花咲き、花散る ~花咲か爺さん異聞~
枯れ木に花を咲かせましょう。
枯れ木に花を咲かせましょう。
枯れて乾いて朽ちゆく枝に、
美し花を咲かせましょう――
――はぁ、はぁ
荒く息を吐きながら、男が一人、夜道を走っている。髷も結わぬ伸びるに任せた髪に艶はなく、顔は手入れなどしたこともない髭に埋もれていた。時折後ろを振り返りながら、男は走り続ける。揺れる前髪の間から血走った目が見え隠れしている。
空には青白い月が煌々と道を照らす。川縁の柳が風もなく揺れた。水面に波紋が広がる。遠く足音、提灯明かり。殺気立ったざわめきが夜の静寂を密やかに刺す。男は舌打ちをして足を速めた。苦しげに咳。蒼い闇に散る。
当てもなく走る。草鞋が小石を弾く。川面がざわめく。滲む汗を風が撫でる。角を曲がる。視界が開ける。空に、月――
「おや」
月光の中に、浮かび上がるように一人の青年が立っていた。女物の着物を羽織った奇妙な男。細身の身体に白すぎる肌、赤い髪。女と見紛うような美貌が男を見る。夜の化生か、月の魔魅か。男は足を止める。青年は冷たく微笑む。
「このような良い月の夜に、騒がしいこと」
男にしては高い、女にしては低い声で青年は言った。男に話しかけているのか、独り言か、判然としない。あるいはどちらでも良いのかもしれない。格別に興味のある様子もない。息を止めていたことに気付き、男は大きく息を貪った。激しく咳き込み、手の甲で口を拭う。青年は男を見ている。男は懐から匕首を取り出し、青年に向けた。刃が月光を弾く。
「見たな」
男の低く威圧する声を、青年は冷笑で受け止める。
「見たなと言われれば、見ていないとは言えぬ」
青年の声が夜気を纏って広がる。男は匕首を構え、じりじりと青年に近付く。青年は面白がるように、侮るように、着物の袖で口元を隠した。男がさらに近付き、匕首が届く距離に踏み込む。薄く雲が月を隠し、男が刃を突き出し――
「助けてやろうか?」
青年の言葉に男の動きが止まる。
「追われているのだろう?」
雲が流れ、月が再び姿を現す。青年の月光に濡れた瞳が男を射抜く。男は青年を見つめ返し、すぐに視線を逸らして、再び青年を見る。
「俺を助けてお前に何の利がある?」
「疑うのならその刃で私の首を掻き切ればよかろう? だが、そうしたとてお前が助かる道があるとは思えぬがな。そら、お前を追う足音が、先ほどより大きくなっているぞ」
男は慌てたように後ろを振り返った。青年はくすくすと笑う。足音はまだ遠い、だが近付いている。男は青年に向き直る。匕首の切っ先が揺れる。
「ど、どうやって、助ける」
「知りたいか?」
焦らすように青年はゆっくりと男に近付く。男はごくりと唾を飲んだ。青年が男の耳元に顔を寄せる。紅を引いたような赤い唇が男に囁く。
「死ぬるのよ。今、ここで」
青年の右手の人差し指が男の左の胸に触れる。男の身体が硬直する。青年の指が男の胸に沈み込み、爪の先が心の臓に触れた。男が大きく目を見開く。青年が指を引き抜く。その指は赤に濡れていた。
「追われる生と断ち切る生と、お前にはどちらが救いかな?」
青年が笑う。男の口から赤が溢れる。夜闇が濃さを増す。月が嗤う。男はゆっくりと崩れ落ちた。
カッと目を見開き、男は勢いよく半身を起こした。全身が冷たい汗に濡れている。心臓が激しく鼓動を刻む。短い呼吸を繰り返す。男は喘ぐように胸に手を当てた。
「目覚めたようだな」
涼やかな声に顔を上げる。怜悧な美貌が男を見下ろしていた。ハッと目を見開き、男は自らの胸を確かめる。痕は、ない。呆然と青年を見上げる。青年は袖で口元を隠し、薄く笑っている。徐々に頭の靄が晴れ――鼻を突く異臭に咳き込む。周囲には骸の群れ。眼窩の奥の恨めしげな空洞が男を見る。男は口を押さえて身体を折り曲げた。
「今のお前はそこな骸と同じ。心の臓が拍を打っても、現に居場所を持たぬ」
腐敗と怨嗟の渦の中で青年だけが、泥中の蓮のように立っている。男は呻くように言った。
「……俺は、死んだのか?」
「ああ、死んだ。凶賊のお前は」
含みを持った青年の声に男は眉を寄せる。青年は楽しげに問うた。
「ここがどこか、分かるか?」
「……地獄?」
男の声がわずかに掠れる。青年は声を上げて笑った。
「ご期待に沿えず済まぬが、ここは町外れの死体置き場だ」
