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この家は崖の裂け目に建てられており、崩れてしまえば命はないので、古びてしまった家全体をきれいに修繕するのに俺は賛成だった。でも星空はそうではないようで、梟がやってくると不機嫌になった。
「わたしたちの家なのに」押入れから星空の声がする。「呼んでも誰も来なかったくせに」
星空はにおいが出ないよう、梟が来ると布団と一緒に寝室の押入れの中に入った。『ドラえもん』のような感じ。星空の“におい”はふつうのにおいとは違い、ものに染み付いたり、空気にとどまったりはしないようだった。星空が密室に入れば、それでこの家の“におい”も感じなくなるらしい。
梟は集中しているのかいないのか、ぼんやりとした所作で、しかし流れるように作業を進めていた。
「もしかして、この家はあなたが?」作業が一段落したらしいところで声をかけた。
「まあね。誰かが住むとは思ってなかったけど」こちらは見ずにそう言った。「ここは見張り台だったんだ。荒れ地から街へ攻め込むには湖を渡るのがいちばんいいから。でも」梟が顔を上げた。銀色の耳飾りがちらと光った。
「鬼には戦争ができないとわかって放棄された。ものを所有できないから争うこともできないんだ、私達は」
「あなたの渇望は、どういう?」
言ってから、もしかしたらこういうことを聞くのは失礼なのかもしれないと思い、
「聞いても大丈夫ですか?」と言葉を足した。
「眠ること」
大工道具を、点検するように指で撫でる。
「私はどんなに眠くても眠れないんだ。監視役にはぴったりだろ」
俺はなんて言っていいか分からなかった。
俺がもじもじと黙っていると、
「そんなに重くとらないでいいよ。いい加減、慣れた。もう、今さら眠りたいとも思わない。どちらかと言えば」一旦言葉を切り、はじめて会ったときのような猛禽の目で俺を見た。「どちらかと言えば、眠ってしまう事の方が恐ろしい」
やはり欲を満たすことができる俺は、一概に鬼にとって良い存在というわけではないようだった。星空がやさしく俺を求めてくれて、俺に居場所をくれたことのあたたかみが胸にじわりと広がる。
「今日はいい日和だね。籠の鳥を外へ出してあげたら? 湖の方なら、ここから見えるからさ」
梟がそう言ってあごで押入れの方を指した。押入れの戸がすこし開き、星空がこちらをじっ……と見つめていた。
「楽しそうにお話してるから、気になって……」星空が言う。俺と星空は、出かけるときにはどちらからともなく手を繋いだ。星空は今日、片側だけ髪を耳にかけていた。手を繋いだとき、俺から見える側を。つやのある黒髪とのコントラストで、かたちのいい耳がよく見えた。鬼の耳はエルフ耳のように尖っているのかと思っていたけど、人間とかわらない耳だった。
俺が彼女の耳をじろじろ観察していると、
「やっぱり耳が好きなの?」と彼女が聞いた。
「え?」
「眠そうな大きい人の耳、よく見てるから。耳を見るのが好きなのかな、と思って」
「見てたかな?」
「見てたよ。見てたの、見てたよ」
そう言われれば、見ていたかもしれなかった。きれいな指や耳は、つい目で追ってしまう。
「耳飾りもあったほうがいい?」
「そのままがいい」
俺は痛いのは無理なので、彼女が耳に穴を空けるところは想像したくなかった。
「うん、わかった」
にっこりとほほえんで彼女は言った。耳を出している髪形は、彼女によく似合っていた。
湖のあたりにやってきた。前に来たときは夜だったので分からなかったが、遺跡のような建造物には凝った意匠が彫られていた。多くは鬼が拷問に遭っているだとか、角の折れた鬼が仏のような何かにひれ伏しているだとか、そういった図案だった。
「この世界には神さまがいるの?」
「昔はいたみたい。でもある日どこかにいっちゃって、それきりなんだって」
すっかり崩れて、『ベルリンの壁』のように壁だけが残っている遺跡に近付き、彼女は図案を指さしていく。
「責め苦に遭っている鬼は今の苦しんでいる私達。こっちは神さまに帰ってきてくださいとお願いしてる鬼たち。でもどんなにお願いしても、遺跡を建てても、神さまは帰ってこなかったんだって。それが私達に伝わってるお話。遺跡はね、もともとは神さまのためのおうちだったんだって」
俺は鬼の街や温泉のことを思い出した。神さまが住まうために作られた、と言われると確かに納得感がある。
「ほんとかどうかは分からないけどね、おとぎ話みたいなものだから」
彼女は壁にくるっと背を向けると、
「神さまなんていなくても、わたしにはあなたがいるもんね」と、とてもうれしそうに言った。
その日の夜、布団の中でいつものようにすり寄ってくる彼女に、俺はお礼がしたいと思った。こちらから彼女を抱き寄せるだとか、そういう彼女が喜んでくれそうな事をいつも考えはするのだが、いざとなると体が固まってしまって何もできなかった。
「あの」と、どうにか声に出した。沈黙を破るだけでも、俺には一苦労だった。
「なあに?」彼女の動きがぴたっと止まり、すこし不安そうに言った。
彼女の顔が鼻先まで近づいてくる。花のような匂い。キンモクセイやクチナシに似た芳香。俺の体は、また全身石になろうとしていた。
「えっと。ありがとう、俺を、受け入れてくれて」どうにか絞り出すようにぼそぼそと言う。顔が熱い。
彼女はきょとんと目を見開いてから、にまーっと笑い、
「へんなの。受け入れてくれてるのは、あなたの方なのに」
と言って、布団の中で俺の手に指を絡めた。
そして、「どういたしまして」と、俺の耳元でささやいた。
俺はその後金縛りのような状態のまま、なかなか眠りにつくことができなかった。