真夏の残響・転
とんとんと包丁がまな板を叩いている。
女将さんが朝の支度をする音で僕は目覚めた。
いつものルーティン。だがそこに彼女の姿はなかった。
女将さんが部屋に呼びに行くまで、どうやら響は寝ていたらしい。
あの後、よく眠れなかったのだろうか。
今朝の食卓もいつもとは様子が違っていた。
主には響が、だが。
彼女はどこか気まずそうな雰囲気を漂わせ、焼き魚をつつきながら所在なくチラチラとこっちを伺っている。
よかった、少なくとも昨日の話は彼女に効いているようだ。
僕も昔の話を赤裸々に語った甲斐があるってものである。
「響ちゃん。今日はちょっと僕に付き合ってくれないかな」
「えっ!?」
僕は今日の調査に響を誘うことにした。丁度"見張り"が欲しかったところだし。
響はきっと、昨日の話で僕に同情的になっていることだろう。
こういう手合いは、こっちから何事もなく近づいていくとそれを拒絶することは少ないのだ。
「あー…うー……い、いいですよ」
「あら?あらあらあら!?」
響は困った顔で暫くうなった後に、ゆっくりと僕のお誘いを了承してくれた。
「やだもー!二人ともいつの間にそんな仲良くなったのぉ!?」
「腹を割って話してみたら意外と気が合いましてね。今ではすっかり仲良しですよ」
「あらまぁまぁ!二人で出かけるのよね!それなら私がお弁当作ってあげるわ!」
女将さんはそう言いながらしきりにこちらへ目配せすると、響に見えないようにサムズアップしてくる。
まぁ、ご厚意には甘えておこう。
「ありがとうございます」
「わ、私!準備してくるから!」
響はこの雰囲気に居た堪れなくなったのか、朝ごはんをかき込むとそそくさと部屋へ戻っていった。
…今日もなんだかかんだで楽しくなりそうだ。
そんな僕のワクワクの代わりと言わんばかりに、朝を迎えた蝉たちが一様に騒ぎ出していた___
…
「さて!今日は素潜りをします!」
「ええ…?」
僕の宣言に訳もわからず連れてこられた響は困惑顔だ。
今日の響は可愛らしい水色のワンピースを来て麦わら帽子を被った、ザ・サマースタイルって感じの装いである。
そんなキマっている彼女に対して僕は海パン姿。実にミスマッチだ。
だが、もうこれより他に選択肢はない。
これは僕にとっても危険な選択なのだ。
僕はこの大張島を、隅から隅まで探索し尽くしてしまった。つまり、後確認できていないのはこの島の裏手に広がる海の中だけなのだ。
僕は小高くなっている砂浜の上から海を見下ろした。
海側の砂浜は荒々しく打ち付ける波によってその一部を攫われては海に散らされている。
浅瀬側と違って、海側の砂浜はまるで切り立った崖のように海の底へと伸びていた。
なんでこれでこの砂浜が維持されているのかがわからない。浅瀬側から常に砂が供給されているのだろうか?
「響ちゃんは僕を見張る役だ!もし僕が溺れていたら誰かを呼んできてくれ!間違っても君が助けに来ちゃいけないよ!大人の手を借りるんだ!」
「いや、そんな意気揚々と言われましても…それにお兄さんって激しい運動はできないんじゃないんですか…?」
「その通り!いい質問だね響ちゃん!」
「そのテンションはなんなんですか一体…」
響は昨日の僕とのテンションの差についてこれていない様子だ。無理もない。
だが、僕はいつまでも暗い雰囲気を引きずるタイプではないのだ!
