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試験

紫貴には、きっちりと計算された通りの量の彰の三十年の研究の結晶が、投与され始めた。

紫貴には全く副作用は無く、食事もしっかり摂っていて、見た目はとても健康だ。

だが、待てど暮らせど広がっている癌細胞は、無くなる様子はなかった。

「やはりヒトの細胞には効かないのか。」彰は、イライラと言った。「なぜだ?何が悪い…計算上では効くはずなのに。」

経過を見に来ていた他の研究者達が見守る中、シリルが言った。

「確かに見た目は変化がありませんが、逆に広がっていないということです。」シリルは、血液検査の結果を見た。「ここの値が増えていませんし、食い止めているといえばそうなのかもと。あの勢いで広がってたんですよ?それを考えても、効果が出ていると見ても良いかも知れません。」

彰は、それでも苦し気に言った。

「奥へ浸潤しているからかもしれないではないか。血液にはすぐには出ない。あれから一週間だぞ?…量が足りないのか…いや、そんなはずはないのに…。いっそリンパ節に到達する前に…。」

ベイリーが、彰が何を考えているのか悟って、言った。

「ジョン、まだオペはできませんよ。心肺のダメージがまだ残っているんです。R569Iもダメです。」

彰は、苦渋の顔で言った。

「分かっている!」と、紫貴を見た。「紫貴…とりあえず既存の抗がん剤で対応するか。今はオペできるまで、君の癌が育たないようにするのが重要なのだ。」

紫貴は、首を振った。

「まだ一週間ですのに。大丈夫ですから。広がっていないんでしょう?」

それは見た目だけなのだ。

彰は思った。自分が不甲斐ないばかりに、紫貴を死なせては元もこもない。

「私の薬が不甲斐ないのだ。効かないのかもしれない。そもそも他の検体にも効かなかったのだ。方向性を間違えているのだ。君を犠牲にしたくない。ならば少しは副作用があっても、とりあえず効果のあることが立証されている薬で君を治したいのだ。」

紫貴は、急に真剣な顔をすると、言った。

「…彰さん。」と、その手を握った。「焦らないでください。まだ効かないと決まったわけではありません。まだ一週間なんですよ。母の時に病院に付き添っていましたけど、最低でも投与してから二週間は様子を見ていましたわ。あと一週間、このままで行きましょう。それからでも良いと私は思います。大丈夫ですから。」

どうしてそんなに落ち着いていられるのだ。

彰は、思った。

ステファンもそうだった。狼狽える彰に、騒いでも仕方がないと逆にこちらを気遣っていた。

去るものはいい。だが、遺される者の気持ちを分かってはくれないのか。

見かねたシリルが言った。

「紫貴さんが言うのはもっともなことです。とにかくは広がってはいないのですから、後一週間待ちましょう。体力の回復は目覚ましいのですから、もしかしたらその一週間でオペも可能になるかも知れません。待ちましょう。」

彰は、ギリギリと歯を食い縛って、叫んだ。

「…君達には分からないのだ!間に合うのに、自分の薬の治験で死なせたら…私はどうしたら良いのだ!」

彰は、そう言い捨てるとその場から出て行った。

シリルとベイリー、それに他の研究者たちが戸惑ったように顔を見合わせている。

紫貴は、ため息をついて起き上がった。

「せっかく薬を使い始めたのですから、私の希望としては今お話したようにあと一週間試したいと思っています。彰さんも分かっておられるのでしょうけれど、私が身内なので葛藤がおありなのだと思いますわ。皆様には、このまま進める方向で準備をお願いします。彰さんの説得は、私がしますから。きっと、その方が良いのは分かっていらっしゃるのだと思うんです。」

シリルは、頷いた。

「分かりました。ジョンの気持ちは、私達も分かっておりますから。」

紫貴は頷いて、台を降りて靴を履くと、点滴のホルダーを押して、普通に歩いて出て行った。

そう、ジョンは癌を怖がっている。だからこそ、それと戦うための武器を作り続けて生きて来た。

大切な者達を全て癌に奪われて来た彰が、時を経てやっと見つけた紫貴まで同じように奪われる事に心底怯えているのも、皆には分かっていたのだ。

皆は紫貴の背を、複雑な想いで見送った。


紫貴は、点滴のホルダーをもう慣れたようにガラガラと押して、彰の執務室へと入って来た。

そこには彰は居らず、紫貴は彰を探して隣りの居室の方へと入ってみた。

すると、そこには彰が、ソファに座って手で顔を覆い、がっくりと肩を落としていた。

「…彰さん。」紫貴は、ガラガラとまた音を立てて、彰の横へと向かった。「あの、勝手なことかと思いましたけれど、シリルさん達にはこのまま後一週間様子を見てもらえるように頼んで来ましたわ。私の体のことですから。自分で決められます。」

