宿命
新は、共に入るのを許されて、術衣を着て母の検査と処置に立ち会った。
やはり大きな血栓が他の細かい血栓と共に肺静脈を塞ぎ、呼吸困難から心肺停止に陥ろうとしていた、まさにその時に新に発見されたようだった。
彰はあっさりとオペを選び、さっさと血栓を取り除いたが、不安は残る。
血の塊が、他にもちらほらできていたからだ。
溶かすための薬を入れて、循環器専門のベイリーと話し合い、最近に開発した、治験がやっと始まったばかりの薬を投与することにした。
「…これからを考えるとベイリーを信じてあの薬を使うしかない。」彰は、苦渋の顔で言った。「この歳でまさかと思っていたが、紫貴はまた妊娠していたのだ。そのせいで動きたがらなかったのだろう。つわりの症状が出始めていたのだが、紫貴も気付かず歳のせいで辛いと思っていたようだった。」
え、と要は言った。
「じゃあ…子供は。」
彰は、首を振った。
「助からなかった。あの薬を使って心肺を停止させたし、そもそもこれ程初期に母体がこうなったらな。私も…まさかと思っていて。確かに生理が来ないとは思っていたが、もう六十だしとっくに止まっていてもおかしくないから、閉経かと勝手に解釈していた。近いうちに精密に検査をしようと軽く考えていた。私が悪い。」
紫貴の体は、そもそもこんなことがあったらと彰が徹底管理していて、本来あり得ないほど健康で若々しかった。
だが、やはり老いて来るので血管も緩くなっているし、血流に勢いが昔ほどない。
そこに座りっぱなしでいたので、こんなことになってしまったのだろう。
新は、男女どちらか分からないが、兄弟ができるはずだったのだ、とショックを受けた。
もし、もっと早くに自分が気付いて適切な処置ができていたのなら…。
疲れ切った顔のシリルが、ハリーと共に入って来て言った。
「ジョン。DNAを解析しました。女の子でしたね。しかも問題のない配列でした。」
と、それは小さな箱と、データの書かれたタブレットを彰に手渡した。彰は、頷いた。
「そうか。落ち着いたら紫貴に話すが、今はやめておく。紫貴の処置は?」
シリルは、頷いた。
「直に目覚めるでしょう。ハリーからの報告があります。」
ハリーは、頷いて言った。
「脳の状態は数分間呼吸が止まったのに健全です。恐らく心拍が僅かばかりでも残っていたのが良かったのでしょう。後遺症が残らなかったのは奇跡ですね。これだけ早く処置できたからかと。」
彰は、やっとホッとした顔をした。
「良かった。紫貴が不自由な思いをするのを見たくはなかったからな。だが…シリル、これは?」
彰は、タブレットの表示を見ながら、数字を指差した。
シリルは、眉を寄せた。
「はい。まだ極初期ですが、子宮癌の可能性が。お子さんが亡くなっていなかったら掻爬していないのでこの数値を出していなかったので、気付かなかったかもしれません。見付かっても、産むか治療かで悩む位置ですし。本来、もっと大きくならないといくらなんでも普通の検査では発見できませんからね。」
癌、と聞いて彰の顔色が変わった。
「…すぐにオペを。」皆が驚いた顔をする。「早く取らねば。これが散ったらどうする。」
困った顔をしたシリルに、要が横から割り込んだ。
「待ってください、まだ紫貴さんはR569Iから覚めたばかりなんですよ!体に負担が掛かります、別の意味で命の危機になる!」
R569Iとは、あの24時間期限の薬の呼称だ。
彰は、要を睨んだ。
「それでも、癌細胞が全身に散ることを考えたらそれぐらい…!」
シリルが、首を振った。
「それぐらいじゃありません!落ち着いてくださいジョン、紫貴さんはやっと命が助かったばかりなんです!ベイリーの薬の影響もある。まだステージⅡにもなってないほど小さな所見です。回復を待っても大丈夫ですから!」
