真夏の残響・承
窓から流れてくる気持ちの良い風が頬を撫で上げる爽やかな朝。
「あ、おはようございますお兄さん」
「やぁ!おはよう響ちゃん」
与えられた部屋から一歩踏み出せば、休憩所に座っていた響が僕に挨拶をしてくれる。
そんな彼女を横目に、僕は休憩所に備え付けられた洗面台で顔を洗って寝癖を整えるのだ。
そしてどちらともなくリビングに降りてゆく。
これがここ数日間のいつものルーティンだ。
「おはよう二人とも!ご飯できてるよ!」
女将さんの快活な声を聞きながら座る食卓には、今日もしっかりと一汁三菜が盛り付けられていた。
毎日朝晩これとは至れり尽くせり過ぎる。
「お兄さん、今日は何を調べるんだい?」
「ああ、今日は浅瀬を調べようと思っていましてね。あそこって勝手に入ったりとかしてもいいもんなんですか?」
「もちろんいいともさ。私たちの産砂は誰も拒まないよ」
「…真ん中の方は思ったよりも深いのであんまり近づかないほうがいいですよ」
「あら!」
「へぇ…」
僕と女将さんが話していると、珍しく響が話に入ってくる。
響がこの食卓で口を開いたのは僕がこの島に来てから以来、初の快挙である。
僕はすかさずその話を深堀する。
「外から見た分には一様に見えるんだけどね。それに、深いといっても下は砂でしょ?」
「深いところは砂も深く沈み込むようになってるんです。慣れてない人が沈んだら足を取られて普通に溺れますよ」
「ほほーなるほど。流砂みたいになってるのか…」
「ごちそうさまでした」
響はそれだけ言い放つとそそくさと部屋に戻っていく。
「ありがとね響ちゃん!」
僕はそんな響の背中にお礼を投げかけた。
うんうん、調査は一向に進んでいないけれど人間関係の構築は順調である。
今日はいい日になりそうだ___
と、思っていたのも束の間。
「どわぁ!」
僕は砂に足を取られ尻餅をついた。
浅瀬の温かな海水が僕のズボンをぐしゃりと侵略する。
僕は今、件の浅瀬を探索している。
この浅瀬のどこかに、火口に繋がる道が隠されているかもしれないから。
僕はいい加減、弦楽の"火口"という言葉は比喩だったのだろうと思い始めている。
だが"口"と表すぐらいなのだからきっと穴状の何かなのだ。
火口…火の噴き出す穴…間欠泉?
あるいは海底火山のことか?そうなると完全にお手上げだぞ。
「ふう…」
僕は調査ついでに引き揚げたゴミを砂浜に上げた。
僕は良識のある人間なので、響の話を聞いたうえで沈んでいるゴミを見て見ぬふりなんてできないのだ。
しかし…
「はぁ…冷蔵庫はきつかったか…小さいとはいえ…」
僕は横たえた冷蔵庫に腰を下ろした。
背後からは波の強い音が聞こえてくる。
この左右の島を繋ぐ砂浜部分は実に面白い。
というのも、海側と浅瀬側の両方から強さの違う波が砂に打ち寄せているさまを見ることができるのだから。
これは中々お目にかかれない光景だ。実に素晴らしい!
…と、現実逃避をするのはここまでにしよう。
左側の沿岸部を歩いただけで半日はかかった。これは浅瀬全体の割合にして実に二割といったところ。
浅瀬の隅から隅まで探索するのに、一体どれだけの時間が掛かることやら……
「残り半月もないぞ…大丈夫か…?」
「何が大丈夫じゃないんですか?」
「おわぁ!?…っと響ちゃんか、びっくりしたぁ」
背後からの突然の声かけに僕は情けない声を上げる。
後ろを振り向くと、響が何やらバスケットを腕に下げながら立っていた。
「やぁ響ちゃん。今日もいい天気だね」
「…お兄さん、ホントにゴミを拾ってくれてるんですね」
「まぁね。それに、これって君が拾いきれなかったやつだろ?」
「え?なんで…」
「君の仕事ぶりはちょくちょく見かけてたからさ。それで残ってるってことはそういうことだろう?」
これまでの調査の時に、響がいつも浅瀬を歩いていたのを僕は何度も目撃している。
彼女は毎日毎日、浅瀬に流れ着くゴミを拾っていたのだ。
一人で、ずっと…
「あの、これ…弥美さんからです」
少し照れながら響が差し出してきたのは、木編みのバスケットの中に入ったサンドイッチだ。
色とりどりの具材が挟まれていて実に鮮やかである。
「おーありがとう!ちょうどお腹が空いてたんだよ。気がきくねぇ」
「…?お兄さんが弥美さんに頼んでたんじゃないんですか?」
「え、いんや?別に頼んでないけども…」
「…全く、弥美さんったらもう」
響は目をことさらに細めながら、どこか遠くを見ている。
なんにせよ僕にとっては渡りに船だ。島に持ち込んだカロリーメイトでお昼を済ませるのにはそろそろ飽きてきていたのだ。
僕は早速サンドイッチにかぶりついた。
「うん!おいしい!」
ふかふかのパンに挟まった白身魚のフライはサクサクで、その食感が僕のあごを楽しませてくれる。
このソースもその全容は皆目見当もつかないが非常にうまい。この刻んだピクルスがいいのか…?
