それから
彰が結婚してから、五年が経った。
紫貴とこうして来た五年は、とても速かったと思う。
毎日が充実していて、息子の新はかわいいと思う。何しろ自分の分身のようで、その姿だけでなく中身まで、全くそっくりなのだと分かったからだ。
四歳になった新は、毎日本が読みたいと言って、図書館から本を借りて来ては、それを読み漁って毎日彰が帰って来るのを待ち構え、怒涛の質問をぶつけて来るのだ。
一々的を射ているその質問に、彰は全て余さず答えた。
新は、お父さんが知らないことなど無いのだ、と、心の底から信じているらしい。
それでも、彰は思っていた…そのうちに、自分が知らない事も聞いて来るだろう、と。
新の知能の発達は目覚ましく、早くから彰や研究所の所員達からいろいろな事を吸収し、彰が幼い頃よりずっと恵まれた環境で学んでいた。
最初は、国語をしっかりとさせねばならないと、二歳までは日本語だけで話し掛け、二歳を過ぎてから英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語など、研究所員達の母国語を学び始めて、彰の勧めで辞書を読み、すっかり頭に入れてしまった。
新は、彰と同じで丸暗記が苦にならないのだ。
もちろん、国語の広辞苑もとっくに頭に入っていた。
辞書が役に立つのは、彰が自分の経験上分かっていた事だったので、新には辞書をたくさん買い与えて、いつでも好きな時に読めるようにと環境造りをしていたのだった。
今日も、彰は仕事をこなしていた。
明日からしばらく学会で海外へ向かうので、ここで出来るだけのことをしておきたいのだ。
要が、やって来て言った。
「彰さん、退所時間が近付いてますけど。」
彰は、頷きながらも手を止めずに言った。
「分かっている。君も帰るのはな。」
そう、要はしょっちゅう彰の屋敷へ通ううち、紫貴の娘の一人である、穂波と何度も会って親しくなり、結婚して今は彰と同じように、下界とここの行き来をしながら生活している。
そのためには、彰と一緒に彰の屋敷のヘリポートに飛んだ方が早いので、そうやって一緒に通勤するようになって数年、今では要も一児の父だ。
ちなみに紫貴の上の娘の百乃は彰の執事だった間下の息子の修と結婚し、息子の宗太はメイドの一人と結婚して、関西で落ち着いた生活をしている。
要は、彰のヘリポートを使わせてもらう手前、その近くに家を買ってそちらで家族で住んでいて、実験などで長く家を空ける時には、彰の屋敷に妻子を預けて生活をしていた。
母親の紫貴が居るので、妻の穂波も気楽に行き来できているようだった。
そんなわけで、要は彰と一緒に帰らねばならないのだが、彰は、明日からドイツへと旅立つので、処理することが多くてまだ掛かりそうだった。
そこで座って待っていると、バーントが入って来た。
「ジョン、ヘリの準備ができていますけど。」
彰は、眉間に青筋を立てて必死に処理していたが、最後にパンパン!と音を立ててキーを打ち、立ち上がった。
「よし!終わったぞ。すまんな、待たせた要、バーント。行こう。」
要は、ホッとして彰に並んだ。
「明日からですもんね。一週間でしょう。」
彰は、歩き出しながら頷く。
「その間、新を頼むぞ、要。穂波が見てくれると言うから助かるが、新は難しいからな。一応、執事にもクリスにも言ってあるが、どんな質問にも、とことん答えてやってくれ。」
要は、顔をしかめた。
「新は賢いからなあ。びっくりするほど鋭い質問をして来る事があるんですよ。クリスは脳を調べてますから、嬉々として話に付き合ってますけどね。」
彰は、頷く。
