その後
新は、彰が14歳の時に渡った同じ大学へと旅立って行った。
奇しくも彰と同じ歳での渡米となったが、新には彰他研究員達が幼い頃から与えた知識が先にあって、あちらでも彰より上手く立ち回れると思われた。
こちらでずっと彰についていたSPのアルバートが共に行き、あちらで滞在している彰の部下のアレンとグレイス夫妻の家に滞在し、世話をされる事になっている。
紫貴は最後まで心配していて、空港での見送りでも涙を流して別れを惜しんでいたが、新は晴れ晴れとした顔で、お母さんをお父さんと共に1日でも長生きさせるために行って来る、と紫貴に説いていた。
新には、紫貴という存在が、彰が思うぐらい大きなものなのだろうと彰はそれを聞いて思っていた。
颯は見送りにも来ず、そんな暇があったら勉強すると家と学校の行き来に終始していて、なかなか顔を見る機会も無くなった。
颯は颯で、新を追うという目標を立てて頑張っているようだった。
あの薬は、SHIKIAOIという名をつけられて、引き続き調整し続けられていた。
最初はシキという薬にすると彰は言ったが、それならアオイがいいと紫貴がごねたので、両方付ける事になった。
皆が癌という病の恐怖から逃れる事ができる未来が、紫貴には待ち遠しくて仕方がない。
そしてそんな大きな事を自分の夫がなし得たのだと思うと、とても誇らしかった。
その彰だが、本格的に紫貴と過ごすということに重きを置いた生き方をし始めた。
自分のライフワークが達成されるのも間近となれば、加速するのは仕方がなかった。
研究所にも週に三回ほどしか出て来なくなり、他の研究員達が進める調整の結果を確かめるだけに終始していて、もう深く踏み込むことも無くなった。
そうして五年、彰は60歳という節目に、研究所を後にすることを決めた。
今後は、オブザーバーとして関わるだけで、もう研究所の所長として研究員達を束ね、研究に勤しむ事から退く事に決めたのだった。
SHIKIAOIは、秘かに現場にひっそり出回り始めていた。
彰の名は、誰にも知られること無く彰は研究者としての人生を終えた。
彰と紫貴が幸せに暮らしているのを尻目に、要は彰に代わって研究所を取り仕切り、生きていた。
その役目も、今日は明け渡すことが決まっている。
要は紫貴の娘の穂波を妻にしているという事もあり、彰が退所してからも頻繁に彰に会うのだが、彰は紫貴と共にあちこちを旅して回り、もちろん、その時に新にも会い、学びの進み具合を見て来たりと気ままに過ごしていた。
老いて来てはいるのだが、彰も紫貴も同い年の他の人に比べて格段に若く、生き生きしていた。
颯は、新を追って同じ大学へとあの三年後に向かったのだが、その時には既に、新はヨーロッパの方へと飛んでいて、新はそこには居なかった。
それでも、ひたすらに努力を続けて学び続けて、やっと今日、颯はこの研究所へとやって来る。
要が感慨深く思っていると、綺麗に片付け終わった執務室へと、入って来る影があった。
「要。颯が来るのか?」
要は、見慣れた姿、聞き慣れた声が懐かしくて、若いその男に、微笑んで頷いた。
「そうだ。やっと君に追いついて来るな、新。」
新は、フッと息をついて、ソファにどっかりと座った。
「あいつは時間が掛かり過ぎているのだ。もっと早く来れただろうに。私がヨーロッパで遊んでいる間に、追いついて来て一緒にここへ来られると思っていたのに。私が戻って来て、もう五年だぞ。遅い。文句を言ってやろうと思っている。」
新は、今25歳だ。
要がここへ来たのが22歳の時だったので、今23歳の颯はそれなりに頑張ったのだと思うのだが、新からしたら遅いと思うのだろう。
何しろ、新はしばらくヨーロッパで確かに何かの研究に没頭するというのではなく、ただあちこちの大学を見学して回っているような感じで、遊んでいたと言われたらそうだからだ。
そんな生活を三年続けてから、彰の伝手でもなんでもなく、普通に正式にオファーを受けて、二十歳の時にこの研究所へとやって来た。
そして、かつての彰のように、一心不乱に研究に没頭し、著しい成果を上げて今回、所長の座へと上り詰めた。
今51歳の要は、もう退所の準備を進めているところだったので、嬉々としてその座を新に明け渡すことになったのだ。
引継ぎが終わるのもあと数年、その間は、彰のように余生を考えながら、週に三回ほど通って来ようと考えていた。
穂波はまだ47歳だったが、もう仕事の方はリタイアしていて、彰から生前贈与されたビルの運営管理をして過ごしていた。
