいで、綺麗ですね」
空を見上げていたニルスさんは、ゆっくりと私を見た。その瞳の色は、一瞬だけどこか遠くを見ているようで、曖昧な笑みだった。あ、しまった、と思った。
私は、尋ねてはいけない言葉には、よく気づく。この言葉はいけない、というラインを、昔からちょんと触れてしまっただけでわかってしまう。
すみません、と伝える前に、彼はやはり穏やかな顔のままで、「この髪の色は」と、そっと自身の髪をなでる。「昔は、違う色をしていた」
聞いてもいい、ことなのかな。
「俺も、幼い頃、君の国に落ちたことがある。まだ五歳の頃だった」
五歳の頃。それは、ニルスさんが、初めてホットケーキを食べたときと同じ。
「……世界を渡るのは、こちらの世界の人間も同じだ。ふとしたときに、渡ってしまう者もいる。君の国の人間が、綻びを通り抜けるとき、聖女としての内面の力を得るように、この国の人間が綻びを通り抜けるとき、外見が変化する。俺はこの通り、髪の色が変わってしまった」
銀色の、美しい髪の色。雪のような、どこか消えてしまいそうな儚げな色。
「君の国には、神隠しという言葉があると聞いた。この国にも、チェンジリングという伝承がある。妖精が自分の子と妖精の子を取り替えてしまうんだ。俺は異世界から、今いる世界に戻ってきた日、チェンジリングを疑われた。いくら違うと、俺は何も変わらないと説明しても、両親は異質なものを見る目で俺を見た」
両親。
その言葉は、ここに来て始めて聞いた。まだ二十三歳と若い歳だというのに、領主として領地を治めている。異世界だから、それが当たり前のことだと思いこんでいたけれど、実際には多くの苦労があったのだろう。
「まあ、俺はまだマシな方だ。タヌーなんて、姿自体が変わってしまったそうだからな。本人は、あれはあれで満足しているみたいだが」
重苦しい空気を飛ばすように、からりとニルスさんは笑う。朗らかな、優しい顔で。そして、強い瞳で、私をじっと見つめた。
「……誓ったんだ。扉を越えたことで、誰も理不尽なことが起こらないような、そんな世界を作るのだと。誰も、辛い思いをしてほしくない。すべてを守れるだけの、立場を得たいと、努力して、」
――そして、彼は、私を助けた。
すっきりと、すべてがきちんと収まったような感覚。
私だけが、私だからニルスさんや、みんなに助けてもらったわけじゃない。それはわかっていたことだ。わかっていたはずなのに。そっか、と心の中の誰かが呟く。
そっか、理由があったんだ。
なら、ちゃんと、恩返ししなきゃね。
こんなにお世話になって、ただで帰れるわけがない。使用人みたいなことをして、屋敷の掃除をするなんて、こんなこと誰でもできる。私にしかできない、何かをしたい。それってなんだろう。うんうんと唸って、考えて、はっと気がついた。私は『聖女』じゃないかと。
この世界には瘴気が溢れている。そもそも、それを消すために私は呼ばれたのだ。
聖女の力をどうやって呼び覚ますのか、まったくもってわからない。もはや自己流だ。えいえい、えいえい、と毎日祈った。私に聖女の力が目覚めますように。みんなの役に立てますようにと。でも実際には、ピンチが一番の力になると、相場が決まっている。
「痛い!」と悲鳴を上げたのは、庭師のおじいさん。たくさんお世話になった人でもあった。
バラのトゲを指にさしてしまったようだが、指から流れるのは血ではなくて、黒いモヤ。黒いモヤは瘴気というものらしく、傷の治りを遅くする要因なのだとか。「大丈夫だよ。ちょっと痛い時間が長くなるだけさ。心配するから、みんなには秘密にしておくれよ」とおじいさんは笑ったけれど、私は気が気でなかった。おじいさんの指に包帯を巻きながら、治れと祈った。治れ、治れ、治れ……!
