第一話「聖女の寝台、魔王の目」
闇の玉座は、冷たかった。
勇者の剣が胸骨を割り、闇の核を貫いた瞬間まで、俺は確かにそこに座っていた。魔族の王として。魔王として。
名はゼル=アーク。恐怖と畏怖で世界を縛り、積み上げた憎悪で生き延びた、最後の怪物。
終わりはあっけなかった。
血が熱いのは最初だけで、すぐに冷える。視界は暗くなり、玉座の重みが背中から消えていく。闇の玉座に刻み込んだ誓いも、軍勢の咆哮も、最後に残ったのは、剣を握る勇者の目だった。
あいつの目は、勝利の光じゃなかった。
討ったではなく、終わらせたという顔。あれが正義なら、俺のやってきた支配と何が違う。
くだらない。
俺は玉座ごと沈んだ。闇の核が砕けたなら、魂も散る。そういう仕組みだった。
だから次に目を開けたとき、白が視界いっぱいに広がっているのを見て、まず思った。
ここは地獄か。
天井は石造り。白い布。鼻を刺すのは香。甘いというより、消毒に近い匂い。どこかで水が流れる音がして、遠くから鈴のような祈り声が重なっている。
地獄にしては、清潔すぎるな。
俺はまばたきをして、身体を確かめた。
肺が空気を吸い、胸が上下する。心臓が規則正しく打っている。喉が乾いて、舌が上顎に張りついた。
腕を持ち上げる。細い。指も長い。爪は短く整えられている。戦場で剣を握っていた俺の手じゃない。
手首には白い包帯が巻かれていた。左右ともだ。巻き方は丁寧だが、締め付けが強い。絶対に解けないようにと意思を感じる。
包帯の端から覗く肌に赤黒い線が見えた。浅い線じゃない。皮膚が引きつっているのだ。
瞬間、視界の端が揺れた。
白い洗面台。冷たい床。
落ちた小さな刃物。
手首から垂れた赤が、指先を伝って床に点を打つ。
息が荒く、喉が鳴る音が耳に残る。
そして「ごめんなさい」と、誰かが小さく言った。
俺の記憶じゃない。
この身体の、元の持ち主のものだ。
セシリア。
そう呼ばれているらしい名前が、口の奥に残った。
俺は息を吐いた。
自殺未遂の痕。しかも、この線は未遂で終わっていない。死ぬ寸前の線だ。いや、死んだ線だ。身体の奥に冷えた残り香がある。死体が長く置かれたときの、血の止まった匂いに似ていた。
つまり、この身体は一度死んでいる。
それが今は、呼吸していた。
俺が入ったせいで、動き出したのだ。
理解したところで、扉が開いた。
「せっ、聖女様」
女の声がした。続いて足音が複数。布が擦れる音。皿が触れ合う小さな音。
白い服の侍女が二人、神官が三人。神官は胸に金の飾りを提げていて、指輪が光っている。
彼らは俺の顔を見るなり、膝をついた。
「女神の御加護だ、聖女セシリア様が目覚められた」
「奇跡だ。ようやく、ようやく」
泣くな。勝手に感動するな。
俺はまだ状況を掴んでいない。
侍女の一人が慌てて水差しを持ってきた。もう一人は布で俺の背中を支えようとする。
「お口を潤してください。許可は、いえ、いまは」
許可とはなんだ。この部屋は水をもらうにも許可が必要なのか。
俺は首をかしげると、侍女は息を飲んで神官を見る。神官は頷き、侍女はようやく水を差し出した。この部屋は命の水一杯にも許可がいるらしい。
俺はコップを受け取り、少しだけ口に含む。冷たい水が喉を通った。
身体がすぐ反応して、もっと欲しがる。だが満足するほど飲めば、何かの手続きが増える気がした。俺は半分で止めて、コップを戻した。
「ありがとうございます」
声が出た。
高い。柔らかい。女の声だ。丁寧な響きが勝手に混ざる。
俺が俺と言いそうになると、舌が先に私を選ぶ感じがした。
神官たちは互いに目を見合わせて、さらに泣きそうな顔になる。