響も僕の隣にちょこんと座りながらサンドイッチをはもはもと食べている。
「…お昼からは私も手伝います」
「お、助かるよ。一人じゃ無理そうなのがちらほらあってね。……そういえば引き揚げたゴミはどこに持ってってるわけ?」
この島にはゴミ処理場なんてものはなかったけれど…
「冬に持って帰ってもらうために、あっちの島の船着場横に集めてるんです」
「それと、たまに素材として使ったりもしますよ」
「んん?素材って?」
確か外向けの船着場はあっちの島にしか無いんだったか…
と、僕がそんなことを考えていると響が気になることを言う。
「直したら使えそうなやつはそのまま使ったり、工作に使えそうなやつは素材として組み合わせたりしてるんです」
「工作!へぇ!」
「家具とか漁の道具とか…生活に必要な物を作るんです。皆でどのゴミをどういう風に使うか考えるのが楽しいんですよ」
「いいねぇ、DIYか。リサイクル精神ここに極まれりだね」
「でぃーあいわい?」
響は聞きなれない言葉に首を傾げた。
そう言われてみれば、潮騒館にある家具の一部はどこか手作り感があった。
あれも流れ着いたゴミをリサイクルした賜物なんだろう。
「塩撒さんとかはすごいんですよ。私たちじゃゴミにしか見えないモノから色々作っちゃうんですから。この前なんか一から掃除機を作ってました」
「それはまた…本格的だね」
いや、何がどうなったら捨てられたゴミで掃除機が作れるんだ?
塩撒さん恐るべし。あのおじいちゃんにそんな特技があったとは…
それを語る響はどこか誇らしげだ。
…本当に仲がいいんだな、この島の人々は。
島全体が家族という、弥美さんの言葉もあながち嘘ではないらしい。
「全くもって素晴らしい考えに頭が上がらないね。向こうでゴミを捨ててる奴らに君たちの爪の垢を煎じて飲ませてやりたいもんだ」
「…?なんでそんなものを飲ませるんですか?」
「え?…あー、いや、これはいわゆる慣用句でね__」
僕は響に慣用句の説明をしてあげる。
さっきのDIYはともかく、なんというか響の知識は偏っている。
でも、それは彼女が不勉強というわけではない。
今も響は僕の話を興味深そうに聞いているのだから。
「へぇ…変なことを考える人もいるんですね」
「言われてみれば確かに妙な話だよね。飲ませたところで何になるんだって」
「でもこういう慣用句しかり、民俗ってのはそういうところから広がっていくものなんだよ。その成り立ちや由来を考えるのもまた、楽しいものなんだよね」
「…ふふ、そうかもしれませんね」
響の知識に対する態度は実に純粋だ。
普通、民俗学の話なんか多くの人間は興味すら持たないっていうのに、彼女は僕の話を楽しそうに聞いてくれる。
彼女は疑問に対して興味を持って接している。
知識が偏っているのも、ただその答えを知る機会が無いだけなのだ。
文明から隔絶された、この海の孤島では。
僕が彼女に色々と教えてあげたら、もしかすると楽しいかも知れない。
そうすれば、この島の文化はもっと___
……どうせ僕はすぐ居なくなるのに?
「お兄さん?どうしたんですか?」
「ん、ああいや、ちょっと考え事しててね」
僕は益体もない思考を頭から追い出した。
そんなことをしている暇は僕には無いはずだ。
ともすれば、それをしてあげられる未来も…
「…お兄さんって、いつも何かを考えてますよね」
「え?そうかな?そう見える?いやー思慮深さが滲み出ちゃってるのかな!」
「そうやって、テキトーな事を言っている間も…ずっと別のことを考えてる」
「…」
「そういう顔をしてる」
それは響にしては珍しく感覚的な表現だ。
そして、そんな僕を語る彼女の表情は複雑そうだった。
やはり、彼女にはわかってしまうのかも知れない。
僕らは似たところがあるのだから____
僕は響の指摘を誤魔化すように、サンドイッチの最後の一欠片を口に放り込んだ。
「さてと、それじゃあ『浅瀬大掃除大作戦』に取り掛かるとしようか」
「…はい」
自分でもよくわからない。僕は彼女をどうしようというのか。
所詮はこの一夏の間に知り合っただけの関係に過ぎないのに。
どれだけ彼女との会話が心地良かろうが、それは蝉の一生のようなものなのだ。
夏が過ぎ去った後に、僕が彼女に残せるものは何も無いのだから。
これは結局のところ、人生において何を優先するのかという話でしかない。
そして、僕の優先事項は『神秘』を証明しかねてよりの計画を実行することだ。
ゴミを拾うのも響と仲良くするのも……その手段に過ぎない。
だから、余計なことは考えるべきではない。
どれだけシンパシーを感じて期待を膨らませようが、どうせ裏切られるのだから____
…
「バ、バカな!?ありえないぃぃ…!」
「…?変なこと言ってないで行きますよ」
作業を再開した僕は驚愕していた。
午後から参戦した響が、凄まじいスピードで浅瀬を進んでいくのである。
この浅瀬の砂は非常にきめ細かい。
つまり、今朝響が言っていたように"沈み込む"のだ。
僕の浅瀬探索が思うように行かないのもこの辺りに原因があるのだが……
「響ちゃんはなんでそんな陸みたいに歩けるわけ?」
「え…?別に普通じゃないですか?」
「いやぁ、"普通"ならこうやって砂に足を取られると思うんだけどねぇ」
僕が指差した我が両足は、今も流砂のような砂に埋もれている。
「あ、それはお兄さんが砂を掴んでいないからですよ。足の裏できちんと踏みしめれば沈みませんよ」
「えぇ…?どゆこと?」
「いいですか?こうやって___」
響は珍しく身振り手振りを交えながら色々と喋ってくれる。
……のだが、正直何を言っているのかさっぱりわからない。
砂を面で捉えるってナニソレ?