ハリーが頷いた。
「そうですよ!紫貴さんの細胞は良くも悪くも物凄く素直で、薬への反応がとてもいい。こちらが思ったように完璧に反応してくれるので、治療は綺麗に思った期間で終わるはずです。治療の予定が立てやすいし、間に合うはずです。」
シリルが、畳みかけるように言った。
「そうですよ!それは間違いない、私達が紫貴さんに治療していたのは15年も前なのに、紫貴さんは未だに妊娠可能な状態を維持していたんですよ?薬の効きが想像以上にいいのは確かです。あの人は珍しいほど素直な細胞の持ち主なんです。」
それでも、彰は首を振った。
「無理だ!癌細胞があるのが分かっているのに、それを残したままでいるなど…何の処置もしなくて、もし想像以上の動きをしたらどうするのだ。紫貴の細胞が素直だからこそ、癌細胞にも簡単に染まってしまうのではないかと思うと、安心していられない!」
彰は、ガクガクと震えていた。
癌に対する嫌悪感と、そして恐怖が彰には根強くあるのだ。
大切に想っていた数少ない二人を、それで亡くしてしまっているからだ。
だからこそ、彰はその恐怖に立ち向かって、自分の命を懸けてまで、癌に打ち勝つための薬を開発するために研究して来た。
患者を苦しめず、ただ癌細胞だけに命じて自殺させていく、そんな薬を。
要は、彰の様子から、言った。
「…だったら、今使いましょう。」要が言うと、皆が要を見た。要は続けた。「まだ副作用が分からないと、治験できていないけれどとりあえずは形になった薬があるでしょう。あれを使ってみるんです。」
彰は、驚いた顔をした。
「あれを紫貴に?今?」
彰がウンというはずはないのだ。
何しろ、まだ完成まではほど遠いと言われているほど、完璧ではない。
薬というのは、大部分の患者に同じような効果が期待されてこそそれ用の薬だと言えるのだが、あれはまだそのレベルには全く達していなかった。
一度治験に回したことがあったが、全く反応が見られず副作用ばかりで、100人中一人に少し、細胞の減少があったか、といったぐらいで、とてもそれが治療薬だとは、胸を張って言えるものではなかった。
それでも、動物実験では顕著な反応を示した個体が全体の0.1パーセントもある。完全に癌細胞が消え去っていたのだ。
全く見当違いの事をしているわけでもないのは分かっているのに、実現できていないことが歯がゆかった。
彰は、戸惑った顔をした。
「あれは…今紫貴に使って、副作用がどうなるか考えると…。そもそも、もしかしたら同じ哺乳類でもヒトの細胞には向かなくて、方向を変えねばならないかと思い始めていたぐらいなのに。」
確かに、手術の傷を治すより、薬品による副作用を中和する方が難しい。
だが、副作用が無ければ、もっとも良い方法だった。
「やりましょう。」ベイリーが、入って来て、言った。「ジョン、紫貴さんの細胞を信じましょう。私の新薬も、正に理想的な反応を示しています。こんなに素直な細胞を持つ人は珍しい。なかなか結果が出なくて間違っているのかと思っていましたが、紫貴さんを見て今、この方向で良いのだと確信が持てました。今ある物しか使えないのですから。手術は確かに今の段階なら確実でしょうが、紫貴さんへの負担が半端ないのですから。この様子なら、明後日には完全に私の薬が抜けるので、そちらの処置が可能になるはずです。あなたは、私を信じて新薬を使わせてくれた。あなたも、自分を信じて使ってください。」
彰は、これまで見た事もないほど憔悴したような顔をして、頭を抱えた。
「…私が悠長にやっていたせいで…私には、あれを紫貴に使うほど自信がない。それでもし紫貴が…死ぬ事は無いだろうが、効果もないのに副作用に苦しむかもと思うと…。」
