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小サイケ02

作者: 灰色硝子

気が付くと、僕は美術館内のような場所に立っていた。壁沿いには傷一つないきれいな金色の手すりが続いている。足元にはいかにも高級そうな厚い赤色の絨毯が敷かれており、試しにわざと体重を乗せた足で擦ってみたところ、ピクリともしない重厚感だった。一面の壁紙には、シカと思われる動物のシルエットがズラリと等間隔で整列させてあるもので、これもまた豪華さを感じられると同時に、どこか不安をこみ上げさせてくる景観でもあった。自分の真後ろを振り向くと、ほんの数歩分離れた位置に、玄関口と思われる木製の立派な扉が見えた。扉の造りが両開きではなく、通路の幅も人が二人以上並ぶには厳しい狭さなので、美術館と言うよりは個人が開催するような小規模な展覧会に近いのかも知れない。念のため扉に近づいて、取っ手を捻ろうと手を出してみたものの、おかしなことにこの扉には取っ手だったりドアノブに相当するものが存在していないことに気が付いた。ただ一枚の物言わぬ板がだけが聳え立っているような、薄情な扉なのだろうか。両手を使って押したり、なんとかスライドさせようと力の向きを変えたりを繰り返してみるものの、少しも動いてくれそうな気配は無い。こういう場所に来ると、だいたいの場合はそんな意地悪な仕組みになっているものだ。その時、塗料か、あるいは建築に使われた木材が放つ匂いかはわからないが、来場者に緊張感を与えるような独特の匂いが漂っていることに気が付いた。たったそれだけのことなのに、なぜか無性にここから逃げ出したいという気持ちが高まってきて、僕はまたしても玄関口と思われる扉の位置まで戻って、先ほどは試していなかったであろう絶妙な向きに力を入れてみたり、ダメ元で手の平を使って表面を叩いたりしてみたが、相変わらずピクリとも動いてはくれなかった。鍵穴らしきものさえ見当たらない為、完全に外側から施錠を管理される、牢屋に近い仕組みになっていることを予想した。その時、僕の一連の混迷ぶりを冷ややかに見守っていたらしい、壁紙にあるシカらしい模様達が一斉に笑い声を上げた。大量に並んだ壁から突き出たレモンのような頭部を小刻みに上下させ、口の箇所を高速で開閉させていたり。象や猿のような鳴き声も聞こえたは不自然だったが、良く探してみればこの模様の中にはシカ以外の動物も紛れ込んでいるのかも知れない。もっとも、そんなものをじっくり探すような気分にはなれなかったが…。それにしてこのような現象が起きるということは、今回もこのまま大人しく先へと進めということなのだろう。この先で体験することになるであろう不快な事象の数々を想像すると、無意識の内に大きな溜息が漏れた。まだ始まって間もないというのに。


