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 目をさますと、女の子が俺の手を握っていた。指をからめるようにして両手を握っていた。女の子の手はとてもあたたかく、やけどするかと思ったほどだ。

「握り返して」と女の子が言った。

「わたしの手、握り返して。ゆっくりね。ゆっくりしないと、指がとれちゃう」

 俺は言われるままにゆっくりと手を握り返した。やわらかい手だった。

 俺の身体は寒がっているらしく、口も手も震えて止まらなかったが、とくに寒いとは感じなかった。なんなら暑いのか寒いのかもよくわからなかった。

「そのままゆっくり、ひらいたり、にぎったりして」

 言われるままに、ゆっくりと手を開き、また握る。数回繰り返すうちに手の感覚が戻ってくる。ひどい痛みだ。

「上手、上手」

 俺の手をみつめて、彼女はふわりと笑った。彼女の頭にはツノが生えていた。鬼のような2本のツノ。

 なんとなく、じろじろ見てはいけないような気がして視線を手もとに戻す。見ると俺の学校指定カーディガンのそでは泥まみれだった。泥はほとんどかわいてひび割れていた。

「湖であなたを見つけたの。あの湖はいろんな水がぜんぶ流れ込んでるから、どこかで()()()の水が混ざっちゃったんだね」

 やさしく握られた手からじわじわとあたたかさが広がって、身体の感覚がだんだん戻ってくる。バカみたいに痛い。あちこち痛みすぎて、どこがどういう原因で痛むのかはっきりわからないほどだ。

 俺が身をよじりながら顔をしかめているのを見て、彼女はそっと手を放し、そばにある棚から白い小さな焼き物の容器を持ってきた。中身はどうやら塗り薬らしかった。

「えっと、んん? むずかしい服を着てるんだね」

 俺の服をぎこちなく脱がせて、薬をアザや傷にやさしくすりこんでくれた。満身創痍の身ながら、かわいい女の子が服を脱がせて肌をやさしく撫でてくれていることにちょっと興奮していたが、それは本当に冗談じゃないくらい()みる薬だったので、俺は気を失ってしまった。


 俺の家の裏手には川が流れている。川というよりは大きな溝といった感じか。コンクリートで舗装された、幅2〜3メートルほどの川だ。

 毎日学校へ通うためにその川をこえなくてはならないのだが、ちゃんとした石橋を渡ってこえると遠回りになってしまう。

 そのあたりは田んぼが多く、農家の人が川の行き来を便利にするために、鉄骨だとか、大きな鉄の板のようなものを川にかけて橋にしている。トラクターがぎりぎり渡れるような簡素な橋だ。

 俺はいつもそれをわたって学校へ行き、家に帰っている。

 俺は大雨の日に滑って橋から落ちた。


 二度目の目覚め。身体の痛みはだいぶマシになっていた。薬が効いたのかもしれない。横を向くと、間近に例の女の子の寝顔があって驚いた。

 ここはどうやら寝室のようだった。布団は一組しかないらしく、俺を真ん中に寝かせて、添い寝するかたちで彼女が寝ていた。俺に場所を与えすぎたせいで、彼女のほっそりした足は布団から出てしまっていた。

 俺は彼女に布団をそっとかけ直してから体を起こし、うっすらと差しこむ月明かりであたりを見回した。こぢんまりとした簡素な部屋。4畳半ほどだろうか。きれいに掃除されているが、あちこちぼろぼろだった。壁の板材は反っていたし、すこし動くだけでたわむ床は今にも抜けそうだった。枕元には着替えがきれいに畳んで置いてある。彼女の着替えと、俺の着ていた制服だ。俺は今はバスローブのような浴衣のようなものを着ていた。寒い。布団を手でなでると、ちょうど頭がくるあたりだけ薄くなったりほつれたりしていた。きっとツノがこすれるせいだろう。

 ツノ。

 ふっと彼女のほうを見やると、大きな目がこちらを見つめ返してきた。俺はびっくりして固まった。

「めがさめた?」

「おかげさまで」俺はもごもごと返事をする。「ありがとう」もごもご。

「いま、出ていこうとしてたの?」

「え?」

 彼女はゆらっと起き上がると、布団を背負ったまま、夜這いでもかけるようにゆっくり俺の上へと重なってきた。

「かってに出ていっちゃ、やだ……」

 やさしくそう言って俺の身体を押し倒す。肩に打ち身があるらしく、押されると痛かった。でも俺の脳には、その痛みの信号を処理している余裕はなかった。かいだことのあるようなないような花の匂いがした。

 彼女は俺にのしかかるように抱きついてきた。しっかりとした重み。彼女のからだは本当に固体なのか疑うほどやわらかく、熱かった。女の子の匂いのする溶岩をかけられているみたいだった。

「こうしてると、とっても幸せ」みみもとで囁かれる。「それがわたしの渇望なの」

 かつぼう?

