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熱帯夜(1)

 七月第三週の金曜、俺は三十一歳の誕生日を迎えた。

 そしてその翌日の土曜、俺は可愛い彼女と買い物へ出かけていた。

「うーん……」

 その可愛い彼女は難しい顔で、さっきから長いこと悩んでいる。


 今日はお互いへのプレゼントを買う為に、駅前までやってきた。

 俺の目当ては以前話していたサドルレザーのキーホルダー。それに合鍵をつけて、今まで以上に有効活用していただこうという魂胆だ。彼女の方も俺に誕生日の贈り物をしたいと言い張るので、同じ店で何か適当な品を見繕ってもらおうと考えていた。

 まず足を運んだ先はいわゆるセレクトショップという類の、服屋なのか雑貨屋なのかはたまた文房具屋なのかあやふやな店たちだ。

 一部趣味だけで置いてそうな品揃えは、売ってるのかただ飾ってるだけなのか測りかねるものの、雑然とした店内を見て歩くだけでも割と楽しい。二人でカバンの試しがけをしたり、アロマオイルの効能を読みふけったり、愉快な柄のクリアファイルを選んだりしながら革製品のコーナーを探す。


 そうして辿り着いた売り場で、とんぼ玉のストラップを見つけた。

 丁寧に縫製された雫型の革地の上に、ころんとしたとんぼ玉が乗っかっている。形状は運動会の、スプーンにピンポン玉を乗っけて運ぶ競技を連想させる。もっとも大きさ的にはピンポン玉よりもビー玉の方が近い。

 ともあれとんぼ玉はやたら種類豊富で、青や緑や黄色のこっくりした色合いから、本当にビー玉のような透き通ったものまで多種多様だ。そこに描かれた模様も白い花の小さな模様や波の模様やらといろいろあって面白い。女の子はこういうの好きそうだよなと思っていたら、案の定、藍子もすっかり気に入ってしまったらしい。

 いいなあ可愛いなあと溜息をついていたが、俺としてはそんなお前が可愛い。


 だから、じゃあこれを買ってやると言ったら、

「どれがいいのかなあ……どれも素敵で、目移りしちゃって困ります」

 種類が豊富すぎて決めかねているようだ。仕方のない奴め。

 だがこれだけたくさん並んでいたら目移りだって無理もあるまい。普段から肌身離さず持っててもらう品なら尚のこと、自分の気に入った、かつ長く持ち歩いても飽きの来ない一品を選んで欲しいものだ。

「時間あるし、ゆっくり選べよ」

 俺が声をかけると、藍子はちょっと恥ずかしそうに笑った。

「すみません、もう少し悩ませてください」

「好きなだけ悩め」

 アロマ的な香り漂う店の中、二、三種類を手に取ってためつすがめつする彼女を、俺は愉快な気分で眺めている。セレクトショップ特有の、この何とも言えない香りが非日常的で、今日が休日だってことをしみじみとわからせてくれた。藍子とは毎日顔を合わせているが、当たり前ながら休みの日に会うのが一番よろしい。


 それに加えて、俺の誕生日祝いである。

 去年の誕生日は彼女もいなけりゃ祝ってくれそうな相手もいなくて、おまけに三十の大台に無理やり乗っけられてしまうという状況もあって、朝のうちはとにかく憂鬱でしょうがなかった。夜には祝ってくれる女の子がひょっこり現れてくれたお蔭でそれはもういいバースデーになったものだが、だとしても『三十歳も捨てたもんじゃない』と思えるまでにはそれからややしばらく時間がかかった。現実にはむしろ『三十歳なんて超しょぼい』の方が、より実感できてしまったけど。