何度目かの祈りを頭の中で強く意識したとき、ぱあっと不思議な光がおじいさんの指を包んだ。黒いモヤは消えていて、おじいさんの指は、いつの間にか治っていた。「えっ……」と驚いたのは私だけではない。「聖女、様……?」おじいさんは何度も瞬いて私を見ている。その場にいたのは、おじいさんだけではない。たくさんのメイドも、タヌーも、ニルスさんもいた。ちょっとしたガーデンパーティーの準備中だった。
一瞬のざわめきが庭を走った。どうしよう。どうしたらいいんだろう。大変だ。大変なことだよね? ニルスさん、どうしたら――。
ニルスさんは、急いでおじいさんのもとに駆けて、状況を尋ねる。そしておじいさんの傷を確認して、「治っている」と呟いた。
わずかに、私の口元が、動く。
ニルスさんは、私に顔を向けた。そして。
「……感謝する」と、笑った。
考えてみたら、この屋敷に勤めている人は、ニルスさんに恩がある人ばかりで、みんなたいそう口が堅い。外に言いふらすなんてことはなく、「まさかナズナが異世界から来たなんてね」と驚いたように言うだけで、なんの問題もなかった。
私はニルスさんに、「聖女の力を、この国のために使った方がいいんじゃないでしょうか」と尋ねたけれど、「この国のことは、この国の人間が解決すべきだ。君は何も気にしなくていいんだ」と彼は明るい顔を向けた。「ナズナは真面目なやつだな」とタヌーはお腹をぽんぽんと叩いて笑っていた。
すっかり仲がよくなった同僚のアウラは「あなたが聖女ということは、異世界に帰っちゃうのね。さみしくなるわ」と、しんみりと話した。
いつの間にか、最初に提示されていた三か月という時間は過ぎようとしていた。
それからは、あっという間だった。せっかく仲良くなったのだから、お別れのパーティーをしたいと誰かが言ってくれて、最後の日、私はみんなと楽しく笑って、美味しいものを食べた。ホットケーキはニルスさんとの秘密だから、そのときは食べていない。
日本に帰るための儀式というものは特に必要なく、召喚された場所に行くだけでいいらしい。ちょっと地味だ。来たときはニルスさんとタヌーの二人きりだったけど、今更隠しても仕方がないので、メイドたちや使用人たちも一緒に部屋に入ると、ちょっとぎゅうぎゅうになってしまった。
「ありがとう、寂しいよ」「あっちでも元気でね」なんて、みんなからたくさんの言葉をもらって、時間が近づいてくる。あ、私、帰るんだ。
体がわかった。あちらに引きずられる。そっか、帰るんだ。
バイバイ、とみんなが明るく手を振っている。うんうん、きっとこれは良い別れ。ニルスさんは、ただ一人だけ、私に向かって手を振っていなかった。腕を組んで、そっぽを向いていた。薄く、私の体が透けていく。自分の体が動くか確認したくて、私は小さくバイバイ、と手を振った。
よかった、ちゃんと終わった。うん、よかったよ、なんて――ほんとは、全然思ってない。なんで、誰も引き止めてくれないの?
私は、本当は、ずっと帰りたくなかった。
よかったね、とみんなが手を振る度に、お前はいらない人間だと突きつけられる気持ちになる。違う、そんなことない。みんなは優しい人だから。ほんとのほんとに、元の世界に帰ることを祝ってくれている。帰りたくない。
『お前がいるから私の人生めちゃくちゃだよ』と私は母に殴られたことがある。
それが私が覚えている、一番幼い頃の記憶だ。私は尋ねてはいけないラインがわかる。そのラインを越えると、殴られるから。言葉は間違えてはいけない。危なくなる前に、一歩引かなければいけないのだと、幼い頃に私は知った。
それからいつの間にか母はいなくなり、叔母の家に行くことになった。叔母はいつも私を見て溜め息をついていた。だから必死で家の家事を頑張った。暴力を振るわれることがないということは、幸せだった。でも寂しかった。早くこの家を出たかった。だからバイトをしてお金を貯めた。ときどきそのお金を盗まれた。やっと、叔母の家を出て一人暮らしをする夢が叶って、ぽつんとリビングに座っていたとき、自分が一人きりで、世界からいらない人間であることを悟った。
私はずっと卑屈だった。誰かに必要としてもらうために屋敷の手伝いをして、誰かが引き止めてくれないだろうかと期待した。辛いことがあると、人は他人に辛く当たる。そう知っているから、私は自分を律しようとした。私の優しさは、優しさではない。ただ卑屈なだけだ。優しくしてもらいたいから、笑顔の仮面をがんばって被る。なのに屋敷の人たちが、みんなが優しいから、さらに自分の卑屈さが際立ち、いつも惨めで仕方なかった。
向こうの時間を気にしなかったのは、帰りたくなかったからだ。
みんなは私だから特別に優しいのではない。私にはなんの価値もないのだから。
だから聖女の力を得たとわかったとき、私は笑っていた。これで、帰らなくていい。きっと引き止めてくれるはずだ。私はみんなにとって、役に立つ人間に――。うん。
こんなことを考えている人間が、こんな優しい人達のもとにいたいと考えるなんて、おこがましいよね。
よかった。
ああ、よかった。
みんなの前から消えることができて。
本当に、よかった。
そう思ったとき、ニルスさんと、わずかに、視線が合った。
時計の秒針が、ちっちっち、と動いている。
もとの世界に帰ってきた。時間にして、たったの三時間。向こうの世界に行ったのは、お昼のことだったから、今は三時。おやつの時間だ。そうだ、ホットケーキ。
無償にホットケーキが食べたくなった。喉がカラカラで、目の前がかすれているのは、泣きすぎたせいだ。こうしている間にも、ぼろぼろと涙がこぼれていく。鼻をすすって、服で拭って、少しずつ準備する。ときどき大きく息を吸って、止めると、ぶるぶると喉が震えた。ホットケーキの粉なんてないけれど、薄力粉ならある。卵も、牛乳も、砂糖も、ベーキングパウダーも。大丈夫。きっと作ることができる。
そうしてボウルで材料を混ぜていたときのこと。唐突に、私の部屋が光りだした。
わけもわからずボウルを置いて、光のもとに駆けつける。そして悲鳴を上げた。
光が収まると、そこには一人の男の子がいた。男の子はすっかり意識を失っていて、フローリングの上に寝転がっている。男の子は、五歳くらいの見かけで短い髪。――それから、銀の髪色。
息を呑む。
――あっちの世界に、この世界の誰かがいけばあちらの世界の方が早くなる。時間の方向が変わるんだよ。でも、時間がくっついているのは、扉があいている間だけ。あとはくっついたり、離れたり。
――俺も、幼い頃、君の国に落ちたことがある。まだ五歳の頃だった。
男の子に、私はゆっくりと近づいた。
男の子は、長いまつげを震わせて、静かに目をあけ、体を起こす。
「……お姉さん、誰……? ここ、どこ……?」
その顔は。
瞳は、間違いなく。
少年は、自身の名をニルスと名乗った。
***
時間がくっついたり離れたりとは、つまりは未来が過去になったり、過去が未来になったりということ? どういうこと? と混乱するしかない。
「え、どういうこと? ニルスって、あのニルスさん? 待った待った。たしかに五歳のときにと言っていたけど、今は二十三歳、いやでも一度扉が閉じたから、時間がずれてる? いやずれるって何? ああっ、タヌーにもっと聞けばよかった!」
頭の中で、ぽんぽこぽーんっ! とにこにこお腹を叩いているタヌキが思い浮かんだ。
『俺ってば、もとは超絶美男子なの! 美男子すぎて困ってたから、タヌキになった今の方が楽ちんぽいぽーい! ぽこぽこぽーんっ!』
いかん、いらん情報が脳みそを巡り始めた。タヌキ=美男子とは……?
