表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

真夏の残響・結


「やあ、おはよう響ちゃん」

「あっ……お、おはようございます」


次の日、僕は朝早くベンチで響を待っていた。

彼女に会うために。

いつもは響のほうが先に座っているのに、今日は僕が居たので彼女は驚いたようだった。


うんうん、その顔が見たかったんだ。


「…今日は早いんですね」

「ちょっと用事があってね」


響は少し恥ずかしそうに僕の横を通り過ぎて、慌てたように洗面台で寝癖を直している。

響がちゃんと驚いてくれて僕は満足した。早起きした甲斐があったね。


「……もう帰るんですか?民俗調査は…お兄さんの願いは叶ったんですよね…?」

「まぁね。僕の知りたいことは知れたよ。でもまだ帰らないよ。僕にはまだやりたいことがあるから」

「そうですか……」


響は複雑そうな顔で、でも少しだけ嬉しそうだった。

その顔に、僕はなぜだか胸が締め付けられる。


…僕は彼女に申し訳なく思っているのだろうか?

そんな権利なんて僕にはないっていうのに____


「用事ってのはね響ちゃん。君のことなんだけど」

「えっ?!」

「ほら、僕はまだ君に"報酬"をあげてないと思ってさ」

「報酬……?あっ!」


あの雨の日の競争で、僕は響の言うことをなんだって聞いてあげる約束をした。


僕は約束は守る男なのだ。

まぁ、程のいい言い訳があったから使ってるだけだけども。



最後に…彼女の願いを叶えられるのであれば、理由はなんだっていいのだから。



「ねえ響ちゃん。響ちゃんは何かやりたいことはないかい?」

「やりたいこと…ですか。急にだからあんまりでてきませんね…」

「なんでもいいんだよ。これは君へのお礼も兼ねてるんだからさ」



「うーん……それじゃあ子作「それ以外でだ!」



僕がすかさずツッコむと、響はくすくすと笑い出した。全く、そう言うと思ったよ…


でも、こうやって軽口で言えるということは響の中で良い方向へと向かっている証拠だろう。


「ふふっ、冗談ですよ。それにそのお願いはお兄さんには重たいですもんね?」

「君はこの一ヶ月で実に成長したね。主にユーモアと皮肉の部分がだけど」

「側に悪い人がいるからかもしれませんね」


僕らはどちらともなく笑った。

この軽口の応酬がとても心地よい。

それはきっと、僕らが近づいたからだろう。


この世界中の誰よりも……

君の笑うその顔が、僕は____



「それなら今日、一緒に泳ぎませんか?」


響が僕を海に誘ってくれる。


「いいね。実に夏休みだ」


僕は一も二もなく頷いた。




僕らは浅瀬に飛び出した!




探索している時から思っていたが、浅瀬の水温はちょうどよくて泳ぐにはもってこいなのだ。

今日の響はちゃんと水着を着ている。

フリルのついたワンピースタイプのやつだ。



「どっちが早く泳げるか競走しませんか?」

「望むところだよ。こう見えて僕は泳力検定三級だからね」



僕らは浅瀬を往復する勝負をすることにした。

もちろん結果は僕のボロ負け。

長く泳げることと早く泳げることは別の話なのだ。



「ふん、僕にはこうやって浅瀬を浮かぶのがお似合いなんだ……」

「もー、拗ねないでくださいよ。次は素潜りでもしますか?」



響はぷかぷか浮いている僕の腹にワカメを乗せてくる。僕を刺し盛りの器にしようとするのはやめなさい。

ま、響が楽しそうだからいいか。



「素潜りで僕に勝てると思うなよ!」



素潜り対決の後も僕らは色んなことをした。

浅瀬に潜む生き物を探したり、響から僕には理解できない泳ぎのコツを教えてもらったり…



僕らは太陽が天辺に昇るまで浅瀬を遊び尽くした。



「それじゃあお昼にしましょうか」



僕らはそうめんを啜る。

棚の奥から引っ張り出してきた賞味期限切れのそうめんを、自分たちで茹でた。

開けたベランダから入ってくる潮風を浴びながら食べるそうめんは、どこか懐かしい気分になる。



「お兄さん。お昼からも…付き合ってくれますか?」

「もちろんいいとも」




僕は、大張島最後の時間を響と一緒に過ごすことにした。




「お兄さん、こっちです」


昼下がりに響が僕を案内したのは、以前響が唄を歌っていた場所だ。


勾玉島の窪み部分にあるちょっとした砂浜。

ここの景色だけ切り抜けば、まさしく南国のビーチにも見える様相だ。

ここにヤシの木があれば完璧だったのだが。



「また、一緒に唄いませんか?」

「いいね!」



僕らはそこで日が落ちるまで音楽を奏でた。


楽器も弦楽さんの三味線を借りてきて弾いてみた。

正直僕の三味線は聴けたものではなかったと思うのだけれど、響は嬉しそうに三味線の音に耳を傾けていた。


唄を歌い、音を奏で、夕陽が水平線の彼方へと沈んでいくのを、二人並んでただ眺める。



そして、太陽の代わりに月が昇ってきた。

今宵は満月。夜遊びをするにはうってつけの日だ。



「ねぇお兄さん、これ見てください」

響が地面にしゃがみこんでちょいちょいと僕を手招きする。


「お兄さんにはこれが何かわかりますか?」


響がイタズラっぽく指し示したそこには、ちょこりと何かの"蕾"が砂の中から顔をのぞかせていた。

はて、なんだろうか?