「小サイケ02」


同時に笑い出して、笑い声を止める時までピッタリ同時だった忌まわしいシカ達の中を進む。どうでも良いことだが、夢の中でさえも僕は姿勢があまり良くないことが気に掛かった。きちんと背筋を伸ばして歩かないと、シカ達から余計に舐められるだろうか。先ほどのお礼の意味も込めてシカ模様の内のどれかを拳で叩いて反応を見てみようという気になって、一番弱そうな奴を探したのだが、目に付く限りはどれも完全に同じ大きさ、形をしているコピー&ペーストのシカたちであった。仕方がないので適当に、ちょうど僕の胸くらいの位置にある模様に一発デコピンを見舞ってやった。すると怒ったのかブルブルと震え始め、まるでパズルにはめ込まれていただけの分離したピースのように少しずつ浮き出てきて、最終的に呆気なくそれが地面に落下した。拾い上げてみると、厚さはせいぜいビスケットくらいなもので、鼻を近づけて嗅いでみると微かにリンゴ味の人口菓子のような甘い香りがした。そしてふと冷静になって後悔した。今のように僕が余計に世界に干渉したことで、このように所持すべきアイテムが生み出され、それに対応したイベントまでが余計にもう一つ追加されることは傾向からわかっていたからである。つまりこのような場合、"ゴール"まで最短で向かおうとするならば、必要以上に興味を抱いたり干渉しないことが重要になってくるのだ。うっかりしていた。僕はわざとらしいくらい大きな溜息をついた。ふと。たった今シカの模様が抜け落ちた個所がポッカリと空洞になっていて、濃い影になっているそれは予想以上に奥の方まで続いていそうだった。手を突っ込めば何か別のアイテムが見つかりそうな気もしたが、これ以上余計に長居させられても面倒なので、つい湧きあがってしまった好奇心を抑えた。イベントを"返却"出来ないだろうかと微かに期待して、先ほど拾ったシカ模様を壁の空洞に押し戻してみたが、またしてもブルブルと震えて床に落下する。だろうな、と心の中で悪態をついて、渋々僕はそれをズボンのポケットに仕舞い、通路に沿って進んでみることにした。右にも左にも均等なサイズのシカ、シカ、シカばかりという代わり映えの無い景色の中を5分程歩いたところで、正面の道は角になっており、今度は右方向へ道が続いているらしいことが分かった。どんな変なものが待ち構えているのかわからないので、角を曲がる前には一旦呼吸を整えて、自分の冷静さを確かめる。そして覚悟を決めてから踏み出した。そこに現れたのは、上等な西洋の画廊のような光景だった。通路の幅は先ほどとは打って変わって家族連れでも並んで歩ける程には広く、通路の両脇には合計10枚にも及ぶ如何にも西洋美術らしい写実的なタッチの絵画が、程よい空間の余白を保って壁掛けされている。その内容はと言うと、村や森、山の麓らしき場所など、西洋の現実風景の一角を舞台として描かれたようなものだったが、どれも絵の中心辺り、つまり本来ならば見せ場となるであろう箇所にポッカリと奇妙な空間が空いている。あくまでも何らかの人物や動物などが主体で、村や森などは背景として描かれていたものが、特殊な修正で消されてしまったもののような違和感があった。更に、その画廊にはシンナーのようなツンとした匂いも漂っており、本能的にいち早く切り抜けて、奥に見える暗い緑色の扉へと辿り着きたい気分だった。あの扉こそ念願の"ゴール"だろうと、本能が僕に訴えかけている。一先ず、何かこの空間を刺激してしまっては怖いので、走り抜けたい気持ちをぐっと抑えこんで、なるべく音を立てないように一歩ずつ慎重に歩き始めた。シンナー臭は濃くなったり薄くなったりを一定間隔で繰り返したので、臭いの発生源は絵画であることが推測出来た。風景から人の消えてしまったようなそれら奇妙な絵画たちは、豪華な意匠の掘り込まれた金色の額縁が非常に美しい。それでいて、絵の前を通りかかる人を隙さえあらば掴みかかろうと、今にも中から人間の腕でも伸び出て来そうな不気味な雰囲気を漂わせている。不意に背中に強い視線を感じる気がしたが、振り向いたりはしないように気を付けた。音が聞えなくなるような緊張感と、軽い眩暈の両方に意識を苛まれながらも、なんとか例の暗い緑色のドアの前にまで到着し、僕はその小さめの丸いドアノブへゆっくり触れた。ちゃんとドアノブがあって良かったと、心の内で安堵しながら。手首に力を込めて慎重に捻ると、突然ガチャリと仕掛けでも作動したような音が響いた。しかも、その音はドアの部分が鳴っただけでなく、この画廊全体のあちこちから同時に聞こえたものであることを悟ると。「しまった」と直感する。背後でバタバタといくつものドアが開くような音が聞こえた。振り返ると、やはりそこには異様な光景が広がっていた。通り過ぎてきた絵画の全ては、額縁ごと開く扉のような造りとなっていたようで、すべての額面が開かれていることで、絵の全てがちょうどこちらを向く形になっていた。教室で一斉に注目されてしまった生徒が受けるような威圧感を覚えつつも、僕はそのまま呆気に取られて硬直していると、続けざまに人間のあくびような声が鳴り響いた。一人、二人、三人、四人…最初に聞こえてきた数回は男性らしい声のあくびだったが、後から女性のものも混じり始めた。次々と鳴るあくびの声が、まるで音楽の演奏かのように重なり合い、画廊中に響く。そして、彼らは開いた絵画の中の空洞から続々と這い出てきた。合計で十人。それぞれ首が異様な方向へ伸びたりねじ曲がったりしている。あくびの声は相変わらず少しも止む気配が無く、むしろ先ほどよりもその"演奏"は激しさを増している。それぞれの異形の人々はようやく状況を理解したように、目をぱちくりさせたり頭を軽く振って揺らしたりして、今度はそれぞれ別の方向を向いてをふらふらと歩き始めた。皆、社会の教科書などの挿絵で見覚えがあるような、いかにも西洋の農民というような服装をしていた。首に関しては斜め上へ向かって通常の人間の五倍程伸びて居たり、真後ろに反り返ってアンコウの触手のような格好になっていたりと様々であるが、これといって出血やケガをしている様子もなく、もとからこのような首の生え方をしていることを思わせた。10人も居て、更にみんなそれぞれ変な方を向いているにも関わらず、お互いにぶつかったり転んだりする気配はないので、彼らにとってはやはりあれが自然な状態なのかも知れない。幸いにも僕のことを特段気にしているような様子はなかった。気付いていても興味がないのかも知れないし、とにかく向こうから近づいてくる気配がないことがありがたい限りだ。異様な相貌の舞踏会を、連発するあくびの合唱と共に繰り広げている。眺めているうちにだんだんと恐ろしい気持ちが高まってきて、彼らが僕のことを気にかけていないことを改めて確認した後、暗い緑色の扉に向き直って、再びドアノブを回してみる。おかしなことにドアノブは最後まで回りきるのだが、ドアの方はびくともしない。相変わらず彼らはあくびを連発しているし、個体によってはそれぞれ手を繋いだりしはじめていた。あくびの声の振動数に同調してか、画廊全体が微かに震え続けていることにも気が付いて、そんなことで僕の焦りは増長してきていた。いっそのことドアを蹴破ってしてしまおうと思ったが、もし破れずに大きな物音だけが発生して、遂に僕に関心を向けられてしまったらと想像して、すぐに思いとどまった。もしかするとこのドアノブは偽物なのかもしれない。そんな懐疑を口に含んで扉の隅々までを見回していると、いやらしいことに床のスレスレくらいまで下の方に、一か所だけ発色が僅かに薄い部分があることに気が付いた。屈みこんでよく観察してみる、とその薄緑の箇所は、先ほど見てきた廊下の壁紙のシカ模様と全く同じ形で色褪せてあり、ひらめいた僕は極力冷静さを保つよう気を付けつつ、ポケットに手を突っ込んだ。先ほど手に入れた"シカ"の感触が確かにある。嬉しくて堪らなくなった。すぐにそれを取り出して、一瞥する間もなく扉の一か所に押し当てると、シカはまるで底なし沼に金属のスプーンでも沈む光景のようにしっとりと飲み込まれいった。次の瞬間、扉全体が熟れたように真っ赤に染まり、リンゴ似た強烈な甘い香りを放ち始める。「大変だ! もうすぐリンゴのシーズンじゃないか!」先ほどまで呑気に、いや狂気的にあくびを連発しながら歩き回っていた異様な首の人々の内の一人が突如そう叫び出し、その動乱は瞬く間に他の個体にも伝播していった。みんな慌てるように両手をぶんぶん出鱈目な方向へ振り回しながら、同時に首さえも慌てる虫の触手のように振り乱しながら、各自方々に散り始めた、そうして自分たちが出てきた絵画の扉に向き合い、少し辛そうに身を押し入れては、バタンッと音が響くほど乱暴に閉じて、そうすることによって、絵そのものにもまるで液体が垂らされるように内容が描き足されているようだった。やはり絵の中が彼らの本来の居場所なのだろうか。一番ノロマだったらしい、首が真後ろにねじ曲がっている個体が絵の中に納まりきる頃には、先ほどまでの光景が夢か幻だったかのように画廊全体がシンと静まり返った。自分の鼓動さえも聞こえるほどに。農家、林檎、欠伸、収穫…。僕は茫然として一連の出来事を頭の中で反芻しているうちに、それぞれ支離滅裂に思える事象は少なからず関連性を持っているような気がしてきて、ちょっと感心したりもしてした。折角なので消えていた人々が現れ、恐らくは本来の姿へと戻っているであろう絵を間近でこの目で確認しておきたいと思った。そうやってあえて留まることで余計な"イベント"が追加される恐れがあることは重々承知の上で、どうしても好奇心に抗えなくなったのだ。


