デブなので、食事は大事
「なんだか、夢みたいだった……」
シルビアとマルコは、向かい合って座り込んでいた。
二人の間にある焚き火が、ぱちぱちと木の爆ぜる音を奏でている。
「どんな感じだったの?」
「上手く言えない……すごく大きなお魚だったの」
赤い鼻をすすって、シルビアは呟いた。膝を抱えた彼女は、年齢よりもずっと幼く見えた。
解いた髪に隠されて、彼女の表情はよくわからなかったが、マルコは安堵した。
すっかり忘我の呈に陥ったシルビアは、先ほどまでろくに受け答えもできない状態だったのだ。
「びっくりして、ああ、なんてすごいんだろうって思って。あんまり急だったから、そのまま受け入れる以外、できなかったの。あのお魚はとても、とても長くここにいたのよ。気が遠くなるくらい、昔からいたんだってわかって、そしたら……」
シルビアは両手で口元を押さえた。瞼を閉じると、目尻からまた涙が零れ落ちる。
それでも彼女は嵐のような感情の混乱から、徐々に立ち直りつつあった。
「多分、何年か前にぼくが一度だけ遇ったヤママスじゃないかな。あれはもう、半分精霊だったから」
マルコが言うと、シルビアはようやく彼と視線を合わせた。
「ヤママス……お魚が精霊になるの?」
「まだわからないよ。イキモノとしての部分に引かれれば、年老いて死ぬだろうし、そこを抜ければ精霊に成る。母さんからの受け売りだから、ぼくも詳しくは知らないんだけど」
シルビアは目を瞬いた。
焦点がしっかりしてきているようだ。
「ごめんね、わたし……こんな、泣いちゃって。お魚は全然怖くはなかったのに」
「不意打ちだったし、仕方ないよ。ヒトが精霊に遇うと、そうなるんだって。下手すると魂が抜けたようになって、何日もそのままになることもあるみたいだよ」
それは簡単に言えば、畏怖の念だった。
天にそびえる山脈、広く深い海原、年輪を刻んだ大樹。
己のスケール以上のモノを前にした時、ヒトは感動する。自分以上の存在を実感し、部分的な同化を試みることで、普段よりも視点を引き上げ、たまった鬱屈を解放することもできる。
ただ、感動もまた、外界の刺激に応じて自分の内部で作り出したものに過ぎず、真の同化など望むべくもない。大樹の体感は、大樹にならなければ得られないのだ。
まして、その上を過ぎ去った歳月の重みなど、ヒトは数字の上で想像するしかない。
一方精霊とは、イキモノやモノが長い長い時間を重ねるうちに、生来の資質――ヤママスならヤママスとしての――を現象の域まで高めた存在である。言わば「カタチを持った現象」であり、どんな精霊も本質的には同一であった。
ところが精霊に成る代わりに、イキモノとしての欲求や物理構造をほとんど失うため、やがて生来の資質がぼやけてしまう。精霊にとって、それは存在の危機だ。
だから彼等はしばしば、他者の中に自己を見出す作業を行う。
具体的には、他者の精神とダイレクトに接続し、互いの資質の違いを検証するのだ。
ヒトは精神活動が複雑なので、そうした検証に向いている。
ただ、その過程で本来ヒトの身にはありえない、「オーバースケールの体感」の断片が混じってしまい、結果として心に大きな衝撃を受けてしまう。自我が弱いヒトは魅入られたようになり、己を見失う羽目になる。
つまり、身の丈を忘れてしまうのだった。
シルビアの回復を待って、マルコは遅い昼食の準備を始めた。
競争の後で別れた彼女を見失い、マルコはうろたえた。
あんなに心細い思いをしたのは始めてだった。何度もきた場所ではあるが、自然環境や物理法則は人間に配慮などしてくれない。たとえば冷たい水のせいで足が攣り、おぼれてしまうことだって充分あり得る。
もし、彼女の身にそんなことがおきたら。その先を想像することさえ、恐ろしかった。