よくよく見れば、それは砂浜のあちらこちらにぴょこぴょこと生えているではないか。


「これは初めて見たね、見逃してたよ。でもこんなの前にあったっけ?響ちゃんが何か植えたの?」

「ふふ、まぁ見ていてください。そろそろですから…」

「ふむ?」



「お兄さんにだけ…特別ですよ」



月を覆っている雲の切れ間から柔らかな月光が差し込んでくる。

まるでそれを待ち侘びていたかのように、月に照らされた蕾たちが一斉に花開いた。



「わぉ…」



まるで海面みなもに映る月のような青白色の花からはキラキラと煌めく花粉がスターダストのように立ち昇り、浅瀬の砂浜は一瞬にして星空の花畑へと姿を変えた。


えもいわれぬほどに幻想的な……神秘的な美しい景色だ。



「…綺麗だね」

「ふふ、そうでしょう?これはスナノシタって言うサボテンなんです」

「サボテン!?」



響が砂をかき分けると、まるまると太ったサボテンが姿を現した。

花と同じような色の艶やかな表面には申し訳程度に針がいくつか伸びている。

その針は普通のサボテンよりも数が少なく、一本一本がとても柔らかかった。



「はいどうぞ。こうすると夏の間は花を楽しめるんですよ」



響は掘り出したサボテンを持ってきていたガラスの花瓶に入れると、そこに海水を注いだ。

サボテンは嬉しそうにプカプカと浮いている。



「いやはや…この島独自の生態系には驚かされてばかりだね」

「スナノシタは毎年、夏の間だけ蕾を砂の上に出して花を咲かせるんです。だから、外の人でこれを知ってるのはお兄さんだけですよ」

「いやぁ、つくづく厳さんに頼み込んでこの時期の大張島に来て良かったとそう思うよ」



「ありがとう響ちゃん。僕にこれを見せてくれて」

「い、いえ…お兄さんなら喜んでくれるかと思って…」


響は照れながらくるくると髪をいじっている。



僕らはしばらくその美しい景色を眺めた。

もちろん僕は携帯を取り出して写真を撮り出すなんて野暮な真似はしない。


これは大張島の…僕と響だけの、大切な秘密なのだ。

この思い出は心のフィルムにしまっておくべきだろう。



「前に父が言ってたんです。サボテンに唄を聞かせてあげると綺麗な花が咲くって」

「ああ、僕もその話は聞いたことがあるね。周波数がどうたらって」

「それを聞いて、私うれしくなって毎日サボテンたちに唄いかけてたんですよ!父はそれを笑って見てたんです!」

「ふはは、実に微笑ましいエピソードじゃないか。……ああ、だからわざわざこんな島の端っこで歌ってたんだね。僕はてっきり弥美さんとかに聞かれるのが恥ずかしいのかと」

「ふふっ、それもちょっとあります」



僕らは笑い合った。

優しく降り注ぐ月光が、僕らをぼんやりと照らしている。

月の下で花開く美しい花弁が、いつまでも浅瀬の砂を彩っていた____




その後、僕はなぜだか響と風呂に入ることになった。

もちろん身体にタオルを巻いてだが。




木でできた浴槽はやはり二人で入っても余裕がある。

だが、なみなみと張られたお湯はそうではなかったようで、僕らが二人で入ればざぶんと湯船からこぼれだした。


湯で湿らされた木の縁から豊かな香りが立ち昇り、それは湯気に紛れて風呂場全体を包み込んだ。



「ふふ、なんだか懐かしいです」

響はなんだか楽しそうだ。


それは何よりである。僕も恥を忍んで一緒に入ったかいがあるってものだ。

例え興奮しなかろうが、気恥ずかしいものは気恥ずかしいのだから。



「昔はこうやって父と母と、三人で一緒にお風呂に入ってたんですよ」


「母が鼻歌を歌って、私が父の背中を流してあげて…楽しかったな」



響は浴槽の縁に両手でもたれながらそう言った。

巻いたバスタオルから覗く響のうなじは、浅瀬の砂の様に白く煌いている。



「その思い出の同伴にあずかれるとは実に光栄だね。……そういえば、ここのお湯って何か特殊なものなの?いつも風呂上がりが温泉に入った時みたいにポカポカなんだよね」


僕はどことない恥ずかしさを誤魔化すように話題を振る。


実際気にはなっていたのだ。

毎日ここの風呂に入っているおかげか、いまや僕のお肌はツヤツヤになっている。

なにか秘密があるに違いない。


「んー、実際温泉みたいなものらしいですよ?このお風呂には浅瀬の水を使ってるので…」

「浅瀬の水ってことは…これ海水だったのか。なるほどね」

「ちょっ…お兄さん!?」

「ん?」



僕がお風呂の水を何の気なしに指につけて舐めると、響が慌てて声を上げる。



「あの……一緒に入ってるお湯を舐められるのはなんか恥ずかしいんですけど……」

「おおっとこれは失敬」


一緒に入るのはいいのにそれは恥ずかしいのか……


いや、この場合おかしいのは僕か。

僕は別に、女性の入ったお湯を愛飲するような趣味は持ち合わせていないのだから。


僕は響の誤解を解くために、しっかりと親指を立てる。



「味は悪くなかったよ!」

「味の感想は聞いてません!」

「おぶっ!?」


響の鋭いツッコミにより、僕は水鉄砲を顔にうける。

確かにこのお湯は浅瀬の水のようだ。

海水の持つ独特の匂いが鼻から抜けていった。


「…やったな?」

「きゃっ!?」


それに対して、僕も負けじと水鉄砲で応戦をする。



ここに、第一次風呂場大戦が勃発した。



「はぁ…はぁ…もうやめましょうか。これ以上は不毛な争いです」

「ふぅ……そうだね。和平交渉といこうか」


僕らはしばらくはしゃいでから気を取り直す。

こうして潮騒館のお風呂場に平和が訪れたのであった。



「しかし…今日遊んでた時も思ったけど、浅瀬の水って目に入っても痛くないんだよね。海水なのに」

「えーっと、確か父が言うには海水の成分がどうたらこうたらで痛くないそうですよ?」


なぬ?そうなのか?


「それと、成分的にも色んな効能があるらしいです。だから温泉みたいなものだと…」

「へぇ〜なるほど、等張液ってことかな?しかし…」


「さしもの響ちゃんも弦楽さんの薀蓄は聞き流してたんだねぇ」

「うっ……」


「い、いつもはちゃんと聞いてるんですよ!?ただ、その話にはあんまり興味が無くって…」

「ふはは!なるほどね」


響は顔を赤くしながらごにょごにょと言い訳をしている。

ま、確かに子どもには成分だのの小難しい話はつまらないよな。



「ちゃんと喋れることだってあるんですから!」



響は居を正しながら人差し指を立てた。

何故か正座をしたままで響は語りだす。



「浅瀬の水は海水なんですけど、でも本物に比べると塩分が薄いそうなんです。だから目に入っても痛くないし、飲むことだってできるんですよ」

「おーなるほど。言われてみれば確かにそうかも」


裏手の海に潜った時と浅瀬を散策していた時では、全身の磯臭さが全然違っていた。

それに、海に入った時特有の、あの海水が乾いた感覚が浅瀬の時にはなかったのだ。


これも浅瀬の水のおかげなのだろう。



「何だったら弥美さんが作ってくれるジュースは浅瀬の水で作ってるんですよ」

「え、あれ海水だったの!?」


どうりでスポーツドリンクみたいな味がすると思ってたんだ。

しかし…それって微生物とかはどうなってるんだ?

まあ、今のところ不調が一切ない所を見るに、島の偉大なる産砂が何とかしてくれてるんだろう。



「あ、もちろん普通の飲み水もありますよ?浅瀬の水を島の砂で濾すと真水になるんです」

「ほぉーおもしろいね。この島ならではのやり方ってわけだ。産砂濾過法か…」


飲める海水に濾すと真水になる砂、ね。

この島が海の向こうの人間に目を付けられてなくて本当に良かった。

ともすれば、今頃この島は工業地帯になっていたのかもしれないのだから。



「そういえば…お母さんも好きだったな、弥美さんのジュース」



響はぽつりとそう呟いた。

その瞳には……懐古だろうか?

きっと彼女と母との思い出が映し出されているのだろう。


響はほとんど母親の話をしない。

嫌いなわけではないとは思うのだが…



きっと、複雑なのだろう。

彼女は結局、響を置いていったのだから。



「どんなに言い争っていても、どんなに喧嘩をした後でも……弥美さんとお母さんは、一杯のジュースで仲直りしてたんです」


「そのジュースだけは私に飲ませてくれなかったんですよ?『お前にはまだ早い』って笑いながら……」

「……案外、アルコールでも入ってたのかもね」

「ふふ、そうかもしれません」



「私をランにしようとしてたのに、そういうところはちゃんとしてたんですよ…母は」



母親からの歪な愛……か。

いや、愛とは得てしてそういうものなのかもしれない。

所詮は、自分の外側から一方的に注がれるモノでしかないのだから……



「弥美さんはお母さんの世話役だったんです。だから…」

「火口から私だけが帰ってきたときの弥美さんの顔は……いまだに覚えています」


世話役か。

それはきっと、親代わりだったんだろう。

意見が合わずに対立していても、二人は繋がっていた。


そんな自分の子ども同然の娘が、古き因習に身を委ねて火口に命を捧げたのだ。


その時の弥美さんの胸中は…想像に絶する。

そして、その点においては響も同じなのだ。



親子の相互関係ほど身近で強い繋がりもない。



でも……



「愛ってのはさ、結局のところどこまで行っても独り善がりなんだよ」

「え…?」

「両親に友人、自分を取りまく周囲の環境……それが何だっていうのか」


「それが在るからといって、恵まれているからといって、自分の本当に欲しいものが得られるとは限らない」


「外からいくら愛を囁かれようが、逆に毒を吐かれようが……関係ないんだよ」

「……」



「大切なのは、響がそれをどう感じて、どう思い、どう行動するのか……それだけなんだからさ」

「あっ……」



僕が語りをそうしめると、響はちょっと顔を赤くしながらぽかんとしていた。

…なんだ?のぼせたのか?


確かに結構な長風呂になってるしな……と僕が考えていると、響がゆっくりと口を開く。



「私の名前…」

「ん?……あっ!ごめんごめん!つい呼び捨てにしちゃったよ」


どうやら心の声がそのまま出力されてしまっていたらしい。

でも、響は呼び捨てられても怒ってる感じはしなかった。



「…別に良いですよ、呼び捨てでも。それなら私も夏未さんって呼びますから」



響は浴槽の縁を指でいじりながら僕にそう言った。

どうやら有難いことに、僕は彼女を親しく呼ぶ許しを得たようだ。



「ふは、"さん"づけで呼ばなくても大丈夫?」

「うん…だって、夏未さんにとっては呼び捨ての方が特別なんでしょ?」

「お、おおう……そうだね」


軽口を応酬するつもりが、僕は響から重めのカウンターをもらった。

響が純粋な分、それは中々に強力な一撃だった。


「…僕らはもう友達なんだから…その方がいい」

「…『友達』、ですか?」


響がこちらを見る。何かを期待する様に。

僕はその、少し赤くなった彼女の表情に____



どうしてこんなにも、心臓ココロが痛むのだろうか。




「あ、う……今のは忘れてください……」

「い、いや…いいってことよ」


僕らの間に何とも言えない空気が流れる。

なんだこの空気感は!思春期のカップルか僕らは!