 視界に映った絵画たちの中に追加されていたのは、予想に反して人物の姿ではなく、沢山の蔦や蔓をその身に纏って、うねり狂うように伸びている古びた大木の姿であった。その枝先にはまだ小さく青い沢山のリンゴの粒を実らせてもいる。そしてそのいずれの絵画にも、背景の奥の方には、こちらを向いた一匹のシカの姿があった。まるで隠されるように描かれており、その姿はごく小さいながらも、シカの鋭く透過するような眼光によって、どの絵の中からもすぐに見付け出すことが出来た。こういうものをあんまり凝視を続けていると、今度は絵の中の光景が動き出しそうな恐怖が湧いてきたのだ、僕は本来の目的を思い出し、かつて緑色だったのが今や真っ赤に熟れてしまったドアの前へと戻った。相変わらず強烈なリンゴ香りを放っている。濃すぎる匂いはもはや口内の鼻腔を通じて味覚の領域まで到達するらしく、"味がした"。再びドアノブに手を掛けると今度はさっきよりも回る感触に重みがあることがわかった。期待通りに扉は開く。手の甲でうっかり触れてしまった部分の感触が妙にヌルヌルしていたので、やはりあの扉の正体はリンゴだったのだろうと腑に落ちる感覚があって、何故かそのことに達成感を覚えている自分のことが、我ながら奇妙だとも思った。




-終-

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