ちなみに紫貴の三人の子供達は皆、彰の養子となっているので、皆要らないと言ったのだが、ビルなどの家賃収入がある建物を一棟ずつ、譲り受けて同じように管理していた。
なので彰にもしもの事があった時には、残りは全て新が相続することに取り決められていて、争う様子もなかった。
研究所員達も入れ替わりが激しく、変わらないのは真司と博正、この二人だけだった。
「おう。」博正が、いつもの様子で入って来て、言った。「なんだよ、ガラガラだな。ジョンが居た時みたいな部屋になってるじゃねぇか。」
要は、そちらを振り返って、顔をしかめた。
「だからオレはもう重たい肩書なんか真っ平なんだよ。これからは、新がやってくれる。全部運び出して、もうヘリに積んであるよ。」
博正は、傍に座っている新を見て、言った。
「ああ、お前か。小さい時は可愛かったんだけどなーどうなってるんだよ。年々あいつにそっくりになりやがって。また悪夢が始まるのか。」
新は、フンと小さく鼻を鳴らした。
「検査ばかりを強いるからと腹を立てているのは分かっている。だが、仕方がないではないか。私のライフワークは、父母をできる限り楽に長生きさせることなのだ。つまりは、ヒトを老いの恐怖から助け出したいと願っている。君達人狼が、そうしていつまでも若い姿を保って生きている理由を調べねばならないのだ。君達は、父が作った。ならば私は、その秘密を解き明かさねばならない。人類のために、検体になってもらわねば。」
博正は、ハアと変わらない姿で息をついた。
「やっと人狼からヒトに戻る検査から逃れられてここ最近はのんびりやってたのによー。だが、オレ達だって自分の体の事は分からねぇし。お前がそれを解き明かして、みんなを助けたいと言うんなら仕方ねぇな。ま、協力はする。」
そこへ、アーロンが入って来て言った。
「要、新所員の乗ったヘリが到着するって連絡が…」と、新を見て、言った。「あ、ジョン。ここでしたか。」
新は、頷いた。
「私の端末もこちらへ運んでもらわねばならないしな。」
博正が、ハアアアとため息をついた。
「ジョナサンだろうが。みんながみんなジョンと呼びやがって。ややこしいんだよ、あいつは引退したの。」
アーロンが、顔をしかめた。
「めんどくさいんだよ、ジョンでいいんだ。みんなおんなじようなもんだって言うし。もう、君が言うジョンを実際に知らない世代だって多いんだ。ここじゃ神の扱いだからな。伝え聞いていたジョンが、ジョナサンそのものだったから、オレ達もジョンって呼ぶことにしたんだよ。いいじゃないか、愛称なんだから。」
新は、ため息をついて立ち上がった。
「もう、何でもいい。渡航した時あっちでジョンジョン呼ばれるから、面倒くさいしじゃあジョナサンで、と呼称を決めて来たんだ。父さんと同じではややこしいからな。それより、颯が来た。行こう、要。」
新に促されて、要は歩き出した。
ヘリポートまで、かつて彰が要にそうしてくれたように、新と共に颯を迎えに出るために。
颯が研究所へと入って数年、要は研究所を退所した。
そこからは、しょっちゅう彰の屋敷に入り浸っては、穂波と共に楽しく暮らしていた。
新は、全く屋敷へは帰って来ないのだが、時々細胞が欲しいと言って、紫貴と彰から採取してはすぐ帰っていた。
ここへ来て、要は思った。
二人が、異様に若い。
これまでは、緩やかに老いているのだと思っていたのだが、そうではない。
何しろ、気が付くと彰はもう69、紫貴に至っては74だ。
なのに、現在51歳の穂波と並ぶと、同い年ぐらいにか見えない。
穂波もかなり若く見える方だったが、これは異常だった。
新が、何かしているとしか思えなかった。
その日、穂波と紫貴が楽しく乗馬しているのを眺めながら、要は隣りの彰に言った。
「彰さん。」彰が、こちらを見る。「…新ですね?」
彰は、要の言い方と目で、何の事だか察したようだ。
すぐにクックと笑うと、言った。
「気付いていなかったのか?」彰は、声を立てて笑った。「あいつは、渡米した時からこれを目指していたのだ。なので、戻って来て研究所へと入ってすぐ、自分のチームと必死に実験を繰り返していただろうが。君はそれを許していたのではなかったか。」
要は、頷いた。
「分かってましたけど、この様子だと昨日今日のことではないでしょう。いつからです?」
彰は、穂波と二人で楽し気に笑いながら馬場を回る、紫貴を遠く見ながら答えた。