僕は彼女との関係を、惚れた腫れただのの、そんな陳腐な言葉で言い表したくはなかった。

僕らの間にあるのは、もっと特別な___



「わ、私っ!先に上がりますね!」


居た堪れなくなった響が風呂場から出ていく。

僕はそんな彼女に追い縋る。


「あっ、待って響!僕を先に出させてくれ!そろそろ限界なんだ!」

「〜っ!知りません!」


遅きに失した!響はすでに脱衣所に行ってしまった。

そして響は前みたいに扉から顔を出して、前の時と似たようなことを言う。


「…どうしても上がりたいなら、出てきてもいいですよ?」

「私の裸が見たいのなら、ですけど…」


そう言って響はへにゃりと笑った。

全く、最近の響は事あるごとに僕を惑わそうとしてくるからいけない。順調に悪女になっていってるじゃあないか。


そろそろ本気で僕の悪影響を考えた方がいいかもしれないな……




僕は結局、前と同じく全身を真っ赤にしながら風呂から上がった。




そしてゆっくりと支度をしながら、今後のことを考える。



もはや僕の希望のぞみは絶たれた。



であるならば、僕はいよいよ『計画』を実行に移さなければならない。


だというのに、僕の心には一抹の気掛かりがあった。

どことない後ろめたさが、僕の後ろ髪を引いている。


それはきっと、この島や島の皆のことで……




そして、響の事なんだろう。




僕はどうするのか決めなくてはならない。

残された時間は、もう無いのだから。


僕は思考を巡らせながら自分の部屋の扉を開けて____




「あっ…」




僕の部屋に居た響が、驚きの顔で振り向いた。

彼女の正面には、開かれた手帳が畳の上に広げられている。



僕の『計画』の全容が書き記された、手帳が。



おやおや、随分と見覚えのある光景じゃないか。

どうやら今度は僕が秘密を暴かれる側のようだ。



「なっ、夏未さん!これってどういう事なんですか!?」



響は目の前の手帳を指差した。

僕がこの島に来て書き記した、"流石夏未の手記"を。




「死ぬってどういうことなんですか!」




ああ、やっぱりその話になるのか。

さて何処から説明したものか…



今、この瞬間をもって僕の計画は瓦解した。

だというのに、僕には焦りも怒りも哀しみだってなかった。

あるのはただ、死んだように脈打つ僕の心臓ココロだけだ。



「心臓の病気か何かなんですか…?」

「いいや違うよ、それは違う」


僕はそれをきっぱりと否定する。



「……ありがとね、響」

「なんで…お礼なんか…」

「これは本気でそう思っているからさ。火口のことも、弦楽さんのことも…」


「僕の知りたいことは響のおかげで全部知れたから……だから、ありがとうなんだよ」



「でも、もうこれ以上は何もない」




「大張島に『神秘』は無かった」




これは落胆でも諦観でもない。

僕の胸中には、もはや渦巻くものすら何も無いのだ。

何となく…こうなることは予想していたのだから。



「この島にあるのは、美しい自然とそこで暮らす優しい人たちだけだった」


「僕は結局、その穏やかな生活を荒らしに来ただけだった」


「偉そうなことを言って、君の心をいたずらにかき乱しただけだったわけだ」

「そんなことっ…!そんなことない!だって夏未さんは私に……」


響が僕の言葉を否定する。

彼女は随分と僕のことを慕ってくれている。

でもそうなることは当たり前なのだ。


なぜなら僕は、彼女に好かれる為に行動していたのだから…



「それがね響。そんなことがあるんだよ。だって____」



「僕は君を利用しようとしてたんだからさ」

「り、利用…?」



だから僕はそんな彼女に冷や水を浴びせる。

全てを吐き捨てることで…



「そうとも。それこそが僕の"計画プランB"だったんだ」



彼女に知ってもらおうか、僕の罪を。

周りから見れば馬鹿馬鹿しくみえる、僕の計画を。


僕の人生の全てを。



「物語には語り部が必要だ。そして、それを後世へと繋いでいく聴衆も…」


「響。僕はね、もし大張島に『神秘』なんて無かったのなら…」 


「この世界げんじつに不思議な事なんてどこにも無いというのなら」




「僕自身が『神秘』を作り出せばいいって、そう思ってたんだよ」




「それって…」

「勘違いしないでほしい。僕が目論んでいたことに対して、君やこの島の人たちに落ち度はない」

「これはどこまでいっても僕の問題で、だから全部僕の所為なんだよ」



これは僕自身の独りよがり。

僕が感じて、僕が思い、僕が行動に移した、その結果なのだ。



「伝承、伝説、昔話…」

「現代に語り継がれている逸話の内、作り話ではないと言い切れるものがどれだけある?」



「僕はこの島に来る前に、不思議クラブの連中にこの調査のことを話しておいたんだ」



「これで僕が調査から戻らなければ、彼らはいつかきっとこの島にやって来る」

「そして、その時に僕の記したその手記を見つけてオモイを馳せるわけだ」




「流石夏未は大張島の『神秘』によって神隠しにあったんだ……ってね」




「わかるかい響!?僕はね、この島の事も……島の皆の事も!」

「君の心すらめちゃくちゃにして!」




「自分の為に、死ぬつもりだったんだよ____」




幼い頃から変わらず、僕を楽しませてくれるのは不思議な話だけだった。

でもそんなものは全て空想だ。それは分かっている。

それでも、僕はその与太話を愛していた。



いつも夢想していた。不思議な出来事に直面した時、僕は一体どんなオモイになるんだろうと。

それが目の前に現れたとき、僕の心臓ココロはきっと、いまだかつてないほどに昂るのだろうと。



それはどんなに素敵なことだろうか。


だから、僕は『神秘』を追い求めるようになった。



ネットの向こうにいる友人たちの、真に迫る語り口。

少なくとも、僕が所属している不思議クラブの奴らは僕の同類だった。

そこは不思議に魅入られた夢想家たちの溜まり場で、そこにいる間僕は『神秘』に浸っていられた。



『いつでも心構えをしておくことだよ』

『不思議はいつも突然現れる。だから、それと相対しても動じないように、こう思っておく』

『奴らはいつだって仄暗い暗闇の中からこちらを覗いていて、今か今かと手をこまねいているんだ……ってね!』



クラブの創設者である少女は僕らにそう語った。

彼女は"本物"を知っているのだろうか?

それとも、単なるクラブ内の雰囲気作りのためにそんな事を言っていたのか、それはわからない。


だけれど、僕は信じていた。


僕らが空想だと思い込んでいるモノ。

ありえないと一笑に付すものが。


この世界のどこかには確かに存在するのだと、そう信じていた。


そして僕はついにそれを見つけた…いや、神秘の方から僕の目の前に現れたのだ。

それこそが児島弦楽の言葉。 



『私は大張島の火口に神秘を見た』



それは僕にとっての福音だった。

何の気なしに入った研究室で聞いた与太話。

僕は震えた。まさかそんな方向から現れるなんて、露ほどにも思っていなかったのだから。


弦楽の手記、彼の活動記録、それらを裏付ける様々な痕跡…

真面目に調べれば調べるほどに、僕の中で大張島の神秘の信憑性が高まっていった。


それはもはや恋だった。


僕は『神秘』に恋していたんだ。

神秘が纏う妖艶な魔力に、どうしようもなく惹かれてしまっていたのだ。


僕はもう、居ても立っても居られなくなった。


神秘を知りたい、味わいたい。そして…

もし、本当にそんな素敵な事が現実に存在するのであれば…


僕も神秘と一つになりたい。

僕が神秘となって、誰かに語られたい。



僕は……「僕はね、響」



「誰かに語られて、時にはその人のココロを楽しませて、またある時はその人のカラダを震わせるような…」


「そんな、本物の『神秘』になりたいんだよ」


「ただ、それを成すためには死ぬ必要があるってだけなんだ」




「……ど、」



「どうしてそんな結論になるんですか!」




響が悲鳴を上げるように叫び、そして項垂れた。

まぁすぐに理解できないのも無理はない。だけれど……



響には、僕の気持ちがわかるはずなのだ。

僕たちは似ているのだから。



「私には…わかりませんよ…」

「響、それ本気でそう思ってる?」

「っ…」


「…まぁいいや。前にも言った通り、弦楽さんの手記は僕にとっての"福音書"だった。逆を言えば、それ以外は全部眉唾物だったんだよ」


「あの言葉だけが……大張島の『神秘』だけが、僕の人生における最後の希望だったんだ」


「でも大張島の神秘は不思議オカルトじゃ無かった。こうして、僕の希望のぞみは現実の前にかき消えたわけだ」



「だから、もう一つの願望のぞみを実行することにした」



「そのための道具も、色々と準備してたんだよ?」

「っ…!」


僕がリュックから取り出した物を見て響は息をのんだ。


それは、ただの長い太めのロープ。


だけれど、ここに『死』のエッセンスを一滴垂らせば、あっという間にそれは命を奪う道具と化す。



僕はこれで自分を縛って錘をつけて、海に身を投げるつもりだった。

死体が発見されてしまったら、『神秘』は神秘でなくなってしまうから……



当然、それでは僕は苦しんで死ぬことになるだろう。

僕では自分の命を楽に捧げる手段を用意することはできなかった。

でも……ほんの少しだけ、神秘や不思議とは関係なく、気にはなっていたのだ。



僕は『死』の瞬間、一体何を感じるのだろうかと。

今際の際に、僕は果たして何を思うのだろうか、と……



「だから、みんなと仲良くしていたのもその為なんだ。僕がいなくなった時に、騒ぎ立ててくれる人が多いほうがいいから」

「君と仲良くしていたのも……そういう打算がなかったわけじゃない」

「…」

「でも、今日のことは本当に君の為に何かをしてあげたかったんだよ」



「響にはお世話になったからさ。……最後に、何か力になりたかったんだ」



…一体、僕は何に言い訳をしているのだろう?