病死、異常死、原因不明死。疫病、あるいは呪いを怖れて、理解できぬ穢れは供養もされることなくこの死体置き場に放り込まれる。朽ちて骨となり果ててさえ顧みられることのないこの場所は、さながらこの世の地獄だろうか。
「お前がここにいる意味を理解しているか?」
青年が再び問う。優しく侮る声音が男の脳に染み入る。男は首を横に振った。青年は目を細める。
「お前は死んだということよ。殺し、奪って生きたお前は死んだ。死者を追うほど官憲は暇ではあるまい? つまり――」
青年の形の良い唇がはっきりと言葉を形作る。
「――お前はもう、追われることはない」
男は呆けたように青年を見る。そして視線を下げ、自らの両手を見つめた。言葉を理解するに従い、喜びが顔に浮かぶ。土気色の肌に血色が戻る。
男の口から声が漏れる。歓喜とも叫びとも取れる、意味を為さぬ声が響く。青年の瞳が淡く蒼を帯びる。
「幕府は滅び、世は新たな時代を迎えている。お前の生もまた、新たなものとなっておかしくはあるまい」
くくく、と喉の奥で笑い、青年は身を翻す。充満する死臭を裂くように花の香りがした。男は慌てたように立ち上がる。
「待て!」
男の制止には怒りが滲んでいる。青年は興味深そうに振り返った。男は青年をにらみつける。
「世が変わり、武士は魂を失った。刀を奪われ、誇りを奪われ、向けられるのは嘲りと蔑みの目よ! どこを見渡しても金、金、金! 卑しい町民風情が、金を持っているというだけで我らを芥のように見る!」
「凶賊に堕ちた己への言い訳か?」
青年は冷淡に言った。男はギリリと奥歯を噛み、憎悪を吠える。
「変わることを望んだのではない! 変わらなければよかったのだ! 与り知らぬところで律を変えられ、従わねば切り捨てられる。そのような理不尽、あってたまるものか!」
青年は興味の無さそうに鼻を鳴らす。
「武士の時代に戻せ、とでも?」
「いいや、違う」
男は即座に否定する。青年の目に再び興味が灯った。男は傲然と言い放つ。
「俺に金を寄越せ。新たな時代を生きるための金を。もはや刀の時代ではない。金がすべてを規定するのだ。お前は俺を生かした。ならばその責任を果たせ。この理不尽な世で、俺が生きる術を与えろ!」
青年は目を丸くし、そして大きな声で笑い始めた。心の底からおかしそうに、涙を浮かべて笑い続ける。ひとしきり笑い、青年は息も絶え絶えに目尻を拭った。
「なんという不遜! なんという傲慢! お前のような人間には、そうそうお目に掛かれるものでもない」
男は憎しみを込めて青年を凝視している。大きく息を吸い、恍惚を浮かべて、青年は濡れた目で男を見つめ返した。
「いいだろう。お前の望み、叶えてやろう。枯れて朽ちるを待つだけだったお前に、もう一度花を咲かせてやろう」
青年は袖から何かを取り出し、手のひらに乗せてふっ、と息を吹きかけた。粉状の粒子が舞い、風が粒子を男の許へと運ぶ。光を反射し、粒子は男の身体へと吸い込まれる。すると――
――カシャン
男の手から小判が溢れだし、地面に落ちる。男は目を見張った。
――カシャン、カシャン
小判は次々に溢れだし、地面に山を作る。輝きに目を奪われ、男の顔が驚喜に歪んだ。青年は男の様子を満足そうに見る。
「それだけあれば、お前を見下してきた輩を黙らせるなど容易かろう。せいぜい足掻くことだ。黄金の輝きがお前の未来を保証するというのならばな」
嘲笑を残し、青年の姿が解けて消える。青年がいなくなったことにさえ気付かず、男は膝をつき、小判の山を撫でた。
――ははは、はははははは
皺だらけの筋張った指が小判の山を崩す。死臭の中に響く虚ろな笑い声を、骸だけが聞いていた。
男は小判を金に変え、身なりを整え、戸籍を買い、商売を始める。莫大な資金で商品を買い占め、競合を排して値段を吊り上げる彼の商売は無数の恨みを買い、同時に彼の金に群がる無数の『協力者』を生み出した。『協力者』たちは男の金が尽きぬ限り裏切ることはない。そして、男には無限に金があるのだ。
――カシャン、カシャン
男の手のひらから小判が落ちる。今日も男は、買い付けた商品が売れず、大量の在庫を抱えていた。だが、そんなことは問題ではない。金がないなら生み出せばいい。まったく、あのおかしな青年には本当に感謝せねばならない。これほどにすばらしい力を与えてくれたのだから。濃く隈に縁どられた目で小判を見つめながら、男はこらえきれぬように笑った。
