ルーツ
彰が笹原に指示して向かったのは、そこからしばらく車で走った郊外にある、自然に囲まれた墓地だった。
彰に促されて紫貴が墓地の入り口に立つと、そこにある小さな花屋から花束を二つ買って、一つを紫貴に渡し、彰は言った。
「会って欲しい人が居るのだ。」
紫貴は、花束を手に、ただ頷く。
遠巻きにアルバートと笹原の二人が見守る中、紫貴は彰について、ずっと歩いて広い墓地の中を、進んで行った。
彰は、何度も来ているのか、大きな墓地が立ち並ぶ、たくさんの花束が供えられてある場所を抜けて、ほとんど同じような墓石が並ぶ場所を、真っ直ぐに迷わず一つの、他のと代わり映えのしない墓石へと歩み寄った。
そして、言った。
『ステファン。』ドイツ語だった。『長く会えなかった。私は自分のやりたいことをやっているよ。あの時、あなたが言ったように、遊び心も忘れずに。それで、紹介したい人が居るのだ。』
彰は、何を話しているのか分かっていない紫貴を振り返って、言った。
「紫貴。私の恩師だ。ステファン・バーナー。18年前、私が看取ったのだ。今の私があるのは、このステファンのお蔭なのだ。ステファンが生涯務めた大学にこの後行くが、先に君を紹介しておきたくて。」
紫貴は、頷いてその墓に頭を下げて花束を置いた。
『初めまして。ジョンの妻の、紫貴です。』
英語でそう言うと、彰は英語に切り替えて、言った。
『ステファン、私の妻の紫貴だ。子供も生まれたが、まだ幼いし置いて来た。次に来る時には、連れて来るから。私にそっくりなのだぞ。』と、自分も花束を置いた。『…あなたはいつも言っていたな。全てを拒絶して生きてはいけないと。もう少し、人を信じて心を開けと。それだけは、私はできなかった。だが、信用してみようと思った要という子供は、私に世間というものを教えてくれた。それから、あの子が私に教えてくれて、今では共に研究する者達ともよく話すんだ。何年も経って、要はもう大人だが、私もやっと大人になった気がする。そのお蔭で…私は、幸せを掴んだ。』
紫貴は、それをじっと聞いていた。そこのところは、あまり聞いた事は無かった。要は、若い頃からずっと彰を目指して勉強して来たのだと言っていた。そして、念願の研究所へ来ることになってからも、傍で世間からずれている彰と、回りの橋渡しをしながら、時に諫めたりと世話をして、こうしてやって来たのだ。
彰は、じっと墓石を見つめて、続けた。
『結局、あなたは本当に正しかったな。何もかも、見えていたようだ。あなたが言った通りに、拒絶して自分を守ってばかりでは、幸福など掴めなかったのだ。やっと分かって、私は…』と、言葉を詰まらせてから、続けた。『今、幸せだ。あなたが望んだように。』
声が震えている。
驚いた紫貴が見上げると、彰は静かに涙を流していた。
…ずっと、幸福など知らなかったのだろう。そして、ステファンはそんな彰の幸福を望んでくれた人だったのだ。
紫貴は、それを悟って、そんな彰を抱きしめた。
彰は、紫貴を抱きしめて、そうしてその髪に頬を寄せながら、声を殺して、しばらくそこで、泣いていた。
紫貴は、彰の気持ちを思うと、自分が嫌われるのが怖いとか駄々をこねて、彰を悲しませるなどしてはいけない、と心から思った。
これからは、心の底から彰の幸せを願って、一生懸命励もうと決心していた。
それから、しばらくそうやって紫貴に抱かれて泣いていた彰だったが、泣くだけ泣いたらすっきりしたのか、最後にはステファンに笑って挨拶をして、そうして紫貴の手を握って、墓地を後にした。
車へと戻った彰は、笹原に言った。
「では、大学へ向かってくれ。時間より早いが、別にいいだろう。」
相手の都合もあるんじゃないだろうか。
紫貴は案じたが、笹原は指示通りに、大学へと向かった。
そこは、歩いても良い距離だったので、すぐに車止めに着いて、アルバートと三人で車を降りた。