「だがしかし!こんな僕にも実は特技あってだね、それが『肺活量』なんだよ」
「はいかつりょう?」
「つまり、僕は息をせずに活動できる時間がとても長いってことなんだ。普段から鼓動が弱いからなのか、逆に心肺機能の"肺"の部分が強くてね」
「僕は五分間水の中に潜っていられる」
僕が五本指を立てると、響はびっくりした。
「ごっ…それってすごくないですか?」
「ああ、僕の数少ない自慢の一つさ」
さしもの響もこれには関心顔だ。
そうだろうとも。驚いてもらわなくては困る。
そうでなくては、やりたくもない水泳を無理やりやらされていた幼少期の僕が浮かばれないのだから。
「それじゃあいってくるよ!」
「…気をつけてくださいね。そっちは島の人も泳ぎませんから」
それはつまり、まさしく泳ぎには適していないということの証左なのだが、僕はもう後には引けない。
僕はゴーグルをつけると、意を決して海に飛び込んだ。
僕の全身を冷たい海水が包み込む。
こぽこぽという空気が海面にのぼる音の後には、海中のくぐもった静寂が耳を震わせた。
大張島の裏手の海は僕の想像以上に、恐ろしいほど深かった。
(これ以上は人力じゃ無理だな)
見渡す限りの海。
背中側の砂の崖以外には、横にも下にも何も無い広大で空虚な海だけがそこにはあった。
逆に、大張島の砂の方がこの海にとっての異物感がある。
上を見上げても下を見下ろしても、ほぼ垂直な砂の崖が切り立っている光景はこれはこれで神秘的だ。
手で掬ってみても、砂は容易く削りとれた。
何かで固まっているわけでも無い。なんでこれで島の体をなしているのか不思議である。
まるで、この島が海のど真ん中に突然現れたような……なんて。
僕は調査を切り上げることにした。
さすがに児島弦楽がこの海を潜っていったとは思えない。
「ぷはぁ!」
僕は海面に顔を出して方角を確認する。
「ん?なんか離れてるな……ぉわ?!」
僕はいつのまにか砂浜から離されていた。
そして、突然の荒波に全身が飲み込まれる。
(なんだ?!急に!?)
僕はなんとか再び海面に顔を出した。
僕が潜る前と一転して、波が強くうなりをあげている。
波に飲まれたのは時間にしてはほんの一瞬だったのに、気がつくと僕は響のいる砂浜からさらに離されていた。
まずいな…流されている!
「お兄さん!」
響の叫びが遠くに聞こえる。
息も絶え絶え、顔を海面に出すのも一苦労な程の波は気を抜くと僕の全身を飲み込むほどに大きくのたうっている。
(くそっ…)
未だかつてないほどの『死』の気配。
それを目前に感じ取っても、僕の心臓は動じなかった。
僕がいくらじたばたと足掻こうとも、いつもと変わらぬリズムで鼓動を続けている。
とうとう僕の脚は活動限界を迎え、なすすべもなく海の中へと飲み込まれた。
白い波に僕の視界が埋め尽くされて…
(こんなところで、死ぬわけには…)
(まだ____)
誰かが僕を抱きしめた。
(なんだ…?)
海水で冷え切った僕の体に、じんわりとした温かさが広がる。
「お兄さんしっかり!」
響が、僕を抱きかかえて引っ張っている。
響は荒波をモノともせず、僕を抱いたまま泳いでいた。
それはまさしく人魚が如し。
人間とはヒト一人を抱えたままこんなに早く泳げるものなのか?!服も着たままで!
僕の疑問をよそに響はぐんぐんと波をかき分け、僕らはなんとか砂浜にたどり着いた。
地面に足をつけられることが、こんなにも安心できることだったとは…
僕は響にお礼を言う。
「はぁ…はぁ…ありがとう響ちゃん、助かったよ」
「響ちゃんは泳ぎも上手いんだね。この前の講義もちゃんと聞いておくべきだったよ」
「なにをバカなこと言ってるんですかもう!お兄さん死にかけたんですよ!」
響は珍しく本気で怒っている。
…人にちゃんと叱られるの、いつぶりだろうか?