彰は、紫貴を見上げた。

「ステファンと同じことを言う。」と、訴えるように言った。「分かってなんかいない!分かると言って、もう間に合わないと治療を拒んで記録だけを取らせて…結局痛みに幻覚を見ながら逝ったんだ!既存の抗がん剤を使っていれば、まだ間に合ったかもしれないのに!君までそんな…私を信じ過ぎだ!私は私であって神ではないのだ!そうして私を信じて君が手遅れになったら、そうなった時の私の気持ちは考えてはくれないのか…!」

彰が涙を流しながら叫ぶのに、紫貴は彰が、心底怖がっているのを感じた。

自分のせいで、紫貴が死んだらと怖くて仕方がないのだ。今なら間に合う、と。

「…彰さんのせいではないのですわ。」紫貴は、言った。「そもそもが、葵のお蔭で早期発見できましたけど、そうでなければきっとこんなに早くに気付かなかったでしょう。まだ健康診断も受けたばかりでしたし、次は数か月後でした。その時だったら、それこそ間に合わなかったかもしれないのに、たった二週間の事を待てなくてどうするのですか。これは、葵がくれた時間なのです。葵は、あなたに人々を救うための薬を作って欲しかったんでしょう。そんなに簡単に諦めてしまうほど、葵の命は軽いのですか。あの子が命を懸けたのに、私が命を懸けなくてどうするのかと思いますわ。あなたも、これまで検体にして来た人たちのためにも、覚悟が必要なのです。」

彰は、ビクッと体を震わせた。

誰も殺してはいないが、確かに無理な治験を繰り返したし、本人に了承を取らずにまるで戦場でやるように無茶な事もした。

副作用で苦しんでいるのを見ても、ああ強過ぎたか、ぐらいにか思わなかった。

戯れに人狼を作った時には、多くの人々が死にはしないが精神に支障をきたした。

成功例の真司と博正が元気に人狼として生きているので忘れがちだが、その影で幾人が苦しんでいただろうか。

最近になって、要のチームが何とか人狼を元に戻す方法を探し出し、それらも密かに治療をして、無事にヒトへと戻って回復したが、奪った時間は取り返しがつかない。

彰は、人でなしと言われるような事も、研究の過程でして来たのは確かなのだ。

そんな犠牲の上に作り上げた薬なのに、そんなに簡単に放り出して良いのかと、紫貴は言っているのだ。

自分の愛する人だからと、特別扱いはするなと紫貴に言われているのだ。

「…やっとあそこまで作り上げた。」彰は、言った。「途中、細胞が思う通りに動くのが面白くて、戯れに博正や真司のような人も作り上げた。どんどんと進んで行くのが面白くて、成果を上げて来たが…ここ十年以上、完成が近づいているはずなのに停滞している。ここへ来て、思うような結果が出なくなって来た。私も、どうしたら良いのか分からずで、道を間違えたのかと戻ることを考え始めたばかりだった。確かに君の言う通り、私は君でなければもっと時間をかけて様子を見ただろう。だが…君の事だけは冷静にいられないのだ。分かってくれ、私はもう、心から愛した人を亡くしたくはないのだ。そもそもが、もう癌で苦しむ人を見たくないと入った研究の道だった。だが成果が出ていないのに、君をそんなわけの分からない事に使って、今なら間に合うのに死なせてしまうのだけは…覚悟がない。君が言うように私は意気地がないのだ。薬が完成しなくても、君だけは失いたくない。」

