デブだけど、把握した
シルビアは床に深皿を置き、そろそろと後退した。
深皿にはミートパイの中身にミルクをかけたものが入っている。
ウィングキャットは部屋の隅でなかば毛を逆立て、彼女の一挙手一投足を注視していた。
シルビアは部屋から出ると、扉を静かに閉めた。
「ね、食べるかしら?」扉に耳をつけるシルビア。
マルコは呆れた。
ウィングキャットは一晩で見違えるように回復した。それはシルビアの懸命な看病の成果だった。
だが同時に警戒心も復活してしまい、彼女は客間から追い出されてしまったのだ。
なのに、シルビアはまったく頓着していないようなのだ。
「ねぇ、シルビア。いいの?」
「いいってなにが? あの子、いつの間にかベッドにきていて、昨夜はわたしと一緒に寝てたのよ。起きたとたんに逃げちゃったけど」
「ノミがつくよ?」
「あはは、それは困るわね」
シルビアはどう控えめに見ても、嬉しそうだった。幸せそうと言ってもいい。
二人の会話を聞きつけたのか、階下からリタが現れた。
「猫ちゃんもいいけど、シルビィの調子はどう? 今朝は顔色も良さそうだけど」
「はい、お母さん。わたしの方はもうすっかり平気です」
「え? お母さん、って?」
マルコが口を挟むと、リタはにやりと笑った。
「女同士でゆっくり話したからね。ここにいる間は、そう呼んでもらうことにしたのよ」
「うん、そうしていいってお母さんが言うから」
シルビアは頬を赤らめて、はにかんだ。
戸惑っているマルコを、シルビアは「ちょっと外に行こ?」と誘った。
シルビアは柵にもたれると、のんびり草を食んでいるヤギ達を眺めた。
その横にマルコは所在なさげに立つ。
彼女の髪が朝日を浴びてきらきらと輝いていた。
「フリッツから聞いたのね? 学校でのこと。それに、あの娘のことも」
彼女の言葉には一切の遊びがなかった。
単に事実を確認する口調であり、マルコは肯定するしかなかった。
すうっと、シルビアの頬に赤みがさした。
羞恥心か、怒りか。あるいはその両方か。
「あいつら、いつもわたしを馬鹿にするのよ。わたしなりに頑張っているつもりだけど、でも、時々――」
息を飲んで、きつく全身を強張らせる。
マルコは彼女がそのまま、ばらばらに砕け散ってしまいそうな気がした。
「大嫌い。あいつら、大嫌いだわ! 勉強も運動もなに一つ、なに一つだって、わたしに敵わないくせにっ!」
血を吐くような叫びだった。
体の奥底に沈殿した真っ黒な澱に、自身を溺れさせてしまいそうな危うさがあった。
マルコはまたなにも言えず、なにもできなかった。
「……」
瞼を閉じて、彼女は深呼吸する。
もう一度、深呼吸。
また、深呼吸。
「わかっているわ――弱い奴が悪いのよ」
どうやら、彼女はカラス達に襲われていたウィングキャットに自らの姿を重ねていたらしい。
「でも、わたしはあの子をどうしても助けたかったし、逆にあいつらに負けてやる気なんて全然ないの」
シルビアは見事に感情のコントロールを取り戻したようだ。口元には皮肉な笑みさえ浮かべていた。
さっと顔を上げ、彼女は天に向かって挑むように宣言する。
「だからキミも、わたしに同情なんかしないで。わたしは硝子細工のお姫様じゃないわ。わたしは自分で立ち直る。ちゃんと自分で歩けるから」
この少女を真に規定しているものは、美しさでも能力でも家柄でも過去でもない。
まして、血筋など問題外だった。
それを――唯一つ、それだけを理解した時、マルコの心は決まっていた。
「そう言われても、ぼくは同情しちゃうよ」
「マルコくん? わたし、真剣な話をしているのよ?」
シルビアは斬りつけるような視線を向けたが、マルコはにっこり笑った。
