第三話「戦場奉仕命令」
命令書を畳んだ夜、眠りは浅かった。
寝台に横たわり、喉の下に指をあてる。呼吸のたびに皮膚の内側を擦る感覚があった。誓印は痛みだけじゃない。位置まで教えてくるのだ。ここに首輪があると、毎秒言ってくる。
部屋の外では鎧が布を削る音がしていた。レクスだ。見張りが必要な対象が眠るなら、見張りは眠らないという理屈らしい。
侍女が夜更けに来て、荷造りの布を運び込んだ。白い布の束と、木箱。木箱の角に紙札が貼られている。薬草、包帯、祈祷具、湯を沸かす器具。全部、神殿が許可したものだけだ。
俺は机の上に紙を広げた。自分で書いた要求の控えである。食料と寝具、負傷者の処置に必要な布と薬、護衛の人数、移動経路の書面。足りないものがあると死ぬ。戦場はそういう場所だ。
扉が開いてグレゴールが入ってきた。寝台の横に立つ位置がいつも同じだ。逃げ道を塞ぐ角度も同じだ。
「聖女様。夜分に申し訳ございません。準備は整っております」
「私が頼んだ書面をください」
俺が言うと、グレゴールは紙束を差し出した。紙の角が揃っている。丁寧に裁断された紙だ。
俺は最初の一枚を読んだ。物資の一覧。量の欄が空白のままの項目がいくつもある。
「薬草の量が書かれていません」
「現地で調達できる可能性もございますので」
「調達できない場合は」
グレゴールは笑みを崩さない。目の奥だけが動く。言い訳の引き出しを選んでいる。
「聖女様のお身体をお守りするために、過剰な荷は避けるべきかと」
守るためとは、便利な言葉だ。荷が足りなくて兵が死んでも、守ったのは聖女の体だけだと言える。
喉の下が小さく痛んだ。俺が反論しようとしたのを誓印が嗅ぎ取ったらしい。痛みは針の先ほどで止まっている。まだ軽い。
俺は椅子の肘掛けに指を置く。指先に圧を集めた。薄く、細く、見えない糸にする。喉の下の輪の中に沈む部分があるので、そこへ触れるように流す。
痛みが消える。
俺は顔を上げて言った。
「過剰な荷ではありません。聖女の奉仕を円滑にするためには必要な量です」
グレゴールの口角がわずかに引きつった。
「承りました。量を追記いたします」
「今ここで決めてください。出立は本日中ですので」
グレゴールは一瞬だけ詰まった。返事が遅れた。遅れた時間のぶんだけ、焦りが見える。
「では、担当を呼びますので」
「いいえ、あなたが決めてください。あなたが取り仕切っているんですよね」
逃げられないように。俺はそこを狙った。
数刻後、私の目の前には沢山の木箱が用意された。薬草の束が追加され、布の巻きが倍になっている。湯を沸かす小鍋が二つになり、飲み水の革袋も増えた。食料も乾いたパンだけではなく、塩漬け肉が入っている。
その間、誓印は何度も小さく疼いた。命令書に従って動いているのに、俺が手順を握るたびに嫌がるらしい。首輪は従順だけを好む。もちろん鬱陶しいので無効化した。
夜が明けきる前、ちょうど準備が終わったころに出立の合図が来た。
外へ出ると風が頬を叩いた。土の匂いと馬の汗の匂いが混ざる。荷車の車輪が砂利を噛み、鎧が当たる音が道に散る。
レクスが先頭に立った。
「経路は確認した。寄り道はしない」
「承知しました」
俺は聖女の声で返した。喉の下が少し痛む。寄り道はしないと言われた瞬間に誓印が喜んだのか、痛みが消えた。反応が分かりやすい。
馬車の中は狭かった。座面は硬く、布は新しい香が染みている。神殿の香だ。血の匂いを隠すための香だと、俺は勝手に決めた。
