デブは、闇を恐れない
夜の森は意外に騒々しい。
夜行性の動物、鳥、虫の息遣いに満ちている。
加えて、今晩のように風が出てくると、木々や藪が揺れてうるさいくらいにざわめくのだった。
視界が利かない分、音に敏感になるのかもしれない。
ただ、マルコの場合はあまり関係ない。
わずかな月明かりがあれば困らないだけの夜目はあるし、聴覚も元々鋭いからだ。
彼は夜を駆けていた。
目的地までの距離は把握しているので、無理にペースを上げたりはしない。走っているのは森そのものではなく、山道である。足元に気を配る必要はあるが、一本道なので迷う心配はない。
「――あれ?」
マルコは立ち止まった。
以前森で感じた気配が、付近をかすめたような気がしたのだ。
しかし、周りに音源があり過ぎて、正確に判断できなかった。
しばらく探ってみたが、気配はもう現れなかった。
なにか、嫌な感じだった。
たちの悪い相手のような気がする。
やはり彼が知らない獣が、この辺りに住み着き始めたのか。今までの行動パターンからして、本来は夜行性の肉食獣なのかもしれない。
不意打ちを食わないように警戒しながら、マルコは再び走り出した。
幸い何事もなく、廃坑跡に到着した。
朽ちた住居が墓標のように立ち並び、あちこちに廃材が積まれている。赤錆びた鉄の匂いが鼻をつく。
中央の広場からは、放射状にトロッコのレールが伸びており、その先は坑道に繋がっていた。
「え、ええと……どこ、だっけ……」
マルコは呼吸を整えながら、周囲を見回した。
夜の世界では、よく知っているものでも大分印象が変わってしまう。
おまけに彼はここ一年ほど、廃坑跡には足を踏み入れていなかった。
ようやく目指す坑道を見つけ出し、マルコは木材で塞がれた入り口をのぞき込んだ。
月の光さえ届かぬそこは、ただぽっかりと真っ暗な穴があるばかりであった。
鞄から小さなランタンを取り出し、マッチで火を灯す。
マルコは木材の隙間から坑道の中へ入り込んだ。
そこかしこに岩が転がっているが、道幅は充分で、楽に立てるだけの高さもあり、歩くには支障ない。灯りを避けて、地蟲がこそこそと逃げて行く。
奥に進むにつれて、坑道全体が湿っぽくなってきた。
濡れた壁がてらてらと灯りを反射し、天井から滴が落ちてくる。足元にも水が溜まった場所があり、靴がすっかり濡れてしまった。
自分の呼吸音が、壁に反射して耳元にまとわり着く。
「やっぱり、あんまり気分のいい場所じゃないなぁ……」
思わず漏れた独り言も、妙に反響して聞こえた。体が冷えてくる。
探している場所には中々たどり着かなかった。
記憶違いかと思い始めた時、横合いから求めていた間道が出てきた。
マルコはランタンをかざして中を照らした。
「――あった……!」
落盤でなかば塞がった道だったが、見覚えがあった。
マルコは本道の壁に立ち並ぶ太い木材に目を付けた。ランタンを地面に置くと、木材をめりめりと引き剥がし、間道の入り口に戻る。
自分の身長以上の長さがある木材を軽々と振るって、どん、と土砂に突き立て、ぐいぐいと奥に押し込む。間道の先には空間があるので、通れる隙間を作るだけなら、土砂の山を掻き出すより押し崩した方が効率はいいのだ。
だが、少々景気よくやり過ぎたらしい。
土砂が崩れるより先に、天井からパラパラと土くれが落ちてきた。
「え……うわっ!」
マルコはとっさに本道まで飛び退き、尻餅をつく。
入れ替わるように新たな落盤が起こり、轟音を立てて土砂が雪崩落ちる。
落盤が終わると、間道は完全に塞がれてしまった。
「まいったなぁ。もう、他の場所なんて……」
立ち上がろうとして地面についた掌が、目的の石をつかんでいた。
坑道の外に出ると、月の位置はかなり西よりになっていた。
マルコは小走りになったが、背中で揺れる鞄が気になり、広場の中ほどで足を止める。
鞄を探って石を取り出す。
