デブなりに、悩んでる
マルコが山荘裏の手押しポンプで水をくみ上げていると、フリッツがやってきた。
衣服を整え、山高帽をかぶっている。明らかに外出の格好だった。
「あれ? フリッツさん、どうしたの?」
「お嬢様はまだお休みになっておりますが、私は所用がありまして、一度シティに戻ります。それで――マルコ君」
「え? あ、はい」
改まった言葉遣いに、つい緊張するマルコ。
フリッツは山高帽をとって、丁寧にお辞儀をした。
「お嬢様を宜しくお願い致します。仲よくしてやって下さいませ」
それはマルコ自身の願いでもあった。
だが、マルコは彼女をつかみかねていた。
「フリッツさん。シルビアは、どうしてあんなに疲れているの?」
「それは……お嬢様はなにか?」
「勉強は楽しいけど、周りが最悪だって。学校の話だけど」
フリッツの瞳に憂慮の色が浮かんだ。
「寄宿学校の中で、お嬢様は孤立しているようなのです。恐らくは入学してからずっと、血筋のことで理不尽な目にあっておられるのでしょう」
それはマルコも多少は予想していた。
そうでなければ、あそこまで貴種だの俗種だのにこだわる筈がないのだ。
「でも、シルビアならそう簡単には負けそうにないけどなぁ」
マルコはオオクチガラスの群れに突っ込む彼女の姿を思い浮かべていた。
そうする理由はまったく理解できなかったが、あれはシルビアの強い意志の表れだった。
「お嬢様のご学友に、フォアマン男爵のご令嬢である、アデレード様という方がいらっしゃいます。この方は特にお嬢様と対立なさっておりまして、何度かその、騒ぎがございました」
フリッツは言葉をにごしたが、それがどのような騒ぎだったのか、マルコはなんとなく想像がついた。
「つまり、良し悪しはともかくお嬢様なりに対処できていた、とも言えるでしょう。お陰でお二人の関係は、シティでも少しは知られる話になってしまいましたが」
眉間にしわを寄せ、フリッツはやや声をひそめた。
「ただ、少し前に困った噂が流れたのです。フォアマン男爵はご商売の失敗でかなりの損害を出したのですが、それはボック家の――シルビア様のお父上、ドルムント様の差し金なのだと」
「ええと……まさか、シルビアが嫌がらせをされたから、お父さんが仕返しをしたってこと?」
常識では考えられない話だった。
フリッツも即座に否定する。
「根も葉もない噂でございます。そのようなことを旦那様がするなど、ありえません。実際の所、フォアマン男爵は損害を出してしまってから、その穴埋めをしようと、旦那様に借金の申し入れをなさったのです。回収の見込みがないお話でしたので、旦那様はお断りになりましたが、それで恨まれる筋はございません」
姿勢を正し、フリッツはきっぱりと言った。
シルビアの父に対しては、彼なりに職業意識以上の忠誠心があるようだった。
「ただ、貴族社会はせまいのです。噂はお嬢様の学校にまで伝わりました。詳しいことは存じませんが、学校内でのお嬢様のお立場はさらに悪くなりました。その結果、お嬢様は夜あまりお眠りになれず、お食事もわずかしか摂れなくなってしまいました。ほどなく夏期休暇に入ったのは、幸いでございました」
血の気の引いたシルビアの顔が、マルコの頭をよぎった。
「シルビアは急にここへくることになったって言っていたけど……」
「それは私から旦那様へ進言させて頂いたのですよ。自然の中でゆっくり療養して頂くのが一番と思ったのです。私はマルコ君のお母さんとは、古い知り合いでしたのでね」
シルビアはここへ静養しにきたのだった。
そんな状態の彼女に対して、マルコは一緒に遊ぼうとしつこくせがみ、挙句ケンカまでしてしまった。
これでは仲よくなるどころではない。
ところが、フリッツはむしろ嬉しそうに言った。
「気に病む必要はありません。お嬢様はご自身の選択に伴う責任については、充分わきまえた方です。マルコ君は今まで通りにして頂ければ宜しいのです」
マルコは驚いた。
どう考えても、自分がシルビアと上手くやれているとは思えなかった。
「本当に、それで大丈夫なの?」
「はい。まぁ、できればお嬢様があまり無茶をなさらないようにして頂ければ、私としては助かりますな」
戸惑うマルコを残し、執事は荷馬車に乗って去っていった。
夕方、ヤギを小屋に入れてマルコは山荘に戻った。
台所に入ると、もわっとした熱気と料理の匂いが彼を出迎えた。
髪を縛り、額に汗を浮かべたリタがフライパンを揺すってなにかを炒めていた。
「もうすぐできるから、シルビアちゃん呼んできなさい」
「起きたの?」
「さっきね。多分、客間よ」
生返事を返し、マルコは客間へ向かった。
シルビアのことをずっと考えていた。
彼女の孤独を想像できなかったし、自分からそれに触れるのは恐ろしかった。
どう接すればいいのか、全然わからない。
シンプルだったマルコの世界は、突然複雑なものに変貌してしまい、彼を困惑させていた。
思い悩むうちに、客間の前まできてしまった。
ノックするまでもなく扉が開き、シルビアが顔を出した。彼女はマルコに気付くと、尖らせた唇に人差し指をあてた。
部屋をのぞくと、クローゼットの上に見覚えのあるバスケットが乗っていた。縁からウィングキャットの翼と耳がのぞいている。どうやら母の仕事部屋から客間へ移動させたらしい。
扉をそっと閉め、シルビアは息を吐いて緊張を解いた。
「はあっ。あの子ったら、すごく怖がりみたい。ミルク飲ませるの、一苦労だったわ」
文句を言いつつ、シルビアの声は弾んでいた。
彼女の予想よりも、ウィングキャットの回復が早かったらしい。穏やかで喜びに満ちた表情だった。
「フリッツさん、出かけたよ」と、マルコ。
「リタおば様から聞いたわ。最初から昼過ぎに出発の予定だったのよ。わたしは眠り込んじゃったけどね」
少しは疲れが取れたのか、シルビアは幾分元気になったようだった。
マルコは妙な気分になった。彼女を見ていると、自分が間違っていたような気がしてしまうのだ。
いや、そんな筈はない、とマルコは思い直した。
「夕食、もうできるから。下にきてね」
迷いとわだかまりが彼の口数を減らしていた。
ぎこちなく踵を返そうとしたマルコの手に、細い指先がそっと触れた。
「ごめんね、マルコくん。あと、ありがとう」
「え?」間の抜けた声しか出ないマルコ。
シルビアは微笑んだ。
「わたしが巻き込んだのに、助けてくれたでしょう?」
その晩、夕食のパスタをシルビアはどうにか平らげ、リタは大いに喜んだ。
マルコもほっとしたが、ある意味、悩みはさらに深くなってしまった。
マルコが翻弄されてますが、まあ男の子は女の子に振り回されてなんぼ的な。