新が、彰の目をじっと覗き込んだ。
「お父さん。お母さんはきっとお父さんを信じています。」彰は、新を苦悶の表情で見た。新は続けた。「探し求めたDNAを持つ人だったんでしょう。きっと、お母さんはお父さんの薬が使えるのなら、喜ぶはずです。ずっと、何かお手伝いしたいけど、私の頭では無理だから、あなたがお手伝いしてあげてって、寂しそうに私に言っていたんです。もしお母さんに反応があれば、お父さんはこのまま方向を変えずにやって行けるんでしょう?お母さんはお父さんの役に立ちたいんです。やりましょう!」
彰は、信じていると言われても、自分が自分を信じ切れていないので、どうしたら良いのか分からなかった。
紫貴を、苦しませたくない。だが、体力が回復するのを待っていたら、その間に癌細胞がと焦って仕方がない。
「…ベイリーの薬が切れるのは明後日だな。」彰は、苦悶の表情のまま、歩いて行った。「それまでに決める。紫貴にも…話しておかなければ。」
あれだけいつも生き生きとしている彰が、急にドッと老け込んでしまったような顔をしている。
…これから、後を新に託して紫貴さんと過ごそうと思っていたんだものな。
要は、彰の気持ちを思うと胸が詰まった。
癌を殲滅しようと頑張って来て、ここまで来たから後は後継にと思ったら、いきなり、それなら結果を出したのかと突きつけられた形なのだ。
紫貴という幸せを、掴んでいたいのならこれまでの自分の働きはそれに値するほどの物なのだなと、何かが彰に挑戦しているように見えた。
要は、どう慰めて良いのか分からず、しかしここは、紫貴のためにも彰にはどうするのか、しっかり考えてもらわねばならないのだと、何も言わずに出て行く彰を見送ったのだった。
新のことは、彰の執務室へと連れて行き、そこへ置いて来た。
彰は、まだ紫貴を病室に置いたまま、そこで付き添って紫貴が目覚めるのを待っていた。
いつもなら、自分の執務室横にある個室へと移すと言う彰だったが、今はそんな事も頭に上らないらしい。
紫貴の体に巣食っている癌が、彰にはそれだけ衝撃だったのだ。
要は、夜が明けて明るくなって来た中、背中を丸めてじっと眠る紫貴の見つめている彰に、掛ける言葉もなかった。
なので、邪魔をしてはと、その場から立ち去り、今は穂波に状況を知らせようと、自分の執務室へと向かった。
紫貴は、フッと目を開いた。
急に胸が苦しくなって、息苦しくて気が遠くなって…。
紫貴は、ハッとした。
そうだ、私はあれからどうなったんだろう。
どこかで見たような部屋の中、横を見ると、彰が疲れ切った様子で自分の顔を覗き込んでいた。
「ま…あ、彰さん…?」思ったより、声に力が出ない。紫貴は、咳払いをして、続けた。「あの、急に苦しくなってしまって…。」
見ると、腕には点滴が刺さっている。
それに、何やら胸の辺りがシクシクと痛んだ。
「君は、肺梗塞といって。」彰は、力のない声で言った。「血栓が詰まってしまう病気だ。じっとしている事が多いと、出来やすくてなる可能性がある病気でな。だが、処置は終わったし命の危機は去った。大丈夫だ。」
紫貴は、頷いた。
「助けてくださったのですね。ありがとうございます。そういえば、ずっと気分が悪いようでしたのに、今はそうでもありませんの。体はだるいけど、吐き気とかはしない感じ。」
彰は、紫貴の手を握った。
「紫貴…私が悪かった。」紫貴は、何を言っているのだろう、と目を丸くする。彰は続けた。「君は、妊娠していたのだ。生理が止まっているのは知っていたのに。もう閉経するのだろうと検査を急いでいなかった。まさかと思ってしまっていて…だから、君は具合が悪かったのだ。歳のせいではないのだよ。」
紫貴は、え、と口を押えた。妊娠?!