 さておき今年の誕生日は去年と違う。

 祝ってくれる彼女がいる。三十代でいることにも慣れてきた。正直、二十九から三十になるよりも、三十から三十一になる方がぐっとハードル低いってのもある。

 そして三十歳で一年間を過ごしてみた結果、おっさんにカテゴライズされることに対して諦めがついたのもある。

 更には三十歳の意外な青さ未熟さを思い知り、せめてもう少し、女の子一人に振り回されない程度には大人になりたいと思ってる。――もしかすると最後のだけは、年齢関係なく一生付きまとう宿命みたいなものかもしれん。参った参った。

 そんなわけで歳を重ねることにいくらか恐怖感のなくなった俺は、去年よりもゆったりどっしり構えたおおらかな心持ちで誕生日を迎えていた。

 そしてもちろん、素晴らしく幸せである。


 藍子はまだ悩んでいる。眉根を寄せた思案顔が、色っぽい。

「こっちもいいけど、これもいいなあ……」

 見たところ、候補は数個に絞り込んだようだが一つに決められない様子だ。可愛く悩む姿を見ているのはいいものだが、あまりにも唸っているから助け舟を出してやる。

「どれとどれで悩んでんだ」

 そう尋ねると彼女は、手にしていた三個を俺に見せて、

「この三つなんですけど……どの色がいいかなって。深みのあるのも渋くていいですけど、透き通ってるのも捨てがたいし、こっちのお花模様も他にない感じで、手が込んでて可愛いなーって」

 豊富な品揃えからやっとこ絞り込んだだけあって、その三つはどれもなかなかに捨てがたいラインナップだった。

 光沢ある深い藍色のと、薄い緑色の透き通ったのと、乳白色の上にオレンジの花模様が描かれているの、の三種類。どれも新品のサドルレザーに鎮座する姿はいかにも品があるが、長く使い込んだらそれはそれで一層味が出そうな面々だ。

「隆宏さんは、どれがいいと思いますか?」

「俺か? 俺なら……」

 聞かれてすぐに一つ、選んだ。

「これかな。色が好みだ」

 他の二つも確かにいい。でも俺としては、やっぱりこの色――藍色には心惹かれてしまう。派手ではないけどきれいで、目に優しくて、いい色だ。

 くすんだ深い青地に白い花が小さく散りばめられたそれを、彼女も改めてまじまじ見つめる。

「いい色ですよね。私もその色は気になってたんです」

 そして彼女が嬉しそうに笑うものだから、つい突っ込んでやりたくなる。

「お前が言うと自画自賛って感じだな」

「え? どうしてですか?」

「自分の名前だろ。藍子の、藍」

 不思議そうにされるのが逆に不思議だ。

 こっちはその名前に愛着を持っているからこそ、藍色が気になっているのに。


 好きな子ができるとその子にまつわるものまで好きになる、という中坊高坊並みの単純さは、三十一歳になった俺の中にも燻り続けている。

 そういう傾向の一環として俺はいつしか藍色が大好きになってしまった。他の色よりも目につくようになったし、いい色だよなって以前よりも思うようになっていた。そうして藍色の何かとめぐり合う度に彼女のことを考えた。もはや病気だ。とは言え、元々彼女にまつわってなくたってすごくいい色なんだから、好きにならない理由もないっていうかな。うん。

 これは他人に指摘される方が居た堪れない傾向だな、という自覚はあります。


「ああ、そういえばそうですね」

 もっとも、本人は自分の名前に冠する色にさほどの執着もないらしい。俺に言われて初めて気づいたみたいに少し笑った。

「私はこの色、自分の色だって思ったことなかったです」

「俺は見る度に、これ藍子の色だって思ってたんだけどな」

「そうなんですか? 今は藍色も好きですけど、小さな頃はピンクの方が好きだったんです。可愛いから」

 彼女は目を細めて、懐かしそうに語っている。

「『藍子』じゃなくて、例えば『桃子』とかだったらよかったのに、なんて思ったこともありました。藍って、ちょっと大人っぽいイメージがありましたし、余計に合ってない気もして。二十四年も使ってたらさすがに慣れちゃいましたけど」