在庫の廃棄処分の書類に署名し、男はため息を吐く。商売は広がり、従業員は増え、いまや男は経済界でも名の知れた気鋭の経営者となっていた。どれほど失敗してもすぐに立て直す手腕は『奇跡』と称され、称賛の声を一身に集める。しかし男の顔に高揚はなく、こけた頬には不満と苛立ちがあった。
「……金があろうと、できぬことは多い、か」
男の扱う商品は利鞘の少ないものが多く、利益を出しにくい経営体質になっている。企業規模を拡大しようとすればより高利益体質への転換が必要だが、それを邪魔するのが『公権力』の存在だった。政府は財閥や一部の特権商人と癒着し、市場の寡占化を実現している。公権力への繋がり――人脈という力がなければ、これ以上の栄達は望めない。
「……こんなところで終わってたまるか。俺はまだ上に行くぞ」
昏い情念のこもった瞳で男は虚空をにらむ。洋燈の火が揺らめき、男の影が歪んだ。具体的な策はない。ただ、自らの価値を疑わぬ確信だけがある。
「助けてやろうか?」
不意に聞こえた声に振り返る。艶を帯びた愉しむような声には聞き覚えがあった。男が口の端を上げる。部屋の隅、洋燈の灯り届かぬ闇の中に、美貌の青年が立っていた。
「見ろ。私はここまで登りつめたぞ」
男は両腕を大きく広げた。青年は見透かすように告げる。
「だが、飽き足らぬのだろう?」
「そうだ!」
男は勢い込んで言葉を放つ。
「維新を為したか何か知らぬが、薩長の田舎侍どもが幅を利かせ、姑息な商人どもと組んで不当に利益を貪っている! 俺のような善良な商いは隅に追いやられ、腐った豚どもがいくらでも肥え太る。この国の経済は、腐っている!」
それは大変なこと、と青年は大仰に頷いてみせる。意を強くして男は唾を飛ばした。
「誰かが糺さねばならん! 歪みを放置すれば、この国は土台から腐っていく! 壊れてからでは遅いのだ! すぐにでも、誰かが立たねば!」
「ならば政府の高官を皆殺しにでもするか?」
青年の声音がからかうような響きを帯びる。男はぎょっとした様子で首を横に振った。
「い、いや、それは俺の本意ではない。悔い改めさせればそれで充分」
ほう、と青年は男を見つめる。軽く咳払いをして男は声の調子を落とした。
「地位のある誰かに繋がりを持てればよい。繋がりさえ持てば、あとは金でどうとでもなる」
男は期待を込めた目で青年を見る。青年は神妙な表情を作った。
「これは、大義よな」
「ああ、その通りだ!」
ぎょろりとした目で男が叫ぶ。青年は口元を隠して笑った。
「それでは、未来の英雄殿に微力ながら力を貸そう」
青年は袖から何かを掴み、前に突き出して手をわずかに開いた。手の隙間から細かい粒子がさらさらと落ちる。洋燈の光を受けて粒子は輝き、やがて一匹の犬を形作った。男は眉を怪訝そうに寄せる。犬が小さく吠えた。
「この犬を連れて雑踏を歩いてみろ。犬が反応する相手が、お前の望む相手に連なる者だ」
青年の意図を理解し、男の表情が崩れる。直接、政府の高官に会えるものではない。だが、友人や親族といった個人的な繋がりから辿り着くことはできる。辿り着きさえすれば金で落ちる。なにせ元々、財閥連中と組んで尻を貪るような輩だ。
「己の大義を貫かれんことを、祈っておるよ」
殊更に『大義』を強調し、青年は闇に染み入るように姿を消した。男は犬に近付き、愉快そうに笑う。尾を振らぬ犬の耳が不快そうに垂れた。
犬に首輪と紐をつけ、男は道を歩いていた。首輪が不快か、男に紐を持たれているのが不快なのか、犬は不機嫌そうに鼻にシワを寄せている。道には多く人が行き交うが、犬はその誰にも興味を示さず、ふてぶてしく歩みを進めた。
やがて男の前に大きな寺の門が現れる。人波は途切れ、参道を行き来する人々の顔が見えた。男は門を見上げる。生まれてからこれまで、一度も仏に祈ったことはない。
不意に犬が男を振り切って駆け出す。紐を手放し、あっけにとられた様子で男は犬を視線で追った。犬は尾を千切れんばかりに振り、一人の娘に飛びかかる。娘は悲鳴を上げ、犬に押し倒される形で参道に尻もちをついた。
「も、申し訳ない! 大丈夫ですか!?」
慌てたふうを装い、男が娘に駆け寄る。まだ満足に恋も知らぬであろう娘は、はにかんだ笑みを浮かべた。
「はい。少し驚いただけです」
男は紳士然として娘に手を差し出す。娘は気恥ずかしそうに手を取った。男は娘を立ち上がらせる。しっかりと仕立てられた着物の裾が土埃に汚れていた。
