デブだから、誤解を招く
目前には、澄んだ水をたたえた大きな淵があった。
正面の絶壁をごうごうと駆け落ちる滝の音が、空間を隅々まで満たしている。落水地点は沸き立つ水煙に隠され、空気にも水の香りが漂っていた。
マルコとシルビアは、ラオル河支流の滝にきていた。
「すっごい……お腹に音が響いてくるわ」
岸辺に立ち、きらきらした瞳で滝を見上げるシルビア。
彼女は髪を三つ編みにまとめ、野外用ベストとパンツの動きやすい出で立ちで、足元にも丈夫な靴を履いている。
マルコはいつもの山慣れた格好だった。鞄をたすきがけにして腰に山刀を差している。
岩の上に鞄を降ろすと、彼はいきなり服を脱ぎ始めた。
「な、なにをしているのよ!」慌てて顔を背けるシルビア。
「なにって、泳ぐんだけど。シルビア、泳げないの?」
「泳げるわよ! そうじゃなくて、その……」
シルビアは珍しく口ごもった。
どうやらマルコは、最初からここに泳ぎにきたらしい。ここに着くまで森の中の獣道を一時間以上歩いてきたせいで、たっぷり汗をかいていた。確かに水に入れば、気持ちがいいだろう。
とは言え、これまでの生活で培った常識はそれなりに強固だった。
「滝とあっちの浅瀬には近付いちゃ駄目だよ、危ないから」
もじもじしている彼女を尻目にすっかり裸になると、マルコは淵に飛び込んで泳ぎ始めてしまった。
岸と滝の中間辺りまで泳ぐと、息を大きく吸って潜る。
数十秒の後、少し離れた水面を割ってさぶりと飛び出す。
体形に似合わない妙に軽快な動きは、水辺に棲むある種の哺乳類を思わせた。
「聞きなさいよ、人の話……」
シルビアはまだ岸辺でどうすべきか迷っていた。
シティで水泳と言えば、普通は水着を着てやるものだった。
「早くおいでよー!」
大きな声で呼びかけ、マルコはまた水を蹴立てて泳ぎ出す。
「もう、わかったわよ、行くわよ! これだから、田舎の子は!」
叫び返すとマルコに背を向けて、シルビアも服を脱ぎ始めた。
おおざっぱに脱ぎ散らかしてるマルコとは対照的に、きちんと服を畳み、上に石を乗せて重しにする。
「ふわっ……つめたいっ……」
裸になって、岸から沖に向かってゆっくり歩く。
水嵩が膝丈を越えた所で、シルビアは前へ倒れるようにして、水中へ滑り込んだ。
突き出した両手で大きく水をかいて推進力を得ると、そのまま惰性で進む。
水はシルビアの体をぴったりと包み込み、体のほてりを拭い去りながら滑らかに流れていく。それはヒトを水底の世界へ馴染ませる、儀式のようだった。
澄み切った水、折り重なった岩や石。水底を彩る光の揺らめき。
水草が紡ぎ出す小さな泡が、連なりながら昇って行く。
その間を大小様々な――
「ん……? んんっ! ……ぷはっ!」
シルビアは慌てて水面に顔を突き出した。マルコが泳ぎ寄ってくる。
「どうしたの?」
「あの、マルコくん、なにか……ひゃうっ!」
シルビアは文字通り飛び上がり、マルコの肩に身を寄せた。
「だから、どうしたの?」
「だ、だから……ひゃんっ! わうっ!」
マルコはさっぱりわからない、という顔をする。
だが次の瞬間、「あ」と言って下を向いた。何かに気付いたようだ。
「これか。ちょっと潜ってごらん、わかるから」
思い切ってシルビアが潜ってみると、二人は魚の群れに取り囲まれていた。
どうやら彼等はシルビアのたなびく三つ編みが気にかかるらしく、まとわりついては代わる代わるに突付いている。そのついでなのか、時折彼女の体まで突付く奴がいるのだった。シルビアは水面に戻った。
「見えたでしょ? ヤママスだよ。君の髪が気に入っているみたいだね」
「これって、大丈夫なの? 食べられたりしない?」
不意打ちで動転してしまったせいか、結構本気で心配してしまう。
マルコは笑った。ヤママスは成魚でも三十センチ前後だし、主食は水棲昆虫なのだ。
「大丈夫だってば。ぼくら、こいつらが食べるには大き過ぎるもの」
「そっか、そうよね。あんっ…! もう、馴れ馴れしいんだから!」
ようやくシルビアも笑いを浮かべた。
マルコは滝の手前に見える岩場を指さした。
「あそこまで競争しない? 僕、泳ぐの得意なんだ」
「あら、いいわよ。……じゃあ、スタート!」
「あ、ずるい!」
マルコもすぐに後を追ってくる。
だが、シルビアはぐんぐんとスピードを乗せていく。マルコは驚いたのか、最初懸命に、最後には必死の形相になって追いかけてきたが、彼女との差を詰めることはできなかった。