 それで俺は、『小坂藍子』が仮に『小坂桃子』だったらどうだったかを想像してみたんだが、どうもイメージが湧かなかった。

 ピンクが好きだったという割に、一度お邪魔した彼女の部屋は随分と渋い色彩で統一されていたし、彼女自身にピンクの印象はなかった。

 藍子はやっぱり藍子って名前がしっくり来るし、あの一見ありふれててくすんでて地味なようで、実は深くてとてもきれいで、老若男女に親しまれている藍色の方がよく似合う。そりゃまあ着る物で言えばピンクもそれなりに似合うけど、藍色だって似合うし今のお前はちゃんと大人だしそもそも藍色はあれで可愛い色じゃんと俺は思います。身も蓋もない贔屓目で。


「藍子ってのも可愛い子向けの名前だと思うけどな」

 我ながら歯の浮くような台詞を告げると、彼女はもじもじし始める。

「やだ、全然そんなことないですよ!」

「全然とか言うなよ。日本全国にいる藍子ちゃんはお前だけじゃないんだぞ」

「あっ、確かにそうですね! じゃあ……ええと、私の場合はそうでもないって言うか、実際手前味噌ながらいい名前だと思うんですけど何て言うか……困ったなあ……」

 もじもじしながらまごまごしてる。その困ってる様子がもう、本当にとびきり可愛い。

 柔らかそうな頬っぺたがぷくっとしてて、ほんのり赤くなってて、一生懸命言葉を捻り出そうとしている姿。もっと困らせたい。人目もはばからず盛大に頬ずりしたい。彼女がすごく戸惑った感じでじたばたするのを思い切り可愛がりたい。

 残念ながら、アロマ香るおしゃれな店内でそれをやるのはまずかろうと思うので自重する。過ぎる思いはぐっと堪えて、あえて違う方面へぶつけてみる。

「じゃあ、俺も持とうかな。この色のやつ」

 他の候補を売り場へ戻し、同じストラップを二つ手に取る。藍子が怪訝そうにする。

「隆宏さんもですか」

「おう。同じの買って、お前は合鍵につけて、俺は電話にでもつけとこうかと」

 割とさりげなく切り出したつもりだったけど、途端、彼女ははっとした。

「あ、お揃いってことですか?」

「……まあな」

 ずばりと言われれると若干照れてくる。


 年甲斐ないって思われるかもしれない。三十一にもなって彼女とお揃いストラップとか! 他人にばれたらこっぱずかしい。特に安井辺りには絶対知られたくない。何言われるかわかったもんじゃない。

 でも、そういうこっぱずかしいベタ中のベタみたいなことをしたくなる時もあるんだ。幸せ一杯な時くらい突っ走ったってバチは当たるまい。最近、自分のラブジャンキーっぷりにもほとほと呆れてきてるが、そんだけのめり込める相手がいるってことがどれほど幸せか、ってことも実感している。これは一人じゃできない『ベタなこと』だ。

 今年は、隣に藍子がいる。幸せだと思う。


「お前は俺とお揃いとか、嫌か?」

 一応確認してみると、即座に彼女はかぶりを振った。

「いえ、嫌じゃないです! 嬉しいです!」

「本当か? なら、一緒のにしよう」

「はいっ」

 今度は勢いよく頷いて、彼女はそのストラップを手に取る。藍色のとんぼ玉をしばらくじいっと見つめた後でふと、俺の方を向いて小首を傾げた。

「お揃いかあ……ちょっと照れますね」

 そう口にした時の藍子は照れてると言うより、はしゃいでるみたいにすごくすごく嬉しそうで、堪え切れてない笑みをしまいには隠さずこっちに向けてくる。目の当たりにした俺の方がその可愛さに、うっかりうろたえたくなった。