 彼女が顔を上げ、目が合った。あまりに顔が近いので、視界が彼女で埋め尽くされて目を逸らすことができなかった。うすい明かりの中でも、彼女の黄色い目は星のようにきらきらと光った。

「鬼は欲から生まれて、渇望を抱えて苦しみながら生きるの。ここは地獄なんだよ」

 鬼が俺のあたまを撫でる。いや、何かを探すようにまさぐっている。

「渇望は絶対に満たせない。ここにはまがいものしかないから……まがいものを食べても、まがいものを飲んでも、まがいものを抱いても、飢えは絶対に満たされない……やっぱりあなたにはツノがないんだね。ここに来るべきじゃないひとなんだ。かわいそうなひと。まがいものだらけの世界で、あなたはほんものなんだね」

 俺の頭を撫でていた手がするするとおりて、ほほをなぞる。

「あなたには鬼の渇望を満たせるんだ」

 俺は何もできなかった。体をすこしでも動かすと彼女のどこかを強く触れそうで身動きがとれなかった。満員電車で痴漢に間違われないように硬直している感じだ。そんなふうに微動だにせずにいた。もしかしたら今から童貞が奪われてしまうのかな……と少し期待したが、彼女はこうして寄り添っているだけで満足のようだった。

 しばらく時間が流れたのち、彼女は「いきてる?」と尋ねてきた。

「さっきから動かないけど、怖がらせちゃったのかな。わたしはこうしてるだけで幸せだから、あなたを食べたり襲ったりはしないよ」

 それは少し残念だな、と思った。食べたり襲ったりされてみたかった。

「あなたはわたしを“臭い”って言わないんだね。我慢してくれてるのかな? 他の人……他の鬼、には、わたしはとても臭うみたいなの。どれだけ身体を洗ってもだめだった。誰かに寄り添ったりできないように、そうなってるんだ。わたしの渇望が満たされないように」

 ぜんぜん臭くないし、なんなら頭がおかしくなりそうなくらい女の子のいい匂いがする。鬼にだけわかる臭いということだろうか。

「ねえ、どうしたの?」

 俺があまりにも微動だにしないので、不安そうな顔で彼女が顔を覗き込んできた。鼻と鼻が触れ合うほど顔が近い。

「……(くさ)い?」

 胸がしめつけられるような、おびえた声だった。今まで彼女がどんなふうに拒絶されてきたのかが、俺にも少しわかった気がした。

 彼女のために何か気の利いた返事をしたかったが、俺はさっきから洪水のように女の子成分を浴びせられてすっかり石と化してしまっていた。どうにか自分なりににっこりと、気持ちの悪いであろう笑顔をつくって、首を振るかわりに大きく数回まばたきをした。彼女の顔が近すぎて頭が動かせなかったからだ。すると彼女がお手本のような笑顔をつくって返してくれた。俺がやりたかったのはそれです、と言いたくなるような素敵な笑顔だった。そのまま彼女は俺にすり寄ってきた。彼女のツノが俺のこめかみのあたりをゴリゴリとこすったが、痛くはなかった。


 俺はそのままの状態で眠りについた。こんな状態で眠れるわけないだろと思っていたが、押し寄せるようなぬくもりに運ばれて深い深い眠りの淵まで流されてしまった。

 制服に着替えて寝室を出ると、隣はリビングのようだった。日用品の収められた棚(塗り薬のあった棚だ)や低いテーブルのある板の間から土間に繋がり、『トトロ』とかで見るようなかまどがあった。1LDKである。リビングの戸をあけると手すりのついた縁側のような感じで外廊下があり、となりの寝室まで続いている。突き当りはトイレだった。