「え?!私は60歳ですのに?!」
彰は、頷く。
「私もだからまさかと。だが、確かに妊娠していた。」と、懐から小さな箱を取り出した。「まだ見た目では分からないが、解析した結果私達の娘だった。助からなかった。」
紫貴は、ショックを受けてフルフルと震えると、その箱を手にした。きっと、中にはその子が入っているのだろう。
「ああ…私がもっと早くに気付いていたら、こんなことには…!」
紫貴は、涙を流してその箱に頬擦りした。だから、彰はあんなに疲れ切っているのだと思った。
彰は、紫貴を抱きしめて、言った。
「…娘は、命を懸けて君の危機を知らせてくれたのだ。」紫貴が、ワケが分からず顔を上げると、彰は続けた。「娘の心拍が完全に止まってしまっていたので、シリルが掻爬をした。その時に掻き出したものは全て調べたのだが、君は…極々初期の、子宮癌である可能性がある。」
紫貴は、涙に濡れた目を見開いた。癌…それが、分かったというの。
「…初期の?」
彰は、頷いた。
「普通ならまだ分からなかっただろう。だが、全体を掻き出したので、その細胞を綺麗に余さず調べる事になった。そこで、見つけたのだ。まだ初期なので、オペで取ってしまいたいと思った…だが、君はまだ肺梗塞の処置を受けたばかりだし、体力が回復していない。体にはまだベイリーが開発した新薬の血栓を溶かす薬が入っているし、今は無理だ。だが…私は、どうしても君の中に癌細胞があることが許せなくて、恐ろしい。もし暴れ出したらと思うと、今すぐにでも取り去ってしまいたいのだよ。」
彰は、小刻みに震えていた。
紫貴には、彰の気持ちがわかった。
祖父も恩師も、心を開いた人を尽く癌で失って来た彰は、紫貴の体にそれがあるというだけで、震えが止まらないのだろう。
紫貴は、力が入らない腕で彰を抱きしめながら、言った。
「大丈夫。私の母も子宮頸癌になりましたけど、寛解しました。それからもう二十年元気にしていますわ。問題ありませんわ。彰さんが専門にしている病気ですのに。オペがダメなら、その彰さんが作っていらっしゃる薬では?」
彰は、涙ぐんで首を振った。
「まだヒトでの治験で全く結果が出ていないのだ。動物では確実に効く個体が出ているのに、もしかしたらヒトにはこれでは無理なのではと、方向性を見直すかと思っていた矢先のことで。そもそもが途方もない作業になるので、まだまだ時間は掛かる。なので新に引き継ごうと、ここ最近の私はその事ばかりに注力していて…。バチが当たったのだろうな。己の目的を忘れて、楽しむ事ばかりを考えていたから。」
紫貴は、涙を拭いて彰を見つめた。
「私達の娘が、機会をくれたのですわ。」紫貴は、大事そうに小さな箱を胸に抱いた。「私の病気を、あなたが治してくれるって。私の癌に気付いてあなたがその薬を使うように。私で試してみてください。もしかしたら、効くかもしれませんわ。シリルさんから妊娠のために治療を受けていた時、私の体はものすごく薬が効きやすいって言っていましたの。やりやすいので、治療のしがいがあるって。私に効くかどうかで、彰さんが今おっしゃった方向性も、決められるのではありませんか?間違っているかいないのかの、判断はできると思うのですけど。」
彰は、紫貴を見た。確かにそうだが、紫貴をそんなことに使いたくない。
それでも、それが分かる事でこのまま進むか道を変えるかの判断はつく。
ベイリーも言っていた通り、理想的なほど素直な細胞なので、ヒトとして効くかどうか試すには一番良い検体だった。
紫貴で効くなら、量の問題なのか質の問題なのかも分かるはずなのだ。
「…君を検体にするなんて。」彰は、苦悶の表情になった。「副作用ばかりで、効かない可能性もあるのに。」
紫貴は、笑顔で首を振った。
「私でお役に立てるなんて、こんなに嬉しい事はありませんわ。平気です。それで、たくさんの人が助かるかもしれないんでしょう?試してみてください。オペは、実は嫌ですの。だって、後が痛いし。」
少しふざけて言う紫貴に、彰は涙を浮かべながらも、笑った。
「確かにしばらくは痛むものな。紫貴…」と、手を握りしめた。「では、一度試してみよう。君を検体に。」
紫貴は、抱きしめて来る彰を、小さな箱と共に抱きしめて、笑顔のまま涙を流した。
「はい。やっとお手伝いができて…娘のお蔭ですわ。」
それから、二人はその小さな箱を間に、感謝の気持ちを伝えあった。