笹原は慣れているのか、すぐに車を駐車場の方へと移動していく。
紫貴は、彰に引っ張られて大学の中へと足を踏み入れた。
中から、事務員らしい女性が慌てて出て来て、言った。
『御用は何でしょうか?お約束を?』
彰は、頷いた。
『私はジョン・スミス。こちらは妻の紫貴。カール・フンメルと約束があって来たのだが、居るだろうか。』
女性は、え、という顔をして、慌てて頷いた。
『え、ジョン?!はい、お待ちください!』
早過ぎたんだろうなあ。
紫貴は思いながら、それを見ていた。
しばらくして、正面の階段から、同じぐらいの年代の男が、息せき切って駆け下りて来た。
『ジョン!』と、手を差し出した。『なんだ、まだ学会だと思ったのに。早かったな!』
彰は、その手を握り返した。
『あれは駄目だ。エリアスのヤツは何をやってるんだ。せっかく来てやったのに、私の言うことなど何も聞いてないじゃないか。』
その男は、顔をしかめた。
『それでも、君が来ると張り切って準備してたんだぞ?』と、紫貴を見た。『君の秘書か何かか?』
彰は、首を振った。
『私の妻。英語で話してくれないか。彼女はドイツ語が分からないのだ。』と、紫貴を見た。「紫貴、私がここに在学していた時、同じ研究室に居た男で、カール・フンメルという。」
紫貴は、微笑んで軽く会釈した。
『はじめまして。妻の紫貴です。』
カールは、目を丸くしながらも、手を差し出して、紫貴の手を遠慮がちに握った。
『え、妻?ジョン、結婚したのか?!ちょっと待て、え、ジョンが?!』
言われた通り英語だが、半端なく驚いているのは伝わって来た。
そして、まじまじと紫貴の顔を見るので、紫貴は居たたまれなかった。何しろ、もっと若い時ならいいが、もう歳なのだ。
あまりにも紫貴の手を握ったままカールが紫貴を凝視するので、彰は不機嫌に手を払って紫貴の肩を抱いた。
『長いぞ。いつまでも握ってるんじゃない。妻だと言ってるだろうが。』
カールは、我に返って慌ててうろたえながら、言った。
『あ、いや、すまん。というか、初めまして、紫貴。私のことは、カールと呼んでください。』
紫貴は、頷いた。
『はい、カール。』
どこへ行ってもこの反応なので、紫貴は段々彰が言っていたことが、本当なのだと実感して来た。
彰は、本当に女性には冷たい男だったのだろう。
彰は、言った。
『で?久しぶりに見に来たのだぞ。そうだ、君からエリアスに、私と話したければここへ来いと連絡してくれ。どうせ戻って来るんだろう。』
カールは、歩き出しながら言った。
『あの会場で質問攻めにしてやれば良かったのに。みんなの前で恥をかかせたくないから席を立って来たんだろ?そんなことをしたら、君が批判されるのに。』
紫貴が、え、と彰を見る。
彰は、フンと鼻を鳴らした。
『かつての同僚をあんな場所で叩きたくない。マスコミも来ているんだろう。だったら他の学者からの質問に答えるぐらいで誤魔化せる。ま、私にしたらメールで済ませるつもりだったんだが、私が居る間に帰って来たら話を聞いてやると言っておけ。』
この感じでも、一応彰は気遣っているのだ。
紫貴は、彰の不器用な優しさを知った。
そして、カールというこの人は、彰のそんな気持ちを知っていて、そうしてこうして、仲良くしているのだろう。
引き続き紫貴のために英語で何やら難しい事を話している二人を見ながら、紫貴は、この旅行に来てよかった、と思っていた。
彰という人を、やっと深く理解できて来たような気がするのだ。
そしてそれは、もっと彰を愛する気持ちを強くさせるようだった。
それから、研究室に着いて彰は中をいろいろ案内してくれた。
自分が、その頃どこに居て、どうやって毎日を過ごしていたのか、事細かに説明して回ってくれたのだ。
ステファンが、外に家があるにも関わらず、ここに住んでいる状態だったこと、自分もなので、寮に住んでここに通っていた事、ステファンが最期を迎えたのも、この部屋だったことも、話してくれた。