「私の犬が美しいお召し物を汚してしまいました。どうかお詫びをさせてください」
薄汚れた真摯な瞳で男は娘をまっすぐに見つめる。娘は恐縮し、「結構です」と断った。しかし男はどうしてもと譲らず、根負けした娘は、
「……お言葉に甘えて」
と頷いた。男が大げさに感謝を告げ、娘の手を引く。犬が大きくあくびをし、男は娘と共に寺の門を出た。
男は汚した着物の代わりに洋服を仕立てる。仕立てた洋服を届けるという名目で再会を約束させた男は、娘の屋敷へと上がり込むことに成功した。初めての洋装にぎこちない笑みを浮かべる娘に、
「よくお似合いですよ」
と男は微笑む。娘の顔に朱が上った。
その後も男は、「洋装に似合う髪飾りを見つけた」「美しい細工物を手に入れた」と言っては娘を訪ねる。珍しい舶来の贈り物に娘は目を輝かせ、十以上も歳の離れた男に徐々に特別な感情を抱き始めたようだった。幾度かの交流を重ねた後、男は娘に紅茶を勧め、世間話の延長のように言った。
「ところで、貴女のお父様はどのようなお方なのでしょう? このような立派なお屋敷の主なのですから、さぞ立派なお方なのでしょうね」
男の足元で犬が寝そべっている。娘は表情を暗くして目を伏せた。
「……私はこの家の娘ではありません。ここは叔父夫婦の家なのです」
これは、失礼を、と男は謝罪する。娘は首を横に振った。
「父と母は、御一新の混乱の中で凶賊に襲われ、命を落としました。私だけが生き残り、叔父夫婦に引き取られたのです」
「なんと! それは、ご苦労をなさいましたね」
男は痛ましげに目を伏せる。紅茶の表面に波紋が揺れる。娘は痛みに耐えるように目を閉じた。男は顔を上げ、娘をまっすぐに見つめる。
「御一新は世を一時に変えてしまった。それは必要な変化であったかもしれませんが、多くの犠牲をも生み出しました。私もかつては武士であり、御一新で家族を失いました」
「貴方様も?」
娘が顔を上げる。男は神妙に頷く。
「大切な人を失う悲しみは痛いほど分かります。私は、幸いにして新たな世に居場所を得たが、多くの者が時代に呑まれ、残念ながら凶賊に身をやつす輩も少なくなかった。一歩間違えば、貴女のご両親を殺めたのは私であったかもしれない」
「貴方様はそのようなことなさいませぬ!」
娘が悲鳴のように声を上げる。目尻にうっすらと涙が浮かんだ。男は微笑み、
「……ありがとう」
娘の目尻を拭う。男は決意と覚悟を宿した瞳で娘に語る。
「私にはあの時代を生きた責任があります。あのような悲劇を、決して繰り返させてはならない。新たな時代は万民が幸せに暮らしていける世界でなければなりません。私の力はわずかですか、少しでも、世を良くすることができればと、思っています」
娘の目が再び潤む。一度目を閉じ、自ら涙を拭って、娘は男の決意に応えるようにうなずいた。
「叔父は大蔵卿に仕える官僚をしております。貴方様の志を知れば、きっとお力をお貸しくださるでしょう。どうか叔父にお会いになって。貴方様は時代に必要とされるお方です」
「本当ですか!?」
思わずといった風情で男は娘の手を取り、両手で包むように握りこむ。
「ありがとうございます! なんと心強い!」
触れるほどに近付く顔を間近にして、娘は顔に朱を注ぎ、目を丸くする。犬が耳を伏せ、男の顔が歓喜の形に歪んだ。
娘の叔父は長州閥に属し、陸軍とも繋がりのある人物だった。叔父は男の財力に目を付け、軍事物資の納入を男に持ちかける。それは叔父が意図的に高額に発注し、男が受注することによって生じた差額を還流させる取引だった。男は快諾し、商売は飛躍的に拡大する。もはや男は経済界に影響力を持つほどの権力を得ていた。娘と肌を重ね、叔父とは共犯関係を保ち、軍部に繋がりを持つ。しかしそれでも、男が満たされることはなかった。
「俺は元々、幕府の直参旗本の家柄だったのだ。なぜ薩長の、しかも卑しい家柄の者どもに頭を下げねばならん」
私室で一人、男は虚空をにらみつける。元はと言えば、あの薩長土肥の賊徒どもが反旗を翻したことですべてが狂ったのだ。それさえなければ、男はいずれ幕閣に連なる者として将来を約束されていた。それがどうだ、一時は凶賊にまで身をやつし、世の底を味わう辱めを受けた。そして今も、本来賊徒であった者どもの顔色を窺っている。そのような理不尽がまかり通るのが新たな世か? もはや世に正道は廃れたとでもいうつもりか!