「何ならここへ連れて来てもいいがな。検体だと言えばここへ来れるし、計器に掛けられるからもっと調べられるだろう。その代わり、あれの質問地獄に耐えねばならないが。一日中。」
それは大変だ。
要は、顔をしかめた。それでなくてもちょっと会うだけでも大変なのに、一日中となると皆困るだろう。
なので、言った。
「…彰さんの屋敷で穂波と一緒に面倒見ておきますよ。うちの子のことも可愛がってくれますしね。」
彰は、頷いた。
「よろしく頼む。やっと紫貴をドイツに連れて行けるから、一週間は滞在したくて。」
そうなのだ。
彰は、学会だったら日帰りにしたいぐらい毎回、行って、学会に出て、すぐ飛行機に乗って戻って来るのだが、今回は久しぶりの学会でドイツへと行くことになったので、その間紫貴と離れるのは死んでも嫌だから連れて行くと聞かず、その間、新を紫貴の娘の穂波と要に預けて二人で観光して来る事になったのだ。
なので、要は今日から彰の屋敷に穂波と息子の颯と共に泊まり、そこで一週間過ごすことになっていた。
彰の屋敷にはメイドも執事も居るので家事はしなくて良いし、穂波も楽だろうと要もその話を受ける事にしたのだ。
新は、一緒に連れて行っても良かったのだが、彰が学会に出ている間、どうしても母子を二人きりにしなくてはいけなくなる。
子供を会場に連れて入るわけにはいかないからだ。
紫貴だけなら、一般の席で座って見ていることもできるので、今回は紫貴だけを連れて行くことにしたのだった。
ヘリに乗り込み、彰と要はいつものように、屋敷へと飛んで帰って行ったのだった。
一方その頃、紫貴は穂波と一緒にメイド達が準備してくれた食事を、テーブルへと運んで並べていた。
メイド達は住み込みの子達なので、ずっと一緒で紫貴とも穂波ともとても仲が良かった。
志穂と美樹の二人なのだが、この二人は彰の関西にある本宅の、メイドとして働いていて、こちらへ呼ばれた二人であるらしい。
紫貴は、一度二人に聞いたことがあった。
「まあ、元々は関西の。では、帰りたいでしょうね。実家があちらなのでしょう?」
紫貴が言うと、志穂と美樹は顔を見合わせてから、首を振った。
「いえ、私達には、身寄りがありませんから。」
紫貴は、驚いた顔をした。
「え、そうなの?知らなかったわ。」
志穂が、言った。
「あの、あちらの施設に居た高校生の時に、ダンナ様がお屋敷に住まわせてくださいました。メイドの部屋があるから、夕方だけでもメイドとして働くなら衣食住と、大学の費用を出してくださると。」
美樹も、頷いた。
「私もそうなのです。それで、大学まで出ることができました。卒業の時に、もう一度聞かれました…このままメイドとして働くもよし、就職して出て行くのもよし、だがここで働くのなら、英語は話せるようにならなければならない、と。私は、なので、必死に英会話を勉強し、迷わずお屋敷で働くことを決めたのです。だって、ダンナ様の使用人の方々には、とてもよくして頂きましたし。もう、家族のように思っていて。里帰りとお時間をくださった時は、なので、あちらのお屋敷に戻っておるのですわ。あちらのお屋敷には、私達と同じような住み込みのメイド達もたくさん居ます。」
そうだったんだ。
紫貴は、思った。ずっと住み込みで働いて大変だなあと思っていたが、この子達にとっては、ここが家なのだ。
「だったら、私達は家族ね。」紫貴は、言った。「これからもよろしくね。」
志穂と美樹は、嬉しそうに頷いた。
「はい、奥様。」
紫貴は、彰は実は、いろいろと社会貢献をしようと動いていたのをそれで知った。
他のメイドや執事たちも、元は不幸な生い立ちや、事業に失敗していた人やらと多種多様で、そんな人達を社会へと戻す役割を担おうとしているようだった。