響の表情は言いようがないほどに暗い。

僕はそんな彼女の表情を見ると、ずきりと胸が痛むのだ。

そんな資格なんてないくせに、いつだって僕の心臓ココロは身勝手だ。



「本当はね、ここで調べた情報をまとめてネットに流すつもりだったんだけど…アナログになっちゃってさ」

「これはこれで雰囲気があって気に入っているんだけど、いかんせん人目に触れられるかは心配なんだ」


今日の僕はいやに饒舌だ。

いつもの軽口とは違う、仮面のフィルターを通していない言葉がペラペラと流れ出す。



これは…よくない流れだ。



まだ、今なら戻れる。

僕は大張島の調査に満足して、仲良くなったみんなとの別れを惜しむ。

そんな結末を、今なら迎えられるのに__




「ねぇ響…君ならわかるはずだよ。僕の気持ちが」



これは言ってはならないと、僕の理性が歯止めをかける。

だけれど、僕の心はそれを言えと叫んでいた。

僕の願望のぞみのままに。



「だって、君はずっと…」



僕と君は似ていたから。

君は僕に似ていたから。

だからずっと、感じていた。

だからずっと、語っていた。


君の表情が

君の態度が

君の感情が


君のココロが、こちらを控えめに覗きながら僕にこう言っていた____




「『死にたい』って、そう思ってたんだろ?」



「っ____」



響が息を呑む。

僕の独白を受けた響は、ゆっくりと顔を上げた。



その、僕を見上げる響の表情は、ゾッとするほどに美しかった。


あの浅瀬よりも、ずっと。



それは儚げなんて言葉では言い表せないほどの、神秘的な感情の発露に他ならなかった。



僕らを結びつけたのは、他でもない。

この漠然とした『希死念慮』だったのだ。



「夏未さんは…わかってたんですか?」

「なんとなくだけどね。君は僕と同じ顔をしてたから…」


大張島のランとして生きるということは、火口に身を投げて死ぬということだ。

響は一人取り残されたその時から、『死』の放つ魔力に魅入られていたのだろう。

僕が響にシンパシーを感じていたのは、彼女の天秤が生と死の間で揺れ動いていたからだ。


僕はころころ変わる響の表情が好きだった。

それは、いつもどこかに死の気配が見え隠れしていたから。


僕はそんな表情に見覚えがあった。


毎朝毎晩、鏡の中でへらへらと笑っている男の顔だ。

そして、響が僕を襲ってきた時にしていた、あの熱に浮かされたような顔にも見覚えがある。



あれは希望のぞみを見つけた時の顔だ。



なんてことはない。

僕にとっての『神秘』が、彼女にとっての『僕』であっただけなのだ。



「僕らを繋げてくれたのは、ただ『誰かと繋がって死にたい』っていう、その漠然としたオモイだったんだよ」



響は僕の全てを知った。

僕は響の全てを知った。


そして僕らは今、完全に繋がったのだ。


これは『神秘』なんて関係のない、ただ僕ら二人だけの話なのだ。


ここまでは。



「夏未さん」



響が僕を名前で呼ぶ。

それは、今までに聞いた事ないような、全てを飲み込む深い海を思わせる声だった。



「夏未さんはずっと……『神秘』を、探してたんですよね?」

「ああ……そうだよ」

「それなら、夏未さんがこの島に来たのは運命だったのかもしれませんね」

「えっ?」




「私は大張島の『神秘』をこの目で見ました」




僕は頭をぶん殴られた時と同じぐらいの衝撃を受ける。

それは、僕が予想だにしなかった一言。


不思議は唐突に僕のもとへ訪れた。

僕の知りうる世界の外側から……



『神秘』が、その姿を現したのだ。



「私は火口の底で、母と父が永遠に結ばれるところをこの目で見たんです」

「それは…どういう…」


二人が結ばれるところを見た?産砂神話は所詮伝説上の話のはずだ。

だが……もしも、それが真実だとするならば?



『私は大張島の火口に神秘を見た』



児島弦楽の、あの言葉が本当だったなら?



「これは弥美さんたちも、本当の意味では知らないと思います」

「私も昔は夏未さんの言ってた通り、神話はあくまでも空想上のお話だと思っていましたから」

「アレは、単なる島の言い伝えに過ぎないと…」


「でも私が火口の底で見た光景は、この世界の常識の範疇を超えていました」

「私は外のことをあまり知りません。それでも…」



「二人の最後の瞬間は、とても神秘的でした__」



手が…震える。

脚がすくんでいる。

まるで蛇に睨まれた蛙のように身体が固くなる。


僕は完全に飲まれていた。響の放つ雰囲気に。


彼女の表情は俯いていてよく見えない。

でも、『神秘』を語る彼女の声には真実味があった。



「ねぇ…夏未さん」


響が僕の名前を呼ぶ。

その深い声色に、僕の背筋がぞわりと粟立つ。



「あの火口には『二人』じゃないと入れないんです」



「一人でも…三人でもない」

「それって…」

「夏未さんは…どうしたいですか?」



響は僕を知った。僕は全てを響に吐き出した。

彼女は僕の全てを知った、その上で。


響はじっとこちらを伺っている。

覚悟を決めた表情で…


僕のココロを、伺っている。


その吸い込まれるような深い藍色の瞳から、僕は目が離せなくなった。



その響の表情に、僕のココロが____



ドクンと、高鳴った気がした。



「僕は…」


「神秘を確かめたい」


「それで、僕も神秘の一部になって…」


「誰かに、語り継がれたい」



僕は今、どんな表情をしているんだろう?

いつもの仮面の顔だろうか?それとも本当の僕の顔だろうか?

響はそんな曖昧な僕を見て……


優しく微笑んだんだ。

心が、ざわめく。



「ねえ、夏未さん…したいこと、何でも言ってくれっていいましたよね?」

「…ああ、その通りだよ響。僕に何でも言ってくれ」


「僕は君の願いを叶えてあげたいんだよ」


「自分が死ぬ前に…」



「君の力になりたいんだ」



僕らは繋がっている。

カラダではなく、ココロで。



「なら…それなら…夏未さん」



響の声が震える。

僕の心も震える。



「私も…私も…一緒に…」



僕は待った。響の言葉を。

その先の、一番大切な部分を。



彼女のココロが、僕のココロに触れてくれるのを。




「私も一緒に連れて行ってください」




響はそう言って僕に抱きついた。

彼女が僕の胸へ飛び込んできた時、僕の心臓がドキリと跳ねた気がした。


それは産まれて初めての感覚で___




「夏未さん」



「私と一緒に死んでくれませんか?」



「…ああ、喜んで」



僕がそう言った時の響の顔は…

今までの中で一番、ホッとしたような表情だった。



僕らは『心中』をする。

それはただ自殺するんじゃない。

それは、僕らこそがこの島の新たなる神秘となる神聖な行為なのだ。



僕は共に『神秘』となる道連れを得た。

僕は兼ねてよりの希望と願望を、同時に叶えられるのだ。


それは僕にとって最高のアガリのはずだ。

だというのに、なぜか心臓ココロがざわめいている。

この胸を渦巻く言いようの無い感情は一体なんだ?



どうしたっていうんだ。これがお前の願いだったはずだろ?



