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 星を見たあと。

 いつもは家の湧き水を使って身体を洗うのだが、その日は身体が冷えていたから、あたたかいお湯に入ろうということになった。

 湖から、家のある崖のほうへ少し歩いた場所、崩れた遺跡のうちのひとつ、その中が温泉になっているようだった。トレビの泉をパルテノン神殿の中に入れて、四畳半くらいの大きさにしてぼろぼろにして、石像をお地蔵さんのような何かに変えたといった感じだった。ここに身体を入れるのは、なんだか罰当たりなことのような気がした。

 彼女が何時間ぶりかようやく手をほどき、服を脱ぎ始めたので、俺は後ろを向いた。すると彼女は回り込んできた。やさしい表情だった。

 それから色々とあって、俺は彼女が服を着るのに使っていた帯で目隠しをされ、服を脱がされ、手をひかれて湯に入り、からだをこすられていた。すこしぬるぬるとしたお湯だった。

 目隠しをして風呂に入るのは初めてだった。女の子と一緒にお風呂に入るのも初めてだった。こちらから見えていないと、向こうからも見えていないんじゃないかという気になるが、当然そんなことはない。もしかしたら彼女は俺の裸をガン見していたのかもしれないし、一緒にゆっくりお湯につかって、星でも見ているのかもしれなかった。


 家へ戻るあいだ、身体はずっとぽかぽかだった。そういうお湯なのだろう。ぬるぬるがそういう効果のぬるぬるなのかもしれない。湖からは家が見えたが、直接登る道はない。家のある崖のなだらかな側から回って、遠回りをして帰ることになる。ひと駅分くらい歩くことになるのだが、その間もずっと守られているようにあたたかかった。


 こういう日の夜にはカップルたちは同じ布団に一緒に入り、あそこは楽しかったね、どこどこはどうだったね、などとロマンチックに語らうのかもしれないけど、俺は本当に歩き疲れてクタクタだったので、そのままぶっ倒れるように寝てしまった。


 翌日、俺と彼女は例の鬼の街へとやってきていた。寝室の床板が割れて抜けてしまったからだ。いつ抜けても不思議のない床ではあったが、もしかしたら彼女が、眠っている俺に床が抜けるようなことをしたのかもしれなかった。人間の俺が鬼の街へついていってもいいのかと聞くと、一緒じゃないと誰かに持っていかれちゃう、と言われた。


 木を切り倒してスライスし、形をととのえるのには当然専用の設備が必要だった。まずは木材用の木が生えているらしい、不思議な匂いの森へと向かった。うすく霧が出ていた。そこは切り株だらけで、そのうちのひとつに大ぶりの斧が刺さっていた。鬼はものを所有しないらしいから、すべてのものはこうして共有物のようになっているのかもしれなかった。首尾よく木を切り倒してちょうどいい長さに整え、軽々と担ぐ彼女を見ていると、それはすごく簡単な作業にも見えた。試しに斧を持とうとしてみたが、俺には持ち上げることもできなかった。当たり前のことだが、この世界のものはすべて鬼用に作られているようだった。

 その丸太の樹皮をはぎ、スライスして板材にするために俺達は街へ来たというわけだった。『マインクラフト』のようにはいかない。


 街は、崖を掘って作られた大きな寺院や遺跡といった感じだった。家の周りの遺跡との大きな違いは、食べ物の匂いや人の気配、そして灯りがあることだった。俺はこの世界に来てからはじめてランプを見た。まだ昼間ではあったが、街の奥は薄暗く、人々はランプをつけて作業――読書や料理や裁縫といった作業――を行っていた。遺跡の大きさに比べて、人口はさほど多くはないようだった。

 街の人々は俺に興味があるようだったが、近づいてはこなかった。嫌な距離感だった。もしかしたら俺ではなくて彼女と距離をとっているのかもしれなかったが、どちらにしろいい気持ちでないのは同じことだった。

 彼女が木材を加工している間、俺は手持ち無沙汰だった。加工のための機構は人力で、ハンドルを回すとのこぎりが動いて丸太をスライスしていくようだ。ハンドルは壊れているのではないかと思うほど固かった。彼女ですらこのハンドルを回すのは重労働のようだった。

「手伝おうか」

 と、加工場の入口の方で声がした。女性のものしては低めの、かっこいいよく通る声だった。

「においでここだって分かった」

 加工場は外より暗いので、入口に立つ彼女の姿はよく見えなかった。背が高く、ツノは立派だった。

 におうからなのか、彼女はそれ以上はこちらへ入ってこなかった。

「きみが人間を連れてるって話になってる。そっちの坊やがそうなのかな」じろりと俺を見た。眠たそうな目。切れ長の、猛禽のような目。

 俺と入口に立つ彼女の間を遮るように立って、「このひとは、今、わたしが使ってます」と、彼女が言った。

 ややこしいので、便宜上、俺の隣の彼女を「星空(ほしぞら)」、入口に立っている彼女を「(ふくろう)」と心の中で呼ぶことにした。

「このひとは、今、わたしが使ってます」と、星空が言った。

「少し順番を代わってくれるだけでいい。そうすれば材木の加工くらい私がやっておく」

 梟はそう言って、俺と星空をゆっくり交互に見た。どうやら所有するということができない鬼たちの間では、使用中のものは共有物ではなくなって手出ししないという取り決めらしかった。