「聖女様、お目覚めの第一の奇跡を。すぐに治療が必要な者がおります」
「侯爵家のご子息が、昨夜より高熱で」
「王城からも使者が」
要人、要人、要人。
人を順位で並べる匂いがする。俺はその匂いに覚えがあった。魔王の玉座も、同じ匂いで出来ていたのだ。
俺は黙って神官の顔を見る。言葉を選ぶ時間が必要だった。
この身体が聖女セシリアなら、ここで拒否した瞬間に終わる。
終わるというのは殺されるという意味じゃない。もっと簡単だ。閉じ込められる。口を塞がれる。祈りだけをさせられる。
包帯の下の線が答えだ。
セシリアは逃げようとして、死んだ。逃げ道がないから、死ぬ方へ行ったのだ。
なら俺は、同じ道は選ばない。
俺は微笑みを作った。頬の筋肉が思ったより動きやすい。鏡がなくても分かる。聖女はそういう顔を覚えさせられているのだ。
「落ち着いてください。順番に伺います」
言ってから、俺は内心で舌打ちした。口が勝手に善人の台詞を吐く。便利だが、腹が立つ。
神官の一人が、俺の前に小さな祈祷具を置いた。銀の皿に、白い蝋燭。火は点いていない。
神官が期待で目を輝かせる。
「どうか、祈りを……」
俺は皿を見下ろした。
困った。祈ったことなんて一度もない。俺は魔王だ。神頼みなんてするはずがない。
俺はとりあえず、形だけでもと両手を合わせてみた。指が自然に組まれる。
すると胸の奥で温度が上がった。血の流れが速くなる。心臓が少し強く打つ。
そして掌の間から光が漏れた。
白い光。
火のように揺れない。煙も出ない。眩しいのに、目が痛くならない。
光は蝋燭の芯に触れ、火が点いた。火は小さいが、真っ直ぐ立っている。
侍女が小さく息を呑み、神官たちの肩が震えた。
「ああ、聖女様」
神官たちから感嘆の声が漏れる。
しばらくして、俺は光を止めた。止め方も身体が知っている。
力はまだ余っていた。
呼吸は乱れていないし、頭も重くない。
神官が、興奮を抑えきれない声で言った。
「聖女様、癒しは魂を削ります。どうか、無理はしないよう」
「魂を削るとは」
俺の声が少し低くなった。すぐに整え直す。
「失礼。私の身体は今は大丈夫です。必要な方がいましたら、そちらへ案内してください」
どうやらこの癒しは魂を削るようだ。
だが俺の魂は今のところ削られていない。魔王の魂が厚すぎて削れないようだ。
無制限の癒しか。破滅の魔王の魂が癒しに特化しているとは笑えるものだな。
口角が微かに上がったまま息を吐くと、扉の外が急に騒がしくなった。硬い靴音が近づいてくる。金属が触れ合う音。油と革の匂いがするようだ。
今まで騒がしかった神官たちが一斉に背筋を伸ばす。
扉が開くと、そこには男が立っていた。鎧。白銀の剣。肩に刻まれた王家の紋。
そして、あの目。
勇者レクス・ブライト。
俺を殺した男が、俺の部屋に入ってきた。
距離は五歩。剣の柄に手が届く距離。
レクスは礼儀として頭を下げた。動きに無駄がない。戦場の兵士の礼だ。
「王命により、護衛に就きます。監視だと理解して構いません」
声は硬い。丁寧だが温度がない。
神官たちが慌てて補足する。
「レクス殿はあの魔王を討伐した英雄です。聖女様を守るために」
「守る、ね」
俺は言いそうになった言葉を飲み込んだ。
守るという言葉を使う人間は、だいたい縛ってくる。
俺は聖女の微笑を維持したまま、レクスを見た。
レクスは俺の顔ではなく、俺の胸元を見ているようだ。光の残り香を嗅ぐ犬のように、鼻が少し動く。目が細くなる。
気づいたか。
この光の中に、闇が混じっていることに。
レクスが一歩だけ俺に近づいた。靴底が石床を鳴らす。
