強いデブには、空気が読めない
夏の日々は穏やかに流れていった。
ヤギの背に乗って競争し、地面の小さな穴に草を突っ込んでセミの幼虫を釣り上げた。
森を歩き、淵で泳いだ。あのヤママスはやはり現れなかったが、代わりにシルビアが助けたウィングキャットの姿を、水辺で見かけた。
マルコとシルビアはその一つ一つを心から楽しみ、よく笑い、沢山食べて、ぐっすり眠った。
彼女が山荘にきてから、十日あまりがたっていた。
マルコは山荘の裏手側で薪割りをしていた。
勢いよく斧を振り下ろす。
ぱんっ、と小気味いい音が鳴り、薪は綺麗に二つになった。
斧は柄に紐を通して輪を作ってあった。
本来は両手持ちサイズだが、マルコは紐を手首に巻き付け、片手だけで斧を振るっている。
「マルコ! ちょっと来なさい」
「はーい」
母の声に返事をして、薪割りを中断する。
玄関先のテラスに顔を出すと、椅子に座ったシルビアがリタに散髪してもらっていた。
シルビアは真っ黒に日焼けしている。
もうすっかり、地元の娘と言った様子であった。
「ほら、シルビィ。駄目よ、掻いたら」
シルビアの体には布がかけられていた。
布の端をたくし込んだ首元から下は隠れていたが、なにやらもぞもぞと布地が動いている。
どうやら肌の日焼けを掻こうとしているらしい。
「うーん。でも、かゆいの」
我慢するためか、シルビアは足をパタパタと振る。
声に甘えた響きがあった。
「ちょっと待ちなさい。マルコ、かゆみ止めを持ってきて頂戴」
「うん」小走りに家の中へ入るマルコ。
戻ってきた彼が持っていたのは、濃い緑色をした肉厚の葉と、ナイフだった。
シルビアはその葉をしげしげと眺めた。
「お母さん、これがかゆみ止めなの?」
「そうよ。前に作った軟膏もあるけど、今の時期ならこれを直接塗った方がよく効くわ」
リタはシルビアの体から布を外してテラスの柵にかけると、マルコから葉とナイフを受け取った。ナイフを使って葉を薄くスライスし、断面からにじみ出た粘り気のある液をシルビアの腕に擦り付ける。
「ひゃっ!」
冷たいのか、シルビアは妙な声を上げて肩をすくませたが、やがて鼻をひくひく動かした。
液を塗られた腕を持ち上げ、匂いをかぐ。
「あ、これって……」
「いい香りでしょ。香水に混ぜたりもするのよ」
リタは葉をスライスしつつ、シルビアの腕、肩、頬に液を塗りつけた。
最後に鼻の頭にも一塗りする。その間、シルビアはただじっとしていた。リタに構われるのが、嬉しくて仕方ないようだった。
マルコは思わず呆れ声で言った。
「ねぇ、シルビア。どうして君は母さんの前だと、赤ん坊みたいになるの?」
シルビアはぱっと椅子から立ち上がると、服をぱんぱんと叩いた。散髪は終わったらしい。
「別に、そんなことないわ」
「ほら、全然違うじゃないか」
「違わないわよ。普通だもの」つんと顎を反らす。
彼女が誤魔化しているのは、明らかだった。
すっかり気の置けない仲になったとは言え、シルビアのこうした態度はマルコにはよくわからなかった。
彼に対しては常に対等になろうとして頑張り、意地も張る姿とギャップがあり過ぎるのだ。
母の方もシルビアには甘い。
相手が客であることを差し引いても、甘い。注意する時でも声に優しさがある。
それが少し面白くなかった。シルビアと母の輪の外に自分がいるような気がした。
「甘えるなら、自分の母さんにしなよ」
甘えてないわよ、と言い返されるだろうとなかば思いながら、マルコは言った。
だが、シルビアは顔を強張らせ、怯えたように黙り込んでしまう。
「シルビア? どうし――」
言っている途中で、マルコの視界が揺れた。同時に頭頂部に痛みが跳ねる。
リタが拳骨でマルコに一撃を加えたのだった。
「な――」
「お馬鹿! シルビアちゃんは……」
説教を始めようとしたリタを、シルビアが止める。
「いいんです、マルコくんは知らなかったんですから」
シルビアはマルコに顔を向け、静かに言った。
「わたし、お母さんはいないの。ずっと前に亡くなったから、覚えてもいないわ」
彼女を直視できず、マルコは目を逸らした。
「でも……ぼくも父さんはいないよ。だけど、別に……仕方ないじゃないか。どうしようもないことだよ。いつまでもこだわるなんて、おかしいよ!」
支離滅裂な言いわけだった。
どうしたわけか、口が勝手に喋っているようで、マルコが止めようと思っても止まらなかった。