もはや思い出せないくらい昔の話だ。
いつだって、僕は皆とは違う『特別』扱いだったのだから____
なんだろう、彼女の怒り顔はなんというか、ちくりとココロにくるものがある。
嬉しいようなあまり見たくないような…複雑な気分だ。
「いや、本当に感謝してるんだ。それにごめんよ。わざわざ溺れるところを見せるために君を連れてきたわけじゃないんだ」
「…まぁ、お兄さんに悪気がないのはわかってますよ」
「今度は海の泳ぎ方も教えてあげますから」
僕が本気でしょぼくれているのに気がついたのであろう響は、場を和ませる為かそんな軽口を言う。
僕はそれに曖昧に笑う。どうやら気を使わせてしまったようだ。
……いやまて
「ちょっと待ってほしい響ちゃん」
「え?」
僕の目の前で、響はやおら濡れたワンピースの裾を捲り上げて絞り出した。
彼女の砂浜のように真っ白な太腿は愚か、その上の見えちゃいけない領域まで見えてしまっている。
「命の恩人にこんな事は言いたかないが…ここは外だよ響ちゃん。君のその肢体を曝け出すのはよしたほうがいい。水着じゃないんだからさ」
「水着も下着みたいなものじゃないですか……それに今は誰もいませんよ。見ても興奮しないお兄さん以外はね」
響はそう言うと、いたずらっぽくへらりと笑った。
これは悪い笑顔だ。
「……本当に興奮しないんですね」
僕の海パンをまじまじと見下ろした響は興味深そうにそう言った。
うちの子は見世物じゃないんですよ。
「昨日の言葉は撤回するよ。君は相当な悪女だったみたいだね」
「最近側にいる悪い人の影響かもしれませんね。それか、元々育ちが悪いせいかも」
…これは笑っていいのか?とりあえず笑っておくか。
「ハハハハハ」
「ふふふふ…」
僕らは二人して笑い合った。
なんだかんだ、彼女とは打ち解けられたのだろう。
この気の置けない感じが妙に心地いい。
そういえば、あんな話を誰かに語ったのは初めてかもしれない。
それだけ…僕はいつのまにか、彼女にシンパシーを感じていたという事なのだろう。
「いやぁしかし調査は失敗だね。また別の方法を考えないとな」
僕は何の気なしにそう言ったのだが、響はそれを聞いて表情を暗くする。
「どうしてそんなになるまで…前にお兄さん、『そんな大層な調査じゃない』って言ってたじゃないですか…」
「お、僕の発言を覚えててくれてるだなんて嬉しいね。あの頃の響ちゃんは今と違ってもっとつっけんどんだったのに」
「茶化さないでください」
僕がへらへらと軽口を叩いていると、響に睨まれてしまう。
…結構本気で心配してくれてるんだな。
「死にかけてまでする調査なんて、おかしいですよ…」
「…」
まぁ…響にならいいか。
僕の『計画』を話してしまっても。
どうせ"語り部"は必要になるのだから。
僕は自分のリュックを漁りながら、砂浜に腰掛ける。
「実はね響ちゃん。僕はこういうものなんだよ」
僕はリュックから取り出した小さな長方形の紙を響に手渡した。
「…?なんですかこれ?…『不思議クラブ』?」
「いかにも。何を隠そう!僕は不思議クラブのメンバーだったんだよ!」
「はぁ…」
それを聞いた響はきょとんとしている。今のは笑いどころだったんだけど…まぁそういう反応が普通か。
「って言っても何のことやらだよね。安心して、怪しい団体じゃないからさ」
「不思議クラブはその名の通り、ただの不思議な話が好きな人間の集まりだよ。僕はその集団の一員で、いつも皆と不思議な話で盛り上がってるんだ」
「ふしぎな話?」
「そう…例えば都市伝説とか怪談とか、はたまた地方の言い伝えだったり子ども向けの教訓話だったりもする」
「大張島でいったら"産砂"の話なんかがまさにそれだ。僕らの日常に根付いていて、それでいて現実とはちょっとズレている神秘的なお話の数々……」
「僕はそういう不思議な話が好きなんだよ」
「ま、単なる趣味の一環だね。その名刺も皆でお遊びに作った奴だし」
「……つまり、お兄さんは趣味に命をかけてるってことですか?」
「その辺りは人によるだろうけどさ……そこで一つ、響ちゃんに聞きたいんだけど、響ちゃんは幽霊が本当にいると思うかい?」
「え?……いないと思います、けど」
良かった。ここでいるって言われたら話がおかしくなるところだった。
「そうだね。いわゆる心霊現象ってやつはもはや科学的に説明がされている。いわば、文明の光に照らされて暗がりにあった不思議は詳らかに解体されたんだよ」
「幽霊の仕業だと思われていたものはただの現象で、幽霊だと思われていたものはただの見間違いだった……」
「それが今の常識で、つまり僕の好きな不思議ってのはそういうものなんだ」
悲しいかな、文明が発展し『現代』が象られてゆくにつれて、それらの不思議が持つ神秘性は薄れていった。