僕は響が熱く語ってくれる理論を理解することを放棄した。
「___するんですよ……ちょっとお兄さん?聞いてますか?」
「ああ聞いているとも。足の裏に気を集中させるんだよね?」
「全然聞いてないじゃないですか!」
「はははは!いやごめんごめん。僕にはちょっと再現が難しそうでさ」
僕は片手で謝意を示すけれど、響にすげなく睨まれてしまう。
響は口を尖らせた。
「…深いところで沈んでも助けてあげませんからね」
「あっ!ちょっと待ってよー!」
響はそのまま僕を置いてスタスタと進んでいく。
その足元を見れば、確かに沈み込んでいない。
いやマジでどうなってんだか…
僕は慌てて響に追いつこうと、砂から足を引き抜き歩を進めて____
ぐんにょり
踏み出した僕の足裏から、非常に生々しい何かの感触が伝わってきた。
「いやぁぁぁ!?」
僕は飛びのいた。
我ながら情けない声である。
「お兄さん大丈夫!?……って、これただのナマコじゃないですか」
駆けつけてくれた響はそう言って、下手人であるナマコを手に取った。
響に掴まれた青白いナマコはぐにゃりとうなだれながら、ぴゅーと海水を吐き出している。
「おぉっとそうかそうか!ナマコだったか~!それは一安心だね!」
「ちなみにそれをあまり僕に近づけないでくれないかな?ぬめぬめとしたやつは苦手なんだよ」
恐れ慄く僕とナマコとを見比べた響は……なにかを思いついたようにニヤリと笑った。
「えい」
べにょり
僕の顔面に、ナマコの柔らかな感触が這い巡った。
「どぅわぁぁぁぁぁ!?!?」
「あはははは!」
僕は再び情けない声を上げる。
「ふふ…さっきの件はこれで許してあげます」
響は嬉しそうに腹を抱えながら、くすくすと笑っている。
その表情はまさにいたずらっ子のそれであった。
「ナマコと僕が可哀想でしょうがぁっ!」
本日何度目かわからない僕の情けない叫び声が、雲一つない快晴の青空に響き渡ったのだった____
ちゃぽんと天井から落ちてきた雫が湯船に波紋を広げる。
風呂はいい。まさに生命が洗われるようだ。
連日の激しい労働により酷使されきった僕の筋肉たちも喜んでいる。
このひと時がなければ、僕はとっくの昔に全身筋肉痛でダウンしていたことだろう。
「ふー…」
僕はこの、一人孤独に思考に耽る時間が好きだ。
潮騒館の風呂場は民泊とは思えないほどに広い。
二、三人はゆうに受け入れられるだろう木組みの風呂にはなみなみとお湯が張られており、どこか海の香りが漂っている。
水色のタイルであしらわれた壁や床のレトロ感が実にいい……
「…ん?」
僕がお風呂場の雰囲気に浸っていると、カチャリと脱衣所の方から扉を開けた音が聞こえた気がする。
…おかしい。僕は入浴中の札を確かに扉にかけたはずだ。
だから、こんなことはあり得ないのだ。
脱衣所から誰かの気配がするなんてことは……
僕は一応自分の存在をアピールするためにその誰かへ声をかけようとして__
時すでに遅し。
僕の孤独なサンクチュアリはガラリと引き戸を開けた何者かによって侵されてしまった。
「ちょ、響ちゃん!?」
それはバスタオルに包まれた響だった。
瞬間、僕らに流れる時間は完全に停止した。
固まった僕らの視線が交差する。
彼女の顔はみるみるうちに赤くなっていって…
「ッ!」
響はバタンと扉を閉めた。
「ごめん!札をかけ忘れてたかな?!」
僕はとりあえず謝っておく。
例え響が札を見逃してうっかり入ってしまったのだとしても、この場合悪いことになるのは僕なのだ。
これもまた処世術。さしもの僕も覗き魔のレッテルは欲しくはない。
僕がこの状況をどうしたものかと考えていると……おいおい、もっかい入ってきたぞ。
響は引き戸から顔を覗かせながら曖昧に笑った。
「お、お兄さんも一緒に入りますか…?」
だなんて真っ赤になりながらも僕を揶揄ってくるではないか。
照れ隠しで混乱しているのかはわからないが、見た目にそぐわずなかなか茶目っけのある性格をしている。
よし!それならどっちが長く浸かっていられるか勝負だ___
などとはなるわけもなく。
「いや、遠慮しておくよ。僕の身体は人様に見せられるような大層なものじゃないしね」
僕はそれを丁重にお断りした。
僕はそのまま湯船から立ち上がろうとして、そういえば自分が全裸なことに気がつく。
風呂に入ってるのだから当然だろう。
「だからそうまじまじと見られると恥ずかしいんだよね。いやーん」
「あ、ご、ごめんなさい!」
僕がわざとらしく肩を抱いて身体をくねらせると、響は冷静になったのか顔を引っ込めた。
よし、とりあえずは難を逃れられそうだ。
僕は湯から立ち上がって引戸に手をかけ……その向こうに服を脱いだ響がいたことをすんでで思い出す。
あぶないあぶない。その時はいよいよ言い訳ができなくなるぞ。
「あー、悪いんだけどね響ちゃん。僕はお風呂から上がるからさ、服を着たら教えてくれないかな」
「あ、はい…わかりました」
僕は浴槽の中で響が着替えるのをただ待った。
引き戸の向こうで、布が擦れる音がやけに大きく聞こえてくる。
「…もういいですよ」
そして、曇りガラス越しに響が僕に声をかけた。
僕は響が退室したのをしっかりと確認すると、脱衣所で素早く身体を吹き上げ服を着る。
風呂上がりRTAがあれば世界記録更新は間違いなしだったことだろう。