「本来なら、俺はあの者どもに傅かれる立場だったのだ!」
男は力任せに机を叩く。洋燈が金属音を立てて揺れ、ふっ、と火が消える。窓から月光が射し込んでくる。
「助けてやろうか?」
水晶のように透き通る硬質な声が聞こえ、男は窓辺を見る。冴え冴えとした光が凝集したかのように、いつの間にか青年が立っていた。男は腰を浮かせ、欲を隠そうともせず青年を凝視する。
「今度は何をしてくれる?」
青年は目を細め、愛おしげに微笑む。
「簡単なこと。卑しい者どもがお前を見下すなら、その者どもより高い場所に昇ればよい」
「高い、場所?」
男は眉を寄せ、考えるように視線を落とす。しばしの沈黙の後、男はハッと顔を上げた。
「官位か!」
青年は艶然と月光を纏っている。
「相応しき者が相応しき位を得る。当たり前のことだろう?」
男は陶然として何度もうなずく。
「そう、そうだな。もし維新などなければ、俺は官位を得ておかしくない」
青年は口元を隠すと、
「未来の貴人に祝福を」
そう言って袖から粉状の何かを取り出し、中空に撒く。窓が自ずと開き、部屋の内から外に向かって風が吹く。風は粉を運び、月に照らされて光の河のごとく流れる。
「近く、お前はあるべき姿を取り戻すだろう」
青年が預言者の神聖を帯び、夜気に溶けて消える。己の未来の確信を得て、男は強く拳を握った。
夕闇の気怠いざわめきを鈍重な鉄靴が破る。制服姿の憲兵が屋敷になだれ込んでくる。私服のまま、顔を引きつらせて娘の叔父が叫ぶ。
「無礼であろう! 私が誰か、知った上での狼藉か!」
憲兵隊長が叔父の前に立ち、冷酷な眼差しで言った。
「無論、存じております。あなたが行ってきた不正の数々も」
叔父の顔から血の気が引く。憲兵隊がここに来たのは不正が発覚したからではない。叔父は不正を揉み消すことができるほどの権力を失ったのだ。
「ま、待て! 大蔵卿に連絡を! 話を、聞いてくれ!」
「連れて行け」
叔父の言葉を無視し、憲兵隊長は無表情に告げる。憲兵が両脇から叔父を抱え、引きずるように屋敷から連れ出す。
「叔父様!」
娘が蒼白な顔で叫んだ。毎日のように屋敷を訪れていた男の姿はない。
「閣下の御高名はあちこちで耳に届いておりました」
にこやかな笑みを浮かべ、男は向かいに座る恰幅の良い男を見る。男の足元には犬が寝そべり、退屈そうにあくびをしていた。恰幅の良い男は政府の参議に名を連ねる、この国の最高権力の一角だった。
「私は閣下と新時代の志を同じくする者。必ずや閣下のお役に立てると存じます」
男は娘の叔父との関係を切り捨て、不正資金の還流の仕組みを手土産に参議の許を訪れていた。長州閥であった娘の叔父と対立関係にあった参議は、男が娘の叔父に見切りをつけたことに大いに留飲を下げたようだ。参議は満足そうにうなずく。
「君には期待している」
男は深く頭を下げる。ところで、と参議は値踏みするように男に言った。
「私には娘がいてね。そろそろ婿をと思ってはいるのだが、これがどうしようもない跳ねっかえりで、困っているのだ。君は未だ独り身とか。どうかね? 私の娘を貰ってくれんか」
男は顔を上げ、驚いたように目を丸くして見せる。
「なんと! 閣下とご縁を繋ぐことができれば望外の喜び! 恥ずかしながら、私には今、懇意にしている女性はおりませぬゆえ、閣下さえよろしければ是非、お受けいたしたく」
参議は愉快そうに相好を崩した。
「君のようにしっかりした男が娘の面倒を見てくれるなら安心だ。よろしく頼むよ」
「ははっ」
男は再び頭を深く下げる。参議から見えぬその顔に嘲笑が浮かんだ。犬が顔を上げ、参議を見つめて小さく息を吐いた。
参議の娘との結婚式を間近に控え、男は一人椅子に座り、こらえきれぬように笑っていた。琥珀色の洋酒がゆらゆらと洋燈の光を反射している。男はすでに相当の杯を重ねていた。
「これほどまでにうまくいくとは」
犬が嗅ぎ分けた参議は、驚くほどに浅慮だった。自らは決して裏切られることがないという根拠のない自信に満ち溢れ、他者を道具としてしか認識しない。そういう輩は利益をちらつかせてやれば簡単に踊るものだ。自分こそが世を動かすと信じ込む憐れな人形。