それは真実が明らかになっただけのことであるが、しかして確かに失われたものもあると僕は思うのだ。
子どもが大きくなるにつれて、世界を知っていくように。
視野が広がり知識が増えて、常識に塗りつぶされながら失われてゆくもの。
それに想いを馳せる情動を。
僕らは郷愁と呼ぶのだろう。
「確かに話の大元になる"ナニカ"はあったはずだよ。でもそれは大抵勘違いだったり、伝承の中で誇張されていったものだったりする」
「端的に言えば、全部『空想』の話に過ぎないんだ」
「僕はそんな『空想』が好きになってしまった。『空想』にオモイを馳せている時間はそれはそれは楽しかった」
「そんな僕はいつしか……"本物"に出会う事を夢見るようになったんだよ」
「…本物って?」
「現実に存在する不思議な事…今の人類の知識では説明がつかないような、超自然的で神秘的な事象!それらは空想ではなく純然たる事実として僕らの世界に確かに存在していて、今もどこかの片隅で見つけられるのを今か今からと待ち侘びているのかも知れない!……ってね」
「ようは、僕はこの目で『神秘』を見つけ出したいんだよ。この世界には不思議な事もあるんだって確かめたいんだ」
僕は響に、手帳に書き記した一つの言葉を見せる。
「『私は大張島の火口に神秘を見た』……」
「そうとも。これこそが僕がこの島に来た理由だ」
「これは児島弦楽という人が書き記した手記の写しでね。それは僕にとっての"福音書"だったんだよ」
「僕はね、響ちゃん。彼の文章から本物の神秘の気配を感じ取ったんだ」
「この文章を残した児島弦楽さんはきっと、この島で本物の神秘と出会ったに違いないんだって。そう思ったら、居ても立っても居られなくなった」
「だから僕は時期でもないのに厳さんに頼み込んでこの島に来て、そして今死ぬ気で調査をしている。個人的なオモイに突き動かされてね」
そして僕はこの島に来て確信した。
この島の人たちは何かを隠している。
僕はそれを知りたい。ここまで来て、ここまでお膳立てされておいて、もはや後には引き下がれないのだ。
願わくば……願わくばその隠し事が。
陳腐で現実的な"推理物"ではなく、僕の追い求める"超自然"であることを、祈っている。
「ほら、大層な話じゃなかっただろう?響ちゃんにとっても、誰にとっても」
「これはね、僕だけの話なんだよ。どこまで行ってもね」
「誰とも交わることのない…"繋がる"ことのない、平行線上の話なんだよ」
「……」
これを聞いた響は果たしてどう思うのだろうか。
そして、これを語った僕は彼女に何を期待しているのだろう?
例え彼女が僕の理解者になってくれたとして……それで一体何になると言うのか。
現実は冷たく苦しい。うまくいかないことばかりだ。
今日の調査をもって、僕はかねてよりの計画に結論を出さなくてはならない。
もはや、残された謎は一つだけなのだから……
煩わしく僕らをせき立てていた水滴はもう乾き切っていて、南中した太陽がじりじりと僕らを焼いている。
こんなにもこの島は陽気なのに、僕らの間には暗い影が差し込んでいるみたいだった。
荒々しい波が、何度も何度も砂浜に打ち付けられていた____
「おーぃ、響ちゃんいるー?」
晩御飯も終わり、お風呂に入り、僕は響の部屋を訪ねた。
今日の僕の話を聞いた響は随分と思い悩んでいて、それは夕飯の時に上の空だったことからも伺える。
僕は今、終止符を打ちにきた。
大張島の神秘は、本当に存在するのかどうかということに。
そして、島の皆は一体何を隠しているのかということについても。
響と話して、その決着をつけようと思う。
その結論を出すためのピースは…
この一夏の終わりを締めくくる相手は、響が良いとなぜだかそう思ったから……
だけれども…
「返事がない。ただの屍のようだ…」
ノックをしても、部屋からの返答はなかった。
それどころか、僕が叩いたせいで部屋の扉が開かれてしまったではないか。おいおい…
よくよく考えたら、潮騒館には鍵の一つもついてやしないのだ。年頃の娘が住む場所としてはあまりに不用心である。
開かれた部屋の中を覗いても、当然響はいなかった。まぁ風呂かなんかだろう。
後で出直すとするか____
「…は?」
僕の口から気の抜けた声が出る。
僕は響の部屋に足を踏み入れた。
無作法なのも忘れて。
僕の視線はある一点に集中している。
それは、丸いテーブルの上に置かれた薄汚れた手帳……
僕はその装丁に見覚えがあった。
「児島弦楽の、手記だ…」
僕はそれを手に取り、ページを開いた。
『後からここに訪れる人間のために私の言葉をここに残す____』
見たことのない記述。
僕は弦楽の資料には全て目を通した。そらんじれるぐらいには。
これは外にはない、弦楽が消息を絶つ前に書いていたものだ!
