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石の階段をおりる足音がする。彼女が外から帰ってきたようだ。土間のドアを開くとき、少し緊張しているのがわかる。ゆっくりとドアを開けてうかがうように中を覗き込み、俺がいるのを確認するとほっとしたように明るい顔になる。
「ただいま」
「おかえり」
「今日は、揚げ茄子にするね」
そう言うと、てきぱきと料理をはじめる。食事は日に1度か2度で、お腹が空いたときに食べた。眠くなったら眠り、眠くなくなったら起きた。ここには時計がないので、時間までなくなってしまったみたいだった。もともと不規則な生活をしていたのもあって、そんな暮らしもなかなか快適だった。
ただ、あれから数日経つがまだ一度も外へは出ていなかった。外廊下へ出て世界遺産ばりの風景を眺めるのも楽しかったが、外を見ていると彼女が心配そうな顔をするのでやめてしまった。
最初の夜は彼女が満たされるために抱きついてきたというふうだったが、今は俺がどこかへ消えてしまうのではないかという不安からなのか、あの日よりもつらそうな顔で、あの日よりもきつく抱きしめてくるようになった。俺はあの日と同じくされるがままになっている。
もとの世界へ帰りたいという気持ちもないではなかった。読んでいた漫画の新刊、やっていたソシャゲのアップデート。それにもちろん家族や友達のことも気にかかった。だが、もとの世界へ帰る方法があるのかそれもすらもわからないが、もしもそんな方法があるとして、それを調べることが彼女を大きく傷つけるだろうことは想像に難くなかった。
俺は元いた世界と彼女とを天秤にかけて、どちらかを選ばなくてはいけないらしかった。
「外に出たいんだけど」揚げ茄子を食べ終わると、俺は彼女にそう言った。彼女はフリーズした。
「ここは綺麗だから、あたりを見て回りたくて。それだけだよ」
「……うん、ずっとお家にいるのも、退屈だもんね」
そう言うと、生活用品の入った棚から布の包みを取り出した。俺の靴だった。彼女が俺の靴を隠していたわけだ。でも俺はそれを知っていたし、実は靴がそこにあることも知っていた。
靴はきれいに洗ってあった。この靴はお気に入りで、なかなか手に入らないスニーカーだ。ネットの抽選に当たってやっと買えた。こつこつ貯めていたバイト代が消し飛ぶほどの値段だった。だからまたこの靴が履けてうれしかった。
彼女はこの靴を崖から放り捨てることだってできたはずだ(もしかしたら鬼は靴を捨てられないのかもしれないけど)。でもそうしなかった。きれいに洗って布でくるんでとっておいた。彼女はこの靴を洗いながら、どんなことを考えていたんだろう?
「案内してくれる? 迷子になって帰ってこれないと、困るから」
しょんぼりと土間のあたりに座っていた彼女に声をかける。彼女ははじかれたように顔を上げ、簡素な靴をうれしそうに履いた。ついてくるつもりはなかったようだった。不思議なことだが、彼女はときどきこうして、俺がここを逃げ出せるようなチャンスを作る。食べ物を取りにいくのも、きっと意図的に家を空けている。俺がもしここを出たいのなら、それを止めることはしたくない、といったふうだった。そして、それは彼女のやさしいこころから行なわれる行為というよりは、彼女のこころに深く刻まれたつらい傷がさせている行為に思えた。
家を出たとき、俺は彼女の手を持った。思えば、俺の方から彼女に触れたのはこれが初めてだった。
彼女はつないだ手を見やってから、俺の目を見つめる。
「離ればなれにならないように」
俺は目を逸らしてぼそぼそと言った。相手が喜ぶだろうことはなんとなく察せるが、それでも恥ずかしかったし、いや〜そういうのはちょっと、と断られたら厳しいので、顔は見られなかった。
彼女は指を絡めてきた。恋人つなぎというやつになった。やわらかくて熱い手。俺は最初にここで目覚めたときのことを思い出していた。
いろいろな所を回った。
キジのような鳥の群生地。それらは飛ぶ能力を有しているにもかかわらず、近づいても飛ぼうとはしない。俺達から逃げようとさえしなかった。都会の鳩のようだ。
「とるのが難しいと、狩りをして欲が満たされるから、逃げないんだよ」
彼女がそう教えてくれた。確かに逃げもしない無抵抗な鳥を殺しても楽しくはないだろう。
豊かな森。家の周りの明るい森とは違う、むわっとした森だった。キノコやきのみがたくさん落ちていた。小ぶりなりんごのような実があったので取って食べてみると、舌がしびれるくらい苦かった。