その代わり、彰の目は厳しいようで、紫貴がそのことを聞いた時には、それなりに努力を重ねて前向きに行動している者達しか、手を差し伸べてはいないのだと言っていた。
必死に頑張って足掻いている者達を、救い上げて学を付けて社会へと送り出すことはしても、状況に悲観して流されるばかりの者達の事は放置しているのだという。
つまりは、全てを救おうというつもりはないのだ、と、彰は苦笑していた。
紫貴からしたらそんな事は行政の仕事であって、個人でやり切れるものではないのだ、と思っていたので、それだけでも彰は意識の高い人だなあ、と思っていた。
だが、彰にしてみたら気まぐれでしかないらしく、紫貴に褒めてもらえるほどの事はしていない、と言っていた。
その彰が、結婚前から連れて行きたいと言っていたドイツに、明日から旅立つことになっていた。
学会のついでなので、新は連れて行くことができないので、穂波と要にここに居てもらうことにしたのだ。
本当は、いくらとても賢いとはいえ、まだ四歳の新を残して行くのは気がかりだった。
だが、自分の娘である穂波が見ていてくれるというので、渋々行くことに同意したのだ。
新は、自分の姉に当たる穂波にも、とても懐いていた。
なので、新は明日から紫貴が居ないという事実は知っていたが、そこまでごねる事もなく、穏やかにしていた。
そこへ、ヘリのモーター音が聴こえて来て、彰が帰宅するのが分かった。
「まあ、帰って来たわ。」と、志穂を見た。「志穂、スープをこちらへ。もう到着するわ。」
志穂は、頭を下げて出て行った。
穂波が、リビングで新と遊んでいる、颯を見た。
「颯、パパが帰って来たわ。」
颯は、こちらを見た。
「ほんと?ママ、玄関に行こう!」
颯は、二歳だったが他の子供より言葉が速かった。
もちろん、新には敵わないのだが、それでも一般的に見て、かなりの速さだ。
要さんもとても賢いからかしら。
紫貴は、思っていた。
新も、四歳とは思えないほど落ち着いた様子で、立ち上がった。
「お母さん、お父さんをお迎えに行きますか。」
紫貴は、頷いた。
「ええ。今日も何か聞くことがあるの?」
紫貴が言うと、新は、首を振った。
「いえ、今日はいいです。お疲れだろうし、明日からドイツでしょう。飛行機が疲れると聞いておりますから。」
どうしてこの子はいつも、敬語なのかなあ。
紫貴は、それが新との距離を感じてなんだか寂しかった。
なので、穂波が颯を抱き上げるのを見て、紫貴も新を抱き上げた。
新は、びっくりしたような顔をした。
「え、お母さん、腰が痛くなりませんか?」
紫貴は、首を振った。
「いいえ。だって新を抱っこしたかったんですもの。いいでしょう?お母さんだもの。」
新は、スリスリと頬を摺り寄せる紫貴に、少し恥ずかしそうな顔をしたが、頷いた。
「はい。お母さんなら、良いです。」
紫貴は、微笑んだ。
新は、生まれて二年ほどは滅多に口を開かない子だった。
もしかしたら、発達に障害があるかもしれない、と思いながら育てていたが、彰が笑って首を振り、こいつは恐らく、完璧に話せるようになるまで口を開きたくないだけで、こっちの言うことは分かっているし、その気になれば話せるはずだ、と言った。
彰が、そうだったからだ。
なので、紫貴が新に、あなたとお話したい、と訴えると、渋々新は口を開いた。
そうしたら、完璧な敬語だったのだ。
どうやら、新の中では敬語が日本語のスタンダードらしかった。
本人が言うには、アナウンサーの日本語が、一番すんなり理解できるかららしかった。
言葉は、相手に自分の意思を伝えるためにあって、通じなければ意味はないと思っている、と自分の考えを話してくれた。
あまりにも賢過ぎるので、紫貴は距離を感じて戸惑うのだが、彰もそんな感じで回りから遠巻きにされていたと聞いている。