意識が吹っ飛びそうになっていた状況で、ハッとして下を見る。ニルスさん(?)がこちらを不安そうに見上げている。そしてみるみるうちに涙を溜めていく。なんてことだ大変だ。そうだよね、ここはどこという話だよね!
「ホットケーキを!」
「?」
今にも泣き叫びそうな少年の肩に両手をばしんと置いて、私は顔を引きつらせながら叫んだ。ニルスさんはびくっと体を震わせて、もう一度私を見上げた。
「ホットケーキを! 食べよう!」
力いっぱいに、叫んだ。
ちょうど、材料を混ぜるところまで終わらせていた。本当にタイミングがよかった。ニルスさんは部屋の中を不思議そうに見回っていたが、そこはさすがニルスさん、途中ではたと瞬き、テーブルの椅子に着席してお上品に待った。彼は貴族だし、子供の頃からしっかりした教育を受けているのだろう。私のホットケーキ、お口に合いますかね……? と不安で仕方がないが、ここまで来たのだ。さあ、出すものを出すぞ。
というわけで、お皿の上にホットケーキをのせて出した。勢い余ってクマさんにしてしまった。
「わあ……」とニルスさんは両手を合わせて、「クマさんだぁ……」と笑顔になる。フォークを渡すと、なんとまあお上品に食べるではないか。「クマさんのお耳が……」と悲しそうな声を出していたけれど。「美味しいです」とほんのり微笑む少年の眉間が、この十八年後、たいそう皺深くなるなど誰が信じられようか。
しかしホットケーキを口に含み、ニルスさんはみるみるうちに瞳をほにゃほにゃにさせて涙が溢れそうになる。
「だ、大丈夫!? 痛いとこが!? た、卵のカラとか入ってた!?」
「違います……美味しいです……でも、ここは、どこなのでしょうか。僕は、不思議な空間に落ちて、通り抜け……。我が国の文化とは思えぬ品々。ここは、異世界という、場所なのでは、と……」
「大丈夫! 三か月後! 三か月後に帰れるから! もとの時間もあんまり進まないって! だから大丈夫! 帰れるまで、うちにいてくれていいから!」
なんという賢さか、と動揺するしかない。私が向こうの世界から三か月で帰ることができたけれど、こっちの世界でもそうなのかはわからない。しかし今は叫ぶしかない。
「お姉さん……ナズナさんでしたか。異世界の方なのに、お詳しいのですね……」
ニルスさんは驚いたように目を丸くしている。「ま、まあね……」いや実際は全然詳しくない、ということをごまかすため、私は知ったかぶりをした。ああ、情けなさ過ぎる。
「あの……そうしましたら、大変申し訳ございませんが、お力をお借りすることができれば、嬉しいです……代わりに僕にできることがありましたら、若輩者ではありますがなんなりとご用命ください」
「あ、はい。あの、こちらこそ……?」
そしてこっちは、本当に礼儀正しい。二人でぺこぺこ頭を下げあった。私はちょっと時間をかけて頭を下げすぎてしまったので、顔を上げるとニルスさんとぱちっと目が合った。そして、彼はにこっと笑う。「よろしくお願いします」ともう一度深々頭を下げた。
そして夜、お風呂に入っているとき、「お湯が!? 勝手に!? 魔法じゃない!? どういうこと!?」という悲鳴が聞こえた。さらにしばらくすると、ぶかぶかなTシャツに着替えたニルスさんは、髪も濡れたままでバスタオルを抱きしめて、よたよたとお風呂から上がった。
「ぼ、僕の、髪の色が、ぎ、銀色……? 銀色に……? うわ、あ、ああ……」
しまった、忘れていた!
ニルスさんの髪の色が銀色なのは、私にとってはあんまりにも当たり前だったけど、こっちの世界に来て、彼は髪の色が変わってしまったと言っていたじゃないか!