月にかざすと、石は不思議な透け方をした。満足気にうなずいて石を戻そうとした時、四方に影――いや、わだかまる闇の塊が出現した。
黒々としたそれは奇妙に生々しく、煮えたぎる泥の塊のように、ふつふつと息づいている。
月がかげると、闇はまるで成長する植物のように、ぬるり、と上方へ伸び上がった。
「駄目だよ。どいてよ」
彼の制止などお構いなしとばかりに、四体の闇達は前後左右から接近してくる。
闇の表面には奇妙な模様が繰り返し現れては、流れるように消えていた。
マルコを取り囲み、闇達はおうおうと吼えた。
「どいてってば!」
彼は勢いよく正面の闇に飛び込んだ。
ぐっ、と張りのある半固形の塊を押すような感触の後、闇は弾けた。幾つもの塊にわかれ、音もなく地面に撒き散らされる。他の闇達も、一斉に退く。
怖がりさえしなければ、この闇はイキモノを害することはできない。マルコはそれを知っていた。
広場の端まで駆けて、マルコは振り返った。
弾けた闇は他の闇に見守られながら、もぞもぞと寄り添って接合し、元通りになりつつあった。
「ごめん。でも、君達がなにを伝えたいのか、わからないし……」
手にした石に目を落とす。
「――もしかすると、使えるかな」
マルコは闇達にゆっくり歩み寄った。少し離れた所で止まり、地面に石を置く。
数歩下がって様子を見ていると、闇の一つが石に触れた。
闇が石を取り込んだのか、石が闇を吸い寄せたのか。
するり、と石は闇の中に入り込み、水面を流れる小枝のようにくるくると回転しながら浮遊している。
唐突に、マルコの脳裏をなにかがよぎった。
闇。
土砂。呼吸。
熱。骨。崩落。
出口。酸素。肉。恐怖。
血。苦痛。死。死。死にたくな――
おおおおう、と長く伸びる吼え声に、マルコははっとした。
額にびっしりと、冷たい汗がにじんでいる。
「ヒトの影……ここで昔死んだヒト達の影……?」
闇が伝えてきた心象は、強烈ではあったが、ひどく散漫でもあった。
はっきりしたイメージが浮かぶ前に、次のイメージが押し退けるように現れる。先を争ってせまい出口へ殺到し、結果誰も外に出られない――マルコには、そんな風に感じられた。
共通しているのは、死。
どのイメージも、真っ黒な死でぬり潰されている。
廃坑で死んだヒト達の、命の残滓。それが寄り集まって堆積し、カタチを成しつつあるもの。
つまり、この闇達はイキモノと逆の方向から出発して、「カタチのある現象」――精霊へ成ろうとしているのかもしれなかった。
闇の内部で石がすうっと落下した。こつん、と音を立てて着地する。
気のせいか、闇のカタチがわずかに薄れているようだ。ゆらゆらと全体を揺らしてマルコから離れると、闇は地に染み込むように消えた。
後に残された石を、他の闇達が物欲しげに見ているような気がした。
「もしかして、成りたくないの? 君達は成りたくなくて、消えてしまいたいから、心を打ち明けたがっているの……?」
そうたずねても闇達はただおおう、と叫び返すばかりであった。
気が付くと、最初からいた三体の他に、大小様々な闇の柱が周囲に林立していた。
マルコはため息をついた。
すべては想像に過ぎない。
彼の考えが正しかったとしても、少し話を聞いてやるくらいでは、なんの解決にもならないだろう。
そう、ただの慰め、単なる自己満足だ。
これはヒトでもイキモノでもない。哀れみは無意味だ。
それに、早く帰らないと夜が明けてしまう――
「ほら、おいで」
マルコが手招きすると、一体の闇がのろのろと石に接近してくる。
今度はイメージに巻き込まれ過ぎないようにしなくてはいけない、と彼は思った。
自分が馬鹿をやっていることは、充分過ぎるくらいに理解していた。
かつてのマルコならこんな無駄なことは絶対にしなかったはずだ。
だけど、シルビアならきっと彼等を見捨てない。
例え恐れても、放っておけない。
なぜかそんな気がするのだった。