なので、自分だけはこの子の傍にと思う紫貴は、普通の子供に接するのと同じように接しようと、いつも思っていた。
いくら大人びていても、まだ四歳の子供なのだから。
そうやってメイド達と執事の細川と共に玄関へと迎えに出ると、彰と要が遠ざかって行くヘリを背に、こちらへ歩いて来るのが見えた。
全員が一斉に頭を下げる。
「お帰りなさいませ。」
彰は、他の何も目に入らないように真っ直ぐに紫貴に寄って行った。
「帰った。紫貴、留守中何もなかったか。」
紫貴は、新を腕に苦笑した。
「はい、何も。お食事ができておりますわ。」
彰は、頷いて新を見た。
「新、こっちへ。」と、紫貴から新を抱き取った。「重くなっているのに、抱いたりして大丈夫なのか?」
紫貴は、苦笑した。
「私が抱っこしたいと無理を言いましたの。新があまりに可愛いので。ほら、彰さんにそっくりでしょう?」
彰は、新の顔を見た。
確かに、自分そっくりで小さな自分としか思えない顔つきだ。
「…確かに自分の子供だから可愛いと感じるが、私にそっくりだからな。そう言って良いものか。」
紫貴は、クスクスと笑った。
「良いのですわ。新は新ですから。」
要が、同じように颯を抱いて歩いてついて来ながら言った。
「新はほんとに可愛いですもんね。でも、オレはやっぱり颯が可愛いですから。」
穂波が、笑った。
「親バカと言われてしまうわよ?こちらもあなたにそっくりなのに。」
しかし颯は、子供らしく要に抱かれてきゃっきゃとはしゃいでいる。
要は、颯の頭を撫でた。
「仕方ないよ、可愛いものは可愛いんだから。」
要も、生まれるまではこんなに子供が可愛いものとは思っていなかった。
だが、穂波と颯が待っていると思うと、毎日家に帰りたくて仕方がない。
結婚など考えられなかったのに、穂波と出逢ってどうしても傍に居たいと思うようになってしまった。
彰の気持ちが、本当によく分かった。
穂波は紫貴に似ていてとても穏やかだが、芯の強い女性だった。
頭も良く会計士としてあちらで働いていたのだが、こちらへ来てからも家で仕事を受けてリモートで仕事を続けていた。
そんな穂波に、要は心底惚れていたのだ。
何しろ働く必要などなくて、生活は楽なのにそうやって働こうと決断したのだ。
日中は、そのお陰でベビーシッターも雇うことができていて、夫婦で充実した社会生活ができていたのだ。
もちろん、英語も難なく話した。
そんな穂波は、要の自慢だった。
食事も済ませて、居間に集まって話していると、颯に絵本を読んでやっている新を見ながら、彰は言った。
「…新は、どうしたものかと思っているのだ。」皆が、彰を見る。彰は続けた。「幼稚園は、かえってストレスだと入れなかったが、このまま普通の小学校に入れて大丈夫だろうかと。私もそうだったが、教師が質問されるのを嫌って距離を置くのだ。何しろ、大人顔負けの知識があるからな。否、と言われたら、その理由を問う。他の子供のように、闇雲に従う事はしないからな。自分で判断したがるのだ。その芽を摘みたくないし、困っているのだ。紫貴は社会性を身に付けさせたいようだが、それ以前に回りが新を受け入れるかどうかなのだ。どうしてもと言うのなら…少し特殊ではあるが、アメリカの機関にあるそういう子供ばかりの学校に、入れるよりないのかと。」
紫貴は、途端に不安そうな顔をした。
「アメリカは遠いですわ。もしそうなるのなら、私も一緒に。」
要が、慌てて言った。
「待ってください、紫貴さんが行ったら彰さんも行きますよね?研究所はどうするんですか?」
彰は、息をついた。