岩場にタッチして、シルビアは立ち泳ぎになった。
この辺りはかなり深い。大人でも足が届かないだろう。
「あははは、どう? わたしの勝ちね!」
弾けるような笑顔に出迎えられ、マルコは文句を言う気が失せたようだ。
実際、ほんの一瞬遅れただけだし、そのハンデ以上に引き離されていた。
「シルビア、すごく速いね」
「泳ぎは大好きなの。川で泳いだのは初めてだけどね」
うきうきとシルビアは答える。
つられたのか、マルコも嬉しそうに笑った。
「それにすごく綺麗だったよ。ぼく、後ろからずっと見てたから」
滑るように蒼の世界を進んでいく、白い裸体。
意外な力を秘めていた、ほっそりした美しい手足。
背で揺れる金の髪には、ヤママスでなくとも幻惑されてしまうだろう。
やはり彼女こそが美しく気高い妖精に見える――とマルコは語った。
だが、彼の賛美はまたしても逆効果だった。
シルビアはたちまち顔を真っ赤にすると、柳眉を吊り上げた。
「いやらしい! キミ、わざと遅れて泳いだでしょう!」
「ええっ? しないよ、そんなこと」
マルコは驚いたようだ。
そもそも、フライングスタートしたのは彼女の方である。
「嘘。もう、男の子っていやらしいんだから!」
「本当にしてないってば」
「あら、そう。もういいから、ちょっとしばらくわたしから離れてくださる?」
シルビアはつんと顎を反らす。
「ねぇ、だから、本当に……」
「いいから、離れて頂戴!」取り付く島もない態度になってしまう。
「……じゃあ行くけど、滝に近付いちゃ駄目だよ」
「わかっているわ」
ふん、と鼻を鳴らして、シルビアは滝の方に向き直った。
この距離だと滝の音はおんおんと体に響き、骨まで震わせる。
不意に風が吹き、水面にさざなみが走った。滝の上げる水煙がふわりと巻き上がる。
すると、小さな虹が現れた。
「あっ! マル……」
振り返ったものの、彼女が追い払った男の子は、既に遠くにいた。
ここからでは声をかけても届かないだろう。
虹は瞬く間に消えてしまい、彼女だけが取り残された。
「……ああ、もう! タイミング悪いったら!」
シルビアは岩を蹴ってざぶん、と勢いよく水中に潜った。
両手を体の横に沿わせ、足だけを動かして潜っていく。
底に降りるにつれて日光は弱まり、薄暗くなった。
岩の他に倒木も転がっており、その上を長い髭を持った川エビがちょこちょこと歩いている。
水温は上層より低く、魚影も薄い。
滝の方向には、なにか黒っぽい影があった。
光の屈折のせいか、影が移動しているように見える。シルビアは眉をひそめた。
息継ぎをすると、また潜って滝の方へ泳ぎ出した。
十五メートルほど進んで止まる。髪がふわりと前に流れた。
影はまだはっきりしない。
また水面に戻って、一息つく。
遠くから見た滝は荘厳で美しいばかりだったが、今は身に迫る脅威となりつつあった。
「これ以上は危ないわね……」
呟いて引き返しかけた時、あの影は彼女の足元へ忍び寄っていた。
恐怖に襲われる間もなく、影は急速に浮上した。湧き上がる水流に押され、シルビアは背中から引っ繰り返って水中に没した。体がくるくると回る。
手足をばたつかせて、必死に体勢を立て直す。
「――!」
恐ろしく巨大な魚が、彼女の真正面にいた。
側面の斑点模様はヤママスのものだったが、鱗は一枚一枚が小皿ほどもある。
傷だらけの魚体は、少なくとも三メートル以上はありそうだ。
規則正しく動いているエラの前には、半開きになった口があり、ぎょろりとした目は左側が白く濁っていた。
ごおおおおっ、と滝の音が絶え間なく鳴っている。
地鳴りのように低くこもったその響きが、彼等を制したのか。
ヤママスはそれ以上動かなかった。
シルビアも水に身を任せるばかりだった。
互いの存在を、ありのまま認識している――ただ、それだけのようであった。
どれほど、そうしていたのか。
ゆっくりと反転し、ヤママスは滝壺の向こうへ姿を消した。
それを見届けて、シルビアも浮上した。
水面に出ると、長く息を止めていた筈なのに、呼吸は穏やかだった。
マルコと競争した岩場に戻り、彼女は岩に上がって腰かけた。
岩を覆う柔らかな苔は、日差しの温もりに満ちていた。
背後の岩肌に背を預け、シルビアは静かに泣いた。
水辺の苔むした岩に背を預け、静かに泣いている少女。
このシーンが頭に思い浮かんだのがきっかけで、本作を書き始めました。