 今年の誕生日は、最高すぎる。


 お揃いのストラップ、というだけでも結構な恥ずかしポイントなのに、それを俺は彼女の為に、彼女は俺の為に各々購入して、後で交換するという更に更にこっぱずかしいことをやらかした。

 こういうのを時間の無駄だとか言うような奴はつまらない人間だ。こういうことをあえて二人でやっちゃうのが恋愛ってやつだ。つまり今の身震いするような恥ずかしさも言うなれば愛の試練。――とは言え、彼女以外の人間にうっかり露呈しようものなら俺は、中世の貴婦人よろしくその場で気絶でもしないと乗り切れない予感もしている。お揃いだ、というところまでは営業課内ではぎりぎりセーフだろう、それ以上は誰にもばれませんように。


「やっぱり、いい色ですよね。ありがとうございました」

 俺が贈ったストラップを早速、合鍵に取りつけて、彼女はうっとり眺め入っている。

「こちらこそ。誕生日プレゼント、ありがとな」

 もちろん俺も携帯につけた。心地よい重みのあるサドルレザーに、藍色のとんぼ玉がきらりと光る。本当にいい色だと思うし、いいプレゼントだとも思う。

 俺の言葉に藍子はぴしっと背筋を伸ばす。

「いいえ、隆宏さんのお誕生日なのに、私もいただいちゃってすみません」

「気にすんな。俺があげたいから買っただけだ」

 元々、合鍵をどうにかして日の当たるところへ、あの女学生的定期入れから引きずり出してやりたかっただけだ。これだけ大きなストラップをつけとけば、さすがに定期入れには収まらないだろう。そうして肌身離さず持っていていただければ俺としては非常に満足である。

「あの……」

 藍子はそこで一度言いにくそうにしてから、

「隆宏さんへのプレゼント、もう一つくらい何か買わせてくれませんか?」

 と提案してきた。

「馬鹿、いいよそういうのは。気を遣ってんのか?」

「そうじゃないですけど、予算なら全然大丈夫ですから。もし何か欲しいものとかないですか」

 そういう風に聞かれる度に毎回毎回言ってるけど、俺の欲しいものなんて決まりきってる。それを身に染みてわかってるはずの彼女は野暮を通り越して実にすっとこどっこいだ。金かけて欲しいわけでもないのにな。

「気持ちだけで十分だよ」

 とりあえず、この場では白々しいことを言っておく。

 昼食を取ろうと入ったベーカリーカフェはショッピングモールの利用客で溢れていて騒がしく、また焼きたてパンやコーヒーの香りはいかがわしい話をするのに適切な雰囲気ではない。まだ真昼間だし。

「今日明日ってお前が一緒にいてくれるんだから、それだけでいいプレゼントになる」

 これは、紛れもなく本当のこと。結局は藍子がいてくれればそれでいい。

「それだけでいいんですか?」

「いい。その代わり今日はやきもち焼かせるのとかナシな。俺だけ見てろ」

「当然です。お任せください!」

 小さなテーブルの向かい側で、藍子はしゃきっと答える。

 先日の俺のつまらなさすぎる嫉妬については彼女も思うところあったらしく、例えばこんな時の受け答えはほんの少し、何となく変わったような気がする。何、とはまだ特定しきれない程度にそこはかとなく。

 しかし全方位にライバルがいる今の状況では彼女の心構えがどうあれ、しばらくはもやもやさせられそうだ。何せ相手は男だけじゃない。そして人間だけじゃなく、食品にまで及んでいるのだ。

 今も、焼きたてのデニッシュに口元を綻ばせている彼女。美味しそうな顔は見てる方だって幸せにしてくれるけど、ちょっとばかし恨めしくもある。

 俺単独でもこんな顔、させられたらいいのに。

「お昼にパンを食べるのっていいですよね」

 幸せそうに同意を求められると、結局は俺もにやけてしまうわけだが。

 たくさん食べればいい。俺は食欲に浸ってる藍子を見てるのも、ちょっともちもちぷくぷくしている藍子に触るのも好きなんだから。

「ゆっくり食べる分にはな。仕事の日はパンって気分にならないもんな」

 言いながら、俺もカンパーニュサンドを口に運ぶ。こんなものを書類片手に、あるいは運転中にもそもそ食べるのは空しいじゃないか。どうせならゆっくり味わいながら食べたいものだ。