彰は、最後までステファンをここで看取っていたのだ。
「ステファンは、生涯独身で、子供も居なかった。ただここに籠って研究に明け暮れて、それは優れた結果を出していたのに、部下にそれを発表させて、自分が表に出る事はしなかった。だから、あれほどに結果を出した素晴らしい学者だったのに、誰にも知られず名も残っていないのだ。本当なら、あの墓地に並んでいた大きな石の一つに、ステファンだってなっていたと思う。だが…ステファンらしい。私も、そうありたいと思った。名声よりも、その結果で世の中が良くなっていくのを見るのが望みなのだ。」と、遠くを見る顔をした。「ステファンは、日記をつけていたのだ。私は、ステファンの死後、それをもらって全部読んだ。今でも私の執務室にあるが、私はそれを読んで、ステファンが私の事を案じてくれていたのを知ったのだ。私は、回りを拒絶して生きていたからな。ステファンにだけ心を開いていたし、それを彼自身も知っていた。だからこそ、私を何とかして日の当たる場所へ連れ出してやりたいと思ってくれていたようだ。私の幸せを、いつも祈ってくれていた。そんな素振りも見せなかったから、私はそれを読むまでそんなステファンの気持ちを知りもしなかったのだがな。そもそも私は、自分を不幸だとも思っていなかった。幸福が何なのかも、知らずに生きていたからな。」
だから、彰は幸せになったと報告して、泣いていたのだ。
紫貴が感慨深く想いながらその部屋を見ていると、カールが後ろから言った。
『ほんとにジョンが結婚していたとはなあ。考えた事も無かった。知っていたら祝いを贈ったのに。』
彰は、振り返って言った。
『例のパンデミックの最中だったからな。子供も居るんだ。』と、スマートフォンを出した。『ほら、これが息子の新。』
カールは、スマートフォンを覗き込んで、目を丸くした。
『マジか!君にそっくりじゃないか!』
彰は、ドヤ顔をして頷いた。
『だろう?もう三か国語は理解している。』
え、とカールは言った。
『ちょっと待て、まだ小さいぞ?』
彰は言った。
『四歳だからな。もうすぐ五歳になるし。私もこの頃にはそれぐらい理解していたぞ。』
カールは、呆気にとられた顔をした。
『へえ…そうか、ジョンのコピーか。』と、苦笑した。『良かった。君が居なくなったら、どうなるんだろうなって数十年後の未来を考えたりしてたんだ。でも、君は結婚もしないし…女があれだけ寄って来てたのに。』
彰は、紫貴の目を気にしながら、言った。
『あれらには興味などなかった。紫貴と出会ったから、結婚したのだ。他は何でもいい。』
紫貴は、聞いていないふりをして、側の本棚などを眺めてそれを背中で聞いていた。
カールは、紫貴が聞いていないと思ったのか、小声で言った。
『…なあ。アメリアが、君が来るって聞いて、今日来るはずなんだ。どうする?』
彰は、眉を寄せた。
『なんだって?あいつはどこかの製薬会社に入ったとか言ってなかったか。』
カールは、肩をすくめた。
『だから君が結婚してるなんて知らないから。いくらなんでもそろそろ子供でもって思ってるかなって思って、つい来るって漏らしてしまった。アメリアはまだ38だし、君とも釣り合うかなと思ってな。余計なお世話だったか。』
彰は、頷いた。
『余計なことをしたな。』と、息をついた。『会いたくない。帰るか。』
カールは、慌てて言った。
『待て、エリアスは?!結婚祝いに今夜飲もうと思ったのに。』
彰は、カールを睨んだ。
『アメリアが来るんだろう?私は、面倒な事はもう真っ平なんだ。紫貴が居れば良いし、他の面倒をすっきりさせたところだしな。』
紫貴は、何を話しているのか聴こえていたのだが、聞いていないように端から本を引き抜いて、中を開いて見たりして、気にしてる素振りは見せなかった。
