0. 金曜日の憂鬱
小刻みな振動音がなる。
集中していた意識が強制的に引き戻される。
発生源は、デスクに置いていある自分のスマートフォンだろう。
「またか……。よくもまぁ、男には簡単に飽きるくせに、恋愛という行為自体には飽きないもんなんだな、女という生き物は」
誰に言うでもなく、本日六杯目のコーヒーで苦味しか感じない口で、一人ごちる。
平日の夜、自分以外誰もいなくなったオフィスの中。
エンジニアチームの他の人間は全員帰した。なんせ「働き方改革」とかいうお題目をウェブサイトと株主にしっかりと掲げている会社だ。
超過動労をする権利があるのは、タイムカードを付けない経営役の人間だけである。
裏を向けて置いてあったスマホの画面を見ると、通知欄には
『お誘いありがとうございます。ぜひお会いしたいです。次の日曜日、白金高輪あたりのカフェはいかがですか?』
というメッセージが踊っていた。
今週の貴重な週末も、どうやら特別出勤となるらしい。
女性が嫌いというわけではないが、論理よりも情動の執行力が高いのはいただけない。
コミュニケーションとは、相互に誤解なく、嫌悪感を抱かせず、円滑かつ構造的に行うべきだ。冷めたコーヒーがまだ半分ほど残ったマグカップを片付けて帰り支度をしながら、そう考える。
しかし、ビジネスにおいては正論であるそれは、こと恋愛になった途端その有効性が水に濡れた薄紙のごとくもろいものだとはよくよく分かっている。
部下の女性に仕事上のコミュニケーションをとるときでさえそうなのだ。
しかし彼、今絶賛話題となっているマッチングアプリサービスを運営する、ベンチャー企業の最高技術責任者である色見 祐一郎は、先月から同社の代表より新しいミッションを言い渡されていた。
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「先月より女性会員の増加率が減少している。これは危機だぞ、色見」
恵比寿にオフィスを構える、今や目覚ましい成長を見せているスタートアップの経営会議。
今日の会議は、「ユーザーの成長率をいかに目標水準に戻すか」ということが主題だった。
代表取締役である加瀬 豪は、彼の口癖である「これは危機だぞ、色見」というフレーズでここ三ヶ月ほど最優先課題となっているテーマを強調する。
「わかってるよ、豪。どうせ競合のPRが盛んだから、うちの女性会員がリプレイスされてるって言うんだろ?SNS広告予算を今月頭に少し増やしているから、そっちの反応を見てからでも次の施策は遅くないだろう」
「何を悠長なことを。この減少傾向は今にはじまったことじゃない。勿論他社の方が広告予算は消費しているが、俺は根本的なことは別にあると考えている」
常日頃からスーツ姿を崩さない加瀬は、今日も内側にベストを着た濃紺で白いストライプが縦に走るフォーマルな装いだった。
ウイングチップの革靴をコツコツと鳴らして、プロジェクターで資料が投影された壁へ向かって歩く。
「ユーザビリティだ。俺たちのアプリ、”Wink”は女性ユーザー層にとって、理想的な体験を提供できていないのが大きな問題だ」
「その解決のために二ヶ月前に雇ったユーザー体験を設計するデザイナーも、最初は息巻いてたくせに結果が出せずに今月辞めていったからな」
我が社の恋活支援マッチングサービス、「Wink」は1年前、豪と僕で立ち上げたサービスだ。もともとは大学時代に同じサークルに所属し、在学中に起業したりと色々馬鹿をやった仲だった。
卒業後はそれぞれの別の道を選択し、数年間疎遠になっていたが、二年前に彼からのメッセージで再開を果たした。
豪からの話は率直に言うと、お互い成長した力で改めてチャレンジしてみたいというものだった。
豪の方は一度別の会社を創業したらしいがそれはうまく行かなかったようで、そのときは知人の会社の取締役をやっているらしかった。
学生時代から数年、我ながら地獄のようだったと振り返る環境で開発力を積み上げてきた。その力を、存分に気兼ねない仲間とまた振るえるというのはささやか以上に心が踊った。
それから少しずつ準備を重ね、ちょうど一年前にリリースした我らのサービスは瞬く間に競合サービスを抜き去り、現在は国内シェアトップへと躍り出た。
現在は「恋愛マッチングサービスの寵児」と世間からはもてはやされ、代表の豪はひっきりなしにインタビューや講演などの予定が入っている。
つまり実質的な開発責任者は現在、色見こと僕だけなのだが、いま現在まさにリリース以降最難関とも言える課題にぶつかっていた。