「あれが帰ってすぐぐらいだから、10年ぐらいになるか?私も紫貴と長く楽しみたいし、何より紫貴には健康に何不自由なく生きて欲しいので、快諾した。最初、私が検体になって大丈夫だと分かったら紫貴にと思っていたのだが、紫貴が検体になるなら自分も一緒でないとやらないと聞かないので、共に新の検体になっている。だが、あの時の状態を維持するのがやっとで、若返りは無理だと言っていた。しかも、油断するとやはり老いて来るのだ。そこから進まないので、最近はイライラしているようだ。別に、好きにしてくれたらいいのだ、私達は与えられた時間だけ、一緒に楽しめたら良いのだから。」
彰は、段々に命というものに対して何か悟っているような感じになって来ていた。
以前ほど、紫貴を失うのがとか、激しい拒否反応をしなくなった。
お互いに歳を経て来て、覚悟が固まり始めているようにも見えた。
「…彰さんなら、博正と真司があんな感じなので、紫貴さんを人狼にとか言い出すんじゃないかって思っていたのに、それがありませんでしたよね。どうしてですか?」
彰は、遠い目をしながら、答えた。
「…実は、私は君が言うように、人狼になってはどうかと言ったこともあったのだ。シキアオイができた直後ぐらいだったか。紫貴は、ならば彰さんは?と問うた。私は知っての通りあの薬に適合しない。なのでそれを言ったら、だったらならない、と言われてしまった。私と同じように老いて、同じように死んで行きたい。紫貴は、そう望んでいる。ただ生きたら良いというものでもないだな、と、その時私は思った。だから、私達はお互いに楽しんで、その時を待っているのだ。新は足掻いているが、恐らく間に合わないだろう。私達は逝く。まあ、まだまだ元気だが。博正と真司の事は、新に任せるとしよう。」
あの二人だって、本当なら彰と同じぐらいの歳のはずなのだ。
それなのに、未だに30代半ばぐらいの見た目でシャキシャキと生きている。
その秘密を、新がどう解き明かしていくのか、それを最後まで見届けることは難しいかもしれない。
だが、要も彰も、もうそんな事にはこだわってはいなかった。
新は、難しい顔をしながら自分のパソコンの画面に向き合っていた。
颯がそこへ報告に来ると、新はそちらをろくに見もしないで言った。
「…駄目だったな。」
颯は、頷く。
「ごめん、次を試すよ。おばあちゃんの細胞でこの反応だから、全く駄目だってことだし。」
おばあちゃんとは紫貴のことだ。
新は、ため息をついた。
「もういい、とりあえずは今のままでも投与を続けたらとりあえず維持だけはできるのだ。ここはそれで誤魔化しておいて、ちょっと大々的に人を集めて治験をしようと思っている。父さんに、自分達の細胞だけでやってもヒントは出ない、他に多くのデータを取るうちに、その中から飛躍のヒントが現れるものだ、と言うのだ。」
颯は、驚いた顔をした。
「え、一般人を募るのか?まあ、若返りってなると治験を希望する人も居るかもしれないけど…。」
面倒だし金が掛かるなあ、と颯が思っていると、新は首を振った。
「ああ、別にいい。」と、二ッと笑った。「どうせ金を使うなら、ゲームをしようと思ってな。実は、ランドンが脳神経の新薬の治験もしたいと言っていて。それと合わせてこっちもやろうと思っている。この際だから、できる治験は皆済ませるかなと。良いゲームはないか。」
颯は、顔をしかめた。
「新、そうは言うけどそれって、彰さんがやってた人狼ゲームとかだろ?あれをやるの?治験のために?」
新は、頷いた。
「それでいい。遊びも必要だよ、冷たい病室で針を刺されるだけのものより、スリルのあるゲームをやった方が検体達だって楽しいだろう?ローレンスとマルコムも呼んでくれ。準備をしよう。」
颯は、ため息をついた。
全く、言い出したら聞かないから。
そうして、関係各所の責任者が呼ばれて、かつてそれで著しい結果を残したという、ジョンのゲームという名の治験を行うために、皆で意見を出し合い、準備を始めた。
新はただ、自分の両親の命の期限内に、結果を出して行きたいと、そのゲームに期待していた。
皆を楽しませ、自分も楽しみ結果を出す。
これ以上の事は無いと、本気で信じていたのだった。
そうして、世代が変わっても変わらぬ浮世離れしたそこでは、今日も検体を探して調査を開始していた。
それが相手にとって良くても悪くても、全くの無関心な彼らの誘いに、乗る人々は今日も未知の世界へといざなわれていた。