「やぁ悪いね、待たせちゃってさ」
「い、いえ…」
脱衣所から出ると、そこにはいつもの響が立っていた。
だが響も慌てていたのだろう。
いつも右手側に流されている前髪がおろされていて、響の目を半分覆い隠していた。
「お風呂は今貼り直してるからさ、もう少しすれば入れると思うよ」
「あ、はい…ありがとうございます」
まるでさっきの出来事なんて夢だったかのようなやり取りであるが、お互いの顔が赤くなっているのが先ほどの場面が確かな現実であったことを証明している。
まぁ僕は単に暑いだけなのだが。
いつもの入浴時間を優にオーバーした僕の全身は真っ赤なゆでダコになっていたのであった。
「ここのお風呂は温泉みたいで良いよね。ここにコーヒー牛乳でもあったら完璧だったんだけども」
「そ、そうですよね。いいお風呂です…」
心なしか響にいつものキレがない。
事故とはいえ、自分の裸が見られそうになったのだ。ショックを受けてるのかも知れない。
こういう時は、勤めて普通に接するべきだ。
こちらが気にしすぎると、むこうも逆に意識してしまうものなのだから。
「それじゃごゆっくり〜…」
「…」
…うーん、なんか詫びの品でも用意した方がいいかも知れない。
親しき仲にも礼儀あり、だ。
僕はちらりと振り返る。
そして、まだこちらを見ていた響と再び目が合った。
風呂から立ち去っていく僕のことを、響はおろした前髪の隙間からじっと伺い見ている。
じっと、こちらを____
湯の張られるドボドボというくぐもった音だけが、壁を隔てた向こう側から聞こえてきていた。
「あ"〜〜〜…!」
僕は部屋の扇風機に言葉にならない声を投げかける。
これをやるのも随分と久しぶりな気がするなぁ。
潮騒館にはエアコンなんてものはもちろん無いが、しかして大張島の穏やかな気候ならこの扇風機で十分涼をとることができるのである。
この扇風機もリサイクル品なのかも知れない。
明るい緑色をした扇風機はフタの隙間から指を入れてファンを触ることができ、どことなくレトロな雰囲気を醸し出していた。
安全性が謳われている最近の扇風機では出来ない芸当である。まぁ、出来たところでなにかに役立つことは全く無いのだが。
「あ"〜……指だけでどれだけ早く回せるか昔やったよなー…懐かしー」
母方の祖父母の家に置いてあった古い扇風機。
あそこではあらゆる物がどこか古めかしくて、なぜだか家中に懐かしい匂いが充満していた。
僕はその雰囲気が大好きだったのだ。
…本当に懐かしい。
僕がその家に行ったのは、後にも先にもその一回だけだった。
どうしてそんな場所にノスタルジーを感じるのだろうか?
過ごした時間でいえば、どう考えてもあの街の中心に立っている実家の方が長いというのに…
それは多分、あの頃の僕には今には無い、何か大切なものがまだあったからなのかもしれない____
コンコンと、僕の部屋の扉が叩かれた。
…こんな時間に一体誰だ?
「はーい?」
「…お兄さん、起きてますか?」
その真夜中の訪問者は何と響だった。
…まずいな。僕の独り言がうるさかったのかもしれない。
僕は慌てて扉を開けて響と対面する。
「やぁ響ちゃん。どうしたの?」
「ちょっと、話したいことがあって…」
響はそう言っておずおずと俯いた。
…なんだかいつもと雰囲気が違う気がする。
まるであの風呂で遭遇した時の様に、響の顔は赤く染まっていた。
「ああいいよ、それじゃああっちにでも…」
「いえ、お兄さんの部屋がいいです」
響はそう言って僕の言葉を遮った。
「…ああ、そう?それならもうちょっと部屋を綺麗にしといたのに」
僕はそんな響にどこか違和感を感じながら、部屋に彼女を招き入れようとして……
ふにりと、背中に柔らかい感覚を覚える。
見ると、響が僕の背中から抱き着いてきていた。
「おや、今夜は随分と積極的だね。怖い夢でも見たのかい?」
「…」
響は何も言わない。
僕は響と対面する為に身体を捻ろうとして、そのまま彼女に押し倒されてしまう。
部屋に敷かれた畳がざらりと音を立てた。
響は仰向けになった僕に跨りこちらを熱っぽく見下ろしている。
よくよく見れば、彼女は随分と扇情的な服装をしていた。ネグリジェという奴だろうか?
「今夜は…お兄さんと遊びに来ました」
響はさらりと垂れた髪の毛を耳にかけながら、囁くようにそう言った。
「いいよ?何して遊ぶ?残念ながら携帯ゲーム機の類は持ち合わせてないんだけどね」
「大丈夫ですよ。身体さえあれば楽しむことはできますから」
「それは困るね。実は僕は運動が得意じゃなくってさ。なにぶん、貧弱なものでね」
「フフフ、それならお兄さんは寝てるだけでいいですよ」
暖簾に腕押し、よくない流れだ。
流石の僕も響の意図がわからないわけではない。
だが、流石の僕としてはこういう雰囲気に流されるわけにはいかないのだ。
「あーそれに……そうだ!僕の情けない声で弥美さんにバレてしまうかもしれないよ?」
「それがなにか、関係あるんですか?」
僕の儚い抵抗も虚しく、どうやら響は本気のようだった。
そのまま上半身を倒し、僕の肩に頭を乗せてくる。
「私は別に…構いませんよ」
響は艶かしく僕の胸を指でなぞった。
その上目遣いには普段からは考えられないような妖艶な色が秘められていた。
もしかすると、これが児島弦楽の言っていた"火口"なのか?