「あぁ、彼はかの有名な外資の検索プラットフォーム会社でUXデザイナーを勤めていたということで雇ってみたが、現場ではうまく成果が出せなかったみたいだな」
「彼が上げてくる分析レポートは、どれも僕が半年以上前に検証して、技術実現性を考慮し開発スケジュールに組み込んだものばかりだった。
彼は仕様書すらまともに読めなかったせいで、無駄なリサーチと提案ばかりでとてもじゃないけど投資対効果がいい人材とは言えなかった。採用の件は豪に一任してるけど、そのへんもっといい奴を採ってきてほしい。頼むよ」
「それに関しては名案がある」
シャツの手首のボタンを弄る癖をしながら、加瀬がこちらに身体を向けて言う。
彼が断言するときの癖だ。
「君がユーザーリサーチとインタビューをすればいいんだよ、色見」
「へ?」
「インタビューというより、実際にアプリを使ってもらってのユーザー調査、つまりデートだな。できるだけ色んな女性に会ってほしい。経費としてデート費用は基本的に全額出そう。あと、女性ユーザーと一線を越えるのだけは控えてくれ。責任を取ってくれるんなら最悪いいんだが、万が一どんなトラブルに発展するとも分からないからな」
「おい待て。僕はちっともよくないぞ。なんだそれ、女性ユーザーと手当たり次第に仲良くなってこいってことか」
「そうだな、端的にいうと、その通りだ」
良い結論が出た、これで今日の会議は終わりだ、とばかりに加瀬はプロジェクターの電源を落とし、コンセントを抜いてコードをテキパキとたたみ始める。
「待て。ちょっと待ってくれ。冗談だろう。僕は開発チームのマネジメントで時間が無い。これ以上のタスク超過は、ブラック作業もドン引きするほどのドス黒さになるぜ」
「冗談なものか。俺だって次の資金調達で予定がカツカツだ。それに現在開発チームは二名ほど優秀なメンバーをディレクターにちょうど据えたところだろう。少し調整すれば色見の手は空けられるはずだ」
確かに、豪が採用してくれた中途エンジニアの二名、藤田と巻上というメンバーは若手ながら成長めざましく、それぞれ五名前後からなる開発チームを任せるに足る人材へと成長していた。
「というわけで、頼んだ。色見、君がユーザビリティ向上のプロジェクトを引き受けてくれるなら、俺も一安心だ」
「いや、待ってくれ。こうしよう、僕が資金調達のプロジェクトを引き受けよう。前の会社で担当したこともある。ユーザー調査のプロジェクトについては、豪がやってほしい。豪の方が女性の扱いは手慣れているはずだろ?」
豪は普段からビシッとしたフォーマルな服装を貫いているが、格好や容姿もスタイリッシュで、友人かつ同僚の僕が言うのもなんだがハンサムだ。
華々しい、人の前に立つ男としてのオーラをまとっている。学生時代からその傾向はあったが、ビジネスマンとして海千山千の先達と闘っていくうちに、発散されるその魅力には磨きがかかったらしい。
ビジネス誌にも「恋人にしたいイケメン社長10選」なんかの特集にはほぼ選ばれるほどで、若い女の子は彼の前に立つとだいたいが目にハートを浮かべている。
「確かに女子との付き合いで困ったことは無い。だが、今回はそれが都合が悪いんだ。正直、恋愛について葛藤したことが無いから、女性の恋愛についての葛藤もおそらく共感できない。
本当にサービスのことを考えるなら、恋愛のどういうことに悩み、苦しみ、やるせなさを感じ、それでも男女のつながりを求めようとする女性心理というものを深く理解する必要がある。それをアプリの機能にも反映させるべきだ」
おそらく、僕が強く反対することを見越していたんだろう。
理路整然と説明されると、その理屈が正しいほど僕が反論できないことを彼はよく分かっている。
「……多分、これはこれ以上反論してもダメなやつだな」
「分かってくれて嬉しいよ。来週から色見には技術責任者とユーザー体験責任者を兼務してほしい。ユーザー体験設計室を新設しよう。必要なチームメンバーがいたら社内で見繕っておいてくれ。それじゃあ、俺は会食に行ってくるよ」
そう言い、加瀬は足早に会議室を出ていく。
「マジか……。女性とのデートなんて何年ぶりだよ……」
次の休みにはとりあえず、デートに着ていけるような服を買いに行かないといけない。
疲れた頭でもやるべきタスクを優先度をつけて整理をする癖がついた頭で、ファストファッションの安物しか無い自宅のクローゼットの中身を思い浮かべる。
起業してから仕事のことしか考えてこず、恋愛経験の針が三年前で止まった色見祐一郎の、様々な女性の掌の上で転がされる日々が始まった。
思いつき、突発的に書き始めました。
続きが気になる方が多いようでしたら、ちょくちょく書き進めていこうと思います。