馬車が揺れ続ける。石の道が途切れ、土の道になると揺れが大きくなった。身体が小さいぶん、衝撃が骨へ直接入る。セシリアの体は戦場向きではない。
途中で村を抜けた。早朝の炊事の煙が上がっている。子どもの泣き声が聞こえた。犬が吠えた。平和な音だ。
北へ進むほど、匂いが変わる。薪の煙が増え、鉄を打つ匂いが混ざり、焦げた布の匂いが遠くから流れてくる。戦が近い。
砦に着いたのは昼過ぎだった。
門の前に担架が並んでいる。布の下から足が覗く。靴が片方だけ残っている者もいた。血の匂いが濃い。土に染みた血は甘い匂いを出す。俺はそれを覚えている。玉座の下の匂いだ。
迎えに出た男が頭を下げた。鎧の肩に擦れた跡がある。顔の片側に煤がついている。声が枯れていた。
「北方砦、前線指揮官ガイアスです。聖女様、到着に感謝します。早速ですが、負傷者の治療を」
「案内してください」
俺は答えた。喉の下が少し痛む。誓印は戦場でも命令を選ぶようだ。誰を優先するか、どこへ行くか、首輪の中の指図は王命と教皇庁の指針である。
医療幕屋の中は熱かった。人の体温が詰まり、血と汗と尿の匂いが混ざる。呻き声が布を揺らしていた。
俺は膝をつき、最初の負傷者の包帯をめくる。太腿に矢が刺さっていた。矢尻が筋肉に引っかかり、抜けば血が噴く位置だ。
「矢は抜きません。周囲を縛ってください」
俺は侍女ではなく兵の衛生兵に言った。男は一瞬固まったがすぐ従った。現場の者は命令が具体的だと動ける。
俺は掌を当て、祈る形を取った。
光が漏れた。白い光が傷口の周囲に集まり、熱くならずに肉を締める。すぐに血が止まった。痛みで歯を食いしばっていた兵の肩が落ちる。
「次」
俺はすぐに立ち上がった。息は乱れない。胸の奥も削れない。俺の魂は厚い。薄く削る刃が届かない。
だが誓印は別だ。喉が締まる痛みは残る。指で当たりを押さえ、痛みを無効化する。
数人を止血し、骨折を固定して意識が薄い者に水を含ませたところで、砦の外から叫び声が届いた。角笛の音。壁の上で走る足音。
ガイアスが顔を上げた。
「敵が再び寄せています。今は治療より防衛を優先すべきかと」
優先順位。誓印が反応する言葉だ。
喉の下がきつく疼いた。今すぐ最前線へ行けと言っている。聖女は戦場へ出る道具じゃないはずだが、命令書がそう書いていれば首輪はそう動く。
俺は短く息を吐いた。
癒しても癒しても終わらない。矢はまた刺さり、骨はまた折れる。戦を止めない限り、負傷者は増え続ける。
俺はレクスを見た。
「レクス、時間を稼げ。俺が外へ出る」
口から出た瞬間、俺は歯を噛んだ。魔王の口調が漏れてしまった。しかし、今は気にしている余裕はない。
レクスの目が細くなった。だが何も訊かずに剣の柄を握り、頷いた。
「私が止める。だが聖女が前へ出るのは許可できない」
「これは王命です」
俺は命令書を見せた。紙の角が揃ったままの、まだ湿っている印の匂いがする新しい書面である。
「私はここで死ぬつもりはありません」
レクスは一瞬だけ黙った。許可できないと言った口が閉じる。許可する立場ではないからだ。
砦の上へ上がる階段は狭かった。石がすり減り、苔がついている。滑りやすい。足が細いぶん、踏み外せば骨が折れるだろう。俺は手すりを握って上がった。手首の包帯が擦れる。布の下の傷が少しだけ痛んだ。死んだ体の記憶が嫌でも体に残っている。
城壁の上は風が強い。
外には敵兵が見えた。盾の列。槍の列。弓兵が後ろで矢を番えている。足場はぬかるんでいるようだ。雨が降った跡が残り、靴が泥を引いている。