「大丈夫! 似合ってる! すっごくいいよ!」
我ながら、なんとも陳腐な慰めだろう。けれども心の底からの言葉でもある。私からすると、ニルスさんが銀髪以外なんてありえないのだから。
「……ほんとうに?」
「もちろん!」
そっか、と彼は自分の銀髪を曖昧な顔で確認した。夜は布団が一つだけだったから、私はソファーで寝ることにした。ぐすん、ぐすん、と小さくすすり泣く音が聞こえる。しっかりしているように見えても、彼はまだ五歳なのだ。
(私が、守ってあげないと)
――私があっちの世界に行ったとき、ニルスさんはどうしてくれたっけ?
タヌーは? 屋敷のみんなは?
頭の中で灰色の脳細胞がフル回転する。彼らが私にしてくれたように、私も、彼に返さないといけないから。
「ぼ、僕は、タヌー、だよっ!」
翌朝。考えた結果、布団から起きたニルスさんに向かって、私は持っていたたぬきの人形を自分の顔の前で動かし、だんだんと顔が熱くなってくるのを感じた。
最初、異世界に行ったときはびっくりしたけれど、タヌーの明るさがあって、こんなこともあるのかな、と受け入れることができたかもしれないと思ったからだ。
でもこれは、やっぱり違ったな、とニルスさんからの無言の言葉で理解した。ぬいぐるみは、いそいそと片付けた。
ぱちぱち瞬いて布団の上で首を傾げるニルスさんに、さっきのはなし、とばかりに片手を出す。
「ニルス……くん」
あっちのニルスさんはさん付けにしていたので、どうしたものかと考えて、自分の中でなんとか答えを見つける。よし、これからはくん付けだ。
「朝ごはんを、食べたら」
「……食べたら?」
「……お出かけ、しよう!」
ぱちぱち、とやっぱりニルスくんは何度も瞬いていた。
「す、すごい。異世界って、ものすごく便利なんですねぇ」
「そんなに驚く? うん、驚くかあ」
まずは向かったのはショッピングモール。だってそもそも服がない。ぶかぶかな私の服を着ているけれど、さすがに周りの視線もちょっと気になる。でもそんなことは関係なく、彼が三か月の間、過ごしやすく生活してほしかった、という理由の方が大きい。
「こんなに、たくさん買ってもらって、いいんですか?」
「いいのいいの。だって三か月もいるんだよ。いろいろ必要だもの」
私は叔母の家から出るために、たくさんのバイトをしていた。だからある程度の貯金もあった。とはいっても、そんなに多くはないけれど、これはこのときに使うために貯めていたような気がした。大人のニルスさんがしてくれたことを、全部彼に返すんだ。
「し、下着!? いいえ、これは自分で選びます!」
「いや、わかんないでしょ。私だって男の子のはわかんないけど、多分君よりマシだから。ん? サイズ……店員さんに聞いた方がいいかな……」
「や、やめてください! 大丈夫! やめてったらあ!」
「いや、けっこうこういうの重要じゃない!?……あ、歯ブラシとか、そういう細やかなのも必要だった!」
「あの、本当に必要最低限でいいので……」
ニルスさんは、私に衣食住を提供してくれた。だから私も、ニルスさんと同じように、彼が生活で困ることのないようにしないといけない。
「ごめん、ニルスくん! バイトに行かなきゃ! ご飯は冷蔵庫に入れといたよ、ほんとにごめんね、なるべく早く帰ってくるからね」
「……ナズナさん、僕に何かできること、ないですか? すごく、ナズナさんが忙しそうに見えます……」
「大丈夫だよー、心配しないで! ニルスくんは、ゆーったり、しててくれていいんだからね」
何かしたい、と私がニルスさんに言ったとき、『何もしなくてもいい』と言われたことを思い出した。困っている顔のニルスくんを見たとき、あれ、もしかしてニルスさんってこういう気持ちで言ったのかな、と今更ながらに気がついた。と、その瞬間、ニルスくんは、さらにしゅんとしおれたような顔になってしまったので、「そ、それじゃあ、お風呂掃除、しててもらおっかなー!」と急いでお願いする。瞬く間にニルスくんは、ぱーっと笑顔になって、こっちまで嬉しくなってしまった。
「うっわぁーあ! 遊園地! 遊園地だよニルスくん!」
「わあ……すごいですね。人が、いっぱい……」
「パレードもあるんだって。でも、遅くまでいるのはやめといた方がいいね。ニルスくんはまだ小さいもの」
「……ちょっとくらい、夜ふかしはできます」
「そっかあ。でも私、昼間もいっぱい見て回りたいから! ぐったりするくらいに回ろうね!」
「……はい!」
ニルスさんと一緒に、お祭りに行ったことがある。お使いと言われて、どぎまぎして一緒に行ったけれど、あとから考えてみると、あれは私を楽しませようとしてくれてたんだ。
遊園地に行ったのは、初めてだった。子供の頃に連れて行ってもらったことなんてなかったから。行きたいということだって、許されなかった。
入場料のお値段は怖いけど、その分、私の食費をちょっと削ればいい話。わあ、と嬉しそうに、目を輝かせてくれているニルスくんを見て、私は何か不思議な気持ちが湧き上がるのを感じた。喜んで、くれてるのかな。そうだったらいいな。もっとたくさん、喜んでほしいなぁ。
びっくりするほど、時間がびゅんびゅん過ぎ去っていく。
まるでジェットコースターみたいな毎日だった。朝起きて、おはようと言って、一緒にご飯を食べて、たまにはお出かけ。近所の大きな公園で、素敵な緑の林の中で、散歩をしながら虫たちの声を聞く。手は、ぎゅうっとつないだまま。そんなとき、ふと考えた。
ニルスさんって、私のことを覚えてくれてたのかな?