「そうですね……ご飯くらい落ち着いて食べたいですよね」

「慌しい飯ほど味気ないものはないからな」

「私もそう思います」

 食べることにかけては人一倍情熱的な藍子が、深く頷く。


 七月も折り返し地点、ここからいよいよ恐怖のお盆進行となる。

 年末に比べればまだましという忙しさではあるんだが、それでも一気に増える仕事量は俺たちから貴重な昼休みを奪っていってしまう。加えて七月八月の暑さが食欲を減退させるから、体力的には非常に厳しい時期だ。

 この週末を過ぎれば、しばらくはばたばた忙しいことだろう。そういう意味でも今日は存分に楽しんで幸せを噛み締めておかねばならぬ日だ。月曜日からの仕事の為に、この夏を乗り切る為に――そう思って俺は今日の予定をあえて適当にだけ立てておいた。

 プレゼントの購入を済ませた後は、このままショッピングモールをぶらついてもいいし、シネコンで適当な映画を見てもいいし、あるいはまっすぐ俺の部屋に行ったっていい。夕飯も二人で作るのもよし、ちょっと豪勢に外食するもよし、いっそ飲む方に力入れるのもありだと考えている。

 とにかく二人で好きなように、楽しく過ごせたら十分だ。


「この後どうする? 他に見たいものあるか?」

 何か希望はないか尋ねてみる。

 彼女はちょっと考えてから、あ、と声を上げた。

「もし時間あったらでいいんですけど、本屋さんに寄りたいです」

「時間ならある。ゆっくり見てけ」

「ありがとうございます! 気になる本が出たのでチェックしときたいんです」

 藍子の言う気になる本とやらはきっと、ビジネス関係の何かだろうなと思う。彼女の部屋のあの色気のない本棚はまだ記憶に新しい。藍子らしいっちゃらしいけど。

「じゃ、飯済んだら本屋行くか」

「はいっ」

 いい返事の後で藍子はデニッシュの残り半分に齧りつく。

 それを微笑ましく見つめる俺の手元で、ふと音楽が鳴った。最近変えたばかりの着信音に、彼女がすぐ気づく。

「あ、その曲……」

「気に入ったから、これにした」

 先日借りたCDの、彼女お薦めの三曲目を、俺はちゃっかり着信音に設定していた。好きな子にまつわるものは何でも好きになる、という単純明快な心理がそうさせた。とことん中毒である。