そして、新が息子ではなく娘であったらと考えていた、葵という名前をその小さな命に付けて、多勢峰家の墓にこのまま収めることにしたのだった。
新は、クリスに相談して急遽留学の手続きを進めてもらう事にしていた。
彰が通っていた大学があって、そこを受けるという事で急いで願書を提出する準備を始めたのだ。
そこは、要も通っていた大学なので、要は紫貴に付きっ切りの彰の代わりに新のために、いろいろ問い合わせて準備を進めた。
あちらには、彰の指示で滞在している部下達も居るし、彰の知り合いや彰に未だに世話になっている研究者たちがたくさん居るので、昔彰がしたような苦労は絶対にない。
未成年だからとどこかにホームステイしなければならないような事は、無かった。
そんなわけで話しが早いので研究所に留まっているが、本来許されることでは無かったので、新もこれ以上は滞在するわけには行かなかった。
ここはあくまでも研究所であって病院ではないので、家族の付き添いは許されていない。
なので、新は要と共に、一度屋敷へと帰ることになった。
彰は、当分は帰れないだろう。
なのでその間、要と穂波があちらの屋敷でメイドと執事と共に、新を見ておくのは暗黙の了解のようになっていた。
紫貴の娘の穂波と結婚したことで、要と彰は親戚になっているので、彰のフォローは誰よりも要が適任なのだ。
そうして、二日ぶりに屋敷へと新を連れて帰ると、穂波と颯が、急いで迎えに出て来てくれて、言った。
「要さん、お母さんは?大丈夫だった?」
穂波にとって、紫貴は母なのだ。
要は、頷く。
「メールでも知らせたように、命に別状はないよ。子宮癌の極初期の所見があったから、彰さんが対応するためにあっちに残ってるんだ。今は元気になって来てるから、心配ない。」
穂波は、メールでは聞いていたが心配でならなかったのだろう。
ホッとしたように、頷いた。
「良かった…あんなに元気だったのに、急に呼吸が止まっていたって颯から聞いて…。もう心配で心配で。百乃にも宗太にも知らせてたから、もう大丈夫だって報告しなきゃ。」
百乃は姉で、宗太は兄だ。
要は、頷いた。
「そうしてやるといい。」
新は、そんな二人の会話の横を抜けて、自分の部屋へと階段を上がって行く。
颯が、それを追いかけて言った。
「新!二日も学校を休んでいたから、その間の授業のノートをコピーしておいたよ。」
新は、颯を振り返った。
「そうか、すまなかったな。だが、もうそれは要らないのだ。私は、この9月からアメリカへ渡る。今クリスに手続きを進めてもらっているのだ。」
颯が、え、と驚いた顔をした。
「え?!学校をやめるってこと?!」
新は、頷いた。
「そうだ。もう、遊んでいる暇はないと思った。お父さんが行っていた大学に、私も行くことにした。今回のことで、こんなことをしていてはいけないと思ったのだ。私は、一刻も早く医学を学ばねば。細胞の詳しい事はお父さんから教えてもらっていたが、そんな事ではない。もっと基本的な、医学全般をまず学んでおくべきだったのに。お母さんがあんな状態なのに、私にはどうしたら良いのか全く分からなかった。もうそんな事は嫌なのだ。」
颯は、焦ったように言った。
「そんな!早過ぎない?だって大学でしょ?新はまだ14歳で、高校も出てないのに?」
新は、階段でこちらを見下ろしながら答えた。
「あちらは実力主義だ。私の今の実力なら間違いなく入学できるだろうとクリスにも言ってもらったし、そもそもがお父さんも私と同じ歳で、誰にも教わらないまま自力で勉強してあちらへ渡った。私は恵まれているのだから、落ちるはずなどない。私は行くぞ、颯。君も、このままならそのうちに来られるだろう。その気があるなら、来るといい。では、私はやることがあるから。」
新は、サッサと階段を数段飛ばしで上がって行った。
颯は、慌ててそれを追おうと階段に足を掛けた。
「新!」
要が、後ろからそんな颯を止めた。
「待て、颯。」颯は、困惑した顔で振り返った。要は続けた。「新は決めたんだ。彰さんの後を継ぐというよりも、自分がすべきことって言うか、自分がしたいことを見つけた。紫貴さんがあんなことになって、新の中でいろんなことが変わったんだろう。無理に追い縋るのはやめるんだ。君は君で、やりたい事を見つけたらいいじゃないか。今勉強しているのは、ただ新に追いつきたいからだけなのか?」
颯は、言われてぐ、と黙った。
自分は、新を追っているだけだ。
何がやりたいとか、どうしたいとか、漠然とした未来しか見えてはいない。