ニルスくんが、ニルスさんの過去だとして、こんなふうに私と一緒に過ごしたことを、覚えてくれているのかな。それとも彼は違う世界のニルスくんなのかな、とか。
でも、別にどっちでもいいや。
笑っているニルスくんがいたら、別に、どっちでも。
「……ナズナさん」と、ニルスくんが小さな声で話したのは、夜寝る前の、短い時間でのこと。ニルスくんは布団の中にもぐり込んでいて、私もその隣で横になっていた。布団はシングルで小さかったけれど、私もニルスくんも寝相は悪くなかったので、いつしか二人で眠るようになった。
「父様と母様は、僕のこと、心配してくれているかな……」
それは、本当に、消えてしまいそうな声だった。
きっと、ずっと我慢していたのだろう。面倒を見ている私に迷惑をかけないようにと、小さな頭で考えて、胸を痛めていたに違いない。彼の心情を察して、私はぎゅっと心臓が痛くなった。大丈夫だよ、たった三時間だから、とすぐに言おうとして、どうだろう、と考え直した。
五歳の子供が、三時間いなくなってしまう。それって、考えてみると大変なことなんじゃないだろうか。私の子供のときは、どうだったろう。自分の存在を隠すように、部屋の中でずっと気配を殺して蹲っていたから、普通の親との関わり合いのことはわからない。
でも、もし今、ニルスくんが、三時間もいなくなったら。私はどんなときだろうと家を飛び出して捜し回るに違いない。夜の中でも汗だくで走り続けて、彼の名を呼び続けるだろう。
――俺は異世界から、今いる世界に戻ってきた日、チェンジリングを疑われた。いくら違うと、俺は何も変わらないと説明しても、両親は異質なものを見る目で俺を見た。
ニルスさんの親も、きっとたくさん、彼を捜したに違いない。
でも結局、姿が変わってしまった彼と距離を置いた。
「心配……して、くれているよね……」
ニルスくんの、囁くような声がする。
彼も、ほんの少しの不安を感じているのだろう。予感もあるのかもしれない。「大丈夫だよ」 彼に背中を向けたまま、私は話した。これはなんの意味のない言葉だった。「……そうかな、そうだよね」 でも、少しだけニルスくんは、安心したように息を吐き出した。薄暗い闇の中で、私もとっぷりと意識を落とした。
美味しいね、とニルスくんはホットケーキを食べて笑った。私も笑った。美味しいね、と丸い、お月さまみたいなホットケーキを、ぱくん、と二人で食べた。
それはまるで、月が欠けてしまったように、思えた。
「……ナズナさん……」と、部屋のリビングで、ニルスくんは私の名を呼んだ。
とうとう、この日がやってきたのだ。少しずつ彼の指先が光の粒に変化して消えていく。私のときとおんなじだ。「帰れるんだね」とニルスくんは言ったけれど、やっぱりまだ不安そうだ。彼の指が輝き始めたとき、私は、「あ」と喉の奥から、ほんの少しの声が出た。
さようならを言う練習は、何度だってしていた。「あ、の」ニルスくんの、消え始めた指を掴む。勝手に言葉が出そうになる。「あ、の――ニルス、くん」
ちょん、ともし今、誰かが私の背中を押したら。多分、全部の気持ちを吐き出してしまうんだろうな。
――口が、開く。
ねえ、ニルスくん。本当に、君は、もとの世界に帰らなきゃいけないのかな?