参議は踏み台に過ぎない。血縁となり、あの男の持つ権力基盤と資産を奪えば早々に退場してもらう必要があるだろう。そもそも参議という地位はあの男に相応しいものではない。愚物が国を差配する悲劇は速やかに幕を引かねばならない。
「この俺こそが参議の地位に相応しい」
男がグラスの琥珀をあおる。心地よい酩酊感に身を委ねる。もうすぐ、もうすぐだ。本来あるべき姿を取り戻すのだ。今までの人生は全て、誤りだった。凶賊に堕ちたことも、卑しき者どもに嘲笑を受けたことも、維新の英雄などともてはやされた下級武士どもに頭を下げたことも、すべては悪い夢であったのだ。俺は最初から、この場所にいるべき人間だったのだ。
ふと、足元を見る。そういえば、いつも鬱陶しいほどに足元にいた犬がいない。どこに行ったのだろう。いつからいなくなったのか。……どうでもいい。犬畜生如きがいなくなったとて何の違いがあろう。俺は参議なのだ。俺に逆らえる者は誰もいないのだ。グラスに新たな酒を注ぐ。洋燈が男の影を濃く浮かび上がらせていた。
婚礼衣装を仕立てるため、男は婚約者と共に馬車に乗っていた。男は洋装での結婚式を提案し、今日はそのための採寸を行うのだ。洋装に馴染みのない婚約者は、不安と好奇心が混ざったような表情をしている。男は婚約者に微笑みを向けた。
「貴女なら洋装でも和装でもきっと良くお似合いです。そうだ、式の途中で洋装から和装に着替えてはいかがでしょう? きっと皆驚きますよ」
それは面白そうね、と婚約者は笑う。馬車が揺れ、男が手を伸ばして婚約者の肩を支えた。二人は近い位置で見つめ合う。婚約者が恥ずかしげに視線を逸らせた。
洋裁店の前に到着し、御者が馬車の扉を開ける。婚約者の手を取り、男は馬車を降りた。婚約者が地面に足をつけると同時に、荒々しい靴音と共に馬車が取り囲まれる。サーベルを腰に提げた制服姿の憲兵が男を見据えた。
「ご同行いただこう。貴方には贈賄及び収賄の容疑が掛けられている」
男は婚約者を背にかばうと、冷静な口調で言った。
「何か誤解をなさっているのでは? それとも、確たる証拠はおありかな?」
憲兵は無表情を変えずに答える。
「証拠はない」
男は話にならぬと鼻を鳴らした。
「それでは証拠が見つかってから――」
「だが」
男の言葉を憲兵が鋭く遮る。
「長州者を甘く見てもらっては困るのだよ」
男の顔からスッと血の気が引く。憲兵の言葉は、証拠の有無など問題ではないことを伝えていた。男は観念したように目を伏せて笑うと――婚約者を突き飛ばして憲兵にぶつけた。予想していなかったのだろう、憲兵が婚約者ともどももつれて倒れる。周りを囲む他の憲兵たちも呆気にとられたように固まった。男だけが崩れた包囲の一角を抜けて駆け出す。ハッと我を取り戻した憲兵の一人が叫んだ。
「追え! 絶対に逃がすな!」
狭い裏路地を男は走る。憲兵の足音があちこちから聞こえる。喘ぐように息をする。忌々しいほどに陽光がまぶしい。
まずは参議の屋敷に逃げ込むのが先決だろう。参議は長州閥とは対立する立場にある。「証拠はない」という憲兵の言葉を信じれば、参議が男を憲兵に差し出す理由はあるまい。むしろ参議は男とは共犯関係にある。秘密の暴露を怖れ、積極的に庇おうとするはずだ。懸念があるとすれば婚約者を突き飛ばして逃げたことだが、そんなものはいくらでも言い訳できる。参議は親子の情愛よりも自身の地位や財産を優先する愚物だからだ。
足音に怯え、息を殺し、ゴミの影に隠れ、雑踏の人波に紛れて、男は参議の屋敷へと向かう。大きく道を迂回し、いつもの倍以上の時間をかけて屋敷の見える場所までたどり着いたとき――屋敷はすでに憲兵隊に包囲されていた。ちょうど屋敷の扉が開き、参議が連行されていく姿が見える。男は目を剝き、息を飲んだ。
「……なんと、なんという役立たず!」
吐き捨てるようにそう言って、男は参議を乗せた馬車をにらむ。これは、長州閥に属する娘の叔父を裏切った男に対する意趣返しではなかったのだ。参議が長州閥との政争に敗れた、その結果だったのだ。いわば男はとばっちりを受けたのだ。すべてはあの肥え太った無能な豚のせいだったのだ。
忌々しげに舌打ちをして、男は身を翻す。政治的な後ろ盾を失ったからと言って、まだすべてを失ったわけではない。金だ。金さえあればいくらでもやり直せる。そして金ならば腐るほどあるのだ。男は久しく訪れていなかった自らの会社へと向かった。