娯楽の少ない島の女と一夜を共にすることで開かれる熱き命の火口。
ともすると、外から来た男を取り込むような風習がこの島にはあるのかもしれない…
僕はこの島に足を踏み入れたその瞬間から、古き因習に囚われた島民たちに目をつけられていたのだ_____
……なんてそれっぽく言ってみたものの、これは残念ながら僕の追い求める『神秘』とも島の民俗風習とも関係がなさそうだ。
だって…
「ねぇ響ちゃん。君、慣れてないでしょ」
「え……な、なんですか、それ!」
僕の言葉に響は面を喰らう。
だが、それを否定する彼女の声は上ずっていた。
「何と言うか、初心な感じが抜けてないと言うか…」
「おっ…男の人はこういう感じの方が興奮するからそうしてるんですよ…!」
「ハハハ、とってつけたような台詞だねぇ。まあそれは別に否定しないけれどさぁ」
「…震えてるよ?」
「…ッ」
響は震えていた。
それはカラダではなく、ココロが。
彼女の深い藍色の瞳が、揺れていた。
「怖いならさ、やめといた方がいい」
「〜〜ッ!子ども扱いしないでください!」
「私だってこのぐらいっ…!」
「あなたをこんな風に、襲えるんですから!」
響はそのまま僕に全身を絡ませ、そしてキスをしようとしてくる。
固く、その瞼を閉じたまま。
僕はその拘束とも呼べない響の"襲撃"からするりと抜け出し、逆に響に覆い被さった。
俗に言う床ドンである。こっちは叩かない方だが。
「あう……」
響は情けなく呻き声をあげた。
「でもさぁ響ちゃん……君、本当に遊びたいから襲いかかってきたわけじゃないでしょ?」
僕の言葉で、響の表情に焦りの色が走る。
「どうして…」
「わかるんだよね。僕は色んな人の顔色を伺ってきたからさ、人の表情を読むのが上手いんだよ」
「君のこの行動は、性欲を紛らわせるためでも快楽を貪るためでもない」
「もっと投げやりな…"火遊び"だ」
「自分ごと燃え尽きてもいいと思ってるような、そんなね」
「…ッ!」
先ほどまでの"仮面"はどこへやら、羞恥やらなにやらで響の表情はもうめちゃくちゃだ。
今や響は泣きそうにすらなっている。
一体、何が彼女をこんな行動へと駆り立てたのか…
僕は響に興味が湧いた。
「響ちゃん。君は元々そんな子じゃないでしょ?」
「…お兄さんに、何がわかるんですか…!」
響の顔が気色ばむ。
わかるとも。
君がこうやって言えば、反発するということぐらいは。
「わかるさ。僕らは似てるから」
「どこがですか…!貴方は外の偉い学者さんで、私は島の何も知らない田舎者で…」
「話が盛られ過ぎだよ。僕はただの大学生なんだってば」
「でも大学に通っているじゃないですか!なら、十分すごいですよ…わたしなんか…!」
「そんなに自分を卑下しなくても……響ちゃんだってこの島で立派に……」
「そんなこと!関係ないんですよ!どうでもいいんです!」
響は僕の言葉を遮った。
…なるほど、"そこ"じゃないのか。
彼女の抱えている不整合ってやつは。
「私はあなたが思っているような良い子ちゃんじゃない……」
「ねぇ、しましょうよ!そういう事……何も知らない田舎者で遊んでくださいよ!」
「私は、それを望むような"悪い子"なんですから……!」
響はそう言って乱雑に僕のズボンに手を添わせて…
「悪いがね響ちゃん。僕は君を悪い子にする事はできないんだよ」
そして、そこで動きが止まった。
「どっ…どうしてですか?!私に魅力が無いからですか?!私だってちゃんとできますよ…やり方だって知ってるんですから!」
「いいや、違う。違うんだよ響ちゃん。そうじゃないさ」
「僕はね、"コイツ"が使い物にならないんだよ」
「えっ…」
さて、この状況をどうしたものか…
いや、彼女には知ってもらうとしよう。
僕のことを。
僕という人間のことを。
自己開示。それがお互いを理解する為に必要な、最初の一歩だ。
「なんと言えばいいか……端的に表せば、僕は何事に対しても"興奮"しないんだよ。だから肉体の方も反応しない」
僕の心臓はこんな状況でも一定のリズムを刻んでいた。
人に迫られようが、罵られようが、殴られようが変わらない。
そして、それは僕が幼い頃からずっとこうなのだ。
「だから、君の火遊びには付き合ってあげれないんだよ。ごめんね」
「そんな、こと…」
疑問と憤慨と安心と落胆。
響の顔には様々な感情が現れていた。
全く、感情豊かで可愛らしいことである。
無感情な僕と違って。
「だ、だって…今日見てましたよね!私の裸を!あ、赤くなってたじゃ無いですか!」
「ああ、やっぱりアレ、わざとだったんだね」
「な、あ…う…」
「だって、君は入ってきた時からバスタオルを身体に巻いていたもんね。温泉でもあるまいし、一人で入る時にバスタオルなんて普通は巻かないだろう?」
響は目を逸らした。思えば、あれはこのための仕込みだったのだろう。
こういう事に慣れていないにしてはやけにテクニカルだ。
響にこれを…一連の技や知識を教えた人間がいる。
果たしてそれは、どういう意図だったのだろうか。