 そういうのめり込みっぷりを本人に知られるのはちょっと照れたが、彼女は嬉しそうだ。

「いい曲ですよね」

 その言葉に曖昧な笑いを返しつつ、俺は真新しいとんぼ玉のストラップを揺らして着信画面を確かめる。

 表示されているのは安井の名前だ。

「安井からだ。悪い、ちょっと出とく」

「どうぞ」

 快い了承の下、電話に出る。

「もしもし」

『――おめでとう、三十一歳』

 安井の第一声はそれだった。反射的にむかついた。

「お前……今すぐ電話切るぞ」

『どうして? 俺は祝ってるだけだよ』

 そう言いながらも後に続いたのはげらげら笑いで、安井がただの嫌がらせで俺の年齢を口にしたのは明白だった。お前だって今年中には三十一になるくせに。

 大体、三十一歳なんて大したことない。今年は本当に真心から祝ってくれる彼女もいるし、辛いことなんぞあるもんか。去年とは違うんだ。

 そこまで考えた時、それこそ去年のことを思い出した。

「けど安井、俺の誕生日なんてよく覚えてたな」

『いや、覚えてはなかったよ。今月だっけって程度で』

 対して安井はこう答える。

『さっき霧島に電話したら、昨日だったって言うからさ。それで言ってみただけ』

「あいつは覚えてるよなー、他人の誕生日」

『変なとこ律儀なんだよ。そのくせプレゼントは寄越さない』

 確かに、霧島から『先輩、三十一歳ですね』という言葉は昨日貰っていたが、その先輩を敬ってプレゼントをくれるとか、一つ歳を取った俺を労わってくれるとかはまるでなかった。可愛げのねえ後輩だ。

『でも今年は、少なくとも祝う気はあるよ。俺も霧島も』

 ふと安井が、そんな気味の悪いことを言い出した。

「祝いと見せかけた嫌味ならいらねー」

 切り返すと、テーブルの向かい側では藍子が小さく吹き出す。

 しかし電話越しの安井も軽く笑って、

『ちゃんとしたお祝いだって。お前、今夜は暇か?』

 と尋ねてくる。

 俺は思わず藍子の顔を見てしまう。こっちの反応に、彼女も怪訝そうにする。

 答えた。

「暇じゃない。藍子と一緒だ」

『そうじゃないかと思ってたから聞いた。彼女と一緒に出てくる気ないか?』

 別に驚くでもなく奴は続ける。

『霧島夫妻も空いてるって言うから、石田の誕生日祝いにかこつけて集まろうかって話になったんだよ』

「そういうのって普通、まず俺に話通すだろ」

『別にお前が来なくてもやるから気にするなよ。誕生日云々は口実だ』

 言い切りやがった。とことん薄情な野郎だ。

『これから皆、仕事忙しくなるだろ? お盆進行前に一回くらい集まっとくのもいいかと思ってさ。ここんとこ五人で飲む機会もなかったし』

 安井の声は明るい。こっちの気分もお構いなしに楽しげだ。

『無理にとは言わないけど、ちょっとでいいから顔出せよ。小坂さん連れてさ』


 そりゃあの面子で集まって楽しくないはずないだろうし、俺も乗り気じゃないわけでもない。

 藍子だってこの話を聞けば一も二もなく賛成してくれることだろう。せっかくのデートなのに、なんて大人げないことを言うつもりもない。むしろ自然な流れで彼女を酔わせる絶好のチャンスだ。

 ネックなのは一つ。

 よりによってストラップ替えたその日に安井と会うとか。


「一応、藍子に聞いてみてやる」

 俺は安井に断り、行儀よく真向かいに座っている彼女へ尋ねる。

「藍子、安井が今夜、霧島夫婦と五人で集まろうって言ってんだけど」

 たちまち彼女の表情が輝いた。

「いいですね! 私は是非ご一緒したいです」

「……聞こえたか安井」

『聞こえた。じゃ、決まりだな』

 奴はまたげらげら笑う。もう酔ってんじゃないか。

『店はこっちで予約しとくから、決まったら追って連絡する』

「任せた」

『小坂さんに、君と会えるのを楽しみにしてるって言っといて』

「誰が言うか!」

 そうして安井は笑いながら電話を切り、お揃いストラップごと携帯電話を卓上に置いた俺へ、藍子が嬉しそうに話しかけてくる。

「皆さんで集まるのって三月以来ですよね? 楽しみです!」

「そっか。そう言ってもらえるとありがたいよ」


 彼女連れで楽しく会える相手なんてそうそういるもんじゃない。

 霧島が結婚して、俺には藍子がいて、そんな状況でもこうして集まれるのは、悪くないことだと思う。去年から比べてもいろいろ変わったのに、変わってないものもあるってことなのか。

 まあ、去年は霧島も安井も『誕生日祝い』なんて言い出してもくれなかったんですがね。

 今年は口実扱いにレベルアップか。つくづく薄情な連中だ。

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