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不安解消方法(4)

 結局、俺が一人であれこれ考えて、焦れてたってどうしようもない。

 本人とちゃんと話して、元気のない理由を確かめなければならない。それが本当にただの体調不良だけだったとしても、あるいは昨夜、彼女を沈ませるような何事かが起きていたんだとしても、小坂が俺に教えてくれなきゃ始まらない。

 もし――考えたくないことだがあえて可能性を排除せず、昨夜、彼女にすごく不快な出来事があったのなら、彼女はそんなもの思い出したがらないだろうし、俺にまでいちいち言いたがらないかもしれない。でも、俺は聞きたい。彼女のことは何でも知っておきたい。たとえそれが俺にとってもものすごく不快な代物だったとしてもだ。


 アフターフォローは上司の務めで、彼女を支えるのは俺の責任。

 どうしたって彼女は、少なくとももうしばらくは営業課員として働いて、外にだって出てくんだから、せめて俺が今日みたいにやきもきしたり、皆から質問責めにあって『こっちが知りたいよ』って辛い気分になったりしないようにできたらと思う。

 俺には藍子が絶対に必要だが、営業課にとっても小坂は必要な人材の一人だ。

 だからこの先もこんな事態、こんな日があるってことも、覚悟しとかなきゃいけない。

 彼女と話をしよう。そして沈んでる理由を聞こう。どんな原因があったとしても、俺はなるべく冷静に、その対処法を考えて、彼女に言い聞かせなければならない。

 とっくに冷静さなんてどこかへ吹っ飛んでる気はするものの――俺は霧島ほど真面目じゃないが、それでも彼女のこととなったら怒鳴り込みにいきたくなるかもしれない。上司としてはどんな事情があってもひとまず大人の対応を取るべき局面なんだろうが、事と次第によっては大人ぶっていられる自信がない。

 つくづく、これだから社内恋愛は大変だ。


 小坂はこの日、午後五時過ぎに帰社した。

 その後は机に向かって見積書なんかを作成し出したので、確実に残業コースのようだ。もっとも繁忙期には残業じゃない奴の方が稀だから、定時を回っても営業課には大勢の人員が居残っている。

 それで俺は彼女の傍を通る際、机の上に小さなメモ書きを置いてやった。

『今日、送って帰る』

 小坂がどうしても具合悪いって言うなら話は別だが、今朝は大丈夫って言ってたし、立ったら俺としては是が非でも時間を作って、話をしてもらえなきゃ困る。こんな落ち着かない気分のまま明日なんて迎えられる気がしない。メールで伝えるって手も考えはしたが、いつにも増してぼんやりしてる小坂がメールの確認もせず帰宅した後それに気づく、ってパターンも想定されたので却下。

 小坂は俺が置いたメモにすぐ気がつき、無言でちらっと顔を向けてきた。何か言いたげではあったが、嫌がっているようには見えなかったので、了承されたものと思っておく。

 彼女のことだ、駄目なら駄目って言ってくるだろう。今日ばかりは言わせないが。

 そうして強引にも約束を取りつけた後も、俺はとにかく彼女が気になってしょうがなかった。帰社後の小坂は至って真面目に業務をこなしていて、俺以外の誰かとお喋りをするような暇もないらしく、彼女がどんな気分でいるのかは推測しようもなかった。

 ただ確かに、今日はあんまり笑わないよな、とは思った。


 退勤したのは小坂の方が先だった。

 俺がその後を追うように仕事を終えたのは午後八時過ぎ。くしくも昨日と同じ時間帯だ。大急ぎで駐車場へ向かえば、俺の車の前にはちゃんと彼女が待っていてくれて、ひとまずそのことにほっとする。

「悪いな、疲れてるのに待たせて。立ってるの辛くなかったか?」

 駆け寄りながら尋ねる。

 すると小坂は、慌てて首を横に振った。

「いえ、むしろ急いできていただいちゃってすみません」

 それから、恐る恐るといった調子で聞き返してくる。

「もしかして、私の具合が悪いと思って、それで送るって言ってくれたんですか?」

「それもある」

「ごめんなさい……。体調は本当に、昨夜よりはずっとよくなったんです。頭ももう痛くありませんし」

 俺の含んだ物言いを、意外にと言うか案の定と言うか、ともかく彼女は感づかなかったようだ。一層焦ってみせただけだった。

 車のキーを開け、まずは二人で乗り込む。


 俺がドアを閉める頃、乗り慣れてる彼女は例によってさっさとシートベルトを締めてしまっていたから、早く帰りたいのかなって今日に限って考えてしまう。疲れてもいるだろうしな、長引かせるのはまずいか。