「一体どうしたっていうんだ響ちゃん、君らしくもない。こんな僕でも話ぐらいは聞いてあげられるよ?」
「…私らしいって、なんですかそれ」
僕があけすけにそう言うと、響は唇を震わせた。
「私のことなんて…私たちのことなんて!何も知らないくせに!」
「ああそうだね。だってそれは君の、君たちの話だろ?」
「…?」
「"そこ"は他人が預かり知らぬ領分なんだよ。それを知ってほしいって言うのなら……誰かに語るしかない」
「自分の胸の内を」
彼女の内に渦巻く複雑な感情の源泉。
それが何なのかまではさしもの僕でも分からないし、解るわけがない。
でも、そこから生じる行動に関しては理解できる。
そういう人間が、どうなっていくのか…
僕は鞄の中から"旅の御供"を取り出した。
「それって…」
「ん?ああ、こっちは"本物"のタバコだよ」
「……禁煙してるんじゃなかったんですか」
「そうだよ?でもこういった場にはこいつがふさわしいと思ってね」
「子どものお菓子じゃなくってさ」
僕がそう言って響を見ると、響はどこか納得したような顔をしていた。
彼女はよほど子ども扱いが嫌なようだが、やっぱり年相応の純粋さが残っている。
ちょっと乗せやす過ぎて心配にはなるけれど…ま、せっかく"話"をするんだ。
僕の雰囲気にノッてくれる分にはいいか。
僕はタバコに火をつける。
久方ぶりの不健康な煙が、僕の肺を満たした。
僕は彼女に一つ、お灸を据えることにした。
そういう投げやりな行動が、どんな結末を招くことになるのか。
僕が彼女に教えてあげなくちゃならない。
経験者として____
「前の彼女が吸っててさ。それで吸い出したんだよね、タバコ」
「へ?」
「今まで色んな女の子と付き合ってきたけど、僕に襲い掛かってきたのは君で二人目だよ」
「……へぇ。お兄さんはさぞかしおモテになるんですね」
響は気まずそうな、でもどこか不機嫌そうな顔でそう言い捨てた。
さっきまでの熱っぽい視線はどこへやら、響は今や冷え切った眼でこちらをじっとりと睨んでいる。
僕はその視線をヘラヘラといなしながら話を続ける。
「まあまあ、話は最後まで聞いてよ」
「その人とは大学のサークルで出会ってね。二歳上の先輩だった」
「彼女は酒もタバコもやるような人で、そして未成年の僕にもそれを進めてくるような"悪い人"でもあった。正直、良い噂は聞かなかったよ」
「なら…なんでそんな人と…?」
「…」
僕は何も言わずにタバコの煙を吐き捨てる。
自分の胸の内を、吐露するかのように____
「それじゃあ聞いてもらおうか。僕の話を」
僕は産まれつき心臓が弱かった。
といっても直ちに死に至るほどでもなくて、せいぜいが激しい運動を禁止されるぐらいだった。
でも僕の母親は心配性でね。
体育の時間はいつも見学だったし、休み時間はずっと教室で本を読んでいたよ。
別にそのぐらいでは死にやしないのに、僕の母はいくつかの選択肢を僕から取り上げた。
小さい頃の僕は、皆が楽しそうに遊んでいるのを羨ましげに見ていた。
でもそれは、遊べないから羨ましかったんじゃない。
その楽し気な"感情"を、表に溌剌と解放しているのがうらやましかったんだ。
死んだように弱々しく鼓動する心臓のせいかはわからないけれど、僕は昔からドキドキとすることが無かった。
そして僕は気づいたんだ。
自分が何事にも『興奮』しないことに。
何にも気持ちが昂らないことに。
そのくせ、哀しんだり羨んだりするような鬱屈とした感情は鮮明なのだから実に厭らしい。
だけれど、代わりに僕は怒りに振り回されることもなかった。
大きなプラスがない代わりに大きなマイナスもない、暗澹たる気持ちを内に秘めた"人形もどき"。
それが僕だった。
「肉体が先か、精神が先か…」
「どちらのせいかはわからないけれど、僕は感情が希薄だったんだよ」
それにハッキリと気づいたのは小学生の頃。
僕の何が琴線に触れたのかはわからないけれど、クラスの女の子はみんな僕に良くしてくれた。
でもそれが面白くなかったのか、「なよなよしてる」っていって男の子達の輪には入れてもらえなかった。
そんな学校生活を送っていた僕は、ある時嫌がらせの対象になったんだ。
それは、いけ好かない奴を驚かせてやろうという子どもらしい感情の発露だった。
『痛っ…』
僕の机の中で、毛虫が蠢いていた。
僕はそれに動じなかった。
それは我慢をしたわけじゃなく、本当に何も感じなかったんだ。
恐れも、嫌悪も、何一つ。
脳が感じた鋭い痛みに反して、僕の心臓は尚も一定のリズムを刻んでいた。
隣にいた女の子の悲鳴が煩わしかったまである。
多分、それが正常な反応なんだろうね。
思った反応が見れなかったいたずらっ子は、僕を直接揶揄おうとした。
だから僕はそいつに毛虫を投げつけてやったのさ。
いたずらっ子は悲鳴を上げた。
そしてこの事件は大事になったわけだ。
僕は毛虫に刺されて腫れた手を眺めながら悟ったよ。
何か大切なものが壊れたまま、僕は産まれてきたのだと。
母の怒鳴り声が校長室を震わせた時も…
いたずらっ子が泣きながら謝ってきた時も…何も。