僕は夢中になってページを捲ろうとして……
ぎしりと、潮騒館の床が軋んだ。
「……あれ?お兄さん?何やって…」
「ッ!」
「あっ__」
僕が人の気配に振り向くと、そこには湿った髪をした響が立っていた。
僕の心臓が跳ね上がる。鼓動はちっとも早くならないくせに。
「……見たんですね、それ」
「あ、いや、ちょっと君と話したいことがあって、それでノックしたんだが、たまたま扉が開いてね!」
「決して!決して君の部屋を君がいない時に荒そうとして押し入ったわけじゃないんだ!」
「そうですか。それで?どこまで読んだんですか」
「……いや、今まさにこのページを開いたところだよ」
「へぇ」
響はいやに無表情だ。
その表情でこちらを見やる彼女に、僕は未だかつてないほどの緊張感を覚える。
あの中学生の時に起きた"修羅場"の時よりも、はるかに強く!
「…それは遺書ですよ。私の父の」
しかして、僕のそんな的外れな緊張感は響の発言で吹き飛ばされた。
「父?父だって!?児島弦楽が!?」
確かに彼の正確な年齢は不詳だったが……少なくとも四十年前には活動をしていた記録が残ってるんだぞ?
「それはその…つまり、数年前までここに弦楽…さんがいたってことなのか?」
僕は響の前で彼が死んだと明言するのは躊躇われた。
僕の心中を知ってか知らずか、響は淡々と話を続ける。
「父は外からやって来て、私と母と家族になってくれました。幼い私の父親になってくれた…」
「父は島の皆に外のこととか、色んなことを教えてくれて……この島を外から守ってくれてたんです」
響のその言葉で、僕の中に一つの結論が導かれた。
本当の意味で本土と断絶しているのであれば、それこそ大張島の文化は完全に独自路線に進んでいたことだろう。
だが僕は、この島の至るところに近代文明の気配を感じていた。
それはつまり、島と外との融和を進めた"外"からの要因がいた事に他ならない。
そしてその人物は、きっとこの島を守りたかったのだろうとそう思っていたのだ。
外からの侵略に、この島が飲み込まれてしまわないように……
「私もそろそろ、お兄さんに話そうと思ってたんです」
「そうじゃないと、お兄さんは無茶なことしていつか死んじゃいそうだったから…」
「…奇遇だね。僕も今日、結論を出しに来たんだよ」
「大張島の『神秘』について…僕に教えてください」
僕は頭を下げた。
僕はこの為に、大張島に来たのだから。
「…私についてきてください。きっと、それが私の役目なんでしょうね」
「お兄さんの知りたいことを、全部話せるのは私だけですから…」
響はそう言って…
曖昧に、笑った。
…
「ここです」
「ここって…」
響が案内してくれたのは、あの雨の日、僕が探索していた場所だ。
だが、僕らの目の前には砂山の一面が広がるのみで、火口は愚か何もないのだが……
……いや?何もない?確かにそうだ。
この一面だけ、砂山を構成しているあの木が一本も生えていない。
これはつまり…
「この中です」
響は躊躇なくその砂山へ、というより砂の中へと進んでいった。
まるで飲み込まれるように、ずぶずぶと響が砂に埋まっていくではないか。
僕も慌てて後を追う。
砂山の砂は、抵抗なく僕の身体を受け入れた。
目をつぶって、できるだけまっすぐ歩く。
サラサラという砂の擦れる音が僕の全身を包み込んだ。
僕は無我夢中で歩を進めて……
「ここですよ、お兄さん」
おっかなびっくり歩いている僕を、響が抱き止めた。
僕は顔にかかった砂を振り払い、目を開く。
「お、おぉぉ…!」
僕の視界に広がったのは、青い光がゆらゆらと反射する根っこのドームだった。
円形に広がるその空間を形成しているのは、あの山に生えていた木々の根である。
それらがまるで網のように張り巡らされて、このドームを形作っているのだ。
根のドームのところどころからサラサラと砂が落ちてくるその景色はまさに神秘的だ。
「山の中に、こんな空間が…」
そして、この目が覚めるような青。
ドームの中央には、どこまでも透き通ったコバルトブルーの泉が鎮座していた。
こんなにも透き通っているというのに、全く底が見えない。
その真っ暗な深奥は、どこまでも下に続いているようだった……
…いやまて、円形の泉?