紫貴は、フッとため息をついて、彰の肩を抱いた。

「彰さん…でも、今はまだ既存の抗がん剤だって入れられないでしょう?」紫貴が言うのに、彰は、顔をしかめた。紫貴は続けた。「彰さんの薬は、苦しまないように考えてあるのだと。でも、既存の物は体に負担があって、今の私には投与できないと聞いていますわ。ベイリーさんが言うには、あの…ええっと、R…何とかの薬を投与する前に、もう呼吸が止まっていて心臓は必死に打とうとしながら力尽きそうになっていたって。だから、心臓に負担が掛かってしまっていて、今回復を待っているんだって。だから、どちらにしろもう少し待たないとダメでしょう?あと一週間、待ってみましょう。大丈夫ですから。」

何をもって大丈夫などと言う。

彰は、腹が立っていた。

紫貴が、間違ったことを言っていないのは分かっているのだが、それでも紫貴は、自分を置いて逝くことに抵抗が無いのか。

どうしてそんなに落ち着いていられるのだ。

「…君に何が分かるのだ!私は君の細胞を事細かに調べて知り尽くしているのに、その私がどうなるか分からないのに、どうして君に分かるなどと言える!君は私の事などどうでも良いのか。私を置いて逝けるのか?!」

紫貴は、それを聞いてビクッと彰から離れると、見る見る涙を浮かべた。

彰は、ハッとした…紫貴に、八つ当たりをしている自分に気付いたのだ。

「紫貴…」

彰が、訂正しようと慌てて手を差し伸べると、紫貴はスッと後ろへと退いた。そして、涙を流しながら、言った。

「私だって!せっかく幸せになったのに、もっと生きたいわ!だけど仕方がないじゃない!あなたは私を失う自分がつらいのよ、私が居なくなって自分の心の拠り所を失うのがつらいから、私を助けたいだけなんでしょう!私の気持ちなんて、分かりもしないくせに!」

紫貴は、そう言うと点滴の針をグイと引っ張って引っこ抜いて、そこを駆け出して行った。

「紫貴!」

そうだ、私は自分のために紫貴を助けたいのだ。

紫貴が、皆のための薬の開発を進めるために、自分を使えと言った、その気持ちに報いようともせず。

そもそもが、今の紫貴には普通の治療すら耐えられないのだから、ごねても仕方がないというのに…。

自分がこんなに不安なのに、落ち着いている紫貴に八つ当たりするなんて…癌を身の内に持っているのは、紫貴自身なのに。

彰は、紫貴を追うことも出来なくて、そこで立ち尽くしていた。

すると、バン!と目の前の戸が開いて、紫貴が戻って来たのかと顔を上げると、要が息せき切って駆け込んで来ていた。

「彰さん!何してるんですか、紫貴さんが廊下で倒れてたんですよ!」と、脇の紫貴が置いて行った点滴の残骸を見て、続けた。「…今は水分を補給してただけですね。でもなんで取ったんです?とにかく、博正が見つけてベイリー達が今、循環器科の方へ連れて行きましたよ!」

彰は、倒れるほど具合は悪くなかったはずなのに、と、脱兎のごとく駆け出した。

要は、その後を追って循環器専門チームの棟へと走って行ったのだった。


循環器科では、大騒ぎで皆が紫貴の回りを取り囲んでいた。

紫貴はハアハアと息を上げていて、額に汗を滲ませている。

酸素を補給しているのだが、紫貴が楽になる様子はなかった。

「何事だ?!」と、彰はモニターを見た。「血圧が…なんだってこんなに上がっている?!」

「分かりません。」ベイリーが言った。「博正が言うには、ジョンの執務室から走って出て来たと思ったら、廊下をいくらも行かない間に倒れたらしくて。私が見た時にはもうこの状態でした。体温は一気に40℃近くまで上がっています。心拍は108、紫貴さんにしたら、まだ走っているような状態です。」