「だって、もう死んじゃった人でしょ? そんなの、気にしても――」
リタは息子の腕をつかんで揺すり、口をつぐませた。
「およし、マルコ。お前とシルビアちゃんは別の人間なのよ。自分と同じように考えないからって、責めるつもりなの?」
「……」
そんなつもりはなかった。ないはずだった。
シルビアはひどく悲しそうだ。
だから、自分がなにか決定的なことを言ってしまったのだとわかった。
だけど、なにがそんなに悲しいのか、わからない。
顔も覚えていない母親の死。それはとうに終わった出来事ではないのか。
「マルコくん? 本当にいいから、気にしないで。リタおば様も」
シルビアの声はマルコに届いていなかった。
リタは腕組みして、ふむ、と鼻を鳴らすとシルビアに笑いかけた。
「そうね、シルビィがそう言うならね」
シルビアの手を引いて、リタは山荘の中に入っていった。
夕食の席で、マルコはほとんど喋らなかった。
かえってシルビアが気を遣い、あれこれと話しかける始末だった。
食事の後、彼は逃げるように自分の部屋に戻ってしまった。
シルビアは客間の中をうろうろしていた。既に寝間着姿だが、ベッドに入る気になれなかった。
ノックの音がすると、彼女は扉に駆け寄った。
「はいっ! ……あ、リタおば様」
「ちょっとお邪魔していいかしら?」
「はい、どうぞ」
リタは部屋に入ると、ベッドに腰かけた。傍らのシーツをぽんぽんと叩く。
シルビアは素直にリタの横に座った。
「ごめんね。マルコがきたかと思った?」
「えっ……あの、はい」
困ったようにシルビアは答える。正直ね、とリタは軽く笑った。
「あのう、おば様……」
リタはひた、とシルビアの唇に指を当てた。
「お母さん、は?」
シルビアは少しためらってから、リタにぎゅっと抱きついた。
「うん、お母さん……」
リタは黙ってシルビアの髪を撫でていた。
シルビアは抱きついたまま、リタを見上げた。
「お母さん、マルコくん、大丈夫かな」
「大丈夫、大丈夫。あの子、食事だけはきっちり食べてたじゃない。少しは食欲が落ちた方が、スリムになっていいのにねぇ」
あくまでもお気楽そうな口調のリタに、シルビアは真剣に訴えかけた。
「でもわたし、本当にもう気にしてないの! だから……」
リタは髪を撫でる手を止めると、シルビアの肩を抱いた。
「マルコは強い子よ。とても強い子。もし私がいなくなったとしても、すぐ立ち直って、この森で元気に生きていけるくらいにね。だから、そう言う意味では私はあの子の心配をしたことはないの」
「そんな……」
「本当よ。エルフの特徴なのか、私にはわからないけど、父親にもそんな所があったわ。冷たいとも、合理的とも言えるし……そうね、森の世界に近いのよ。例えそれが残酷なものであっても、自然のルールには淡々と従う。死は覆しようがないのだから、それが肉親の死だろうと、ただ受け入れて終わらせる。それ以上のことは無駄なだけ」
リタは少女としっかり視線を合わせた。
「だからマルコはきっと、シルビィが今でもお母さんを慕って悲しむのはなぜなのか、わからないのね」
リタの言葉にショックを受け、シルビアはうつむく。
「でも、マルコくんは――とても優しかったわ。わたしのこと、すごく、すごく心配してくれたもの……!」
声を震わせるシルビアをなだめるように、リタは答えた。
「勿論、あの子はちゃんと人並みの感情を持っているわ。だけど、ここで私だけと暮らして来たから、他人の間で生きていくのはどういうことなのか、まるでわかっていない」
ほとんど誰も訪れない山荘。
マルコの世界には、森と母しかなかったのだ。
「シルビィ。あなたは、マルコにとって初めての他人なのよ」
混乱し、シルビアはゆっくりと首を振った。
「わたしもわからない……それなら、マルコくんは今、なにを悩んでいるの?」
「他人と自分のルールは違う。だから、どんなに大切に思っても、かみ合わない時もある。それはわかるでしょ?」
シルビアは首をかしげた。
「はい。でも、それは当たり前のことだわ」
「いいえ、あの子には違うのよ。マルコはシルビィを傷付けた。そして、その理由が理解できない。だから、きっとこの先も、知らないうちに何度もあなたを傷付ける――マルコはそれを怖がっているのよ」
金髪日焼け女子ってよくないですか? よいですよね?
という気持ちで書きました。