息を切らし、半ば足をもつれさせながら、男は自らが築いた会社までたどり着いた。空は茜色に染まり、遠く烏が鳴く。門の前では二頭立ての馬車が待機していた。男は会社の門をくぐり――門衛に遮られる。
「大変申し訳ございません。部外者の方の立ち入りはご遠慮ください」
「部外者だと!?」
男は気色ばんで門衛に詰め寄る。
「部外者とは何事か! 俺はこの会社の社長だぞ!」
門衛は一瞬、面倒そうな表情を浮かべると、すぐに労わるような笑顔になって男の肩を軽く叩いた。
「ああ、はいはい。社長さんね。失礼しました。でも、今ちょぉっと忙しいから、一度ご自宅にお帰りいただけますか? ごめんね?」
男が目を剥き、言葉を失う。徐々に顔が紅潮し、男は門衛の胸ぐらを掴んで唾を撒き散らせた。
「貴様をクビにしてやる。今すぐ社員を呼んで来い!」
門衛は困ったように頭を掻いた。会社の玄関が開き、壮年の男が二人、連れ立って出てくるのが見える。一人はかっちりと洋装を着こなし、もう一人は軍服を着ていた。門衛は振り返り、慌てたように男を振り払って姿勢を正した。
「何事か」
洋装の男は冷たく門衛に尋ねる。男は洋装の男に目を向けると、勢い込んだ様子で言った。
「いいところに来た! おい、この門衛をすぐにクビにしろ!」
「あ、こらっ! 社長になんて口をきくんだ!」
門衛は慌てて男を制止する。男は怪訝そうに眉をひそめた。洋装の男は芥を見る様な目で男を見る。
「お久しぶりですね、元社長。まだ会社に興味がおありとは知りませんでした」
男が混乱した様子で洋装の男を見る。この洋装の男は、右腕として重用していた忠実な部下だったはずだ。なせ社長と呼ばれている? なぜ俺をそんな目で見ている?
「申し訳ありません。この男が、自分は社長だと言って中に入れろと」
門衛が緊張気味に説明する。洋装の男は小さく息を吐いた。
「ご自宅に郵送したはずですが、貴方は先日の総会で代表職を解任されました。今の貴方は会社とは何の関係もない部外者です。どうぞ、お引き取りください」
「何だと!? そんなことは、私は聞いていない!」
洋装の男は深く息を吐く。
「総会への出席のご案内も、決定後の通知も、何度も行っております。今さら聞いていないと言われても、これは決定事項です。もうよろしいですか? こう見えて忙しい身の上なのです」
「ふざけるな! この会社は私が作ったものだ! 私のものだ! お前ごときに好きにさせてたまるものか!」
掴みかかろうとする男を門衛ががっちりと掴む。洋装の男は頭痛を押さえるように額に手を当て、諭すように言った。
「我々は今も、長州の皆さま方と懇意にさせていただいております。もはや貴方とは別の道を歩んでいるのです。はっきりと言いましょう。貴方は会社にとって、もはや害悪なのです」
洋装の男は何の価値も見出さぬ目で男を射抜いた。
「今、すぐに去るがいい。さもなくば憲兵を呼ぶ」
憲兵、という言葉に男の方が震える。憎しみを込めた瞳で洋装の男をにらみつけ、男は背を向けて走り出した。洋装の男は軍服の男に頭を下げる。
「お目汚しを」
「構わん」
軍服の男は去っていく男の背を見つめる。
「己の器量を見誤るとああなる。覚えておけ」
「肝に銘じましょう」
憐れみと侮蔑を吐き出し、洋装の男は軍服の男と共に馬車に乗り込んだ。
――はぁ、はぁ
荒く息を吐きながら、男は一人、夜道を走っている。振り乱した髪は土埃にくすみ、顔は血の色を失っていた。時折後ろを振り返りながら、男は走り続ける。揺れる前髪の間から血走った目が見え隠れしている。
空には青白い月が煌々と道を照らす。川縁の柳が風もなく揺れた。水面に波紋が広がる。遠く足音、ガス燈の明かり。殺気立ったざわめきが夜の静寂を密やかに刺す。男は舌打ちをして足を速めた。苦しげに咳。蒼い闇に散る。
足がもつれ、男は地面に顔をぶつける。顔が土に塗れた。歯を食いしばって立ち上がる。足が震える。光届かぬ路地に飛び込み、男は塀に背を預けて座り込んだ。
なぜだ? どうしてこうなった? 俺は参議になるはずだった。そうなるのが当然だった。なのになぜ追われている? 俺が一体何をしたというのだ? このような理不尽がなぜまかり通っている!
