デブだけど、飛ぶように走る
マルコ達はまた新たな分岐にぶつかっていた。
この場所にある三つの痕跡のどれが正しいのか、間違えるわけにはいかない。
いや、例え間違えなくても、判断に時間がかかり過ぎれば同じことなのだ。
それなのに、マルコにはどれが正しいのか、わからない。
見た目はどれも同じくらい、本物らしく見える――それどころか、全部本物と言うこともありえる。
仲間がいれば痕跡を増やすのは造作もないのだ。
一つが正解で、残りは迂回路なのかもしれない。もしそうなら、マルコには判断材料がない。
焦燥に惹かれて、パニックがじわじわと忍び寄ってきた。
考えるより今すぐ駆け出したくなる。頭の芯に蓄積した疲労が、集中力を奪いかけていた。
マルコは努めて事実だけに目を向けることにした。
どれが正しいのか、わからない。
それは見た目が同じだからだ。
ならば、他のなにかで判断するしかない。
マルコは瞼を閉じた。己の行為に対する疑惑を押し殺して、耳を澄ます。
聞こえてくるのは鳥の声、虫の羽音、葉のそよぐ音。
もっと遠くを聞くには、自分の息づかいが邪魔だった。マルコは呼吸を緩やかにしていく。
次第に落ち着き始めた心の中に、わずかな異物感があった。
これがあると、集中できない。自分はまだ焦っているのか。
いや、しかし、これは焦りとは違う。
これはむしろ――
それをしっかり捕捉した瞬間、マルコの顔色は一変していた。
ひどく思い詰めたような表情で、虚空に視線を投げている。ただならぬその様子に、リタが気付いた。
「マルコ? どうしたの、しっかりしなさい!」
がっくりと膝を折り、胸の前で両手を握り締めて、マルコはぶるぶると震えた。
駆け寄ったリタに助け起こされ、目を合わせる。額に汗が浮かんでいた。
「いた……母さん、シルビアが! 早く、早く行かないと!」
支える手を振り払い、マルコは駆け出した。
「おい、全然別方向だぞ!」
慌ててリカルドが叫ぶ。マルコには返事をするゆとりがなかった。
彼女の心を彼はたどっていた。
ペンダントによって増幅されたそれは、たった一つの想いを伝えていた。
信頼。
深い、深過ぎるほどの信頼。
シルビアは、マルコを心底から信じていた。そら恐ろしいほどに信じていた。
小揺るぎもしない一途さ、際限のない優しさ、妥協のない純粋さに、マルコは戦慄すら覚えた。
なぜこんなにも――と疑問を呈したくなる。
だが、それは彼の細胞を沸き立たせ、肉体を激しく躍動させた。
一心に、祈るように、マルコは疾走した。
追走する大人達は初動の遅れもあって、マルコに振り切られないようにするのに、必死だった。
運動能力もさることながら、フィールドへの習熟度が違うのだ。
リタだけが、徐々にマルコとの差を詰めている。
リカルドの部下達は皆よく鍛えられていたが、到底二人についていけない。
「まったく、素敵な休暇ですな!」オーサーが喚く。
「ああ、准尉殿に付き合うといつもこれだ!」レイが喚き返す。
横を走るフリッツに、イルマがたずねた。
「しかし、いきなり、どうなっているのですか! あの子はどうしたんです?」
「エルフの能力だろう? 私にもわからんよ!」
倒木を潜り、岩を蹴り、沢を飛び越えて少年は駆けていく。見た目とは大違いだった。
呆れたように首を振りつつ、リカルドはフリッツに言った。
「なぁ、これ本当に全部秘密にしなきゃ駄目か?」
アンディとビーンは、天幕から少し離れた森の中で、背中合わせになって見張りをしていた。
アンディの担当は、正面の獣道だけだった。
痕跡を追ってきた場合、ルートによってかかる時間はまちまちだが、最終的にはこの獣道に合流する。視界が開けているので、追跡者がくればすぐわかるだろう。
反対側にいるビーンはそれ以外の全周を見張っている。
こちらは藪や木々に閉ざされているので、相当神経を使わないと、接近を感知するのは難しそうだ。
「よお、交代しようか?」とアンディ。
「お前にゃ、無理だ。そっちを見張れ」
ビーンの返答はにべもない。
「そんな言い方ねぇだろ? こっちは親切で言ってるのに」
「黙れ。あの小僧は、何度も俺の気配に気付いたんだぞ。お前ごときが……」
突然、ビーンは口をつぐんで地面に耳をつけた。
数秒間、動かずに瞼を閉じている。体を起こすと、剣を抜く。
ぎょっとしたアンディを、彼は天幕のある方へ押しやった。
「バフに伝えろ。西から四、五人きた、とな。五分ねぇぞ、急げ」
ビーンは獲物に接近する肉食獣のように、しなやかに前進し始めた。
もうアンディのことは見てもいない。事態の急転にアンディはうろたえ、回れ右をすると慌てて走り出そうとした。その時、なにかが倒れる音が彼の耳に届いた。
「ビーン? おい……?」
藪の向こうにビーンの姿はなく、静寂だけが広がっていた。
叫ぼうとした口を、しなやかで強靭な指先が塞いだ。
「母さん?」マルコはそっと呼びかけた。
「ええ、もう大丈夫。終わったわ」
木陰から音もなく姿を現したリタは、見慣れない表情をしていた。
あえて言えば、仕事中のそれに近い。いずれにしても、マルコにとって母は母だった。
マルコは木々の間からのぞいている天幕を指さした。
「あそこにシルビアがいる。母さん、早く行こう!」
地団太を踏みかねない様子で、マルコは母の手をつかむ。今にも駆け出しそうだ。
それを体ごと引き戻し、リタは有無を言わさぬ口調で言った。
「落ち着きなさい。無闇に突進しても、彼女を危険にさらすだけよ」
「わかってるよ! わかっているけど……」
尚も言いつのろうとするマルコの目前に、リタは顔を寄せる。真剣な眼差しだった。
「マルコ。お前だけが、あの娘を心配しているつもりなの?」
言葉を失った息子に、リタは微笑んだ。
「やっつけるだけなら、母さん一人で充分。でも、それじゃ意味がないわ。だから、皆の助けがいるの。お前にもちゃんと手伝ってもらうから。ね?」
「うん……」うなずくマルコ。
遅れていたリカルド達も、ようやく追いついてきた。
息を整える間を利用して、彼等は段取りを立てた。
フリッツ達の気配にまぎれてリタとマルコがこっそり忍び寄った形です。