「まさか!これが"火口"なのか!?」
「父はそう言ってました。まるで命が噴火している火口だと……私にはよくわからなかったけど、お兄さんには意味が分かりますか?」
「いやぁ…?僕にもさっぱりだね。君の父上はどうやら詩人の才能があったらしい」
「ふふふ…私もそう思います」
響が嬉しそうに笑う。多分、思い当たる節があったのだろう。
児島弦楽との、楽しい思い出が…
「父は、自分のことを色んな島の研究をしている変人だと言っていました」
「父が一番最初にこの島に来たときは、まだ大張島は孤立してたんです。今みたいに年一回の船も来ていなくて、島のみんなは外のことを何も知らなかった」
「本当にたまたま島を訪れた父は、そんな島のみんなの為にそれはそれは色んなことをしてくれたそうです。今の島の生活が曲がりなりにもあるのは、全て父のおかげだと弥美さんが嬉しそうに言っていました」
「女将さんは…というか、やっぱり島の皆は弦楽さんを知っていたのか」
「はい。この辺りの話は正直、私より他のみんなのほうが詳しいです」
「私がまだ生まれる前の話ですから…」
「そして月日が流れて、父と私たちは出会いました」
「母は以前から年に一回だけ来る父に目をつけていたみたいで、その熱烈なアプローチの甲斐あってか、父はそれを受け入れてくれました」
「私のことも実の娘のように扱ってくれて、可愛がってくれました。私は父のしわくちゃの手で優しく撫でられるのが好きだった……」
「父はこの火口の前で、私に色んなことを教えてくれました。小さい私にもわかるように、歌いながら……」
「私は"それ"を引く父と一緒に歌うのが好きだったんです」
響が指差す先には、缶で作られた手作り感溢れる三味線が根に立てかけられていた。
多分、あの三味線も一緒に作ったんだろうな……
家族で、一緒に。
「母も、それを嬉しそうに聞いていました」
「私たちは『家族』だったんです」
「外の人たちが言うような血の繋がりはありません。でも、私たちは確かに繋がっていた」
「年齢だって関係ない。この島の全ては一つなんです。私も母も、弥美さんも厳さんも…みんなこの島で繋がっている」
「繋がっていたはずなのに……」
「父も母も、私を置いていきました」
「私は一緒にいけなかった」
「みんな私によくしてくれるんです。この島のことだって大好きなんです。でも…」
「私はあの時、どうしようもなくこの世界で一人ぼっちなんだと、そう思っちゃったんですよ」
「ずっと…どこまでも…」
「…そんなことが」
僕は言葉に詰まってしまう。
いや、却ってそれでよかったのかもしれない。
これは、僕が軽々しく口を出せるような、そんな話ではないのだ。
これこそが、ずっと彼女の内側に燻っていたオモイなのだから……
「お兄さんは産砂の話は誰かから聞きましたか?」
「あ、ああもちろん……あの浅瀬のことでしょ?言い伝えも教えてもらったよ」
『産砂信仰』
それはこの島の人たちがあの浅瀬を大事にしている大きな理由の一つだ。
曰く、暗く冷たい海の中において、『産砂』は命を抱き温めてくれる安息の地にして始まりの場所であり、我々はこの砂からこの世に生まれ落ちたのだ___
という伝承、いわば土着信仰がこの島には残っている。
故に"産"砂。
奇しくも土着神を表す"産土"とは同音にして意味が近しいのが実に面白い。
だが、産砂信仰は宗教ではない。
それは、僕らが初詣に神社へ赴き、ハロウィンやクリスマスを祝い、そして寺で葬式を挙げるような、そんな生活に根付いた情景の一部なのだ。
「あの言い伝えは父が外向けに言い変えたんです。そして、その削られた部分が私たちにとって一番重要な部分…」
「『産砂神話』なんです」
「産砂、神話…」
話のスケールが一段階上がる。
響は語る。産砂神話の全てを。
大張島の神秘の、その全容を。
「暗く、深く、冷たい海___」
わたしたちはそこからやってきた
果てなきいのちの太源
始まりにはただそこだけがあった
だがそこからいのちがうまれるのは困難だった
だからわたしたちがやってきた
海溝はいのちを通し変えた
海原はいのちを奪い育てた
海砂はいのちを抱き結んだ
そしていのちは象られた
「これが神話の序章です。そして、ここからが大張島の伝説について…」
荒ぶる海の怒りによって、人々はそこに呑み込まれた。
そして、そこから逃れた一人の男が島に流れ着いた。
その島は冷たく暗い海の中にあって暖かく、そして穏やかだった。