「それは、塗り薬の材料になるんだよ」
彼女はそう言って笑ったあと、食べられるきのみを教えてくれた。巨大などんぐりのような実で、かたい殻の中に甘いペーストが入っている。指ですくって二人で食べ、沢で手を洗った。彼女がつないだ手を離そうとしないので、お互いのあいている手をこすりあった。
なだらかな崖地。美しい夕焼けの中に、家から見えるのとはまた違う巨大な遺跡のような建築群が目に入った。そこには他の鬼たちが暮らしている街があるのだそうだ。彼女は臭いのせいでそこでは暮らせないが、たまにお店に行くのだという。
「お店? 何があるの?」
「布とか、木材とか、いろいろ。でも、鬼はものを所有できないから、あなたの思うような感じの“お店”じゃないかも」
彼女は夕日に照らされた街を、目をほそめて見つめていた。彼女の家や服の古びようから見て、彼女が街でのショッピングを楽しんでいないことは明白だった。俺が代わりに買い物に行けたらいいかもしれないし、人間は鬼の街には行かないほうがいいかもしれない。わからなかった。
湖。
俺が流れ着いたという湖についた頃には、あたりは暗くなってしまっていた。俺たちは歩き疲れて、いや、疲れていたのは俺だけだったが、とにかく湖のそばのちょうどいい石に腰掛けた。ちょうどいい石は、なにかの遺跡の、どこかの部分のようだった。あたりは冷たい風が吹いていたが、彼女の手は汗ばんでいた。確かめるようにときどき強くぎゅっと握られるのを感じていた。
湖面は鏡のように星空を映し、ところどころ沈んだ遺跡が顔を出していた。思っていたよりずっとずっと巨大な湖だった。
「家から湖の方を見ていたら、白いものが打ち上げられてるのが見えたの。あのあたり」
そう言って彼女はぬかるんだ浅瀬を指さした。ここから俺をあの家まで運んでくれたのか、と震える。逆の立場だったらどうにもできずに死なせていただろう。
沈黙。
冷たい風。
この世界はどうも暑いのか寒いのかわからなかった。快適に感じるときもあるし、凍えるほど寒く感じることもあった。
「それはきっと風のせいだよ」と彼女が言った。「この湖の水は凍りつくほど冷たいの。それが風にのって運ばれてくるんだよ。この世界はいつも冬の入口みたいな日和なの、とっても心細くなる」
沈黙。
彼女は星を見ていた。彼女の瞳が星に照らされてきらきらしているのを、俺は見ていた。
「ふたつとかみっつとか、集まっている星はいいね。星は場所が動かないから、ずっとずっと一緒でいられる」
足をぶらぶらさせながら、彼女が言う。
「でも、ひとりぼっちの星はずっとずっとひとりぼっちか」
そう言われ、俺も夜空を見上げた。夜空の星は、ほとんどがひとりぼっちだった。
「今日はとっても楽しかった。その靴」と言って、彼女の靴が俺の靴にこつんとあたる「隠しててごめんなさい」
「捨てることもできたのに」
「そんなこと、しない」ちょっと怒ったように彼女が言う。
「この靴、気に入ってるんだ。綺麗にしてくれてありがとう」
「どういたしまして」彼女は照れたように笑って、「いつか、あなたと一緒にお出かけできたらいいなって、洗いながら思ってたの。今日は、ほんとうにうれしかった」
彼女の手の汗はいつのまにか消えていた。冷えていく身体の中で、彼女と触れているてのひらだけが焚き火のようにぽつりとあたたかかった。
俺は彼女のうつむいた横顔を見つめていた。
俺はあまり欲のない人間だと思う。
小さい頃はなりたい自分もあったような気がする、絵がかけたら、歌がうまければ、楽器がひければ、そんなふうになりたいなと思ったりもしたけど、今ではそういうのはとても面倒に感じられた。昔はおもちゃが欲しくて駄々をこねたりしたこともあったが、今となってはそうまで強く心を動かされるほど何かを欲しいと思わなくなってしまった。適当に学校に行って、適当に曲を聞いて、適当にゲームをして。手の届く場所にあるものしか触らなくなってしまった。欲をなくして、主体性もなくした、流されるままの人生。
無欲は美徳とされるけど、自らの欲に振り回されて喜んだり苦しんだりしている彼女は素敵だった。この美しい世界で、ちょっと重たい鬼と暮らすのもいいと思った。
元いた世界。寒くない世界。漫画やアニメやゲームや動画のある楽しい世界。友達と家族のいる寂しくない世界。俺のいるべき世界。それを天秤に載せても、俺の中では彼女の圧勝だった。
「俺でいいなら」と、俺は言った。「君の隣にいるけど」
彼女はぼんやりとした表情で俺を見つめていた。うるんだ目はいつもにましてきらきらと輝いていて、ふたつ並んだ星のようだった。