それは、ずっと、ずっと思っていた言葉。
だってさ、君は向こうの世界で、とても辛いことがあるそうだよ。
辛いことがあるくらいなら、私と一緒にずっといちゃだめなのかな。私は、ちょっとは君にとっての特別になれたんじゃないかな。だから――。
だから。
彼の消えそうな指と手を握ったまま、私は口をあけて、そのまま顔を伏せた。唇を噛んだ。息を吸った。「ニルスくん」 顔を上げて、彼の名を呼ぶ。
「君が、何か辛いことがあったら、私が絶対に助けに行く。だから、何があっても、絶対に、絶対に大丈夫」
口元から妙な笑みが溢れた。
こんなに力強く声を出したことなんて、きっと人生で初めてだった。「絶対、大丈夫!」嘘だ。私はもう彼には会えない。だって、別の世界に行き来する回数は、一人につき一度きりだと教えてもらった。私は本当に、嘘ばっかりだ。心では彼を引き止めたいと願っている。でも、この先、彼はたくさんの人と出会うだろう。たくさんの人に、愛してもらえるはずだ。あの屋敷の、温かな人たちのように。
その彼の可能性を、私が潰すことなんで、できるわけが、ないじゃないか。
「君が、泣いてしまったときは、助けに行く。……それでも、もし、助けに行けなかったとしても、私は、私は、ずっと君の味方だから! どうか、それだけは、忘れないで……!」
ああ、こんなのごまかしだ。ニルスくんの瞳は、みるみるうちに潤んでいく。でもごまかしでもよかった。
私は、ずっと。ただ一人きりでいいから、誰かにこの言葉を言ってほしかった。
いつしかリビングには、不思議な割れ目ができていた。ぱきぱきと卵の殻が割れるように裂け目は大きくなっていく。光とともに、ニルスくんが消えていく。
「ナズナ、さん。僕は――!」
返事の代わりに、力いっぱい、ニルスくんを抱きしめた。抱きしめ返されたであろう彼の小さな腕はもうなくて、言葉すらも砂のようにかき消えていく。ぱきり、と割れ目の一つがフローリングの上に落ちたとき、もうそこには誰もいなかった。
顔を上げて、少しだけ笑った。ふ、と口から変な息が溢れた。次第に肩の動きが大きくなって、ぼろぼろと涙が落ちた。
誰もいないリビングで、私は泣いた。声を上げることはもうしなかった。結局、最初も最後も同じで、私は一人きりになってしまう。でも、そんなふうに生まれたのだから、仕方ないとも思った。
(ずっと、誰かに味方になってほしかった)
お前が必要だと、言ってほしかったのだ。
でも、誰も私の味方になることはないのだから、代わりに誰かの味方になりたかった。
私がしてほしかったことを、誰かにしてあげたかった。だから、もう後悔はない。
ニルスくんが、ほんの少しでも、私の言葉を受け取ってくれたのなら、それだけでいいんだ。
ただ、もとの日常が帰ってきただけ。この半年間が、少しだけ特別だった。忘れよう。忘れてしまおう。でも。
「……帰りたい」
ぽつりと、呟いていた。帰りたい。でもそれって、一体、どこに?
そのとき、世界中のガラスが砕け散ってしまったような音が聞こえた。「えっ」 それはガラスではなく光が割れる音のようでもあって、長く長く、音は響いた。じわりと私は目を大きく開く。時間の流れが、意識の後にやってくる。リビングにできていた不思議な割れ目、時空の綻びと呼ばれるそれが、さらに広がっていくのだと理解した後、一本の腕が力強く伸びた。
「ひえっ!」
「ぐっ」
私は割れ目から出てきた誰かに押しつぶされていた。誰か、なんて考えなくてもわかる。長い銀の髪が視界を覆う。ニルスくん、いいや大人になったニルスさんは、がばっと少しだけ起き上がった。しばらくの間、床に転がりながら私はニルスさんと見つめ合った。しかし彼の眉間の皺は増すばかり。
「え、あの、なんで、ここに……?」
思わず呟いてしまったけれど、これ以上なく、まともな疑問じゃないかな。なんでニルスさんがここにいるの?
なのに、ニルスさんは、私の呆然とした問いに不本意そうな顔をした。「君が……」 押し倒されたまま、ニルスさんの言葉を待つ。
「君が、泣いていたからだろうが!」
ちょっと何を言っているかわからない。
泣いていた。たしかに今、泣いている。しかしニルスくんが帰るまでは、なんとか涙は耐えていたはず。だからニルスくんは知るわけがない。「帰るときに、君が泣いていたから、無意識に腕を伸ばしてしまった」と、ニルスさんは苦々しく答えて、またさらに私から距離を取る。本人的には屈辱なのか、床に座っておでこに片手のひらを置いている。
私も同じく床に座り、考えた。
帰るとき、というのは、もしかしてさっきのことではなくて、異世界から私が日本に帰ってきた、つまり、「……もしかして、三か月前のこと?」「……君にとっては三か月前でも、こちらからすればついさっきのことだ」 ぴしっと指を立てて呟けば、ニルスさんはムッとしている。なるほどそうか。
タヌーが、時間はかわりばんこだと言っていた。私の方で三か月たっていても、異世界では三時間。いや、ニルスさんの子供時代の過去で三時間たった後、私たちの世界は離れた。そしてまた、くっついたのだろう。未来の、私と別れたときのニルスさんの時間と。
「……時空の綻びは、本来なら同じ場所と時間で何度も使われることはないが、俺が手を伸ばしてしまったからきっかけを作ってしまったんだろう。無理に手を伸ばしたから、綻びはまだ消えていない。まだ向こうの世界に繋がっている」