敵の後方に、旗が一本立っていた。布の色が濃いのは指揮官の位置だからだろう。指揮官が動けば列が動く。列が崩れれば槍が折れる。戦はそういう仕組みだ。
前線でレクスが必死に時間を稼いでいた。さすが俺を殺した勇者だ。あいつ一人でもこの戦を終わらせることができるだろう。しかし、それでは負傷者が大勢出てしまう。それでは意味がない。
俺は手を合わせた。
光が掌の間から漏れる。
その瞬間、誓印が疼いた。戦場で光を使えと命令するくせに、使い方まで許可した覚えはないと言うのだ。首輪は矛盾した道具である。
俺は光を止めないまま、別の力を混ぜた。
魔王の圧。闇の核に近い、押し潰す力。このまま闇の力を混ぜてもいいのだが、濃く出せば匂いでバレてしまう。俺は針の先ほどに絞り、光の流れの中に糸のように混ぜる。
まず、城壁の上に落ちていた折れた矢に光を当てた。
本来なら矢の木部が繊維を戻し、元の形に近づくはずだ。聖女の光はそういう癒しに似ている。
だが圧を混ぜると違った。
木の繊維が戻らない。代わりに、繊維の隙間が硬く締まり、曲げようとすると簡単に割れた。矢は治らず、折れやすい棒になった。
次に、兵の剣の柄を借りた。古い剣で、柄が緩んでいる。
光を当て、圧を混ぜる。金具の部分が音を立てずに緩んだ。柄の留めがずれ、握れば空回りする。見た目は剣でも、まともに振れない剣になった。
なるほど。
癒しの流れに圧を混ぜると、回復じゃない方向へ転ぶようだ。直すのではなく、動きを止める。つなぐのではなく、関節を殺すのだ。
俺は息を整えた。力の配分を決める。敵を殺す必要はない。戦えない状態にすればいい。撤退させれば負傷者の増加は止まる。
俺は光を広げた。
白い光が城壁から外へ伸びる。糸じゃない、幕だ。砦の上の空気が一度だけ押し返され、砂が舞って頬に当たった。松明の火が横へ流れ、鎧の継ぎ目がきしむ。
喉の下が締まった。誓印が噛みつく痛みだ。
俺は喉元に指を当てて当たりの位置を押さえた。締め付けがほどけて息が通る。
光がさらに白くなった。目が焼けるような眩しさなのに痛みはない。白い幕が前へ押し出され、地面の泥水が一斉に跳ねた。
次の瞬間、前列がまとめて宙へ跳ね、盾と槍と鎧がぶつかり合いながら後ろへと吹き飛んだ。
盾ごと、槍ごと、鎧ごとだ。足が泥から抜け、身体が横へ転がる。倒れた兵の上に別の兵が重なり、列がまとめて崩れた。金属がぶつかる音が続き、盾が転がり、槍が泥に突き刺さった。
倒れた敵兵たちの奥に指揮旗が見える。
俺は光を細く絞って走らせ、旗竿の根元を打った。金具がずれて旗が傾き、そのまま倒れる。合図が消えると敵の列は揃わない。前が崩れている以上、退くしかないのだ。
敵軍はじりじりと下がり、やがて走った。泥が跳ね、盾が落ち、槍が折れる。逃げる足音が増える。
砦の上で兵の誰かが呟いた。
「聖女様が、戦を止めた」
俺は息を吐いた。体の芯は熱くない。喉の下だけが痛む。誓印が、今の行為を逸脱だと判断しかけている。俺は指先で当たりを押さえ、痛みをなくした。
ガイアスが呆然と俺を見た。
「今のは」
「負傷者を増やさないためです」
俺は聖女の声で言った。言い方を柔らかくする。
「これ以上の治療は、間に合わなくなりますから」
砦の中に戻ると、負傷者の呻き声はまだ続いていた。戦が止まっても傷は残る。俺はそれを一人ずつ止めた。止血、固定、痛みを薄くする。致命傷の者を優先した。その順番は俺が決めている。首輪の順番ではなく、目で見た順番だ。
夜にガイアスが書面を持ってきた。紙の表面に砦の印が押されている。