僕は今から神秘となる。

児島弦楽のように。

響と一緒に…


二人で。


それはとても幸せなはずなのに……


抱きしめた腕の中から、響の熱い鼓動が伝わってくる。

僕の心とは裏腹に、今も死んだように鼓動している僕の心臓の音は、彼女の鼓動の音でかき消されていった____







大張島の浅瀬は今日も変わらず穏やかに揺れている。

僕はゴミ拾いで回収したガラスの瓶に、これまでの全てを封入した。


僕が大張島に来て、そして調べ上げたその全て。

それらを元に僕が紡ぎ上げた、新たなる『神秘ぼく』の逸話だ。


「響には悪いけど…これは許してほしいな」

「…」


そして僕はそれを海に流した。

いつか誰かがそれを見つけた時に、思いを馳せれるように…

不思議オカルトを愛する皆に、語り継がれる事を、祈って。



響は何も言わなかった。




僕らはそのまま火口に向かう。




「ねぇ夏未さん」

「ん?」

「どうして…私に構ってくれたんですか?」


その道すがら、響がそんな事を聞いてきた。


「私、正直夏未さんには嫌な態度しかとってなかったのに…毎朝毎晩、会うたびに話しかけてきてくれて…」

「私、ちょっと嬉しかったんですよ」


響はにへらと曖昧に笑った。

僕はその不器用な笑顔を見ると、何故だか心臓ココロが痛くなる。


いや、笑顔だけじゃない。

彼女の突き放すような冷たい顔も。

諦めたようなやるせない顔も…

君が僕に見せてくれるその全てが___


「僕に似ていたからだよ」

「えっ…?」

「最初は打算だった。響は色々知ってそうで、僕の計画にも使えそうだったから」


「でも、なんか放っておけなかったんだ」


「僕は、僕はさぁ…響…」

「うん…」

「多分、遠ざけてほしくなかったんだよ」



「誰かにそうやって、手を差し伸べて欲しかった」



「僕の心に、触れて欲しかったんだよ」



過保護な母に腫れ物扱いの父。

両親にとって、僕は自らが創り出した被造物さくひんに過ぎなかった。


しかして僕には家の外にも居場所は無かった。


僕を爪弾きにする同級生たちに、輪に入れてくれたように見せかけて、その実どこまでもおとこを疎外していた女の子たち。


僕が仮面を被ることでしか近づくことさえできなかった友達に、歩み寄ろうとして、でも繋がることのできなかった今までの彼女たち…


あの不思議クラブの面々でさえ、結局は不思議オカルトを通して表面上だけが繋がっているに過ぎない。画面の向こう側にどんな人間が居て、どんなオモイを抱えているかなんて誰にもわからないのだ。



本当の意味で僕と繋がっている人はどこにもいない。本当の僕を、僕の心臓ココロの情動を知るものは誰も居ない。



響以外には___



「君でよかった。僕を知ってくれたのが…」


「響、一つ訂正させて欲しい」

「…?なんですか?」

「君が僕に迫ってきた時、『なんてそんな話をしてくれるのか』って聞いてきたよね。僕はそれに、『関係がないからだ』って答えた』

「うん…」

「それは嘘だ。僕は関係がない他人にそんな話はしないし、したいと思ったことはない。今更だけど、僕は響だから聞いて欲しかったんだ」



「他ならぬ君だからこそ、僕を知って欲しかったんだよ」



結局、僕も君に似ているのだ。

僕もずっと、誰かとちゃんと繋がりたかっただけなんだろう。



「だから、ありがとう。僕を知ってくれて」



「僕と一緒に、ここに来てくれて」

「…ふふ、なんだか変な感じですね」


響が笑う。


「私たちは今から火口に身を投げるのに……それはきっと、外でもこの島でも悪いことなんです」


「それなのにお礼を言われるだなんて…」



「私も…ありがとうございます」



「…私、本当は気付いてたんです。母は火口で結ばれるのは二人だけだと知らなかったって…」


「母が私を連れていってくれたのも、父が溺れる私を水面に押し上げたのも……全部、私の為だったってことは」

「…」


響はきっと、ちゃんと愛されてはいたのだ。


彼女の母は最後のランとして一人残される響を憂いて、自分の使命に響を連れていった。

児島弦楽はランとしてでなく、ただ溺れて死ぬであろう響を助けるために、彼女を水面へと押し上げた。


それはまごうごとなき愛だ。


だからこそ……響はその喪失に、現実と自分との乖離に、未来への不安に……苦しんでいるのだ。



「だから、私は元から"悪い子"だったんですよ」

「父と母のオモイを踏みにじるような…そんな人間なんですよ、私は」



響は自嘲するように笑った。

僕は響の手を握り直す。

ちゃんと繋がっていることを、示すように。



響はそれに少しびっくりして……嬉しそうに笑った。



「繋がれたのが…夏未さんで良かった」



「繋がりたいと思えたのが…あなたで良かった」



「私の隣に居てくれるのが夏未さんで、本当に良かった____」




「…こっちも、どういたしまして…かな?」

「…ふふっ」

「ははは」


響が僕の手を握り返してくる。

僕らの指と指が絡み合う。

響はそれを見て、嬉しそうに目を細めた。


ただそれだけのことで、僕はなんだかソワソワしてくる。

これが、この胸を締め付ける様な感覚こそが、興奮なのだろうか?

僕は今、神秘に相対することに昂っているのだろうか?それとも___


僕にはわからない。

ただ、繋いだ手から伝わる温もりが、僕の心臓ココロのあたりをじんわりと温めてくれる。



これがきっと、僕がずっと欲しがっていたモノなんだろう。



「…夏未さんの手って、ちょっとひんやりしてますよね」

「血の巡りが弱いからさ。冷え性なんだよね」


僕らはそんな、どうでも良いことを喋り合う。

今から死ぬというのに、不思議と恐れは無かった。

だけれど、代わりに高揚もない。

僕の心臓ココロはあいも変わらずに一定のリズムを刻んでいる。



「…」

「…」



火口に足を踏み入れる時、僕らは何も言わなかった。

ただ、しっかりと繋いだ手がお互いの存在を確かめている。


火口の水は海水のはずなのに、まるで人肌のように暖かかった。

生温い水が僕らを包み込んでゆく。


火口の深奥が、まるで口を広げているかの如くこちらを覗いていた。

僕らは離れないように身を寄せ合って……




どぷんという水のくぐもった音が僕の鼓膜を震わせた。




生温い火口の水は、目を開けていても痛くはなかった。

それはこの水があの浅瀬の水だからだろうか、それともここが『神秘』の領域だからだろうか。


僕らは今、神秘に包まれている。


そのうち水面から届いていた微かな光も途切れて、僕らの周囲が暗闇に飲み込まれた。

それでも僕らはここにいる。


お互いの輪郭を忘れないように抱き合ったまま、二人で底へと落ちている。




ドクンドクンと


どこかで何かが脈打っている。




それは僕の心臓でも、響の心臓でもない。

この火口が、この島そのものが脈打っているみたいだった。


僕らはまるで導かれるように、ゆっくりと下へ落ちてゆく。

深く深く、どこまでも。



そして____



僕らは底にたどり着いた。

"そこ"へとたどり着いた。


火口の底には何故か光があって、コバルトブルーの輝きが僕らをぼんやりと照らしている。


だけれど、そこには何も無かった。


今まで火口に身を投げた、先人たちの亡骸の一つでさえも。

横側に一箇所だけ、小さな穴が空いている以外には砂の壁が僕らを取り囲むのみである。



だが、神秘は唐突に僕らの前に姿を現した。



火口の水がうねりだす。

それに合わせて、僕らの周りを半透明の膜が包み出した。


(これが…!これを響は見たのか!)


『二人を永遠に結びつけた』

産砂伝説の一文が思い出される。


僕は今まさに、この島の神秘に触れている。

神秘によって、僕らは結ばれるのだ。

この火口の底で、永遠に____



『この島にはあなたたちを喜ばせる様なものはなにもありませんよ』



響が、僕を見ている。


出会った頃の君は、どこか羨ましそうに僕を見ていた。

それは明確な拒絶の態度だったのに、響はこちらを寂しそうに伺っていた。



だから、僕は君に声をかけたんだ。



『あなたにちゃん付けされるほど仲良くなった覚えはありません』

『あなたみたいな軽薄な人は嫌いです』

 