「研究はどこでもできる。あちらの研究所からのオファーもひっきりなしにあるし、どうしてもと言うなら移籍してもと考えている。今よりは制限されるだろうが、新の未来を考えるとそれも致し方ないかと。」
要は、愕然とした。
彰が居なくなる…だったら、自分は何のためにあの研究所に居るのだ。
「そんな…だったらオレも移籍します。どこででも研究できるのは、オレも同じです。」
彰は、息をついた。
「そう言うと思っていた。要、私は自分の代ではあの薬を完成できないと思っているのだ。ドンドンと進化していたあの頃とは違い、今はコツコツ地道に時間を掛けてやる作業に変わっている。時間を考えても、計算すると私の命の期限内では無理だ。劇的な変化がなければな。なので、どうしても新には、私の意思を継いで欲しいのだ。新になら、私の代わりが出来る。もしかしたら、それ以上かもしれない。ならば、早く私に追い付いて来られるように、環境を整えてやりたいのだ。本当なら、このまま研究所に来て皆で育てるのが一番だが、それをすると紫貴の意思を違える事になる。そうすると、選択肢が限られてくるのだ。確かに、あちらのその学校へ行っても世間とは違う価値観で育つのは確かだが、私と同じ思いをするぐらいなら、その方がいくらかマシだろうと思ってな。」
彰なりに、考えているのだ。
もう、次の世代へ引き継ぐ事を考え始めているのだ。
要は、言った。
「…特殊なのは同じです。結局、最後には研究所のように同じような思考スピードの者達と一緒に仕事をする場所に、落ち着くことになると思います。何しろ、他の所ではストレスになってしまうでしょうから。彰さんが、こうして結婚しても一般企業で働くことなど無理なのと同じだと思います。」
紫貴が、下を向く。
彰は、ため息をついた。
「分かっている。こう生まれてついてしまったのだから、無理なのだ。あちらがこちらを理解してくれないし、分かっているからと先に忠告しても、意味が分からないから聞く耳を持たず、悪い結果へと向かう事が多い。後で私の言っていることが正しかったと知って、まるでおかしなものを見るような目で見られるようになる。こちらにしたら、どうして分からないのだと思う事ではあるが、あちらからはどうしてわかるのだと思うようだな。そんな場所では、時間の無駄だとただストレスだった。恐らく、新も同じ。」
紫貴は、新を見た。
確かに、あり得ないほど賢い新は、同じようにあり得ないほど賢い彰が言う通り、そんなストレスに晒されることになるのだろう。
こちらが良かれと同じぐらいの年ごろの子と遊べるように公園に連れて行ったりしても、新にとっては迷惑なだけのようで、できれば行きたくない、行くなら一人が良いと言う。
話しが通じない、あちらの反応が分からない、と、新にとって未知の生物でも見ているように思うらしい。
自分は自分が育って来た環境なので、それを知ってもらいたい、それが幸せなのだと思っていたが、もしかしたらそれは紫貴が勝手に思っているだけで、新から見たら迷惑なだけなのかもしれない。
現に彰は、その環境から逃げ出すために同じように頭の良い祖父の下へ逃げ、そこから海外へ渡ってしまった過去がある。
両親とは、そこから会わないままに死に別れているのだと聞いている。
紫貴は、その理解のない両親と、同じことを新たに強いろうとしているのかもしれない。
紫貴が黙って考えていると、新がこちらを見て、寄って来た。
そして、紫貴を心配そうに見上げると、言った。
「…私は、お母さんがそうした方が良いと思っているなら、皆と同じ学校に行きます。」紫貴は、驚いて新を見つめた。新は続けた。「お母さんは、私にお父さんのようになって欲しくはないのですね?」
紫貴は、そう言われて驚いた。
彰さんのようになって欲しくない?