 出方に迷いつつ、俺はハンドルの上に両手を置く。

 それから怪訝そうな小坂を横目で見て、

「今日、ちょっと話せるか」

 最初はそんなふうに切り出した。

 俺の声も、今日一日の彼女と同じように暗く沈んでいたし、恐らくそういう気分は顔にも出ていることだろう。俺を見た小坂は急に不安げな面持ちになる。

「えっと、私は構いませんけど、どうかしたんですか」

「いや、聞きたいことがあるだけだ。具合、本当に悪くないんだよな?」

「はい」

「じゃあこの後、少し時間くれ。何なら晩飯食いながらでもいい」

 これからする話題的には飲みに誘う方がしっくり来るんだろうが、小坂は昨日も飲んできてたし、二日連続じゃいくらなんでも辛かろう。それならどこか落ち着いた店で食事でも、というつもりで俺はそう言った。

 だが、彼女はそこで曖昧な苦笑を見せた。

「私はあまり食欲なくて……飲み物だけお付き合いしてもいいですか」

 そしてその言葉を聞いた瞬間、昨夜から現在に至るまで俺の中に積もり積もっていたあらゆる不安、懸念、ネガティブな想像が一気に噴出して、悪寒となって現れた。

 息もできないほどの衝撃に、車のエンジンをかけようとしていた手が滑り、俺はぎくしゃくと助手席の彼女に目をやる。

「お、お前、今、何て……!?」

 済まなそうな彼女にかけようとする声も、無様にうろたえていた。

 そのくらい驚かされたんだ。だってまさか、それは、それだけはないだろ。

「どうしてそんなに驚くんですか」

 小坂が可愛いふくれっつらを見せても、いつものように可愛い可愛いと和む気にはなれなかった。いや可愛いのは事実だが、とてもじゃないがさっきの発言の余波が大きすぎて気持ちが和まない。

 それどころか、心臓が痛くなってきた。

「だって、お前が食欲ないとか! そんなことあるのか!?」

「ええ!? あ、ありますよ私だってそのくらい!」

「いや、普通はないだろ。よっぽどのことでもない限りないだろ!」


 食欲のない小坂なんて、俺に対して優しい霧島よりもよっぽどレアだ。

 去年からずっと、俺は彼女のことを見てきた、そして熱心に観察もしてきたつもりだが、彼女が食欲ないと訴えてきたのは片手で数えられるほど、しかもそれらのほとんどは普通じゃない、特別な出来事が起きた後ばかりだった。今まではいい意味で、食欲よりも他の感情が勝った、そんなことが多かった。

 だが今日のは違う。嫌な予感が胸中をぐるぐる駆け巡る。


 俺は身を乗り出し、シートベルトにがっちり捕らえられた彼女の肩を両手で掴んだ。

 びくっと身体を震わせた小坂の目を覗き込むようにして、至近距離から尋ねた。

「俺に教えてくれ、藍子」

「え、な、何をですか……?」

「昨夜、何があったかをだ。お前の食欲がないのはそのせいなんじゃないのか?」

 ここまで来ても俺は、そういった推測が全部的外れであることを望んでいた。

 その微かな希望を、彼女はわずかに逸らした視線で打ち砕く。

 車内の空気が停まったような気さえした。――本当だったのか。そうじゃなければいいって思ってたのに、お前が、本当にそんな目に遭わされてたなんて。

「隆宏さんは……」

 そうして彼女は弱々しい声で、俺の名前を口にする。

「私が昨夜、何か嫌な思いをしたから、食欲がないんだってお思いなんですか?」

 視線が俺の方へ戻ってきた時、表情にもいくらかの決意が覗いた。

「ああ」

 俺がすかさず頷けば、その顔がちょっとだけ和らいで、

「どうして、わかっちゃうんですか。内緒にしてようと思ってたのに」

「そんなのは駄目だ。俺の知らないところでお前が苦しんでるなんて、俺には耐えられん」

「でも……」

「それに、わかるのは当たり前だろ。俺はずっとお前のこと見てきたんだからな」

 上司としても、それ以外でもだ。

 だからお前のちょっとした変化にも気づけるつもりでいたし、お前が食欲ないなんてよほどのことだってのも知ってるし、今日みたいな日はお前がどうかしたのかって心配や不安で頭がいっぱいになって、どうしようもなくなってしまう。

