【匂い】
かつん、かつん。
アパートの階段を上って、
がちゃ。
部屋の鍵を差し込む。
ぎぃ……。
目の前に広がる見慣れた風景と、それ以上に心を支配するのは家の匂い。
柔軟剤の匂い。
芳香剤の匂い。
造りは同じはずなのに、同じ建物でも住んでる人によって匂いが違う。
あと昨日食べたカレーの匂い。
寒かったから、換気扇つけるのを避けちゃった。
電気をつけて、上着を脱いでかけると、椅子に腰を下ろす。
「一休みする?」
「いや、先に片付けちゃおう」
いつもは手が遅いのに、何か楽しみなことがあるときだけてきぱきしてる。
張り切って部屋の一角を空けてるけど、そこに散らかしたのもそもそもあなただからね。
ま、でも野暮なことは言うまい。
私だってこの部屋の新しい仲間に夢中なのだ。
まだケージからは出せないけど、不安そうにしている黄色い瞳。
つやつやとした毛並み。
一匹の黒猫がケージの奥ですんすんと鼻を鳴らしている。
ようこそ、我が家へ。
この家の空気はお気に召したかな?
猫を飼おう、なんてことになったのも偶然みたいなもので。
デートの途中で立ち寄ったショッピングモールのペットショップを覗いただけ。
田舎じゃデートスポットなんて全然ないからね。
「かわいいね」
「この子あなたみたいな顔してる」
「そう? ……そう?」
みたいにいちゃついてただけだったんだけど。
何気なく通り過ぎようとしたところでケージに頭をぶつけるがしゃん、という音。
ふと振り返ってみたところにはこの子。
じゃれようと手を伸ばしてみると、もう一心不乱に、どうにか私の手を舐めようと舌を伸ばしてくる。
「何か美味しそうな匂いでもするのかな?」
そう言って彼は私の手を取るとふん、と匂いを嗅ぐ。
「んー、出発の前にシチュー作り置きしてたから、それかも」
「俺にはわかんないや」
美味しそうな匂いが遠ざけられたせいか、黒猫がぎゃあ、と不満げな声を上げる。
「ごめんごめん」
もう一度手を近づけると諦め悪くケージの扉と格闘し始める。
隙間から辛うじて触れる、ざらざらした舌がこそばゆい。
何気なく値札を見る。
……買えるなあ。
「あの、店員さん。 猫を飼うための設備費用っていくらくらいですか?」
「どの子ですか? あぁ、この種類ならだいたいこのくらいですね」
……飼えるなあ!
「結構乗り気?」
「うん……」
同棲中とはいえ、家賃を払っているのは彼だから、やっぱり文句を言うだろうか。
「部屋ペットOKだったか確かめないとね」
「いいの?」
「猫と夢中に戯れてるの見てて、『ああ、嫁が子供にかかりきりなのってこんな感じかな』って思って」
真顔でそんなことを言うものだから、ばしんと彼の背中を叩く。
急にそういうのやめてよ!
「よし、できた!」
猫用の仕切りと格闘すること三〇分。
「じゃあ、放すよ」
ケージをスペースの中に置いて、扉を開いた。
「……なかなか出てこないね」
「まあ、警戒するよね」
「お茶でも飲もうか。 構いすぎても良くないよ。 何にする?」
「疲れたから甘いのがいいな。 ミルクティー」
「よし」
えいや、と腰を上げると私は台所へ向かう。
鍋に牛乳を注いで火にかける。
軽く温まって、ティーバッグ(スーパーの安いやつだ)を入れようとしたところで
「みゃあお」という可愛らしい鳴き声。
見ればケージから出て、こちらを見ながら柵をひっかいている。
「お」
「やっぱり君は食いしん坊だねえ」
自分たちの分を淹れる前に、ぬるめのホットミルクを水飲み皿に移すと猫の前に差し出してみる。
飛び掛かるようにミルクに殺到するものだから、警戒していたとはいえ、少しこぼしてしまった。
「いい飲みっぷりだねえ」
「見ていて気持ちいいね」
鍋をコンロに戻し、ミルクティの用意をしながらも、二人とも瞳は黒猫にくぎ付け。
自分たち用のミルクティをテーブルに乗せると、カップを受け取りながら彼は言った
「ミルクにしようか」
「え?」
「名前」
言われて、猫の方を見る。
飲み終わって、手や口の周りを舐めながらうとうとしているようだ。
「黒猫なのに?」
「好きなものの名前ってわかりやすくていいじゃんか」
「じゃああなたの名前、今日からカレーね」
「じゃあ君はステーキ」
なんて笑いながら、私ももうその名前で呼ぶ気持ちは固まっていた。
気持ちよさそうに眠るミルクを眺めながら、私たちはソファに並んで座り、どちらからともなく軽いキスをする。
多分、家族ってこういうことだ。
幸せ、はミルクの匂いとともにやってくる。