彰は、紫貴を気にしてその背に視線をチラと送ったが、カールを見て言った。
『…やはり帰る。紫貴に無用な心配をさせたくないのだ。エリアスにはホテルに来いと伝えてくれ。』と、声を大きくして紫貴に呼び掛けた。「紫貴。そろそろ帰ろう。君に見せたいものは見せた。」
紫貴は、今気付いたように、そちらを見た。
「まあ、もうよろしいんですか?あの、もし難しいお話がおありなら、先にホテルに帰っていても良いですけど。」
彰は、紫貴の肩を抱いて、首を振った。
「いや、いい。エリアスには、ホテルの方へ来いと伝えてもらう事にしたのだ。行こう。」
カールが、慌てたように言った。
『ジョン、オレの研究も見て欲しいんだ。だから呼んだのに。君は滅多に時間なんか取れないだろう?!』
必死のカールに、彰は冷たい視線を向けた。
『私もそのつもりだったが、私に内緒で会いたくない者まで呼んでいたとなればな。すまないが、今回は帰る。エリアスにはホテルで会う。君も、それについて来たらいいんじゃないか?』
紫貴は、困ったようにカールを見た。
きっと、迎えに出て来た時の様子を見ても、彰が来るのをとても待っていたのだろうと思われたのだ。
こんな風に、切り捨ててしまうのは良くない。
「彰さん。」紫貴は、足を止めた。「私は気にしませんわ。だって、あなたの妻は私ですから。あなたに好意を寄せている、女性が来られるんでしょう?」
彰は、驚いて紫貴を見た。
「聴こえていたのか。」
紫貴は、頷いた。
「分かっていますから。あなたが本当に女性に興味が無いという事は。大丈夫です、信じています。話し合ったでじゃないですか。私を愛してくれているのでしょう?あの、寝相が悪くてもいびきをかいても。」
彰は、それを驚いたように聞いていたが、フッと笑うと、頷いた。
「私は君が君なら何であっても愛している。」と、カールが居るのに抱きしめた。「君しか興味はない。」
それを、何を話しているのか分からないカールが戸惑いながら見ていたが、彰は振り返って、言った。
『…紫貴が君の話を聞いてやれと言う。紫貴に免じて、ここに残る。だが、アメリアは君が追い返せ。居ても私は話をすることはないぞ。それでいいか。』
カールは、ホッとしたように胸を撫で下した。
『分かった、それでいい。』と、感謝の視線を紫貴に向けて、そうして、彰を促した。『こっちなんだ。資料を見てくれないか。』
彰は頷いて、カールについて歩いて行く。
紫貴は、ついて行っても話について行けないので、そこにあるソファに座って、待っていることにした。
笹原が彰について行き、アルバートが紫貴の側に残って、時は経って行った。
アメリアは、ジョンとは、たったの一年しか在学している時に一緒には居なかった。
どうしても、自分が神と崇める論文を書いた本人に会いたくて、無理を言ってステファンの研究室を訪ねた時、初めてジョンと会った。
ジョンの容姿は、想像していた東洋人の、それではなかった。
すらりと背が高く、凛々しい顔つきで、論文云々が吹き飛んでしまい、ひと目でアメリアは、ジョンに惹かれた。
だが、こと女性関係においては、ジョンは良い噂は聞かなかった。
決して相手を愛さず、道具のように扱ってはすぐに捨てる、褒められた扱いでは無かったのだ。それでも道具にされるのはまだいい方で、視線を向けもせずに辛辣に断られる女性も多かった。
皆が尽く振られて玉砕していく中で、まだ20歳になったばかりだったアメリアは、思えば若かったのか、玉砕覚悟でジョンを待ち伏せ、一度だけでも良いから、例え道具でもいいから付き合って欲しい、と訴えた。
だが、ジョンは自分を珍しいものを見るような目で見回してから、こう言った。
「…君は道具にするには若過ぎる。私は子供を相手するつもりはない。そもそも男性経験はあるのか?私は愛情など掛けられないからな。君に興味はない。」
アメリアは、見透かされたようで顔を赤くした。