「このひとをどうするんですか?」と星空。

「離れたくないなら一緒に行けばいい、私は人間を連れてくるよう言われただけだから。よく食べる赤い人のとこへ行ってくれ」と梟。

 俺は、星空がこの街で今よりも肩身が狭くなるのは嫌だった。だから「いいよ、行こう」と言った。

 俺達が部屋をでるのと入れ違いに梟が中へ入っていった。梟は俺よりあたまひとつ以上背が高く、ウェーブのかかった短めの茶髪、耳には何かの植物を象っているような、シンプルで大ぶりなピアスをしていた。女性らしいきれいな耳だった。


 よく食べる赤い人は、本当によく食べる赤い人だった。玉座、としか言いようのない椅子にだらしなく腰をおろしている。鮮やかな赤の長い長い髪に、同じ色の高圧的な目。長いまつげ。黒い巻きヅノは片方が折れており、その断面は宝石のように赤く輝いていた。長めに伸びているがきれいに手入れされている爪で、目の前の大きな丸テーブルからときどき食べ物をつまむ。肉、海鮮、フルーツ。街へ来たとき感じた食べ物の匂いは、ここから来ていたのかもしれない。この人を「柘榴(ざくろ)」と呼ぶことにする。

「その坊や人間って本当ぉ? ちょっとよく見せてよぉ」と言い、柘榴が手招きをする。俺が前に出ていくと、彼女はべたついた手で俺の頭を撫で回した。「なるほどねぇ〜」

 俺はぼさぼさにされた頭で星空のもとへと戻る。

「てっとりばやく話をするとぉ、その坊やは街で管理してみんなの共有物にしたほうがみんなハッピーなんじゃないかと思うのさぁ」間延びした気だるそうな喋り方に反して、聡明な印象を受ける。

「きみ一人で管理してて“海”とか“荒れ地”の連中に坊やをとられたらぁ、きみだってヤじゃんかぁ? 街にあずけてくれたら皆も坊やを使えるしぃ、守ることもできるしぃ。順番はきみの優先でいいからさぁ、どぉ?」

 彼女は黙っていた。言いたいことはあるけれど、それを言うことができないといった風だった。あたりを取り囲む見物人たちのひそひそ声だけが耳に聞こえた。星空は、この提案を飲むしかない立場であるようだった。

 息苦しい時間が流れた。

 多分、柘榴の言うやり方が、街にとっても星空にとっても、俺にとっても、いちばん騒ぎがなく丸く収まるのだろうと思った。ただ、柘榴には見落としていることがあった。それは俺自身が星空のそばにいることを望んでいるということだった。

「俺は」と、口を開いたが、部屋がひろすぎて蟻のひとりごとくらいにしか響かなかったので、「俺は」と、もう一度言い直した。

「俺は彼女のそばにいたいんです」

 そう言って星空の手をとった。彼女の手は珍しく冷たかった。

 あたりは静かになった。ひそひそ声も止んだ。

 柘榴は頬杖をついて俺をじっと見つめていたが、遠巻きに成り行きをうかがっていた周りの鬼たちをきょろきょろと見やって、

「だってさ」

 と、大きな声で言った。

 それでこの裁判は終わった。


 あのべたべたくっついてくる臭い奴が、人間を見せびらかしに来たのだと、そういうことになっていたそうだ。こうしていちおう何事もなく街と折り合いをつけられたのは幸運だったのかもしれない。

 加工場に戻る頃には梟が木材の加工をすっかり終えていた。木材はぴかぴかだった。梟は柘榴のところへ寄ったのち、俺達について家までやってきた。梟を星空の家のあたりに置いて、悪い鬼に俺がとられないように、そして星空が俺を損なわないよう見張らせる。かわりに、梟には星空の家のリフォームなどを手伝わせる。というのが柘榴の判断らしかった。

 もしかしたら、柘榴は最初からこういう形に落ち着けるつもりでいたのかもしれない。だとしたら、星空と同じように満たされない飢えに苦しみ、俺がそれを満たせるかもしれないと知ってなお、俺を見逃してくれたということになる。思い返せば、柘榴が星空にした“断れない提案”も、けしてひどいものではなかった。べたべたの手で触るのはやめてほしかったが、彼女は風体のわりにいい鬼なのかもしれなかった。

 梟が言うには、柘榴はちょっとこういう判断に長けているというだけで、事あるごとに皆から相談を受け、気がついたときには長老のような立場になっていた、普通の女の子なのだそうだ。


「なかなか使い込んでるね。少しずつ直していこう」

 我が家を見た梟は言った。オブラートに包んだ言い方というやつだった。

「床の穴だけでいいのに」と、星空が小声で言う。

 梟は聞こえないフリをして、反り返った壁板のささくれを指ではじいていた。そんなふうには見えないが、彼女も何かの欲に苦しんでいるのなら、なにもせずにただ見張るよりは、何か作業をしていたほうが気が紛れるのかもしれなかった。

「崖の下に温泉があるんだ」と、俺は言った。「はしごか何か、簡単に降りられる道があると嬉しいんだけど」

 星空がこっちを見たようだった。ちょっと睨んでいたかもしれない。

 梟は目を細めてこちらにやさしい視線を投げ、「考えておくよ」と言った。


 その夜、床の直った寝室で、星空はたっぷりと甘えてきた。俺はぎゅっと目を瞑って硬直していた。梟はとてもいい腕で、床はもう軋まなかった。

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