「内緒になんてしないでくれ。俺は知っときたいんだ、お前のことなら何もかも、全部」

 俺はお前の全てを網羅したいと思ってる。お前について、俺の知らないことがあるって事実こそ最早耐えられない。それがどんなに知らない方がいいような情報でも。

「お前の悩みとか、辛い思いとか、そういうのもちゃんと教えてくれ。黙って一人で背負い込むような真似なんてするな。そうじゃないと俺は――俺の方が、何にも知らされないでお前のことばかり考える俺の方が、本当にどうにかなりそうだ……!」

 彼女の頬を両側から手のひらで包むと、柔らかくて温かくて、藍子が目の前にいるんだって実感できた。


 今日一日でどれほど、彼女のことを考えただろう。

 どれくらい、話がしたいって思っただろう。

 そういう気持ちで気が触れそうになった俺を、彼女はどう思うだろう。

 しようと思えばたやすくキスできるくらいの距離から、藍子は呆然と俺を見ている。いつもは何を考えてるのかわかりやすいことこの上ないのに、今日に限ってはその表情が読めなくて、胸が軋むようだった。


「隆宏さん……」

 もう一度俺を呼んだ彼女が、

「あ、あの」

 その後でふと気づいたように、幾分恥ずかしそうにフロントガラスへ目をやった。

 蒸し暑い車内はまだエンジンがかかっておらず、曇るガラスの向こうには我が社の地下駐車場の照明が見える。そういえば、まだ移動してもいなかった。

「ああ、そっか……」

 別に人目を忍ぶ仲ではないんですが、ガラスが曇っちゃってるのがどうにも、俺としても恥ずかしいです。人に見られたらちょっと嫌だ。

「場所移すか」

 散々言っちゃった後で、俺は多少の気まずさを思えながらそう提案した。

 勢いで結構な台詞を言っちゃったけども、よくよく考えれば俺、そこまで思ってたのかって自分で驚くくらいの心境だった。いや、嘘じゃないんだけどさ。本当なんだけど――こんなんで俺、この先やってけんのかなってくらい。

「車、運転できますか」

 彼女が真剣にそんなことを聞いてきたから、俺はその頬から手を離しつつ運転席へ戻る。そして拗ねたい気分で答えた。

「もうちょい落ち着いたらな」

 言いたいことを言い切ってしまった後だからか、さっきよりもスムーズに、問題なくエンジンをかけられた。

 途端に吹き込んでくるエアコンの風は、社用車よりもずっと素早く冷風に切り替わってくれる。どっちにしろ曇りが取れるまで動けんし、その間に気持ち落ち着かせよう。

 段取りよくシートベルトを締めたままの彼女が、もぞもぞと姿勢を正す。その後でこちらを目の端で見て、どこか臆病そうに笑んだ。

「隆宏さん」

「ん、何だ」

「あの、隆宏さんは、ああいうお店、行ったことあるんですか」

 おずおずと問われた内容を、その瞬間だけでは理解できず。

 少し考えてから思い当たった途端、さっき『食欲がない』と言われた時の三分の一くらいは動揺した。

「あ、つまり、昨夜のあの店みたいなってことか?」

「そ、そうです。そういうのって……」

「いや、まあ、少しは、なくはないけどな。でもあくまで付き合いでだ、仕事の! 俺の趣味じゃないし!」

 弁解してる口調になったのは誤解されたくないからっていうだけであって。


 そりゃ飲み会だ接待だとあちこちついて回ればそういう機会の一度や二度あるだろ。

 そんな場面で潔癖症じゃいられないから、やむなく随伴したこともあるよ。でも別に俺が好き好んでそういう店に行くとかでは断じてないからな。俺はぶっちゃけその手のお姉さん方よりも、初々しい素人娘の方がタイプだし――っていうのを全部口にしたらものすっごい言い訳に聞こえてきそうなので、ここはあえて呑み込んでおく。

 嘘ではないんですけど。

 そしてやましいところも一つとしてないつもりではいるんですけど、何かめちゃくちゃ頭働いちゃうよな、こういう時って。


「そうですよね」

 どういう意味の納得なのか、ともかくも藍子は頷いた。

「私は昨夜、初めて行きました」

 それから視線を外して、曇りの取れた窓ガラスをじっと見据え、

「どんなところか、何にも知らなかったわけじゃないですけど……でも実際行くとびっくりしました。きれいな女の人ばかりで、しかも皆さんすごく接客上手で、優しくて」

 見てるこっちが不安になるような、沈んだ横顔をしていた。

「だからか、取引先の方に言われたんです。『小坂さんも少しは見習った方がいい』って」

 続く声はひっそりと静かに、

「……『どうせ腰かけなんだから』って、言われました」


 その言葉のせいで、俺は車を出すタイミングを完全に失った。

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