「なるほ……ど?」
いや、全然よくわかってないけど。穴に手をつっこんで、無理やり広げてしまったということだろうか。現に、時空の綻びというやつは、ニルスくんが帰ったときよりも大きく広がっている。しかし、パキパキと音を立てて少しずつ穴は縮んでいた。
へー……と、ぼんやり考えていると、ニルスさんは何やらむっとした顔をしている。
「泣いていたのか」
「え、あの」
涙はすっかり止まっていたけれど、顔はぐしゃぐしゃなままだろう。唐突に恥ずかしくなって、そっぽを向こうとしたら、ニルスさんの手がぐいと私のあごを掴み、逃げ出すこともできない。
「どうしてだ。……俺は、君が俺にしてくれたように、君をもとの世界に帰すべきだと思っていた」
「……ニルスさん、ニルスくんのこと、覚えてたの?」
「……忘れるわけがない。聖女として召喚される者が君であるとは、知りもしなかったが。しかし君の住まいに綻びがあったというのなら、想像しておくべきことだったと出会ったとき、すぐに理解した。時間軸が、おそらく異なっていることもな」
なるほど。未来の彼は、全部知っていたのだろう。知っていて、過去の、いいや今の私と同じように、私をもとの世界に送り返した。きちんとした、責任感を持って。
ニルスくんは、しっかりした大人になったのだ。そう思うと、不思議な気分になってくる。
「そっか、そういうことだったんだ」と苦笑して距離を取ろうとしたのに、「どうして泣いていた」と、疑問の返答しないことを、彼は許してくれない。
「どうしてって……」
言いたくなかった。こうしたい、ああしたい、と自分の希望を言うことは好きじゃない。きっと手伝ってほしいだろうと、相手の気持ちを勝手に想像して、さぞ自分の意見のように、相手の言葉を話すのは得意だとしても。
「……帰りたく、なかった、から」
だから、ニルスさんにはわからないだろう。この言葉が、どれほど私の中で勇気が必要であったかを。
「……帰りたくないとは、こちらの世界に? 俺の屋敷にいたかったということか。それなら、戻ればいい」
「も、戻ればって。そんな簡単に! そもそも、時空の綻びは一人一回しか通れないって、タヌーが」
「今は俺が穴を広げている。俺とともに渡れば問題ない。いわば、俺の付属物みたいなものだ。俺もこれが二度目になるが、過去に外見を変えられたことで、別のものと認識されているんだろう。二度世界を行き来するなど試した者はいないだろうから、おそらく、という推測だが」
「す、推測って……」
それって結構、危ないことをしようとしたのでは? とぞっとする。私が帰ったときの綻びに、彼はすぐに腕を伸ばしたのだろう。もし世界を渡ることができなければ、一体どうするつもりだったんだろう。自分を実験体にしないでほしい。
「か、帰れないよ。無理だよ。帰るなら、ニルスさんだけに……」
「どうしてだ。あちらに行きたいのではないか。行きたいなら、行けばいい」
「だから、私は」
「時間がない。俺の手を握れ」
「だから、待って、私は」
「ナズナ」
あ、名前、呼ばれた。
ニルス“さん”に呼ばれたのは、初めてだな。そう思ったからだろうか。
「私なんかが、行けるわけない!」
大きな声で、叫んでいた。ニルスさんがぎょっとしているのがわかる。でも、止まらなかった。
「私が、行けるわけない。みんなの役に立てない! ニルスさんも、タヌーも、屋敷の人も、みんなみんな優しい。そんな優しい人のところになんて行けない。みんなを汚しちゃう。優しい人は、優しい人と一緒にいないと。そうじゃないと、いつか私は、みんなを傷つけちゃう!」
ずっと、ずっと不安だった。人は辛いことがあったとき、人に辛いことをする。私はそんな人たちと一緒に暮らしていた。だから私も、いつか人に辛いことをするだろう。そうならないように、優しさを擬態した。人にしてもらった嬉しいことを、たくさん、たくさん覚えようとした。あれをしてもらって嬉しかったから、忘れないようにしなきゃと、ずっと、誰かの真似を、していただけ。
「……ニルスさんには、たくさん、優しい気持ちをもらったから。一緒にいて、嬉しかったから。だから……」
「……だから? 幼い頃の俺に、優しくした?」
美味しいご飯を食べたり、彼が嬉しく思うことを願ったり、言ってほしかった言葉を、伝えたり。
それは、なんて浅ましいんだろう。
「してもらった、嬉しかったことを、自分も同じように?」
ニルスさんの問いに、小さく、頷いた。
長い間があった。本当は、そんなに長い時間ではなかったのかもしれない。いつの間にか、ニルスさんは私の片腕を掴んでいた。私はじっと、下を向いたままだった。彼の顔を見ることが、怖かったから。
だから、ニルスさんがぽつりと何かを呟いたとき、私は、彼の顔は見ていない。
「……どうして、気づかないんだ。愛しく感じることを、誰かのためにしたい、してあげたいのだと願う、その、気持ちは――」
ぴたりと、ニルスさんは言葉を止めた。どうしたのだろう、と私はゆっくりと顔を上げる。
ニルスさんは、少しだけ、泣きそうな顔をしていた。それから、わずかに視線を落とした後で、私をまっすぐに見た。「なら、伝えよう」と、言葉を置いて。
「ただ俺が、君と、一緒にいたいんだ」
ぎゅっと、彼が私の手を握る力が、強くなるのを感じた。
***
私は、ニルスさんとともに穴から落ちていた。ニルスさんに抱きしめられたまま、頭から下に落ちていく。最初に落ちたときは不安だった。真っ暗闇の中を、どこまでも、どこまでも下に向かっていくから。