ジョンは、フンと呆れたように息をつくと、さっさとその場から去った。
それでも、アメリアは諦めきれず、何とかジョンに近付きたいと必死に近くに行こうとしたが、その頃ステファンの癌が発覚し、それどころでなくなった。
ジョンは、研究室から出て来なくなったのだ。
その内に、ステファンが亡くなり、それと同時にジョンは消えた。
日本へ帰ったのだと、後で聞いた。
それからも、大学に残っていつかは戻って来るかもしれないと、ジョンを待ったがジョンは、学会などに入国することはあっても、すぐに帰ってしまい、ここへ来ることは無かった。
友人であったカール達ですら、連絡は取れるが会えないと愚痴っていたぐらいだ。
一度、カールに懇願して電話番号を聞いたが、思い切って掛けたのに応答はなく、気が付くとその番号は変わっていた。
カールにもう一度聞くと、番号が漏れたら換えると決めているらしく、知らない番号から掛かって来るようになると、さっさと換えてしまうのだそうだ。
つまりは、カールがアメリアに教えたばかりに、ジョンは番号を換えてしまったのだ。
それからは、カールでさえも電話番号は教えてもらえなくなり、もっぱらメールやネットのツールで話すだけになった、と愚痴られた。
アメリアのせいだと、暗に言われているようだった。
そこまで会えなかったジョンが、何と20年近く経った今、大学へ来るのだという。
あれからも連絡を取っていたカールから、それを知らせて来たのだ。
アメリアは、嬉しくて仕方が無かった。ジョンは、もう45歳にはなるだろうが、それでも会って話がしたい。
もしかしたら、ジョンも考えが変わっていて、親しく話してくれるかもしれない。
何より、これまで足を向けもしなかった大学に、やって来るというのだ。
アメリアは、その日を指折り数えて待っていた。
仕事は、前日から一週間の間休みを取って、ジョンに会うのに備えた。
カールに会うために来たと受付で伝えると、ジョンが来ているの、と、事務のサラが興奮気味に教えてくれた。
他にも何か言おうとしていたが、アメリアは本当に来ているんだと気が急いてしまい、駆け出すように階段へと向かったので、聞き取れなかった。
カールの研究室は、ジョンが昔ステファンと研究していた場所と同じだ。
アメリアは、扉を開く前に髪を整えて、深呼吸を一つすると、自分を落ち着かせて扉を開いた。
すると、目の前のソファには、黒人の男と、アジア人の女が、座って話しているところだった。
見た事も無い顔に驚いていると、あちらもこちらを向いて、驚いた顔をした。
かと思うと、黒人の方がサッと前に出て、言った。
『…あなたは関係者のかたですか。』
英語だ。
アメリアは、頷いた。
『私はここの卒業生で、元研究員でした。あの、カールはどこに?あなた方は?』
すると、気配に気付いたのか、カールが慌てたように隣りの部屋から駆け込んで来た。
『ああ、アメリア!すまないが、今忙しいんだ。この後エリアスも話をする予定だし、君はもう帰ってくれないか。』
アメリアは、驚いて言った。
『え、どうして?私も話を聞きたいわ。だから呼んだんでしょ?』
カールは、首を振った。
『話がもっと突っ込んだことになってるから、君には分からないよ。ジョンも暇じゃないから、一々説明もしていられない。だから帰って欲しいんだ。』
『聞くだけでも参考になるかもしれないわ!お願い、あなたが呼んだんでしょ、カール?邪魔はしないわ、何なら待っててもいいわ。』と、ソファの二人を見た。『それより、この人たちは?部外者は入れないんじゃなかったの?』
紫貴は、それを聞いてスッと立ち上がると、頭を下げた。
『はじめまして。私は、ジョンの妻の紫貴です。こちらは、ボディガードのアルバート。あなたが、アメリアさん?』
アメリアは、一瞬、何を言われたのか分からなかった。
え…ボディーガードと、何と言ったの?