冷たい君の顔。


『…そのままじゃ上がってこれないでしょう。ゴミを渡してください』

『ちょっともう…!お兄さんにつられちゃって雰囲気が変わっちゃったじゃないですか…!』


優しい君の顔。


『ふふ…さっきの件はこれで許してあげます』

『どっちが早く泳げるか競走しませんか?』

『お兄さんにだけ…特別です』


楽しそうな君の顔。



響、響、響___


この島での思い出には君の顔ばっかりだ。



苦しい……

ああ、そうか…僕は今、走馬灯を見ているのか……




僕の脳内に光が走る。




『あんたらと違って流石くんは特別なのっ!』

『オマエとやってもつまんねーもん。女子とままごとでもやってろよ!』

『流石、お前キモいんだよッ!』



僕はみんなと同じがよかっただけなのに。



『流石君は私のモノだッ!』

『どうしてそんなこと言うの!?どうしてそんな顔するの!?』

『私が好きなの?!それともあの子?!それともあいつ!?』

『ねぇハッキリしてよ!ハッキリさせてよ!!うあぁぁぁ…』



僕はみんなと仲良くなりたかっただけなのに。



『夏未はさぁ、私に興味ないよね』

『いつも私からばっかりじゃんッ!』

『好きでもないくせにそんなこと言わないでよ!』

『別れよっか、私たち』



僕は君を好きになりたかったのに。



『花?なんのつもり?それであたしのご機嫌でも取ろうってわけ?』

『気色悪いんだよあんた。化け物が人間の皮をかぶってるみたいだ』

『二度と…その面をあたしに見せんな』



僕は君と…

君たちと、ちゃんと。

繋がりたかっただけなのに。



どいつもこいつも、自分勝手に"僕"を想像する。

自分の中に、自分に都合のいい"僕"を創造する。

僕の伸ばした手は拒絶するくせに、自分の伸ばした手が繋がらないからといって僕に『仮面』を被せてくる。


『特別』『変な奴』『皆の中心』『八方美人』『女たらし』『イカれ野郎』…



『化け物』



僕はそんな大層な人間じゃない。

そんな神秘的で、畏れられる様な存在じゃない。

僕は皆が考えている様な、不思議な人間じゃないんだ。


僕が不思議オカルトが好きなのだって…

ただ___



「ねぇ知ってる?この話____」



『流石スゲー!どこでそんな知ったんだ?!』

『お前って面白い奴だったんだな!』


君が喜んでくれたから。


『流石君おもしろーい』

『これは考察のしがいがあるね…』

『じゃあさ、これからも皆で話を持ちよろーよ!』


君たちが楽しんでくれたから。


『へぇ、流石ってそういうの詳しいんだ』

『私?私はあんまりかなぁ…あ、そうだ』

『それなら、流石が私に教えてよ』


君が興味を持ってくれたから。


『ふは、ウケる。このサークルでガチってる奴初めて見たわ』

『それならあたしんちに遊びにおいで。あたしと夜通し語り合っちゃおーよ』

『これでもあたし、色々知ってるよ?幽霊部員だけどさぁ、アハハ!』


君が笑ってくれたから。


僕にはみんなと繋がる為に不思議オカルトが必要だった。

だから僕は、『神秘』になりたかった。

僕は、ただ…




誰かと繋がって、自分を受け入れて欲しかっただけなんだ____




『繋がりたいと思えたのが…あなたで良かった』




響が僕を見ている。

寂しそうに、恨めしそうに、羨ましそうに……

君のココロがこっちを覗いていた。


僕はそれを見て、自分と同じだと、そう思って…

手を伸ばしたくなった。

君のココロに、触れたくなったんだ。




_____苦しい。


君の事を考えると、ココロが苦しいよ、響……




僕らの周囲を神秘の膜が包み込んでゆく。

ゆっくりと、だが確実に。


だけど、それが終わる前にきっと響の限界がくる。

僕が死ぬのは響よりも後になるだろう。


僕らは一緒には逝けない。

最後の最後まで、心臓こいつは僕の邪魔をするのだ。



「かふっ……」



ごぼりと

響が空気を吐き出した。

とうとう彼女に限界が来たのだ。



響は苦しそうな顔で、朦朧としながら僕を見た。

そして…

僕と目が合った。

彼女は笑った。

僕を見て、安心したように____


腕が絡まる。僕らが絡まる。

響が僕に身を委ねた。


僕の心臓が跳ねる。

比喩ではなく、本当に。

そう思えるほど強く、僕の鼓動が高鳴った。


響の身体から力が抜けていく。

僕は彼女が離れないように、離さないように強く抱きしめた。


僕らの鼓動が重なる。

あの、火口の前で抱き合った時のように…

あの時とは真逆の強さで。



『死』



死ぬ。今から死ぬのだ。

僕ではなく、響が。


彼女の人生が失われる。


この大張島の『神秘』によって、彼女の命はこの島に召し上げられ、そして祝福されるのだろう。

あの神話の二人のように。




よかったよかったと、皆に祝われて____




____本当にそれでいいのか?




『私の隣に居てくれるのが夏未さんで、本当に良かった____』



僕もそうだった。

僕の隣に居てくれるのが、君でよかった。

この島で出会えたのが、君で良かった。



僕の心に触れるのは、君がよかった。



僕が死ぬ時に、その瞬間に…



君が…



響が____




隣に、居て欲しかったんだ!




鼓動がどんどん早くなる。

不気味な島の鼓動をかき消すほどに、強く!



僕はバカだ!大馬鹿だ!

今さら気がつくなんて!



僕はずっと自分に仮面を被せていた。

自分の気持ちに蓋をしていたんだ!



僕は響に色んなことを教えてあげたかった。

彼女の感情豊かな表情を見るたびに胸が締め付けられた。

彼女の寂しげな心に、寄り添ってあげたかった!


僕は響に……

幸せになって欲しかったんだ。



どうして?



だって、僕は響のことが…

彼女のことが…



『好き』だったんだから!!!



響はずっと探していた。自分と繋がってくれる誰かを。

傍にいてくれる誰かを!

愛してくれる、誰かを。


それに気づいていたくせに、彼女も僕と同じだとわかっていたくせに!


僕は響と繋がることを恐れていた。

彼女に拒絶されることが怖かったんだ。


だから『神秘』に逃げた。

その道から目を逸らした。


他ならぬこの僕が、彼女の天秤を『死』に傾けてしまったんだ。

だから、死ぬ。

こんな、この一瞬の安心感の為だけに、彼女が死んでしまう。


それはきっと彼女の希望のぞみのままなのかもしれない。

でも…

これがお前の望んだことなのか!?流石夏未!


彼女の人生の結末が、そんな終わりで良いのか!?


(違う……!)



(こんな終わりで良いわけが無い!!!)



死にたくない、死なせたくない!

僕の心臓は未だかつてないほどに躍動している。

ここで死んでたまるかと叫んでいる!


僕はもがいた。


生きるために、響を助けるために!


ぶよぶよと僕らにまとわりつく謎の膜は手で容易く破ることができた。

僕は頭上に伸びる暗闇を目指して泳ぎ出す。



その先に、光があると信じて。



そんな僕らに追い縋るように、火口の生温い水が意志をもった。

今や半透明の膜はいくつもの触手となって、僕らを逃すまいと絡みついてくる。


どけ!どけ!どいてくれ!




神秘オマエなんぞにこの子をくれてやるものか___!!!