結局、いつの間にかシルビアは岩場に上がっていたのだが、それまで散々探し回ったせいか、張り詰めていた気が緩むとひどく空腹になっていたのだ。
鞄を探って、投網とポットを取り出した。
投網を岸から放ると、一回で沢山のヤママスを捕らえることができた。手頃なサイズの数尾を選び、残りは放す。
シルビアは感心してマルコの様子を眺めていたが、ふと滝に視線を向けた。
「あのお魚、よくも仲間を食べたな――って、怒らないかしら」
「大丈夫だよ。ぼく、何度もここでヤママス食べているもの。精霊はそんな風には考えないと思うよ」
一応納得したようだったが、彼女は他にも気になることがあるらしい。
精霊と遭遇したショックが薄れ、好奇心が頭をもたげてきているようだ。
「ねぇ、マルコくんが前にあのお魚に遇った時は、わたしみたいな体験はしなかったのよね?」
「うん、近くを泳いでいっただけ。多分、ただの挨拶じゃないかな」
「――じゃあ、なんでわたしだったのかしら……キミの方が精霊に近いのに」
「あのヤママスに好かれたのかもしれないね、シルビアは」
「えっ、そんなことがあるの?」
虚を突かれたのか、シルビアはぽかんと口を開けた。
「精霊もヒトの影響を受けるんだよ。だから相手を選ぶんだって」
「そっか。それってなにか嬉しいな。精霊に遇ったのも初めてなのに、好かれるなんてね」
シルビアは照れ笑いした。
小さな子供になつかれたお姉さん、と言った風情である。
マルコはちょっと複雑な気持ちになった。
彼女は猫や魚に対しては素直で寛容なのに、なぜか彼の言葉はすぐ取り違えて怒り出す。その点が不思議であり、今一つ納得のいかない部分でもある。
ため息を隠して、マルコは投網の中で暴れているヤママスを一尾つかみ上げた。
「じゃ、さっさと料理しちゃおう」
「わたしも手伝うから、やり方を教えて」
「うん。ぼくが捌くから……」
手短に説明して作業を割り振る。
マルコは山刀でヤママスの腹を割き、エラとワタを取ってシルビアに手渡した。
「うわっ、まだ動いているじゃないの!」
掌の上でぴくぴく痙攣しているヤママスの感触に、シルビアは硬直していた。
「そりゃそうだよ。大丈夫、別に平気だから」
「ううう、キミと一緒にしないでよ! なんか、ぬるぬるしてるし!」
それでもシルビアはヤママスを手放さなかった。
大騒ぎしながらも、身に残った血をこそぎ落とし、水洗いした。
でき栄えをマルコに確認してから、岩塩とスパイスを振る。
すべて捌き終えると、マルコは木の枝で作った串にヤママスを刺し、焚き火の周りに並べて突き立てた。さらにポットに水を入れて火にかける。
後は待つだけだった。
「ふふっ」不意にシルビアが笑った。
「どうしたの?」
「うん。考えてみたら不思議だなぁ、って」
シルビアは穏やかな笑みを浮かべて、ちろちろと燃える炎を眺めている。
すっかりリラックスしているようだ。
「マルコくんには当たり前なんでしょうけど、わたしには驚きなの。だって、ほんの何日か前まで寄宿学校とシティの家が、世界の全てだったのよ。そりゃあ、旅行したこともあるけれど、観光地だもの」
シルビアは頭上を覆う木々の梢を見上げた。
「それが友達と二人だけで、こんなに深い森の中にいる。おまけに裸で泳いで、精霊に遇って、捕った魚を自分達で焼いているなんて。ここにくることが決まった後だって、こんなの全然想像もしなかった。本当、先のことなんてわからないものね」
彼女はにこっと笑った。
マルコは慌ててヤママスの串を回して、焼き加減を調整するふりをした。頬が紅潮してしまったのが、はっきりとわかった。
そんな彼の様子を、シルビアは黙って見守っている。
マルコは落ち着かなかった。自分が彼女にどう見えているのか、気になって仕方なかった。