突然に動いたからだろうか。

彰は、気が気でなくモニターを見つめた。

紫貴の呼吸は相変わらず荒く、かなり苦し気だ。

「…私と言い争って…飛び出して行ったから。」

彰は、後悔した。紫貴に八つ当たりしても何も変わらないのに、自分の不安を紫貴にぶつけていた。

一番不安なのは、紫貴のはずなのに。

「どちらにしろ、熱を下げなければ。」要が言った。「血圧を下げよう。このままじゃ回復したばかりの心臓がもたないぞ。輸液を。左腕…はもうダメか。右に。」

だから刺したままにしていたのに。

要は、急いで持って来られた針を、紫貴の深い静脈を探して刺した。

あらゆる事を想定して、一番太い針を入れる。まるで竹を割ったような先が、綺麗に腕へと収まった。

「よく一発で。」ベイリーが顔をしかめた。「紫貴さんの静脈は深い上に押したらコリコリしていて沈んで逃げるんですよね。捉えづらくて左は何本いい血管を逃したか。」

要は、苦笑した。

「確かにな。オレは得意だから。さ、始めよう。」

彰は、ただ呆然と要が指示するのを見ている。

生理的食塩水のゴムの栓にブスリと針を突き刺すと、ベイリーは慣れたように投薬した。

要は、それを見ながら彰に言った。

「彰さん!」彰は、びくと要を見た。要は続けた。「しっかりしてください!紫貴さんだって未知の薬を投与されて、それは不安だったはずなんです。この状態だってわけが分からないのに、対処して行かないと本当に癌じゃなくて治験で命を落としてしまいますよ!もしかしたら、薬の副反応なのかも知れないんですから!」

彰は、我に返ったのか、頷いた。

「…血液検査を。」彰は、言った。「データを取れ。」

葵と紫貴のために、経過をしっかり調べねば。

彰は、呼吸が落ち着いて来た紫貴を見ながら、しっかりと一時間おきに血液の様子のデータを取り続けた。


そのまま五日、紫貴は滾々と眠り続けた。

心拍は落ち着いており、呼吸も乱れていない。

心肺の状態は、著しく改善していて問題なかった。

それなのに、紫貴は眠り続けていた。

ハリーが脳の状態を調べに来たが、特に異常はなく恐らく目覚めさせようと思えばできるが、必要だから眠っている可能性があり、やめた方が良いと判断され、目覚めるのを待つ事にした。

あの薬の投与は、紫貴がこの状態なのでしていなかった。

とにかく、下手な事をしてはという空気が流れていた。

何しろ、ここに居る誰にも紫貴の体の中で何が起こっているのか分からないのだ。

血液の数値も悪くは無く、健康そのものに思えるのに、目覚めない。

もちろん排泄はできないのでカテーテルを入れているのだが、尿に異常も見当たらなかった。ただ、やはりどこか傷付けた時のように、細胞の残骸が流れて来るだけだった。それも、つい昨日からは出て来なくなっていて、炎症反応は皆無だった。

それでも、癌細胞の事は気になるので、さすがに診察をとシリルが機材を引きずって循環器科を訪ねて来た。

そして、カーテンを引いて彰が内視鏡を子宮内へと挿入すると、画面を見ていたシリルが、声を上げた。

「ちょっと待ってください。」と、彰に画面を向けた。「ジョン!!」

シリルの叫びにカーテンのこちら側では、ベイリーと要がイライラと言った。

「なんだ?!育ってるのか?」

「違う。」彰が答えた。「何て事だ…紫貴の子宮内が…!」

要が、カーテンを透視する勢いで近付いて言った。

「なんですか?!」

「見ろ!」彰は、いきなりカーテンを開けた。仰天していると、画面を何度も指差した。「無い!無いのだ、あれだけ広がっていた癌細胞が!跡形も無く!」

カメラは何度も移動しているが、確かに何度回転しても、つるりとした健康な粘膜が映し出されるだけで、何の異常もなかった。

「…効いたのか…?」要は、呆然とその映像を見た。「もしかして、効いたんじゃ!」

「血液を!」彰が、自分のチームの者達にカーテン越しに叫んだ。「残してあるだろう!紫貴がこうなった始めからの血液を、段階別に分けて項目を最大限に増やして再検査しろ!数値を見るんだ、早く!」

