デブの平手は、けっこう痛い
放物線を描いて落下し、マルコは目算通りに甲板に着地した。
だんっ! と竜骨をもきしませる衝撃音。
それが消えぬ間にマルコは船上を駆け、腰から抜き放った山刀でシルビアの縄を切り離した。
拘束を解かれた両手をまじまじと眺め、シルビアは顔を上げた。
彼女は少し怪我をしているようだが、おおむね大丈夫そうだ。我知らず安堵の吐息が漏れる。
途端、かけがえのない女の子は、弾かれたように抱きついてきた。
ペンダントが二人の間に挟まった。シルビアは半泣きで頬をすり寄せてくる。
マルコはどぎまぎした。
「ご、ごめん、シルビア。遅かったかな?」
「うん……うん、遅い! 遅いわよ……!」
だが、再会の喜びを味わうのはまだ早かった。
マルコはシルビアを抱いたまま、後へ飛んだ。二人がいた空間を、剣先が断ち切る。
「この小僧! 小生意気な真似しやがって!」怒り狂うバフ。
シルビアを船首方向へ押しやって、マルコはバフと対峙した。
マルコの山刀はバフの剣よりも頑丈であったが、ずっと短い。腕自体のリーチもバフの方が長く、剣技に至ってはマルコはまるで素人だった。
「うおらあああっ!」バフが吼える。
子供に出し抜かれたことが、彼から冷静さを少々奪っていた。
負ける筈がない、という侮りもあったのだろう。
力任せの斬撃を数度に渡って山刀で受け止められたのは、そのお陰だった。
「ぬっ! 小僧っ!」バフの顔色が変わった。
機を逃さずマルコは強引に間合いを詰め、山刀を横殴りに振った。
思いがけない逆襲をバフは慌てて避ける。マルコは相手を追わずにぱっと引いた。
「遅いよ、おじさん! べーっ」舌を出してからかうマルコ。
「こ、この、餓鬼がっ!」
怒りに任せた剣は、今まで以上にあからさま過ぎた。
ぎりぎりまで引き付け、マルコは体を沈み込ませた。空を切った刃は木片を散らしてマストになかば埋まり込む。引き抜く間を与えず、マルコは山刀を打ち下ろして剣を根元から叩き折った。
マストに残った刃を山刀で弾き飛ばす。刃はくるくる回って船外へ没した。
マルコはバフに山刀の切っ先を突き付けた。
「ぼくの勝ちだ。降参しなよ!」
バフはわずかな刃しか残っていない剣に目を落とすと、それを河に投げ捨てた。
「はっ、ふざけるな! かかってこい、エルフの小僧!」
「しょうがないなぁ。痛くても知らないよ」
マルコは山刀を鞘に収めると、シルビアに放った。
「ちょっと、マルコ!」驚くシルビア。
「ごめん、持ってて。ぼくは刃物より、素手の方が得意だから」
「ほぉ、大した自信だな。小僧が、後悔するなよっ!」
拳を固めてマルコに突進するバフ。
しかし彼は、自信の根拠を嫌と言うほど思い知らされる羽目になった。
最初のパンチをマルコは避けず、もろに食らった。その代わりに、バフに平手を当てる。
カウンターではない。バフの拳が命中してから、マルコは手を振っているのだ。
だが、一撃でバフは大きくのけぞった。
「ごがっ!? こ、小僧!!」
「ほら、どんどんいくよ!」
相手がよろけた隙を逃さず、マルコは次々と平手を繰り出した。
バフは両腕を上げてブロックしたが、ほぼ無意味だった。マルコの力が強過ぎるのだ。
「うおっ! ぐはっ!」
背が低いマルコは、背伸びしたり、ぴょんと飛んだりしながら手を振っている。
そんな叩き方なのに、平手が当たった瞬間、上半身ごと揺れてしまう有様だった。
「調子に……乗るなぁっ!」
挽回しようとバフはマルコの身体をつかみ、重い膝蹴りを叩き込む。
それはきっちりとマルコのふくよかな下腹に突き刺さった。
しかし、少年は少々眉をひそめただけだった。
お返しにバフの膝をむんずとつかむと身体ごと持ち上げ、無造作に舵輪へ投げ付けた。
背中をしたたかに打ち付け、バフはくぐもった呻きを上げた。さすがに堪えたのか、そのままずるずると床に崩れ落ちる。
「ほら、だから言ったのに」
マルコはのこのことはいつくばったバフに近寄っていく。
フットワークの利かない船上では、素手の戦いは足を止めての殴り合い、単純な力比べになる。
それこそ、マルコの独壇場だった。
マルコがバフの目前まできた時、甲板が大きく揺れた。
体が浮き上がり、シルビアは悲鳴を上げた。
いつの間にか、船は急流を下っていた。
思わずマルコが目を逸らした隙を突いて、バフが飛びかかった。
揺れる甲板を二人はつかみ合ったまま、転がった。マルコがバフを蹴飛ばして、引き離す。
「マルコ!」シルビアが叫ぶ。
少年の右腕はざっくりと切り裂かれ、血が噴出していた。
ゆっくりバフが起き上がる。彼の手には、小さなナイフが握られていた。
「悪いな、小僧。生憎、俺は素手より刃物の方が得意なんでね」
いやらしい笑みを浮かべ、バフは嵩にかかって攻め込んできた。
だらりと下げた片腕をかばいながら、マルコは必死でナイフを避ける。
バフは巧みに手首のスナップを利かせ、変幻自在に刃を舞わせた。一度、窮地に追い込まれたことで頭が冷えたのか、本来の力量を発揮できるようになったようだ。
避け切れず、マルコは体のあちこちを薄く斬られた。
裂かれた腕の痛みと出血が、彼の動きを少しずつ鈍らせている。
どんどん酷くなる船の揺れが、それに拍車をかけていた。
これ以上、長引けば負けてしまう。
深く斬られるのを覚悟で避けを最小限に留め、マルコはバフの手を蹴り上げた。
狙い通り、ナイフが空に飛ぶ。
「うわああああっ!」
突然の激痛が身を貫き、マルコは絶叫した。
蹴り上げた左足の太股に、ナイフが深々と刺さっていた。
ナイフを抉るように引き抜き、バフは心から楽しそうに嘲りを浴びせた。
「ははははは! おいおい、誰が一本きりって言った?」
うずくまって苦痛に耐えるマルコ。
バフは油断なくナイフを持ち替え、彼を見下ろした。瞳に冷酷な光が浮かぶ。
「勉強になったろ、小僧。命のやりとりってのはこういうもんさ。――じゃあな」