「本日の経過です。敵は撤退。砦の損害は最小。聖女様の処置で死亡者が減りました。王都へ報告します」
「ここに一文を足してください」
俺は紙の上に指を置いた。
「聖女の奉仕は王命に基づき、王国の兵と民の生命を守るために実施した。以上」
ガイアスは頷き、書き足した。文字が太い。軍人の文字だ。言い逃れができない文字だ。
王都へ戻ったのは翌日の夜だった。
神殿の廊下はいつも通り白く、香の匂いがする。血の匂いを上から塗る匂いだ。侍女が駆け寄り、無事を喜ぶ顔を作る。作った顔の奥に恐れが見えた。戦場の報告がもう届いているようだ。
グレゴールは礼拝堂の前で待っていた。手には紙束を持っていた。
「聖女様、お帰りなさいませ。ご無事で何よりです」
「ただいま戻りました」
俺は微笑みを整えて言うと、グレゴールは紙束の中から一枚の紙を取り出した。
「本日の奉仕について確認がございます。戦場での行動が規定に抵触する可能性が」
来た。
俺は答える前に、ガイアスの報告書を差し出した。砦の印が押された紙だ。軍の印は神殿の印より硬い。
「王へ提出する報告です。これが事実です」
グレゴールは一瞬だけ紙を見ると、目が揺れた。印を見て動揺している証拠だ。王都の外の印は神殿の内側の理屈を割る。
「ですが、聖女様の奉仕には優先順位がありまして」
グレゴールは頬を引きつらせながら続ける。
「誓印は聖女様を守るためのものです。戦場へ出るなどと」
「そのほうが被害が抑えられるからです」
俺は報告書の該当行を指で叩いた。紙が小さく鳴る。
「砦の損害は最小で死亡者が少数。負傷者を増やさないために戦を止めた。これが守った結果です」
グレゴールは口を開けたが、言葉が出ない。規定と言えば勝てる場面ではなくなったようだ。
横でレクスが黙って立っていた。鎧の匂いが残っている。剣の柄に手はかかっていない。だが目は鋭い。俺とグレゴールのやり取りを逃さない目だ。
グレゴールが、最後の逃げ道を探すように言った。
「教皇庁の指針と照らし合わせて」
「どうぞ、照らし合わせてください」
俺は微笑んだまま言った。
「照らし合わせた結果、私が違反だと言うなら、王命を違反にした根拠を添えてください。教皇庁と王のどちらが優先かも明記してください。私の魂を守るために必要なのでしょう」
言い返しの形は全部、相手の言葉を使った。
グレゴールの喉が鳴る。汗が一筋、こめかみを流れた。
俺は最後に、ほんの一滴だけ圧を漏らした。光に混ぜずに空気に混ぜる。近くにいる者の皮膚だけが感じる濃さにする。
グレゴールの膝が折れた。紙束が床に落ち、声が乱れる。
「せ、聖女様。私は、その」
言葉が続かない。口が動いても音にならない。目だけが俺を見て、次に視線を逸らした。逸らした先に逃げ道はない。
俺は圧を引いた。引くと同時に、聖女の声に戻す。
「グレゴール様、大丈夫ですか。お身体をお守りするために、座ってください」
グレゴールは座った。座らされた。首輪の鎖を握る側が、首輪の前で膝をついた。
レクスが一歩だけ俺に近づいた。喉の下の誓印を見て、次に俺の目を見る。
「お前は、何者だ」
俺は笑わない。笑えば軽くなる。ここは軽くしてはいけない。
「私は聖女セシリアですよ。昔も今も」
聖女の答えを口にしながら、俺は喉の下の輪の位置を指で確かめた。
首輪は締まる。だが締め方には癖がある。癖があるから、ほどき方もあるのだ。
明日、教皇庁が動く。紙と規定のもっと太い鎖が来る。俺はその鎖を使って、逆に締め返してやる。