「ぷはぁ!!」


僕は急いで響を砂に上げる。

彼女の呼吸は止まっていた。



「響!死なないでくれ!」



僕は響の心臓をマッサージする。



「まだ!僕はまだ…!!」



何度も何度も。

祈りながら。




「君に____!」




「けほっ…」



響が水を吐いて息を吹き返す。



「良かった!響、大丈夫!?」

「……夏未さん、どうして____」




どうして一緒に死んでくれなかったんだと、そう言われると思った。

でも…

響はそっと僕の頬に手を添えた。




「どうして、泣いてるの…?」



僕は泣いていた。それは一緒に死ねなかったからでは断じてない。



「君が…君の事が……!」



息が苦しい。心臓がひっくり返るみたいだ。

響の表情が、彼女の一挙手一投足が僕の心を締め付ける。



「好きだから……」



たった、これだけを言葉にすることが、こんなにも__

こんなにも、苦しいのか。



「島の神秘に、君の命をくれてやりたくなかった」

「もっと君と一緒にいたかった。もっと君と一緒に笑い合いたかった。君の人生を僕だけのものにしたかった」

「うれしい時に傍にいてほしかった。哀しいときに一緒に泣きたかった…」

「君と触れ合いたい。君と一つになりたい。君と生きたい___」



「君と、二人で生きたいんだ」

「だから…逝かないでくれ、響」



我ながら何を言っているのかわからない。

全くもって虫が良すぎる話だ。

これは響の覚悟を、かねてからの願望ねがいを踏み躙る行為でもある。

でも____



君はそんな僕へ微笑んだ。



「私の事、好きなんですか?」

「ああ、好きだ、大好きだ」

「他の誰よりも?今までの女の人よりも?」

「比較にならない。僕は君を…愛している」


「君だけだ。君だけが僕を、僕の心を熱くしてくれた」

「僕の心臓ココロに触れて、それを抱きしめてくれた」

「不思議に浸っていた時よりも強く、神秘の事を考えていた時よりも熱く…」



「高鳴っているんだよ」



「聞いてくれ。僕の心臓ココロを…」




そっと、響が僕の胸に触れた。

僕のココロが叫んでいる。

未だかつてないほど、声高に。


君が好きだと。



「もう…わがままだなぁ…夏未さんは…」



響はそう言って困った様に笑った。



そして、君は僕に口づけをした。

彼女の唇は、僕が今までに触れてきたどんなモノよりも熱かった。


響の熱が僕の全身を駆け巡る。

二人の高鳴る鼓動が、僕らの命を祝福していた。

いつまでも、いつまでも____






僕たちはしっかりと手を繋いで、潮騒館へ一緒に帰る。


僕らの間に漠然と横たわっていた希死念慮はもうどこにもいない。

もはや、そいつは僕らを結ぶものではないのだ。


僕らはそんなものよりも、もっと強い繋がりを手に入れたんだ__


と、いやにかっこつけるのはもうやめよう。

仮面をかぶる必要はもうない。




僕は…流石夏未は、児島響のことが好きなのだ。




ただそれだけの事実が、こんなにも僕の心臓ココロを高ぶらせてくれる。

生きたいと、そう思わせてくれるんだ。



「…今、こんなことを聞くのもあれだけれど…」

「うん?どうしたの?」


どこか砕けた口調で、響が口を開いた。


「どうして夏未さんはあの時……思い直したの?」


「神秘になる事を……」



「二人で、死ぬことを…」



響が首を傾げて僕の瞳を覗く。

…わかってるよ。

これはきっと、ただの確認作業だ。



だから僕は、何度だってこう言うのだ。



「君が好きだって気づいたからだよ」

「あう…」



僕が包み隠さずそう言うと、響は赤くなった。

こういうのはちゃんと伝えないと伝わらないものなのだ。


僕は響に愛を囁く。

それが、彼女の"外側"にいる僕ができる唯一の道。


僕らの繋がりが、断ち切れないように…

僕らの心が、離れてしまわないように…



何度だって、彼女に愛を捧げるんだ。


それは神秘に命を捧げるよりも、ずっと素敵なことだと、そう思うから____



「本物の神秘を目の当たりにしても、僕の頭には響のことばかりが思い浮かんできてた」


「そこでようやく、僕は自分の気持ちに気がついたんだよ……気づくのが遅すぎたけどね」


「神秘となって死ぬより、僕には響と生きる人生の方が魅力的だった____」



「つまり!神秘の魔力を響の魅力が上回ったんだよ!」



僕はそう言ってどんと胸を叩く。

それを見た響はぽかんとしていた。


…響を安心させる為に言ったんだけど、ちょっと今のはクサかったかもしれない。


「…」

「な、なーんて…ははは」

「…っく、ふふふ」

「!!」

「…やっぱり、夏未さんには詩人の才能があるんじゃないですか?」


響がお腹を抱えてくすくすと笑う。

そうやって君が笑ってくれるだけで、僕は幸せな気持ちになるんだ。



なんてことはない。



これは、生だの死だのを語るような、そんな大層な"話"ではなかったんだ。


世界にありふれている愛や恋なんてものが、僕らの心を救ってくれた。

ただ、それだけの話なんだ。


それは不思議でも神秘的でもない。


でも、僕らにとっては……

冷たく暗い現実の中を生きる為に必要な、たった一つの大切なオモイなんだ。




潮騒館には深夜だというのに明かりがついていた。




僕らが引き戸を開けると、キッチンに弥美さんが座っているのが見える。


「あっ…!」


暗い表情をしていた弥美さんがパッと顔を上げる。

まるで幽霊でも見たみたいに弥美さんは呆然としていたが、僕らが本物だと気づくと顔を綻ばせた。


「……二人とも、おかえりなさい」


弥美さんはそれだけを言うと立ち上がり……響を抱きしめた。


「帰ってきてくれて…ありがとう」

「…うん。弥美さん、ごめんね…」


「ごめんねぇ…うあぁ…」

「いいのよ、響ちゃん、いいの…」



「貴女が帰ってきてくれたから、それで____」



弥美さんが涙を流す。

それにつられるように、響もわっと声を上げて泣いた。

胸につかえていたものが取れたように、とめど無く。


「お兄さんも、ありがとうね」


弥美さんは何故か僕にお礼を言った。

それを聞いたとき、僕はとたんに恥ずかしくなった。


それは、僕らの相引きを見透かされたからではない。

僕の、自分の選択した行動の浅はかさに対する"恥"だった。

僕はまだまだ子どもだったのだと、気付かされたのだ。


弥美さんはずっと見守っていたんだ。

響を、彼女の選択の行末を。

そして、その結果がどうであれ、弥美さんはそれを受け入れるつもりだったのだろう。



それはまごうごとなき響への愛だった。



僕は認めなければならない。

結局、僕は自分の狭い世界に引きこもっていただけだったということを。


その世界の範疇でしか、響に選択肢をあげられなかったということを。


僕は世の中の事なんか全然何もわかっていなくて、そのくせ斜に構えててひねくれていて、自分の命を粗末にしようとした。 


響の気持ちに甘えて、自分から逃げていたんだ。


今ではそんな自分をぶん殴ってやりたくなる。

響に知った風な口を聞いていた、青臭い知ったかぶりの自分を。


でも、それすらも僕たちの間の大事な思い出なんだ。

だから、それをちゃんと抱いて生きていこうと、そう思った。



響の為に。

自分の為に。



「響、今夜は…一緒にいてくれないかな…」

「え…?」

「あ、いや!もちろん嫌なら良いんだけどさ…」


僕は部屋に戻る響を呼び止めた。

今は彼女とひと時も離れたくなかったから。


目が覚めた時に、もしかすると響がいなくなっているのではないかと、そう思ってしまって……

僕は不安に駆られた。



こんなふうに、不安で心臓がバクバクするというのも僕にとっては初めての経験だった。



「…ふふ、いいよ」


響はそんな情けない僕を受け入れてくれる。

その日、僕たちは抱きしめ合いながら眠りに落ちた。

離れないように、離さないように。



今までのことが嘘だったかのように、僕の心臓は心地よく高鳴っている。



カラダが先にあったんだ。そこに、仮面を被せて今のようなココロを創り上げたのは他ならぬ僕自身だった。


何が"人形もどき"だ。笑わせる。


お前はただ、人と繋がる痛みを恐れて、自分で自分に仮面を被せていただけだ。

環境に適応したフリをして、人を愛することから逃げていただけだ。

自分を慰めてくれる神秘りそうに、依存していただけだったんだ。


でも響と出会って、被せていた仮面からオモイが溢れた。

押し込んでいたココロがカラダから飛び出していって、後からカラダがココロに追いついた。



僕はもう、この気持ちを抑え込むことはできない。



一体彼女の何がここまで僕の心臓ココロを震わせてくれるのか、それは分からない。


彼女の見た目が好きなのか?それもある。

彼女の境遇に同情したのか?それもある。

彼女と過ごす時間が心地よかったのか?それもある。


正直、それらしい理由を挙げだせばキリがない。


ただ一つ確かなことは、僕は響が好きだということ。そして、それは別に明言化されなくってもいいということだ。



だって、それが人を愛するということなんだろうから。

僕は響が大好きだ。



すやすやと眠る彼女の寝息と、腕から伝わる鼓動のリズムが響の存在を確かに感じさせてくれる。


僕の胸中に湧き上がっていた不安は、彼女から響いてくる音にいつのまにかかき消されていた____






僕らの頭上でウミネコが鳴いている。


九月三十日、夏はもはや残暑のみを残し、あとは秋が来るのを待つばかりである。


予定をたっぷり一ヶ月超過した僕の夏休みはとうとう終わりを迎えようとしていた。



「行きたくない、離れたくない、帰りたくないぃぃ…!」

「もう、夏未さんったらダメだよ?明日には大学が始まるんでしょ?」

「ううぅ〜響ぃ〜」


僕は今、みっともなく響に縋っていた。

僕はもはや彼女から離れがたいのだ。

彼女が側にいないと寂しくって死にそうになる。


イヤ、そんなことでは絶対に死んではやらないのだけれども……



「全く、前みたいな余裕綽々の夏未さんはどこへいっちゃったの?」

「その仮面は邪魔だから捨てたよ。今の僕は純度百パーセントの本物の僕だ」


「だからこれは純度百パーセントの本音!百パーセントの寂しさなんだよ!」

「ふふ…ああ言えばこう言うんだから」


響はそう言って困ったように笑った。


彼女のその顔もまた素敵だ。

いやまて、しかして彼女を困らせて喜ぶのはよろしくないのではないか!?

だがしかし…響に叱られるのは控えめに言って最高なのだ。


僕の中で渦巻く相反する感情……これがコンフリクトってやつなのか!?