「…新を追ってるだけだ…。」
颯が呟くように言うと、要は、頷いた。
「別にいいと思う。」颯は、驚いた顔をした。要は続けた。「それが、君のやりたいことならそれでもいいんじゃないか。オレだって、彰さんを追ってあの研究所に行き着いたんだ。そこへ行って、何かを成したいとか、そんなのは後からだった。最初は、彰さんを追い掛けて行って、たどり着いた先では、彰さんがやっていることの補佐をしてここまで来たんだ。だから、君がやりたい事が新を追う事ならそれでもいい。最後には、新を補佐して生きれるだけの、実力をつけて追いかけて行け。今は、同じ所へ行くのは君には無理だ。分かるだろう?学力が足りない。」
颯は、分かっていた事なので、唇を噛みしめた。
今のクラスの授業ですら、ギフテッドのためのものであるにも関わらず、新は退屈そうだった。
そう、もう知っている、といつも授業が終わってから新は言う。
図書館の本を読み尽くしているので、もう既に知っている事ばかりなのだと言う。
颯には、そんな能力は無いので、その日教えられたことを必死に復習して自分の物にするので精いっぱいだ。
それでも、授業について行けるだけでも大したものなのだが、皆が皆そうやって頑張っているクラスに居るので、それが実感できなかった。
だが、新を追い掛けて行くのなら、こんなところで躓いている場合ではないのだ。
新は、どんどんと先に行ってしまう。自分が追い掛けて行かないと、新は待ってはくれないのだ。
「オレ、勉強する。」颯は、上がり掛けていた階段から降りて来て、言った。「家に帰るよ。お母さんはここに居る?オレは教科書もあっちに置いてるから、帰って来る。」
穂波は、慌てて言った。
「待って、お母さんが…あなたのおばあ様がまだどうなのか分からないから。ここに居た方が様子を知れるの。あなたはこちらに教科書を持って来て、こちらで勉強したら?」
颯は、首を振った。
「こっちにいたら新に甘えるから。」颯は、真剣な顔で言った。「じゃあ、ご飯だけこっちに戻って来るよ。お母さんはここに居て。オレは一人でも大丈夫。」
そうは言ってもまだ13歳になるかならないかの歳なのだ。
要が、言った。
「いいよ、穂波はあっちに帰ってくれ。オレがここと研究所を行き来して、逐一紫貴さんの様子を知らせるから。大丈夫、ほんとに今はもう元気なんだよ。」
穂波は不安そうな顔をしたが、頷いた。
「じゃあ、よろしくね。私は百乃と宗太に知らせてあちらで待ってるわ。」
そうして、もう出て行こうとしている颯を追って出て行った。
要は、颯はこれから大変だな、と、できる限り助けて行こうと心に決めていた。
その姿は、必死に彰を追っていた自分と重なっていた。
それから三日後、紫貴の検査が始まった。
精密に調べてみると、間違いなく紫貴の子宮には癌細胞が存在した。
しかも、あの時ステージIIにもならないと判断されていたのに、内視鏡でしっかり確認できる範囲に広がりがあった。
シリルが、眉を寄せた。
「…速い。」シリルは、それを見ながら言った。「やはり細胞が素直だから?それともあの時見落としていたんだろうか。」
彰は、険しい顔で言った。
「見落とすレベルではない。」彰は、じっと麻酔で眠る紫貴の顔を見つめた。「…やはりこのスピードで進むのなら、今発見できていなければまずかった。表面だけなら良いが、まさか深く浸潤しているのでは…。」
リンパ節にだけは到達させない。
彰は、思っていた。
「見ただけでは分かりませんからね。少し取りますか?」
彰は、顔をしかめた。
「刺激したくないが、やるしかないか。」
シリルが眉を寄せた。
「確かに怖いですよね。余計なことをしたら、修復しようと根を張るかも。恐ろしいほど速い進み方ですしね。」
彰は、もう普通にやるなら子宮を全摘するよりないレベルかもしれない、と、首を振った。
「やめておこう。」と、内視鏡をゆっくり引き抜いた。「もう、今すぐにでも薬品を投与するよりない。こうなったのも、もしかしたら掻爬した時の刺激でかもしれないからな。大事を取るなら、私なら子宮を取り去っただろう。まだ手術はできない…やはり薬しかない。」
シリルは、頷いた。
「やりますか。準備は?」
彰は、頷いた。
「紫貴の事は全てデータ化しているので問題なく計算してある。持って来る。紫貴を目覚めさせておいてくれ。」
シリルは頷いて、彰は自分の研究室へと長年の研究で何とか形になった、薬を取りに向かった。