そう、そうだ。あの参議が悪い。あの無能が、俺を守るだけの力がなかったのだ。俺は騙されたのだ。俺は信じたのに、裏切られたのだ。
いや、そもそも長州の者どもが度し難い。自分たちも不正に手を染めていたではないか。それを執拗に、俺だけを責めるなどどうかしている。いいや、だいたいが新政府のものどもは皆おかしいのだ。この俺の才を認めず、相応しい地位を与えぬ狭量さが理解を超えて哀れですらある。
会社の人間はさらに滑稽だ。創業者たる俺なしで、本当に経営が立ち行くとでも思っているのか? あの会社の人間は皆、俺の金に群がる寄生虫だ。俺の指示の通りに動いているだけの能無しどもだ。俺がどれだけ損失を補填してやった? 俺が生み出す金がなければ――
男は自らの両手に視線を落とす。そう、そうだ。俺にはまだこの力がある。望むだけの金を生み出す力が。権力、人脈、そんなものは虚飾に過ぎぬ。最後に物を言うのは金なのだ。金さえあれば、できぬことは何もないのだ。それが明治という新しい時代の理なのだ!
男は目を閉じ、手のひらに意識を集中する。望めば小判が溢れる。いくらでも金が生まれる。まずはこの金で憲兵を買収しよう。それから、それから――
男が目を開ける。厚い雲が月を隠し、視界を覆う。何も見えない。どれだけ望んでも、黄金の色が見えない。
「なぜだ!」
男は天に叫ぶ。声は何に反射することもなく闇に拡散する。なぜだ。なぜ金が出てこない。あの化け物じみた男が俺を騙したのか? どうして俺が、俺だけがこれほど苦しめられなければならない!
「出ろ! ……出ろ!!」
男は右手首を左手で掴み、力を込めて念じる。手のひらからは砂の一粒も現れはしなかった。男は膝に頭をうずめる。その目から涙が溢れた。
よろよろと立ち上がり、男は路地を出る。憲兵の鳴らす笛の音が聞こえる。足音が近い。唇を噛む。
当てもなく走る。草鞋が小石を弾く。川面がざわめく。滲む汗を風が撫でる。角を曲がる。視界が開ける。空に、月――
ハッと息を飲み、男は足を止めた。月光の中に、浮かび上がるように一人の女が立っていた。男がかつて見捨てた娘――娘は男が最初に買い与えた洋服を着ている。
「お待ちしておりました」
娘は優しく男に微笑みかける。男は縋るように娘に手を伸ばした。
「助けてくれるのか! おお、おお!」
男は溢れる涙を拭いもせず、おぼつかぬ足取りで一歩ずつ娘に近付く。娘は両手を広げて男を迎える。
「ええ。共に参りましょう」
娘の瞳が喜びに濡れる。救いを見出したように男が笑った。
「お前だけだ。俺には最初から、お前だけだった!」
娘は慈母のように微笑んでいる。男は娘の胸に倒れ込んだ。男を抱き止め、娘は陶酔したように告げる。
「ずっとお待ち申し上げておりました。貴方がお帰りになるこの時を」
男は娘の胸の中で何度もうなずく。娘は微笑みを崩さないまま、腰の短刀を抜く。刃が月光を弾く。愛おしく抱きしめるように、娘は男の背に短刀を突き立てた。
「……な…ぜ――?」
顔を上げ、信じられぬものを見る目で男は娘を見る。ずるずると崩れ落ち、男は地面に横たわった。娘は膝をつき、虚ろな瞳の男の頭を抱える。
「……ああ、やっと帰ってきてくださった。私だけの、旦那様――」
娘は男の頭を何度も撫でる。煌々と月が世界を照らす。娘は男だけを見ている。幸せそうに、愛おしそうに。
青白い夜闇の中で、一人の娘が死体を抱え、微笑を浮かべて独り言をつぶやいている。娘の傍らにはいつの間にか、赤い髪の青年が立っていた。青年は死体を見下ろす。死体はみるみるうちに、枯れ枝のように細ったかと思うと、末端から白い灰となって崩れた。風が灰を巻き上げ、青年の手のひらに集まる。青年は灰を袖に仕舞った。
「枯れ木は情念に焼かれて灰となり、灰は枯れ木に花を咲かせる。花は情念を育て、枯れ木を身の内から焼いていく」
歌うようにそう言って、青年は美しく微笑む。
「――人間とは、かくも面白い」
青年の輪郭が徐々に滲み、やがて蒼い夜闇に消える。愛おしそうに虚空を撫で続ける娘の姿だけが、月夜に照らされていた。