彰は、言った。
「それは、母が私を疎んじているということか?新。」
少し機嫌を悪くしたようだ。
新は、頷いた。
「話の流れからそうなのでしょう。お母さんは、私にこちらの皆と一緒に生活して欲しいと思っているのですから。でも、お父さんが言う通りにあちらの学校へ行けば、お父さんと同じように育つことになります。お母さんは、それが嫌なのでしょう?」
紫貴は、首を振った。
「彰さんを疎んじていることは絶対にないわ。彰さんのこれまでがどうであれ、私は今の彰さんと一緒に居たいと思っています。でも、これまでの事を聞いていると、彰さんは最初からそのようでは無かったのでしょう?要さんや、他の方々からいろいろ学んで回りとの付き合いを覚えて行ったと聞いています。そんな苦労を、新にさせたくないと考えているだけで…。」
そう言われると、彰も要も渋い顔をした。
要が彰と出会った時、本当に酷いものだったからだ。
だが、彰は足掻いていた。自分がどうしたら良いのか分からなくて、それまで話も聞かずに居た位置まで降りて来て、要の話を聞いてくれた。
そこから、全てが始まったのだ。
それまでは、人がどう思おうと構わない、というスタンスだった。
「…紫貴の懸念は分かる。」彰は、またため息をついて、言った。「そう言われてしまうとその通りなのだ。私は、14の時にアメリカに渡ってしまったので、回りは成人近くの者達ばかりだし、付き合いもなく交流もしなかった。だが、生きていくにはそんなものは必要ないと思って来たし、要に会う前は、確かに回りから誤解されていてもどうでも良かった。なので、敵だらけだったな。」
要は、頷く。
「オレは、彰さんが本当は優しいんだと知ったんです。だから、彰さんは全然かまわないみたいだったけど、回りが彰さんを誤解したままなのは嫌だったので、彰さんを説得していろいろ…その、回りとの関りを教えて行きました。だから今はマシなんですけど、確かにその方面では苦労していましたよね。」
彰は、頷いた。
「それはその通りだ。だが…両方となると、どうだろうな。ゆっくりと頭の中身が皆と一緒に成長するなら苦でもないのだが、今、幼稚園児の中に自分が放り込まれることを考えてみて欲しい。そして一日同じことをして過ごすことを強要されるのだ。しかも毎日。どう思う?」
要も、紫貴も戸惑う顔をした。
それは…とても無理だ。
つまり、そういう気持ちになるということなのだ。
「…無理ですね。」
要が言うと、彰は頷く。
「そういう事だ。小学生になってもそれが続き、中学生ぐらいで少し話が通じるようになって来るのだ。それまでは、地獄の日々だと思ってくれたら良い。何しろ、分かり切った事を毎日毎日、そこから動くことも許されずにじっと聞かされるのだ。一日六時間もな。」
言われてみたらとても苦痛に感じる。
彰は、それをやっていたという事だからだ。
紫貴は、彰を見た。
「…分かりましたわ。では、社会性は中学生になる頃から養っていくという事でどうでしょうか。それまでは、家庭教師であるとか、研究所の方々とかに勉強を見てもらって、中学生で中学校に入ってみるというのでは?もし合わなかったら、少人数の学校を探しても良いので、そこから始めて慣れて行くとか…。学業の方は、もうできるかたに教えて頂いてもっぱら学校は社会を知るために通うという形で。」
彰は、ふむ、と顎に触れた。
「どうだろうな。」と、新を見た。「どう思う?君は、学校というものにどういった考えでいるのだ。」
新は、頷いた。
「はい。よく分からないのが本音です。お母さんが行って欲しいようだったし、それならと思っていましたが、幼稚園の体験入園に連れて行ってくださった時や、公園での交流はとても疲れましたし、嫌でした。それが学校でもとなるなら、毎日かなり我慢しなければならないなと、思っていました。」
紫貴は、ショックを受けた顔をした。
つまりは、新は我慢しなければならないが、紫貴が言うなら行こうと思っていたということだ。
新としては、苦痛でしかないのだろう。
彰は、頷いた。
「そうだろうな。それで、君が決めてもいいと言ったら、どうしたいと思う。」