「もー……夏未さんちょっと耳貸して?」

「んん?」


僕が大真面目にそんなことを考えていると、何かを思いついた響が僕の耳元に顔を寄せた。


そして、彼女の優しい声色が僕の鼓膜をこそりと震わせる。

その"言葉"にドキドキと僕の心臓が高鳴った。



響のたった一言が、こんなにも僕を昂らせてくれる。



「わかった、約束するよ。僕らは一つだ」

「うん…ふふ、指切りげんまんだよ?」


僕らの小指が絡み合う。

例え離れていても、僕らの心は確かに繋がっているんだ。



「あ、夏未さん見て!あれって…」

「あれは___」


何かを見つけた響が浅瀬を指差す。

その視線の先に、僕があの時流した調査の瓶が浅瀬にたどり着いて埋まっていた。



まるでどこかに流れ着く必要などないかのように。



僕らはそれを見て顔を見合わせると…二人して笑い合った。

どこか嬉しそうに吹き抜ける島風は、僕らの笑い声をどこまでも遠くへと運んで行くようだった___






ノートパソコンの排熱ファンが元気よく回っている。

僕はパソコンのマイクに向かってシメの言葉を放った。


ナツミソーセキ:

『___というわけで、僕の一夏の冒険は終わりを迎えたのであったとさ。ちゃんちゃん』

ヨッシー:

『…ってそれただの島観光じゃんかー!』


画面の向こう側で少女が叫ぶ。うんうん、ナイスツッコミだ。

不思議クラブには今日も常連が顔を揃えていた。


ムシャコロ:

『いや〜ふつーに楽しそうで羨ましいです!いいなーリゾート観光!私も行きたい!』

K-spring:

『俺はむしろ現実味があってワクワクしましたよ!島に眠る壮大な謎が実は…的な?!』

ムシャコロ:

『やっぱり実体験に基づく話にはなんというか、どことなく説得力がありますよねえ…』

ヨッシー:

『まぁ確かに不思議な雰囲気はあったよねー。さすが民俗学者の卵!着眼点がおもしろい!』

ナツミソーセキ:

『褒めても何も出ませんよー』



大張島の話で不思議クラブは大盛り上がりだ。

まぁ、『神秘』の部分には触れてないのだけれど。



ヨッシー:

『でもソウさんにしてはなーんかぬるいよねぇ。実は……なにか隠してるんじゃないの〜?』



む…相変わらず鋭いな、この人。



ナツミソーセキ:

『いやいや…別に?何も…』

K-spring:

『うわぁ〜!この含みのある感じ!もしかしてそこまで含めての話だったんですか!?』

ナツミソーセキ:

『ふふふふふ……いいや?それはK君が深読みしてるだけだけど?』

K-spring:

『なぁんで!?なんで急にハシゴ外すんですか!』

ムシャコロ:

『あははは!』



皆には悪いが、大張島の『神秘』は…

あの島での思い出は、僕だけのものだ。

誰かにひけらかすつもりも、喧伝するつもりもない。


今の僕にはそれを語り合う楽しみよりも、大張島の秘密を守りたいという気持ちの方が強い。


僕は、あの穏やかな大張島の文化を…

あの島の皆を、守りたいのだ。



きっと弦楽さんも今の僕と同じ気持ちだったのだろう。

だから彼は、大張島の研究を公にしなかったのだから。



ヨッシー:

『ふーん……ソウさんなんか変わったね。なんというか生き生きしてるというか』

ナツミソーセキ:

『え、そうかな?』

ヨッシー:

『うん。前はさー、どこか影があったというか……なんか不思議寄りの雰囲気があったじゃん』


やっぱりよく人を見てる人だ。

流石は不思議クラブの創設者といったところだろうか?この少女の方がよっぽど『不思議』な存在だな。


ナツミソーセキ:

『いやぁ〜ヨッシーさんにそう思われていたとは!影のあるイケメン、いいじゃないですか!』

ヨッシー:

『イケメンとは一言も言ってないんだけど?』


『ま、でもそのほうがいいよ。なんかそういう人ってさー、大抵突然いなくなっちゃうんだよねー』


『多分さー?私が思うに、そんな人ってのは不思議に近づきすぎちゃって……』



『あっち側から戻れなくなっちゃったんだッ!!』 

『…てねー』



K-spring:

『きゃーー!』

ナツミソーセキ:

『なんでK君がびっくりしてる?』

ムシャコロ:

『もー、ヨッシーさんはすぐそうやって私たちを驚かせるんですから〜』

ヨッシー:

『ふふふ〜、びっくりした?びっくりした?』

ナツミソーセキ:

『ジャンプスケアじゃ僕は驚かないよ』

ヨッシー:

『ちぇ〜、やっぱソウさんは強敵だね』


響との愛を知っても、あいも変わらずに僕の心臓は響以外には低燃費だ。

でもそれはそれで、響の特別さを実感できてなんだか嬉しいのだけれども。


…あ、そうだ。怖い話で思い出した。


ナツミソーセキ:

『ムシャコロさん。実は旅の途中で前に教えてもらった"語り"の技術が役に立ちましてね。そのお礼を言おうと思ってたんでした』

ムシャコロ:

『ええー?!いやいやお礼なんてそんなそんな…』

ヨッシー:

『ムシャさんのおどろおどろしい語りを使う場面ってなにさ?百物語でもやったの?』

ナツミソーセキ:

『いやぁ〜ちょっと、ね?』

K-spring:

『おおー!やっぱなんか含みがあるじゃないですか!ソーセキさんそこんところ詳しく……』

『春佳ー?そろそろメシだぞー?』

『あ"っ!?ちょっとおじさん!勝手に入ってこないでっていったじゃん!』


『み、皆さん!俺はちょっとここで失礼しますね!』


K君の慌てたような声の後に、ぽろんとイヤフォンから退席音が鳴り響く。

またか……


ムシャコロ:

『今月二回目の"おじフラ"ですね…』

ヨッシー:

『トータルでいうならもう二桁越えだよ?もうさー、あのおじさんもここに呼んじゃえば良いのにねー』

ナツミソーセキ:

『いやぁ…本人はまだこっちに聞こえてないと思ってるみたいだし、見て見ぬふりをしてあげるのも優しさじゃないかな』

ヨッシー:

『うちでなら別にいんだけどねー、よそでやらかしてないかが心配だよ私は』

ムシャコロ:

『アハハハ…』 


流石のムシャコロさんもこれには苦笑いだ。

がんばれK君。どうか強く生きてくれ。


今度、それとなくアドバイスでもしてあげよう。



結局、ここの皆や周りの人と繋がろうとしていなかったのは、僕自身だったのだから。



ヨッシー:

『それじゃ今日はここでお開きにしよっか。ソウさん今日はありがとねー』

ムシャコロ:

『島の話楽しかったです!また聞かせてくださいね!』

ナツミソーセキ:

『それはよかったよ。それじゃまたね、二人とも』


僕は不思議クラブから退席してパソコンを閉じた。


『また』


自分がこの言葉を彼女たちに使うことに可笑しさを感じてしまう。


ほんの数ヶ月前まで、神秘となって語られることしか頭になかったのに。


不思議クラブのメンバーだけじゃない。

大学の人や…自分の家族とも。

もっと向き合っても良いのかもしれない。


僕が目を逸らしてきた、色んな人と…



僕は今を生きている。

僕が思っていたより、もしかするとこの現実セカイは楽しいのかもしれない。

不思議に満ち溢れた、空想と同じくらいに……


響のおかげで、僕はそのほんの一端を知れたのだ。

そして、きっと彼女と一緒なら、これからもそれは続いていく。



僕は響と一緒に、これからを生きていくんだ。



僕は机の上に置いてあった手紙の封を切る。

これは一週間に一度の、僕の"お楽しみ"である。



響とは厳さんを通して文通をしている。



本当は毎日にでも島に行きたいぐらいなのだが、僕は二年間の不真面目により貯まった負債を返済しなければならない。



そして、きちんと響を迎えに行くのだ。



手紙にはあまり綺麗とは言えない文字で、でもたくさんの文章が綴られている。

僕は彼女の字が好きだ。響が僕のために、頑張って書いてくれているのがわかるから。


それがなんとも愛おしくて、僕はまた彼女のことを考える。

僕はこれを読み上げている時、いつも胸の奥がじんわりと温かくなるのだ。



僕は読み終わった手紙を、小さな冷蔵庫たからばこに大切にしまい込んだ。



僕らは今も確かに繋がっている。

手紙で、心で。



あの夏の思い出で、繋がっている。



窓辺から遠くに見える大張島は、今日も鮮やかだ。

瞼を閉じれば、今でもあの一夏の出来事を鮮明に思い出せる。



通り過ぎて行く飛行機の音


ざわめく蝉の声、軋む潮騒館の床


砂を打つ雨の音、吹き抜ける夜風


打ち付ける波、風に揺れる木々


優しく揺蕩う、美しい浅瀬の砂



そして…



『私、ここでずっと待ってるから___』



君の声と表情が。


あの温かな、想い焦がれるような島での日々が。




真夏の残響が、今も僕の心臓ココロを震わせている。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