第1話 終点
私は人形だった。周りの人間が求める人物像になるべく自分を殺して生きてきた。
自由に生きる――自分らしく生きる、とは一体何なのか。私はそれがわからない。
幸せそうに生活している人を見ると羨ましいと感じる。いや、本当は疎ましいと感じていたかもしれない。彼らを見ていると自分という存在がわからなくなっていった。
母親は私に完璧な長女であることを求めてきた。
小学6年生のとき両親が離婚した影響で、母親が1日中働きに出る必要があった。だから家事は私の仕事になる。ゴミ出しから掃除、洗濯、料理などすべて。
そして私には5つ下の妹がいた。彼女の面倒を見ることも私の役目。友達とのことも学校生活における準備もすべて私の役目。母親の求める人物像は、家が効率良く循環するための言わば家政婦のような存在であった。
母親にはヒステリックな一面があった。かなりのストレスを溜め込んで家に帰り、抑えられなくなると物に当たり散らす。その矛先が私に向くこともあった。ひどいときは包丁を持ち出してきたことも。
不平不満を伝えた暁には、拳や蹴りが飛んでくる。妹のためにも、自分の身を守るためにも、もはや反抗する気など起きやしなかった。
父親は学歴のある娘を求めていた。
彼は4年制大学を卒業していたが高学歴という訳では無かった。どうやらそこにコンプレックスを抱えていたらしい。娘である私には高学歴であるようにと教育をしてきた。小・中・高・大のすべてにおいて受験を経験した。どれも父に言われるがままに受験した学校だった。結局、成功したのは大学だけだったが。
うちは金銭面に余裕のある家庭ではなかった。そのため教育に金を掛けることが不可能だった。だから私はこの22年間、一度も塾に行ったことがない。つまり父親が私に求めたのは、金が掛からずとも高学歴でいられる娘だったのだ。
父親は金遣いの荒い人間だった。そもそもうちに余裕が無かったのも彼の浪費癖によるものが大きい。家のお金をすべて私利私欲を満たすために使い、仕舞いには母親の名義で借金までしていた。どうりで母親に見限られる訳だ。
教師には優等生でいることを求められていた。
小学生までの私は実に自由奔放で我儘な生徒であり、教師に表立って叱られた経験も多い。そんな私が、両親の離婚を境に大人しくなった。今思うと、母親の言うことを聞かなければならなかった当時の私にとって、母親と同じ大人という存在は絶対的な権力者であったのだろう。教師に言われたことにも素直に従うようになった。
中学生になるとその姿勢が買われたのか、なんと生徒会長に任命された。成績優秀であることはもちろんのこと、学校の顔として、模範生として、生活態度を見られる機会が多くなった。ときには人間関係についても制限されることもあった。
私自身も代表として選ばれたという責任感からか、優等生であり続けることに抵抗は無かった。それが当たり前だと、そこに自分の意志は必要ないと、そう思っていた。
中・高の部活動はソフトボール部に所属していた。私は中・高どちらでも部長として選ばれた。そしてそこで顧問たちに、彼らの理想とする部長兼選手でいることを求められた。
中学時代の顧問は試合になると人格が変わって罵声を浴びせる程度で特に問題はなかった。問題だったのは顧問というよりメンバーの方だった。エラーが出ればその人に罵声を浴びせる。それに対して周りはフォローしない。フォローするのはいつだって部長の私だけ。私が対象になったときには誰もフォローしてくれない。
高校時代の顧問とはとにかく馬が合わなかった。入部して早々、私は怒られ役に選ばれた。怒られ役とは、1人が怒られているのを見ることで周りが自分は怒られたくないと躍起になる、というなんとも酷い役割である。代替わりをしてからはそれがひどくなり、マネージャーに相談したところ、私が怒られ役を担っていると知らされた。衝撃だった。怒られた箇所を修正し成功に繋げても、認められることなく次の指摘部分が発見され怒られる。この繰り返し。
部長は常に高い目標を掲げてなけらばならない。弱音を吐いてはいけない。涙を見せてはいけない。メンバー1人ひとりと向き合わなければならない。そこに私情が入る隙など存在しない。顧問たちに求められていたこと、それは部長としての責務を果たすこととプレイヤーとして結果を残すことの両立だった。
私は彼らが求める人物になれるよう必死に努力してきたつもりだ。だが彼らからは怒りや軽蔑、諦念、嫌悪などの感情ばかり向けられた。私はすべての期待を裏切り、求められた人間になることが出来なかったのだ。
今までで1番辛かったのは高校時代である。
さすが自称進学校と言うべきか、勉強量が凄まじかった。小テストは頻繁にあるし課題も大量にある。塾に行かずに授業に付いていくのは大変だった。部活がほぼ毎日ある上に、家では家事をしなければならない。勉強に割ける時間など無かった。