こちら側に居た、セドリックやアーロン達が慌てて要にアイコンタクトしてから、駆け出して行く。

要も、踵を返した。

「…オレも行きます!数値は出た都度アップしますからこっちで確認してください!」

間違っていなかったのかもしれない。

要は、心の中に何か熱い物が込み上げて来るのを感じながら、必死に走って病理細胞の研究室へと、皆と共に走ったのだった。


それから、何度も内視鏡で子宮内を見て回ったが、何も発見できなかった。

シリルが、確かに癌細胞があった場所周辺を何か所かに分けて細胞を採取し、検査に回したが健康な細胞が発見されるだけで、一切癌細胞は見つからなかった。

血液検査のデータを見ると、紫貴の体は戦っていたのだが癌細胞と戦っていた、というよりも、死んだ細胞を除いて健康な細胞を構築するために戦っていたらしい痕跡があった。

癌細胞が完全に消失していると確認した次の日、紫貴は普通に長い眠りから覚めた。

「紫貴?」彰は、ずっと紫貴の隣りで寝泊まりして傍についていたのだが、紫貴が動いたのを見て、呼びかけた。「紫貴!」

紫貴は、彰の声に煩そうに顔をしかめて、目をしぱしぱさせながら開いた。

「…彰さん?」

彰は、その声を聞いて、紫貴のベッドに顔を押し付けて頭を下げ、言った。

「すまない!紫貴、私は君に八つ当たって…甘えていたのだ。君の方が、病気でつらいのに自分の気持ちばかりを押し付けて…許して欲しい。」

紫貴は、目が覚めたばかりだったので、びっくりした顔をしたが、言った。

「…もう、いいですわ。なんだかすっごく寝てしまったような気がしますの。寝ている間にオペをしたとか言いませんわね?」

彰は、ぶんぶんと首を振った。

「君は、興奮して走った事で血圧が一気に上がり、あの薬が体にある状態だったので意識を失って、熱を出したのだ。数値をいろいろ調べた結果、まず先に言おう。君の癌細胞は、消えた。自殺したんだ…私の薬に命じられた通りに。」

紫貴は、仰天した顔をした。

「え、消えた?!あれから何日経っていますの?!」

「一週間。」彰は答えた。「消えたのを確認したのは五日後。だが、恐らくは三日目ぐらいには消えていたのではないかと思う。君が目覚めないので下手な事は出来ないと調べていなかったのだが、気になって五日後に内視鏡を使って調べた時には、もう綺麗になくなっていて。ずっと採血していたので、それが残っていて再検査したら、分かった。薬を投与し始めてからの血液を詳しく再検査し直して照らし合わせたら、じわじわとあの薬は効いて来ていて、私が副反応を抑えるために処方していたので体に無理が掛からない程度の速度でゆっくりと消えていたのだ。それが、君が興奮状態になって走ったりしたことで、血圧が上がって薬が考えていた速度よりずっと早く体を駆け巡り、ああして熱を出して、君は意識を失った。薬は一気に矢の雨のように癌細胞に命じて全てが自殺細胞へと変化し、消えていった。君の体は失った細胞を再構築しようと頑張って、そうして復活したのだ。あの薬は、効いた。君というヒトが劇的な反応で証明してくれた。」

紫貴は、自分の下腹を押えた。本当に…癌は消えたというの。

「…寝ていただけでしたわ。気が付いたら、無くなったと。」

彰は、涙ぐんで頷いた。

「そう。難しい事は省くが、副作用が無いようにと意識し過ぎて、どうやらかなり細かく検査結果を出さないと数値に現れないようで。普通の検査では見えないのだ。普通なら、あの速度だったら反応の悪い患者なら長期に渡って見ないと分からないかもしれない…つまり、効いていても、普通の治験では効果が目に全く見えないということだ。顕著な反応を返す君でああだったし、普通なら半年ぐらいで押えられているかも、ぐらいしか分からないかもしれない。顕著な反応を示す君がたまたま興奮して、その上走ったりして血流が激しくなっていなければ、今も私達は毎日君の癌細胞とにらみ合っていたかもしれないぐらいだ。」

紫貴は、よく分からないながらも、頷いた。

「そうなんですの?私にはよく分からないですけど、つまりは私で効いたのでヒトに効果があることが分かったという事ですわね?」

彰は、涙ぐんで頷いた。

「その通りだ。後は、結局は、もう少し強力にしても良いという事だな。君は熱を出したが、それぐらいなら皆耐えてくれるだろうし、そのぐらいの副作用はいいかもしれないと思っている。完成は近い。数年のうちには、世に出せるかもしれない。」