何も感じなかったのだから。
「そんな僕のココロを唯一揺さぶってくれたのが、不思議だったんだ」
UMA、宇宙人、妖怪、ミッシングオブジェクト…
怖い話にゾッとする話、奇妙な話や種々様々な不思議な"話"たち。
僕はそれらの持つ『神秘的』な魔力に心を震わせていた。
それでまぁ、ちょっと人様に語るには恥ずかしい限りなんだけども、僕は自分に"仮面"をつけることにしたんだ。
ちょうどその時ハマっていた"話"がそういうやつだったから。
「『淦金の仮面』の話は…まぁ知らないよね。それはまた今度教えてあげるよ」
とにかく、僕は本当の自分を内なる殻に仕舞い込むことにした。
それはまさに、人間関係の拒絶にして断絶だった。
「でも、仮面を被ると僕の人間関係は驚くほどうまくいったんだよ」
僕を嫌っていたはずのいたずらっ子は親友に変わり、そこから僕の友達はどんどん増えていった。
まあ、それでも偶に失敗することもあったのだけれども。
中学での揉め事をきっかけに、僕は彼女を作ることにした。特定の相手がいない状態で、不特定多数の異性と仲良くなるのは危険な事態を生むのだと悟ったから。
でも、いつも長続きはしなかった。
それは当たり前で、彼女たちは僕を好いていたけれど、僕は彼女たちを本当の意味では好いてはいなかったのだから…
もちろん努力はしたよ。
でも、僕の心は動かなかった。
僕の心臓を昂らせてくれるような人間はどこにも居なかったんだ。
この現実には。
僕は高校最後の彼女と別れて、一人地元から離れた大学に進学した。
そこを選んだ理由はただ一つ。比較的僕に都合のいい民俗学の研究室があったからだ。
僕が民俗学の研究室に入ったのはね、民俗学と『神秘』との喰い合わせが良かったからだ。
僕は文化の研究と保存になんか興味はない。
僕の心を震わせるのはただ一つ。
そこから生まれ得る様々な『神秘』そのものだ。
元カノと出会ったのはそのころでね。
正直、僕は真面目にサークル活動をする気なんかサラサラなかったんだけど、何か不思議な話の種でも転がっていないかと思いながら新歓に出まくってたんだ。
彼女は都市伝説愛好会のメンバーで、活動にはほとんど出ないくせにそういう飲みの場には来るような不真面目な人間だったのはさっき言った通りだ。
彼女は新歓で意気投合した僕をいたく気に入ってくれて、僕は大学での新しい仮面を手に入れた。
まぁしかし、若い身空の男女が二人揃えば何をするかだなんてわかり切っている。
彼女は今までの女の子たちとは違って、そういうことには積極的だったんだけど、僕がいつまで経っても手を出さないもんだから自分で襲ってきたんだよ。
「君みたいに、僕を押し倒してね」
「…」
「でも、ここで僕という存在の不整合さが裏目に出た」
僕は彼女と愛を育むことはできなかった。
そのフリをすることすらも…
機能不全に気が付いたのはそこが初めてだったんだ。だから、僕にとってもそれは予想外の出来事だった。
それが彼女の何かを傷つけたんだろうね。
彼女は僕を逃がさないように、束縛するような行動に及ぶようになった。
色々やったよ。それこそ君が想像できないようなこともね。でもダメだった。
別に非協力的だったわけじゃない。僕も経験としてそういった行為を試す気はあったしね。
でも、僕を昂らせてくれるものは何もなかった。
僕の心臓は相も変わらず、死んだように弱々しく拍動していたよ。
僕はそこまでしてようやく悟ったんだよ。
もはや僕の心臓を震わせてくれるのは『神秘』しかないんだって……
でも、僕はそれに気がつくのが遅すぎた____
「で、最後は刺されたんだよね」
「えっ…」
「これがその時の傷」
僕はシャツを捲り上げる。
僕の右脇腹には縫合された傷跡が生々しく刻まれていた。
「僕はね、響ちゃん。半狂乱になる彼女を見ても、刺された時でさえなーんにも感じなかった」
「僕たちは繋がるべきじゃなかったし、僕は彼女の行為に付き合うべきではなかったんだよ」
「そうすれば、お互い不幸な目に合わずにすんだはずなんだ」
その点で言えば…やはり僕と響は似ている。
『繋がったから、苦しむんだ』
ともするとあの言葉は、響が抱えているオモイが溢れ出たのかもしれない。
自分に被せた、仮面の隙間から……
「だからね響ちゃん。変に悪ぶるのはよした方がいい。本当の自分を押さえ込んで別の仮面をかぶるのもダメだ」
「それはいつか、致命的なズレとなって自分に帰ってくるから…」
「……」
響は膝を抱えて、じっと僕の話を聞いていた。
「…なんで、そんな話を私にしてくれるんですか…?」
響がポツリと呟いた。
タバコの煙の向こう側で、響がこちらを伺っている。
何かを期待するような…そんな眼で…
「それはね。君が他人だからじゃないかな」
僕はそんな彼女に冷や水をかける。
きっと、それが彼女の為になると信じて____
「そんな関係だから……どうでもいいから、胸の中に溜まったヘドロを吐き出して…いや」
「"捨てて"いけるんだよ」
「響ちゃん。なんで島の外の人間が平気で海にゴミを捨てれるのか不思議に思っていたよね?それも同じ事なんだよ」