高校1年生のとき、妹が友人関係のトラブルに巻き込まれた。母は私が妹の面倒を見ていなかったことが原因だと怒り狂っていた。そのことがきっかけで、父親が妹の面倒を見ることを条件に両親が同居することになった。再婚ではなくあくまで同居。両親の仲は完全に冷え切っている。この2人が何か情報共有をするときは私が仲介役として動いた。意味がわからない。勉強と部活動の疲れがあるのにも関わらず、家に帰ってからも落ち着いて休むことが出来なかった。いつか母親が癇癪を起さないかと緊張しながら生活していた。
高校2年生のとき、ついに爆弾が爆発した。条件を破り、家事もしない父親に対して母親が暴れ出した。この1年間、溜まりに溜まったストレスをすべてぶつけて、家を出て行ってしまった。今までは仕事の傍ら、一緒に家事をしてくれていたのでなんとか生活できていた。だが突然、すべての家事を1人で担うことになってしまった。ただでさえ部活動がさらに厳しい状況になったのに。すでに私の限界値は超えていた。
高校3年生になって部活動を引退した。すべての圧力から解放された瞬間だった。
だがその日を境に感情を失ってしまった。何に対してもやる気がでない。興味がない。欲がない。ご飯も喉を通らなくなった。布団から動くことができない。体が鉛のように重い。私は不登校になった。
父親に病院に連れて行かれた。診断結果は、うつ病。精神疾患を患っていると診断された。
「学校は行かなくても良い。ただ大学には行け。推薦でも良い。死んでも受けろ」
父が私に掛けた言葉。もう……何も思わない。
死にたい。だけど死んではいけない。そんな矛盾している気持ちを抱えながら辛い日々を過ごしていた。そんなとき、推しという存在に出逢った。まさに救いの女神だった。そして推しから生きる活力を貰い、少しずつ動けるようになっていった。
薬を飲みながら、学校に行けるときには行き、家事もやる。そんな生活が続いた。
不登校になりながらも推薦枠を獲得することができた。学校側も渋々承諾してくれた。いくら他に推薦を希望する者がいない学校といえど、周りが必死に受験勉強をしている中、不登校の人間を推薦するなど抵抗があったはずだ。本当に申し訳がない。
そして無事に高校を卒業でき、大学に進学することができた。父の望んだ大学に行けたためか、かなり喜んでくれていた。だから私が元の状態に戻った――なんてことは無かった。
約4年間、アルバイトをして貯金をしつつ、卒業に必要な単位も順調に取っていった。だけど私の大学生活はそれだけだった。友達もいない。もちろん、恋人だっていない。出掛けることもなくただ学校に行って、働いて、家に帰って家事をして……私は一体何をしてるんだろう。
何のために大学に行っているの? 何のために稼いでいるの? 何のために生きているの?
私って一体何? このまま生きていて何か意味があるの? 親の言う通りに生きて私に何が残る?
病気だって治らない。このまま就職しても周りに迷惑を掛けるだけ。私に存在価値なんて――ない。
私はついに心が折れた。もう元には戻れないほどに。
最期の夏休み期間、私は家族に隠れて終活を始めた。まず今まで続けていたアルバイトも辞めた。そして頂いていた内定もすべて辞退した。
それから父と妹に2泊3日の旅行をプレゼントした。今までお世話になった御礼だと言って。私はバイトがあるからと断り、一緒には行かなかった。やるべきことがあったから。
そして身の回り品を整理した。売れる物は売却してお金にし、できなければ処分した。今、私の部屋に残っているのは小さい頃のアルバムだけ。最期にこの人生を振り返って見ようと思って。すべて終わるのに2日も掛かってしまった。
最期の1日。今日の夜、2人は帰ってくる。私は家族に向けて手紙を書いた。全部で4通。母、父、妹、愛犬に向けて今までの感謝と懺悔を。
最後に自筆証書遺言の準備をした。その内容は私が今までアルバイトで貯めてきた総額500万円について。以下のことを書き残した。日付と署名、捺印も忘れずに。
一つ、ここから奨学金の返済を行う
二つ、残額はすべて妹に遺贈する
やるべきことすべてが完了した。不思議とスッキリしている。
私は最後にアルバムを開いた。幼少期から高校時代の写真があった。1つずつ丁寧に見ていった。本当に何もない人生だった。だげど何故か涙が溢れ出てきた。ああ、もうすぐ終わるんだ。
意志は固い。もう後戻りはしない。
「ありがとう」
私は最期にそう言うと、吊るした縄に首を通して椅子から降りた。
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