初めて異世界に行った日は、あんなに不安だったはずなのに、ニルスさんに抱きしめられながら、こっそりと隙間から見ると、ここは星空の中だった。小さな星々の輝きを通り抜け、きらきらと美しい夜を私たちは落ちていく。
のちに、タヌーが語った。『まあ、こんなこともあらあな』と。『時間ってのは、くっついたり、離れたり。早くなったり、遅くなったり。そんなの、人の心の中とか、思い出とかとも同じなんだからさ』なんて。
「君が、僕にくれた言葉が、どれほど僕の支えになったのか、君にはわからないだろうな」
私を抱きしめながら伝えるニルスさんが、『僕』と話していたから、彼がニルスさんなのか、それともニルスくんなのかわからなくなって、私は少し不思議な気持ちになった。
「どれだけのことがあっても、自分にはただ一人の味方がいると、そう思えた。その味方に恥じぬように正しい大人になろうとした。そしてまた、僕も誰かの助けになろうとも」
きっと、ニルスさんはたくさんの努力をした。『僕』が『俺』になるくらいに。同時に、眉間の皺も、すっかり深くなってしまったのかもしれない。
「聖女を国のために、心を変えてまで利用するなど、絶対に許されない。それは正しくない行為だ。自国のことは、自国で解決すべきであり、誰かを犠牲にするなど、あってはならない。必ず、聖女を救うべきだと思った。そしてまた、君と出会った」
ニルスくんが、ニルスさんだったから、私たちはまた出会えた。
美味しいホットケーキを、食べることができた。
「僕がまだ子供だったとき、君は、僕よりもずっと大人のように思えた。頼りになる立派な大人と、小さな自分を比べて情けなくて、恥ずかしかった。でも、もう一度君に出会ったとき、君の幼さに驚いた。ただの祭りを『遊園地』などと言って、喜んで。……僕には、もっとたくさんのことを与えてくれたのに」
「……あの、そのときのことを思い出すのは、ちょっと恥ずかしいので……。遊園地は、ニルスくんと初めて行ったから、どんなものか知らなくて」
「そうだな。君も初めてだったんだよな。なのに、ずっと僕を優先してくれていた。僕は、やっとそのことに気がついたんだ。最初はただ、今度こそ君に恩返しができると思っただけだった。でも君はまだ十八歳で、僕よりも年下で、どこか危なっかしくて、なのに人に与えるばかりで」
ぎゅ、とさっきよりも、強く抱きしめられる。
「知らないうちに、君のことを愛しく思っていた」
私は少しの間、息を呑んだ。
この星空の中で離れてしまわないようにと抱きしめてもらっていて、よかった、と心底感じた。真っ赤な顔を見られないですむから。それに、ちょっと考えてすぐにわかった。
「ニルスさん、また感情のコントロールが、できなくなってるんですか? 聖女が召喚されたときに、国王への好意を植え付けるとかの、あれです」
俗にいう、メロメロモードのことである。まったく、勘違いしなくてよかった。
あやうく大ダメージを負うところだった、と私はほっと息をつく。それでも、心臓はドキドキしている。
「……ああ、そうだよ」
ずいぶん長い間があった後、ニルスさんは、どこかぶっきらぼうに返答した。お互い抱きしめたままだから、顔は見えない。
彼のその言葉を最後に、私たちはさらに、どんどん落ちていく。怖くなって、私はニルスさんに夢中に掴まった。でも、ニルスさんの手が、さらにがっしりと私を抱きしめてくれていたから、すぐに怖さは吹き飛んでいく。屋敷に戻ったら、どうしようかな、なんて考えてしまう余裕があるほどだった。
屋敷のみんなには、あれほど盛大に見送ってもらったのだ。戻ってきたら、さぞや驚かれるだろう。それを、どうやって説明しようか。ああ、でもニルスさんが綻びに入っていったのなら、なんとなくわかっているのかな。きっと心配させてしまっただろう。それなら、最初の言葉は『ごめんなさい』? どうかな。何か、違うような気がするな。
明るい光が近づいてくる。きっともう、もう少し。
パキパキパキッ! と聞こえる音は、綻びが裂けた音。もう何度も耳にした音。私はニルスさんと一緒に、屋敷の中に転がり落ちた。屋敷の人たちも、タヌーも、みんな目をまんまるにして驚いている。心配した顔。そして、それは、すぐにほっとした顔に変わっていく。
そんな彼らの顔を見ていると、じんわりと視界が滲んだ。口元だって、勝手に緩んで、言うべきはずの言葉も忘れてしまって、たった一つの言葉しか出てこなくて。
「みんな――ただいま!」
力いっぱいの笑顔で、泣きながら伝えた。
みんなは、たった一つの、同じ言葉を返してくれた。
――だって、これは。聖女が、ただ帰るだけの話、ですからね。
***
「なあなあ、ニルス~。魔法師団長様とあろう者が、国王が聖女にかけた呪いに、ずーっとかかりっぱなしってことはねぇもんな~? とっくの昔に解除済みってことは、いつ言っちゃうわけ?」
「…………」
「おいおい、だんまりかよ。それなら、髪を伸ばしてる理由もナズナに伝えちまうぞ。むかーし、自分を救ってくれた恩人が、綺麗だって言ってくれたからだもんな。自分が変わったきっかけとして、大切にしてるんだっけ? オッホッホ~! タヌキったら興奮しちまうぜ! まったく、人間はいいね~!」
「お前も、人間だろうが……とりあえず、少し黙ってくれ」