新は、小さな頭を傾げて、考えた。
そして、言った。
「…では、中学生になる頃に、もう一度聞いて頂けますか。今の私の頭には、学校の知識が少ないのです。中学生になるまでに、しっかり調べておきます。それまでは、お父さんが手が空いた時や、他の誰かに教わって本を読んで時間を使いたいです。多分、小学生の勉強は、テレビで見ていても頭に入っているように思うから。」
彰も見ていた、教育番組の事だろう。
彰は、頷いた。
「では、それでいいな?小学校には行かず、皆に教わり中学生前にもう一度考える。」
新は、頷いた。
「はい。もっと勉強しないと。わからない事が多すぎて、不安になります。例えばヘリがどうして飛ぶのかも、まだ知りませんし。」
皆が驚いた顔をすると、彰は特に驚くでもなく言った。
「それは物理をやり始めたら航空工学と合わせて計算できるようになるぞ。今はまだ簡単な数学ぐらいしか知識がないだろう。物には順番があるし、コツコツやっていけば何でも数式に起こせるようになるから。行き詰った時に計算できると便利だぞ。というか、計算は日常になって来るからな。」
それを聞いて、紫貴はハッとした。
…そういえば、あのプロポーズを受けた夜も、彰は一人でぶつぶつと、英語でどんな数式にも当てはまらない、とつぶやいていた。
紫貴は、言った。
「彰さん、もしかして、ですけど、初めてお会いしたクリスマスの夜、お一人でどんな数式にも当てはまらない、と呟いていらしたのも、だからですの?」
言われて、彰はびっくりした顔をした。
彰の記憶力で、覚えていないはずがない。
そう、あの時は彰は、紫貴とどうやったら結婚できるのだろうと、それを数式に起こそうとしていたのだ。
だが、不確定要素が多過ぎて、計算式が成り立たなかった。
どう考えても、答えが出なかったのだ。
「あれは…その、君にどうやってアプローチすれば良いのか考えていて…いつもの癖で、数式を立てようとするのだが、どうにもならなくて。」
紫貴は、開いた口が塞がらなかった。
そんな事まで数式に起こそうとする、彰の思考が理解できなかったからだ。
「まあ…。」
紫貴が絶句したので、要が慌てて言った。
「何しろ結婚自体をしたいと思ったことが無くて、それまでの女性は放って置いても寄って来ていた彰さんでしたから、自分が知っている解決方法を使って何とかしようとしたんだと思うんですよ。結局は、ダイレクトに全部開示することを選んでしまってましたけど。煮詰まちゃって。」
彰は、困った黙る。
紫貴は、うんうんと頷くしかできなかった。彰の事は、分かっているようで知らない事がやはりまだ多いのだ。
五年やそこらで、理解できる人ではないのだろう。
それでも、彰の気持ちの真実は感じるので、紫貴はそれでも良いと思う事にした。
それでも、紫貴が堅い顔をしているので、彰は急いで立ち上がった。
「紫貴、明日の準備はできているのか?明日は早いし今日はもう寝る準備をしよう。新の事は、新自身が考えることができるまで、保留でいいだろう。何でも一度やってみて、駄目なら進路変えをしたら良い。私はそれについて何も言わないし、新がしたいようにさせようと思っているから。大丈夫だ。」
紫貴は、黙って頷いた。
新の事は心配なのだが、それでも要を始め皆が世話をしてくれるし、新自身もしっかりしていて、こうして改めて聞けば自分の考えをしっかりと話してくれるので、そこまで子供扱いして、心配する必要はないようだ。
こと新の事に関しては、やはり彰の方がよく理解しているようなので、あまり口を挟まない方が良いのかもしれない、と紫貴は思っていた。
それよりも、自分が押しに押されて短期間で決断して結婚した、彰を理解することの方が、重要なのではないかと考えていたのだ。
そうすることで、新の事も自然、理解できるようになるだろうという、考えからだった。
思えば、本当に深くは、彰を理解していない事に、やっと気が付いたのだ。
要は、硬い表情の紫貴には気になったが、何も言わないので穂波と二人で目を合わせ、口を挟まない事にした。
二人は、新を連れて部屋を出て行ったが、紫貴が何を考えているのか、誰にも分かっていなかった。