「ええと、シティってどんな所なの? ぼくはここしか知らないから」
予想外の問いだったのか、シルビアは視線を宙にさ迷わせた。
「そうね……大法院とか、貴族院とか、大きな建物が沢山あるわ。中央庭園も有名ね。勿論、ヒトも大勢いる。広い道一杯が見渡す限りの人波で埋まることもあるのよ。色々なお店があって、なんでも売っているわ。でも、山や森はないし、川はあるけど汚いから泳ぐのは無理よ。わたしの家のある辺りはまだ緑が多い――と思ってたけど、ここに比べると全然ないわね」
マルコは目を丸くした。
「ふうん。ちょっと想像つかないや。大丈夫かなぁ……」
「大丈夫って?」
「いや、ぼくも秋から学校に行くんだよ」
何気ない一言だったが、シルビアは相当に驚いたようだ。
興味津々とばかりに、ぐっと身を乗り出してきた。
「本当! シティの学校に行くの?」
「まだ決まっていないんだ。でも、街ってどこもシティみたいなんでしょ?」
「基本は一緒だけど、規模が違うわ。シティは他の街の何倍も大きいから。でも……ねぇ、それだったら、モーマントにも学校があるからそこはどう?」
シルビアは唐突に知らない街の学校を勧めてきた。
当然ながら、マルコには判断材料がまったくない。
「どうって言われても、全然わからないよ。その学校、なにかいい所でもあるの?」
「え、その……ごめんなさい、学校のことは知らないの。モーマントはファーガスンの隣街なのよ。だから、つい」
ファーガスンには彼女の学校がある。つまり近くに来い、と言っているのだ。
マルコとしてもその方が心強いが、生憎彼が入学先を恣意的に選べるわけではないのだった。
「母さんの話だと、フリッツさんがぼくの入る学校を探してくれているんだって」
「フリッツが? それなら多分、シティの学校ね、顔が利くから。うーん……まぁ、それならまだいいかしら。遠いけど、遠過ぎるってほどでもないし。鉄道が通っているから、中間の駅で待ち合わせれば二時間かからないもの。うん、それがいいわ」
シルビアはなにやら独り決めして、勝手に納得してしまっているようだ。
そうしているうちにヤママスが焼き上がった。運動したこともあって、二人の食欲は旺盛だった。
「わあ、これすごくおいしい! わたし、こんなのはじめてだわ!」
ヤママスを一口食べて、シルビアが嬉しそうに笑う。
マルコも初めてだった。もちろん、彼は食べることが大好きだ。
しかし、他の人が食事をしている所を見て、こんなに幸福な気持ちになれるとは知らなかった。
「うん。捕りたて、焼きたてだからね」
メインのヤママスに加えて、糖蜜パンを二切れずつ。
さらにスープを作り、お湯の残りで食後のお茶を淹れる。
デザートはたっぷりのパウンドケーキ。それでも普段のマルコには物足りない量のはずだったが、何故か今日は満足だった。
一休みして焚き火を始末すると、二人は滝を後にした。
去り難い思いがあるのか、シルビアはしばしば立ち止まっては振り返っている。
「また来ようよ。この休みの間に」
「うん……そうね。なにか、もうあのお魚には遇えないような気がしちゃって」
恐らくそれは正解だった。
相手が巫女でもない限り、精霊が同じヒトの前に何度も姿を現すことは滅多にない。
繰り返し接触すれば、ヒトは精霊に取り込まれてしまうし、精霊もヒトから影響を受け過ぎてしまう。
まして、あのヤママスはまだ不安定な半精霊なのだ。
恐らくもう二度と遇うことはない。
マルコは自分の推測を彼女に伝えなかった。
なにしろ可能性はゼロではないし――伝えない方がきっといい、と彼は思った。
以前、バイクで山梨に林道ツーリングに行った際、登山客を泊める山荘で食べたヤマメの塩焼きが絶品でした。また食べたいなー。