「え…?」
「みんなどうでもいいのさ。自分のこと以外が」
「ともすれば自分の事でさえ…」
「だからダメだよ?そんな奴らに引っかかったらさ。あいつらは……僕らは、平気で君が言うような"そういう"ことができるんだよ」
もし、この場にいたのが僕じゃなかったなら…
きっと、彼女の火遊びは成功していただろう。
その結果の果てに、彼女の人生がどう転ぶかなんて考えるだけ無駄なことだ。
だけれど…
この素敵な島が、美しい自然が、暖かな人々が…
この子が。
穢されてしまうことが、僕には腹立たしいのだ。
そして、無責任にそんなことを思う自分の浅ましい感情にも…
不思議な話。僕を楽しませてくれる、超自然で神秘的な与太話。
それはいつだって僕の控えめな心を楽しませてくれた。
慰めてくれた。
だが、そんなものはただの現実逃避だ。
美しい神秘に、畏ろしい話に心を震わされるたびに。
冷めた現実との差に愕然とする。
ここに僕の居場所は無いのだと、自分は誰とも繋がれないのだと、そう思ってしまうのだ。
だから僕は____
「…」
「きゃっ?!」
今度は僕が響を押し倒した。
僕らの重みでミシリと床が軋む。
彼女の白い顎先を指でなぞって、煙が絡まったような声で毒を囁く。
「こうやってされたかったんだろ?」
「…!」
響は僕の行動に驚いたような顔になって…
そして、きゅっと目を瞑った。
まるで、全てを受け入れるように…
いや、違う。
全てがどうでもいいみたいに。
僕はそんな響を見て____
「ハハハ!ま、僕にはそれもできないんだけどね!」
僕はおどけた。
仮面を被り直して、いつもの愉快で適当な僕に戻る。
これで彼女にはいいお灸になっただろう。
僕は咥えていたタバコの灰を携帯灰皿に落とす。
響はどこか釈然としない顔でこちらを睨んでいた。
揶揄われたと思ったのだろうか。
「…吸ってみる?」
僕はまだ火のついているタバコを響に差し出した。
二人で海を見ていた、あの夜の時みたいに。
でも、今僕の手の中にあるのは本物だ。
彼女の嫌いな、でも彼女が焦がれている"悪い大人"の象徴たるタバコ。
響は早く大人になりたいのだろうか?それとも悪い事をしてみたいのだろうか?
あるいは両方かもしれない。
だが、こういうのは体験しないとわからないものだ。
若さゆえの、過ちというのは。
おそるおそるそれを受け取った響は、ゆっくりとタバコを咥えて____
「うえっ!えほっ!えほっ!」
そして盛大にむせた。
うんうん、最初はそうなるよね、誰でも。
「ははは!タバコなんて吸わない方がいいよ」
「あなたがそれを言うんですか…えほ…」
「これは教訓だよ。人間、欲しがっている物は輝いて見えるもんだ。そして、それを諦める為には欲していたものが実は大したものじゃないと身に染みて理解する必要がある」
「もし気持ちの上だけで諦めてもね、何処か燻りが残るものなんだよ、こういうのはさ」
僕はタバコを灰皿に押し付けて火を消した。
二度と煙が上がらないように。
「……お兄さんにも、覚えがあるんですか?そういうの…」
「もちろん」
だから僕はこの島に来たのだから。
「ほら、もう部屋にお戻り。それで僕の"話"をよく噛み締めてくれ」
「君が何を抱えているのかは知らないけれど、何かの役には立つはずだよ」
「タバコなんかよりも、ね」
「……はい」
僕がそうやって促すと、響はおずおずと部屋に戻っていった。
「おやすみ、響ちゃん」
「……」
去り行く彼女は何も言わなかった。
僕の部屋に静けさが取り戻される。
「…ふぅ」
僕はそれを見届けると一息つく。
まさかムシャコロさんに教えてもらった"語り口"が役に立つ時が来るとは……人生わからないものだ。
即興にしてはまあまあな創り話だったか。
『流石夏未元カノ刺され事件』は。
僕は響に見せた脇腹の傷跡をなぞる。
これはただの盲腸の手術痕だ。
僕らの間には、あんなフィクションような劇的な展開なんて何も無かったのだから。
実際の僕たちはもっとつまらない結末を迎えている。
何をしても、ナニをしても響かない僕をまるで化け物でも見るような眼で睨みながら、彼女は僕の下から去っていった。
何も変わらない。今まで僕に近づいてきた人たちと何一つ……
そういやこの頃だったか。
現実に存在するの『神秘』を探し出したのは。
そして、その行動の果てに僕はこの島に立っている。
『なんでそんな話を私にしてくれるんですか?』
本当、なんでそんなことをしたんだろうか?
別に、適当にかわいがってやれば良かったじゃないか。
その方が、僕の計画に都合が良かったかもしれないのに……
ああ、彼女が『神秘』と繋がっていたらどれだけよかっただろう。
そうだったら僕は…
彼女を、喜んで抱いたのだろうか?
「はぁ……やっぱりくそだね、現実ってやつは」
僕はタバコをリュックに放り捨ててココアシガレットを咥える。
ざらりとした砂糖の甘味が、タバコの煙のようにこの現実を煙に巻いてくれた。
僕の心臓は、今も死んだように脈打っていた___