彼の目が手首の包帯に落ちる。ほんの一瞬だが視線が止まった。
「この包帯は」
「体調の管理の一環です」
神官が割り込む。早い。
口を塞ぐ動きが染み付いている。
レクスの口が少しだけ歪んだ。怒りではない。疑いだ。
彼は神官ではなく、俺に向けて言った。
「無理はするな。聖女」
言い方が最後だけ短い。
心配か、それとも観察の言葉か。
俺は少し首を傾けた。
聖女の仕草として正しい角度を身体が知っている。
「お気遣いありがとうございます。レクス様、護衛としてよろしくお願いします」
レクスは返事をしない。
だが視線だけは俺から離さない。
そこへ別の男が入ってきた。
神官たちよりも服が上等で、布の縫い目が細かい。顔には笑み。目は笑っていない。
手には書類の束。
「聖女様。目覚められたこと、まことに喜ばしい限りです」
男は胸に手を当てて、深く礼をした。礼の角度は美しい。練習している角度だ。
「私はグレゴール。聖女様の生活と奉仕を取り仕切る者です。どうか、お預かりを」
グレゴールは書類を一枚、侍女に渡した。侍女は両手で受け取って俺に見せる。
「本日のお食事、入浴、休息の予定です。すべて聖女様のお身体を守るために」
「守るために、外出するにも書面が必要なのですか」
俺は微笑んだまま言った。
グレゴールの笑みが一瞬だけ固まるが、すぐに元に戻る。
「もちろん、必要に応じて。聖女様は王国の宝ですから。勝手な行動でお身体を損なうことは、誰も望みません」
望まない、ね。
聖女が壊れれば、商品が壊れるのと同じだ。困るのは管理者と顧客。聖女本人の話じゃない。
グレゴールはさらに紙をめくった。手つきが慣れている。ここで何人も聖女を扱ってきた手だ。
「そして明朝、教皇庁より使者が来られます」
「使者ですか」
「ええ。聖女様をお守りするための、大切な儀がございます。誓印の儀です」
誓印とは聖女を縛る首輪のことか。
言葉の時点でもう首が痛い。
レクスの眉がわずかに動く。彼もその儀を知っている。気に入っていない顔だ。だが止める立場ではない。
グレゴールは最後の一枚を、まるで贈り物のように差し出した。
「こちらが明朝の奉仕命令です。要人治療を最優先。王城より正式に」
紙には印章が押されていた。王の印。
命の順番が、紙で決まっている。
俺はその紙を受け取った。指先に紙の硬さが伝わる。インクは乾ききっていない。急いで作った命令書だ。
俺は目を通し、ゆっくり顔を上げた。
「承知しました」
声は聖女の丁寧さを保っている。
だが胸の奥では、別の言葉が立っていた。
拒否はしない。
だが、言われた通りにも動かない。
俺は微笑みを崩さずに、グレゴールを見た。
「ただし、奉仕の手順は私が決めます」
言い終えてから、少しだけ間を置く。言い方を柔らかく整えるのだ。
「私の身体を守るためにも、王国のためにも効率が必要ですから」
グレゴールは笑みを保ったまま、喉を鳴らした。
レクスは黙って俺を見ている。目が細い。疑いの形のまま、興味が混ざってきている。
いい。
この部屋の鍵も、書類も、誓印も、全部こちらが使い方を覚えれば武器になる。
聖女として祈り、癒し、微笑み、守る言葉で鎖を締め返す。
この国の聖女制度を、光と理屈で潰す。
俺は手首の包帯に視線を落とした。
セシリアは死んだ。逃げ道がなくて死んだ。
なら、俺は死なない。逃げ道を作る。たとえ、そのために誰かの喉元に紙の刃を当てることになっても。
明朝、誓印の儀。
そして奉仕命令。
地獄は清潔で、よく整っている。
だから壊しやすい。構造が見えるからだ。
俺は紙を畳んで枕元に置く。
祈りの鈴の音が遠くで鳴り続けていた。