島には一人の女がいた。二人はこの出会いを大いに喜んだ。
男はこの島を楽園と呼んで崇め奉り、二人は島に優しく抱かれながら愛を育んだ。
また、時折そこから逃れた人々を島は受け入れ、島は大いに栄えた。
ある時、女は男にこう語った。
この島の為に、この命を捧げなければならないと。
だから私と一緒に来てくれ___と。
男はそれに頷き、島に助けられた命を喜んで捧げた。
島は二人を祝福し、永遠に結びつけた。
そして新たないのちが砂から這い出でた。
人々はその子を受け入れ、そして偉大なる島の砂を讃えた。
砂は島であり、島はいのちの巣である。
我々は砂から産まれ、この島で暮らし、命を島へ捧げる。
そしてまた新しきいのちが砂から産まれ出ずるのだ。
大いなる我らの『産砂』から___
「これが産砂神話です。私たちが遥かな昔から受け継いできた大張島の伝説…」
「お兄さんが言うところの、神秘ってやつです」
「そして、この火口が神話の男女が身を投げた場所だと言われています」
「…なるほどね。そりゃあ外の人間にはおいそれと教えられないわけだ」
言わば、この火口は島民たちの神聖な場所なのだ。
他所の人間に隠していたのも理解はできる。
「でも、実は火口は二つあるんです」
「え?」
「あっちの島の同じ場所にも火口があって、どっちが最初の場所なのかまではわからないんですよ」
「だから……昔は二組必要だったんです」
「島に、命を捧げる儀式に…」
そう言って響は俯いた。
その言葉が意味するところが分からないほど僕は察しが悪くはない。
いわゆる、古に"ありがち"な事がこの島でも行われていたということなんだろう。
男女を身投げさせる、『生贄』の儀式が……
「勘違いしないで欲しいんです。今のみんなは誰もその儀式には関わってません。全部古い時代の話なんです!」
「だから…お兄さんを島に連れてきたのだって!この島での出来事も全部、みんなが良かれと思ってやってることなんです!」
珍しく響が声を荒げる。
僕はそんな彼女を宥めるように、できる限り優しく語りかける。
「大丈夫だよ響ちゃん。もちろんそこは疑ってないさ。みんな良い人たちばかりだしね」
「そも、この島で行方不明者なんか出ていたら僕の前調べの時点で……」
と、そこで僕ははたと気付いた。
行方不明者なら一人、いるではないか。
「まさか…そんな、そういうことなのか…?」
「……はい。父は火口に身を投げました」
「母と一緒に」
「…私と一緒に」
『私は一緒にいけなかった』
先ほどの響の言葉がリフレインする。
響を島に取り残したのは…
彼女を置いて"逝った"のは…
響の両親だったのだ。
「母は最後の『ラン』だったんです」
「らん?それは一体…?」
「父が言うには…外でいうところの"巫女"だそうです。伝説にも出てくる島に居た最初の女…その彼女の役目を引き継いだ人のことです」
「私たち島の人間は皆、生まれたその瞬間からこの島の『ラン』なんです」
「でも、弥美さんたち今の島のみんなはランとしての使命じゃなく、大張島の一島民として外の世界と繋がっていくべきだって意見なんです。だから、ランとしての使命を抱いたのは母が最後でした」
「母は常々私に言ってました。私たちはこの島の民として、産砂の民としてランの使命を果たすべきだと」
「幼い頃から、母は世話役として私の面倒を見てくれていました。そして、私に色々な事を教えてくれた」
「生きるための事、世界の事、島の外の事…」
「そして、この島と私たちの事を」
「母は私もランにするつもりだったんでしょう。ランとしての使命と、その為の技術を私は教え込まれました。そして、私はそのことを疑いもしませんでした」
「いつも、弥美さんと母が言い争っているのを訳もわからずに聞いていたんです……今ならなんでかわかります」
それは…まぁそうだろうな。
ランが言わば生贄の儀式における巫女の役割を果たすということは、つまりその果ては火口に身を投げさせるという事だ。
それを子どもの頃から教え込むというのは…控えめに言って洗脳に近いだろう。
女将さんはそれを辞めさせようとしていたのだ。
「この島がおかしいって自覚はあるんです。外と繋がっても、嫌な思いをするのは私たちだと。だから、母の主張のように外との繋がりを最低限にして、私たちは産砂の民として生きる……それは理解できます」
「それでも弥美さんたちはこの島の人間として生きる事を決めました」
「それは母とは違う道だったけれど、とてもすごい決断だったと私は思ってます」