紫貴は、驚いて彰を見た。

「え、効果があったらすぐに使えるわけではないのですか?」

彰は、苦笑して首を振った。

「そうだな、簡単な言い方をすると、前にも言ったし皆が言うように、君はとても珍しい細胞なのだ。薬の効きがこちらの期待通りかそれ以上、つまりは、予想通りなので、それはやりやすい。だが、そんな人は一般的ではない。君に効いたから、ヒトに効果があるということが分かったが、ここからかなり改良しないと万人用の薬として世に出せないのだよ。それでも、君の反応でここから先の道筋がハッキリ見えた。まだまだ私が生きている間には成し得ないと諦めていたのに…」と、紫貴の手を握り締めた。「ありがとう、紫貴。君のお蔭だ。私がひよってオペだなんだと騒いでいたのに…君のお蔭で、どれほど多くの無駄な過程をすっ飛ばせたことか。君は、本当に理想の相手だった。私を叱って鼓舞して、細胞は素直で、DNAはあり得ないほど私の望み通り。君を愛したのは、運命だったのだ。」

紫貴は、苦笑した。彰の価値観は変わっているのだが、自分の細胞が役に立つし気に入っているというのなら、もうそれでもいいか、と思ったのだ。

「…お役に立てて、本当に良かったですわ。運命だったということは、私がこうして病気になって、彰さんがそれを治すことで社会に貢献できる薬を開発するという事が、定められていたということですわね。運命からの試験に、無事に合格されたんですわ。これまでの彰さんの生き方が、間違っていなかったという事でしょう。正しく生きていらしたのですわ。」

彰は、紫貴を抱きしめた。

「紫貴…良かった。私は間に合っていたのだ。君を得るためには、これまで積み上げて来たものの中から君を助けねばならなかった。それが完成していなかったら、君は助からなかったし私は君を得ることができなかったのだろう。本当に良かった…愛している。」

紫貴は、頷いて彰を抱きしめ返した。

「私も。でも彰さん、もう二度と、私を置いて逝けるのか、なんておっしゃらないで。結婚する時、私を看取ってから死ぬっておっしゃったわね?」

彰は、ギクリとして紫貴を見た。

「その…すまない。確かにその通りだ。私は、君を痛みもなく看取ってから、自分も死ぬと決めている。だが、まだ早い。まだ心の準備ができていないのだ。だから、取り乱してあんなことを言ってしまった。反省している。」

紫貴は、ため息をついた。

「もう…私だって、あなたを置いて逝くのは心残りでなりませんから、できるだけ長生きしたいと思っていますわ。でもあんな風に仰られたら、私だって死にたくないのにって言いたくなりますの。私は今、幸せなのですわ。あなたと一緒に生きていたいし、できたら一緒に死にたいぐらいですわ。ちょっとぐらい苦しくてもいいから。」

彰は、困ったように紫貴を見た。

「一緒にとは難しいのだよ。同じ薬を同じように投与したとしても、数分の差異があると思うし。自分が先だと私は君が心配でどうにも安楽に死ねないと思うし…。」

あまりに彰が真面目にそんなことを言うので、紫貴はぷ、と笑った。

「まあ!もう、例えですわ。それぐらいの気持ちってだけですの。」と、そっと彰の頬に唇を触れさせた。「愛していますわ。私が役に立つのなら、これからだって使ってください。これだけ歳を経たら、多分いろいろあちこちガタが来ると思うし…その度に、皆さんの治験に使ってもらったら、私も治るし一石二鳥ですわ。私に効かなかったら、ヒトに効かないってことですものね。」

彰は、渋い顔をした。

「もう、君をそんな事に使いたくないし、できたら病気になって欲しくはないが、これからあり得る疾患を想定してそれに対応できる体制だけは整えておく。」と、紫貴の腰に腕を回して、じっと顔を見た。「早く体調を整えてくれないと…私は何日我慢すれば良いのだ。」

紫貴は、呆れたように彰を見上げた。

「彰さんったら、まだ三週間にもならないんじゃありませんか?もう私は60ですし、彰さんは55歳なんですから、ご無理はいけませんわ。」

彰は、拗ねたような顔をした。

「無理とはなんだ。私は近年禁欲的に生きていたから、君に会うまでしていなかったし。いいじゃないか、結婚しているんだし。」

紫貴は、苦笑しながら言った。

「それはそうですけど…あの、もう少し待ってくださいね。」

彰は、ブスッとしながらも頷いた。

「分かっている。今は無理をかけてはいけないからな。早く治そう。」

結婚以来ずっと、ほぼほぼ毎日ほどだったもんなあ…。

紫貴は、内心思っていたが、何も言わなかった。とはいえ自分も歳だし、そろそろ落ち着いて欲しいなあとも思っていたのだった。


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