『え…確かに私はアメリアですけど、あなたは?ジョンって、ジョン・スミスの…?』
妻、と言った。
そんなはずはない、何しろあの人は…。
だが、その紫貴という女は、頷いた。
『はい。今回は、夫が自分のルーツを教えてやろうと、こちらへ連れて来てくれましたの。』
アメリアは、愕然とした。
まさか…あれだけ全てを拒絶していたジョンが、結婚…?!
この紫貴という女は、ジョンと同じぐらいの歳だろうか。
東洋人で、肌が驚くほど美しく見えたが、年齢がよく分からない。
アメリアは知らなかったが、紫貴は彰が研究所からくすねて来た美容班の開発した化粧水と美容液を使って居るので、邪神モードの時の彰のように、美しい肌だった。
アメリアが口をパクパクさせながら言葉を出せないでいると、カールが言った。
『さあ!もう良いだろう、ジョンは君に会っている暇はないんだそうだ。奥さんも待たせてるし、こっちも急がないと話が進まないんだよ。帰ってくれ!』
来いと言っておいて、帰れなんて乱暴な話だけれど。
紫貴は、それを聞きながら思っていた。もっと穏便に帰ってもらわないと、もしかしたら前に処理したと言っていた人たちのように、無駄な恨みをかって殺しに来たりとか、しないのだろうか。
紫貴はそう思って、ハラハラしながらそれを見ていた。
すると、彰が隣りの部屋から出て来て、紫貴へと寄って来た。
「紫貴。」
紫貴は、彰を見上げて日本語で言った。
「彰さん、無駄な恨みは買わない方が良いですわ。他の女性も、それで殺しに来たりしたのではありませんか。このかたには、穏便に帰って頂いた方が良いかと。」
彰は、ため息をついて頷いた。
「そうだな。私もそう思う。」
すると、アメリアがカールを振り払って、彰の方へ向き直った。
『ジョン!あの、私は…もう、子供ではないですわ。』
彰は、それがどういう意味なのか分かっていたが、気付いていないふりをして、頷いた。
『そうだな。お互いに歳を取った。』と、紫貴を見た。『紹介しよう、私の妻の紫貴。子供は日本に置いて来たが、私も家族を持って幸せに落ち着いている。君も、家族を持っている頃ではないのかね?』
カールが呼ぶぐらいなのだから、恐らくは独身なのだろう。
だが、彰は知らぬふりをして、アメリアが逃げる先を作っているのだと思われた。
アメリアは、紫貴と彰の指に輝く、同じ結婚指輪に視線をやってから、言った。
『あの…そうね、私も落ち着こうと思っていたところですの。』と、涙ぐみながらも、続けた。『私も、大人ですしね。』
彰は、紫貴の肩を抱いて、薄っすらと微笑みながら、頷いた。
『そうだろう。ところでカールが言っていたように、これからまだエリアスも来るし、遅ればせながら結婚祝いをしてくれるとかで。時間が惜しいのだ。すまないが、私は失礼する。ではな。』
そして、紫貴の肩を抱いたまま、隣り部屋へと移動して行った。
アルバートが、それを見て同じように隣りの部屋へと入って行く。
その背を、もう涙を流して見送っているアメリアを見ながら、カールは息をついた。
『…すまない、アメリア。君をこれ以上傷つけたくなくて。ジョンが結婚してるなんて、オレも初めて知ったんだ。ジョンそっくりの息子も居る。もう諦めて、君は今日は帰った方がいい。また、ゆっくり話そう。』
アメリアは、ただただカールの言葉に頷くと、長い年月の想いが、スーッと消えていくのを感じていた。
もう、叶わない恋だと分かっていたのだ。
それが、また目の前にと浮かれてしまっていたが、とっくに失った恋だった。
アメリアは、涙を一人拭いて、そうして、来たばかりだったのに、廊下を引き返して行ったのだった。
紫貴は、隣りの部屋に入って、ため息をつく彰に、言った。
「とても綺麗なかたでしたわ。お若いし。」
彰は、また息をついた。