「でも、私だけが定まっていない。私だけが決めあぐねている。自分の未来をどうするのかを……」
「私にもよくわからないんですよ。自分がランとして生きたいのか、普通の人間として生きていたいのか…」
「だから、確かめたかった」
「私に……私にも、子どもが出来たら何かが変わるのかなって」
「ちゃんとした子どもの作り方は母から教えられていましたから…」
響が僕に迫ってきたのは、僕が危険を冒して海に潜ったのと同じだった。
彼女は湧き上がるどうしようもないオモイにせき立てられて、それをどうにかするためにがむしゃらに行動していただけだったのだ。
「私、最初は母が何を考えていたのか分かりませんでした。私に大張島の『ラン』としての使命を教えこむ反面、島の外との違いを教えてくれたり…」
「…響ちゃんのお母さんは、君にラン以外の道も示していたんだね」
「はい。でも、最近は母の気持ちが私にも分かるようになったんです」
「母も、今の私みたいに割り切れないモヤモヤを抱えていたんじゃないかって…」
「自分はどう生きたいのか。使命を果たすべきなのか、弥美さんたちみたいに普通に生きるのか…」
「でも、弥美さんたちみたいには割り切れなくて、目の前の現実が重たくなって……」
「だから……きっと、父は母にとっての救いだったんですよ」
「最後には…結ばれることができたんですから…」
「わかってるんです。父が最後に私を水面へと押し上げたのは、拒絶じゃなくて優しさだったってことは。でも、私はやっぱり連れていってほしかった」
「たとえ一つになれなくとも…」
「だって無責任ですよ!勝手に繋がって、勝手に育てて、勝手に愛したくせに!」
「私を一人にして…」
「そのまま幸せを目指して生きろって?!自分の道は自分で決めるべきだって!?確かにそうかもしれません」
「でも…でも!」
「私の大切な人は二人だけだった!私と本当に繋がっていたのは、父と母だけだったんですよ!」
「それなのに…二人は私を置いていった!」
「それからたった一人で、どうすればいいっていうんですか…」
「繋がるから苦しいんです。最初から一人なら寂しくもなかったんです」
「私は、私は…」
「普通に生きる道が嫌なわけじゃないんです。でも、それと同じくらい父と母の最後の姿が私の眼に焼き付いている」
「私もああやって…」
「誰かと繋がって、一緒に___」
「…何で、お兄さんが泣いてるんですか?」
「えっ…」
僕は自分の頬を触る。
そこには冷たい涙が川となって僕から流れ出ていた。
どうして?彼女に同情したのか?
いいや違う。彼女の言っている話はまるで情景が想像できない。僕には響が両親に置いて行かれたという事実しかわからないのだ。
彼女の胸中に渦巻く複雑な感情の一片たりとも、僕らのような"外側"からではその本質を知ることすらできないのだから。
ならばなぜ?なぜこんなにも僕は哀しいんだ?
君の、その諦めたようなその顔が___
どうして、こんなに僕の胸を締め付ける?
「あ、そうか」
それは僕もじゃないか。
君は僕だったんだね。
響も僕と一緒で…
誰かと、繋がりたかったんだ___
僕は徐に響に手を伸ばす。
そして、腕を回して彼女を抱きしめた。
ゆっくりと。彼女の心が壊れてしまわないように…
彼女はそれを拒絶しなかった。
僕の胸におさまった響はポツリとつぶやいた。
「…何も聞こえませんね」
「はは、そうだろう?こいつは恥ずかしがり屋でね。いつも奥の方に隠れているんだよ」
「うらやましそうに、こっちを覗いてくるくせにね」
響と触れ合う胸が痛い。
僕の心は、未だかつてないほどにざわめいている。
これは、このオモイは一体なんだろう?
「あっ…」
響が嬉しそうに顔を上げた。
「聞こえた。聞こえたよ」
その彼女の顔を見て僕は____
僕はこの島に、神秘の存在を証明するために来た。
乾いたまま生きるのではなく、たった一つ大切なオモイのために、自分の人生を捧げようとした。
でもそれを果たす前に、響の為に何かをしてあげたいと、そう思った。
児島弦楽が、この島を守った様に…
僕も。
彼女の力になりたいと、そう思えた。
それはきっと、自己満足に過ぎないのだろう。
それでも僕は…
響に、手を差し伸べてあげたいのだ。
僕らは暫くの間、ただただ抱きしめ合った。
お互いの鼓動がどちらのものかわからなくなるぐらいに、ずっと……
ドクンドクンと、僕らの二つの鼓動がいつまでも共鳴していた___