「だって仕方ないじゃないか。君みたいに危なっかしい娘、放っておけないしね」
「……ねぇ、まさかと思うけど、からかっているの?」
シルビアは怒りと不安の間を揺れ動いているようだ。
「違うよ。君って本当にやっかいな娘だよね。なにをしでかすか、ぜんぜんわからないし、すごく強情だし」
シルビアは一瞬ひるみ、ついで剣呑な目付きでマルコを睨んだ。
「悪かったわね。ずいぶん言いたい放題言ってくれるじゃない」
「ううん。悪くないよ。シルビアはすごく素敵だよ」
彼女は絶句し、見る見る顔を赤らめた。
「ばっ、馬鹿! わたしはそんなつもりないのよ!」
「そんなつもりって?」
「だから、昨日話したじゃない。ほら、婚約とか……」
マルコは笑った。
ちょっと笑い過ぎかな、と思うくらいに大きな声が出てしまった。
「あははははははは! あのね、勘違いだよ、それ」
「え? ええっ?」
すっかり狼狽しているシルビア。
どうやら、主導権を奪われることに慣れていないらしい。
「後で話すけど、それはもうどうでもいいよ。だって、ぼくは本当に嬉しいんだ。ここにきたのが、君だったことがね!」
シルビアをシルビアたらしめているのは、なによりもその誇り高さだった。
突出した誇りは時に愚かさを呼ぶ。窮地に助けを求めない傲慢さは、その表れだろう。
反面、厳しい現実に対してシルビアが己を処すやり方は、堂々として潔く、鮮やかでもあった。
だからぼくは君の友達になりたい――他の誰でもない、君の友達に。
マルコは強くそう思うのだった。
翌日、元気よく空へ飛び立つウィングキャットを、二人は並んで見送った。
ボック家の邸宅はシティの郊外よりに位置している。
館は最新工法を駆使して建築されており、広いだけでなく、快適であった。夕闇の侵略を阻むように敷地のあちこちで輝く庭園灯は、シティでもまだ珍しいガス式だった。
「早かったな、フリッツ。例の薬師の所はどうだった? なにも問題なしか?」
館の主、ドルムント・ボックは帰着したばかりの執事に報告をうながし、レジナ産の高級葉巻を吹かした。一見した印象は粗野そのもので、事業家と言うより山師か炭鉱労働者を思わせる。
外見上でシルビアとの血縁を感じさせるのは、髪の色くらいのものだった。
「はい、旦那様。お嬢様はしっかりした御方ですから、休息さえ取れれば大丈夫かと存じます。ただ、旦那様からも直接なにか……」
ドルムントは蠅を追うように手を振って、フリッツの言葉をさえぎった。
葉巻の灰が磨き上げられたマガホニー造りの机に飛び散る。
「いい。あれのことはお前にまかせる。わしはもうよくわからんのでな。まったく、歳をとってから娘など作るものではない」
「左様で」フリッツは慇懃に頭を下げた。
「それより奴の件だ。ここ数日、どこにも姿を見せておらんようだ。あの出たがりにしては珍しいと思わんか?」
「フォアマン様でございますか。奥方と別居なさったそうですから、社交の場には出にくいのでしょうが……」
主の言葉に、フリッツは新たな気がかりの種を見出した。遠雷の微かな轟きを捉えるのも、彼の仕事の一部なのだった。
執事をこき使い過ぎていることに気付いたのか、ドルムントは鷹揚に言った。
「ああ、いや、別に今はいい。お前も今日は早く休め。なんなら、明日一日くらいは休んでも構わんぞ」
「明日はラズモント様をお招きしての夕食会がございます。他にも色々と立て込んでおりますので、落ち着きましたら、半日ほどお休みを頂きたく存じます。昔の同僚と会いますので」
「同僚? 警務局のか?」
「はい」
ドルムントは呆れたように目を細めて言った。
「馬鹿者。それは業務だろうが」