「私には、特に何も感じられないのだ。前にも言ったように、他とは感覚が違うらしい。人として深く知ろうと思うほど興味も湧かない。私が自分の時間を使って知りたいと思ったのは、君が初めてなのだ。君は私には、興味も持っていなかったがな。」
ああして寄って来る人の一人を選んでいたなら、彰はもっと楽だったのではないだろうか。
それを、わざわざ離婚歴のある年上の紫貴を面倒を承知で選んだ事から、彰の心の真実を知ったように思った。
それでも、紫貴は拗ねたように言った。
「彰さんったら、変わったご趣味なんですわ、きっと。マニアックなかただから、これまであんな綺麗な人にも興味も湧かなかったのではありませんか?」
彰は、びっくりした顔をしたが、すぐにハッハと笑った。
「私がマニアック?君は面白い事を言うな。私には君が誰より美しく見えるのだから仕方がない。それがマニアックだというのなら、そうなのかもしれないが別にいい。」
感性が他と違うのかしら。
紫貴は真面目にそう思った。だとしたら、彰の心の琴線に触れた自分は本当にラッキーだけでここに居るのだ。
カールが、邪魔をしないようにと黙ってその日本語の会話を聞いていたが、おずおずと割り込んだ。
『その、ジョン。続きを話したいんだがいいかな?』
また機嫌を悪くしたら帰ると言い出すと気を遣っているようだ。
彰は、機嫌良く答えた。
『ああ、続けよう。紫貴、待っていてくれ。』
紫貴は頷いて、また二人は何かの分厚い資料を見ながら、話し始めたのだった。
それから、エリアスも急いで帰って来て、紫貴と挨拶を、もうお決まりの驚愕の顔で交わした後に、彰と散々話して外は暗くなって来た。
紫貴は、その間退屈なのでアルバートと共に厩舎の方へと見学に行ったりしながら、待っていた。
彰が乗馬を習ったのは、ここであったらしかった。
今は、屋敷でも馬を飼っていて、もっぱら紫貴が運動不足解消のために乗っているのだが、それは彰が教えてくれたことだった。
もちろん、紫貴は馬の世話もする。普段は執事の細川が主にやってくれるのだが、紫貴もできる限りやっていた。
厩舎に居た学生としばらく英語で馬の話に花を咲かせて、紫貴も楽しく時間を過ごした。
例によってアルバートに電話がかかって来て、紫貴は学生に別れを告げると、研究室へと帰って来た。
「どこまで行っていたのだ。もう暗くなるのにと心配するのだぞ。」
彰が少し拗ねたように言うので、紫貴は苦笑した。
「お邪魔をしてはと思って。厩舎の見学をしておりました。彰さんがここで乗馬を習ったとおっしゃっていたので。」
彰は、表情を緩めて頷いた。
「そうか、馬を見てきたのか。時間があれば、私がステファンと馬に乗って回っていたコースを君と歩いても良かったな。あの墓地の横の小道も、いつも通っていたのだ。ステファンは、いつもあの場所に墓を買ってあると私に話していて…あの時は、縁起でもない、と思っていたものだ。」
まさか自分が看取ってそこへステファンを葬ることになるなんて、思ってもいなかったのだろう。
紫貴が慰めるように彰の手を握ると、彰はパッと嬉しそうな顔をした。
彰は、五年も経った今でも、紫貴から自分に触れて来ると、嬉しそうにする。
紫貴はそこそこ落ち着いた歳なので、自分からべたべたするような事もないし、彰が寄って行けば拒絶はしないものの、彰はそこが、とても寂しい気持ちだったのだ。
だが、こうして時々、紫貴から自分に触れて来ると、嬉しくて仕方が無くて、何か気がかりがあっても、全部吹っ飛んでしまう。
それは、今も変わらなかった。
「紫貴、大丈夫だ。」と、彰はそれこそ嬉しそうに紫貴の手をしっかり握り返した。「行こうか。カールとエリアスが行きつけのバーを予約してくれて。笹原とアルバートも一緒に、そこで飲もう。結婚祝いをしてくれるらしいぞ。」
紫貴は、彰が子供のように喜ぶので、微笑ましくて笑って頷いた。
「楽しみですわね。」
そうして、彰、紫貴、アルバート、笹原の四人は、カールとエリアスも連れて、車で大学を出発したのだった。