 外廊下の手すりの向こうは崖になっていた。落ちれば助からないだろう。外廊下には小さなスペースがあり、物干しらしいロープが渡されていた。崖の下は森の中にある遺跡といったふうだった。鬱蒼とした暗い森ではなくて、ほどよく生えた植物がほどよくひろげた枝葉の隙間から、ほどよく日光が届けられている気持ちのいい森だ。石を掘ったり積んだりして作られた建造物がたくさんあったが、どれもこれも今は手入れされていないようで、あちこち崩れたり植物に負けたりしていた。そびえ立つ巨岩の影でよく見えないが、少し行ったところに大きな湖があるようだった。あそこが俺の流れついたという湖かもしれない。もし俺のいた世界にこんな場所があれば、きっと世界遺産になっていただろう。ナントカ遺跡群とそれをとりまく自然環境、といった感じの、きれいな光景だった。

 トイレで用を済ませ、リビングに戻ってくる。土間の扉をあけると石を掘った洞窟のようになっている。どうやらここは崖を掘って作られた家のようだった。水音が反響しているから、湧き水なんかもあるのかもしれない。ウロウロ歩いていると、石の階段を上がった先に、他のものよりしっかりとしたドアがあった。開けると外には原っぱが広がっていて、少し向こうに彼女が立っていた。ここが玄関のようだ。彼女はこの家へ帰ってくる途中のようだった。

「どこいくの?」

 片手には長身の刃物、もう片方の手には、食事にするのか、首をおとしたキジのような鳥を手にぶら下げていた。俺は今までの人生でそんなにまじまじとキジを見たことがないので、それがキジなのかどうかはわからなかった。

 思えば、明るい光のなかでまともに彼女の姿を見たのはこれが初めてだった。身長は160ほどだろうか、俺とそう変わらない。もしかしたら負けているかもしれない。一枚の布をどうこうして作ったような簡単な服を着ている。海外の修行僧が着るような不思議な服だ。きれいな肩がかたほうだけ出ている。服は夜空のような紺色で、染めなのか色落ちなのか、色にムラがあった。

 白い肌、黄色い大きな瞳。髪は肩につくかつかないかといった長さ。おかっぱのような髪型だが、毛先がぴょこぴょことあっちこっちに跳ねているので軽い感じがする。黒い髪を裂くように生えた1対の黒いツノ。動物のツノと比較すると短く小ぶりだ。ゴツゴツとした質感で、思ったより太くしっかりと生えていた。よく見ると、やすりをかけたようにも見える。俺たちが爪を切るように、彼女もツノを手入れしているのかもしれなかった。

 彼女がどんどん近づいて来るので、それ以上の観察は中断となった。けものの血の臭いがした。

「はだしで出てきたの?」

 言われて気がついたが、そういえばここに至るまでに靴というものを目にしなかった。

 俺の靴はどうなったのだろう? 流されるうちに脱げてしまったのだろうか?

「靴が見当たらなかったから」と、ぴょこぴょこと早足でこちらへやってくる彼女に言う。

「そっか」

 彼女はつぶやくようにそう言うと、刃物と鳥を放り出して、血まみれの手で俺を抱きしめた。

「勝手に出ていったりはしない、よ」と俺は言った。

 彼女は泣いているようにも見えたし、何かを考え込んでいるようにも見えた。彼女の名前を呼ぼうとしたが、そういえば俺は彼女の名前を知らなかった。

「あの。名前、なんていうの?」

「鬼には名前がないの」と、少しの沈黙のあとで彼女は答えた。「物を所有できないようにね。所有できると欲が満たされちゃうから」

 彼女は俺の体に回していた腕をそっとほどいて、地面に落ちた刃物と鳥とを拾い上げた。この世界には俺の知らないことがまだまだたくさんあるようだった。

「あなたをわたしの物にできたらいいのにな」

 気弱にほほえんで彼女はそう言った。苦しそうな笑顔だった。

 彼女は、俺になら彼女の欲を満たせると言ったけど、たとえば俺が彼女の欲望をたった一度だけ満たしてさっさと去ってしまえば、彼女はいままでよりももっと深い渇望に苦しむことになるだろう。もう二度とありつけないようなごちそうを、飼うつもりもない野良犬に与えるような残酷な事を、俺は彼女にしてしまったのかもしれなかった。

 彼女の背中を追って家へと戻りながら、俺はそんなことを考えていた。

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