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溺れるほど溢れるほど(4)

 で、結局。

 俺はしょうがなく藍子と一緒に部屋を出た。


 しょうがなくって言うのは半分くらい本気だ。

 彼女の新レパートリー、ぶりの照り焼きは食べたい。とても食べたい。でも他のものも食べたい。むしろ今日はそっちメインでと考えてたから、朝から肩透かし続きで悩ましい限りだ。またちょくちょく美味しそうな表情してんだもんな。

 人間の三大欲求とやらは三つに絞り込んでるだけあって、他のものじゃ代替が利かないようにできてるらしい。藍子の頼みどおりに買い物へ出向く理由だって、食欲からだけではなかった。ぶりの照り焼きという献立自体よりも、あの美味しそうな懇願の眼差しにころっとやられたのは、今の俺が空腹ではなかったからに他ならない。

 でもまあ、結果的には折れたも同然なんですけどね。甘いのは自覚してる。こっちだって昨日は散々甘やかしてもらったんだしと譲歩する心が出ちゃったのも問題だ。めくるめく愛と欲望の軟禁生活を実現する為には、まず俺に耐性をつけることから始めなければいけないようだ。うん、無理すぎる。


 玄関のドアを開けた時、そういえば約束していたことを思い出して、

「藍子、鍵」

 俺は彼女に声をかける。

 彼女も昨夜のやり取りを、こういうことだけはしっかり覚えていたみたいだ。うきうきと小さなバッグから定期入れを取り出す。

「お任せください! ばっちり施錠してみせます」

「うん、任せるのはいいがな、何でそれ……」

「これですか?」

 定期入れとはその名の通り定期券を入れておく為のケースのはずだが、藍子のにはなぜか余計なものがしまい込まれていることが多い。今もひょっこり見覚えのある合鍵が出てきた。

 それを使ってばっちり鍵をかけてみせた後、彼女ははちきれんばかりの得意顔で語る。

「ここにしまっておけば失くさずに済みますから」

「そうやってしまっとくから、使う機会を逸してるんじゃないのか」


 前に名刺をやった時だってそうだった。

 彼女はアイドルの記事切り抜きみたいなノリで俺の名刺を定期入れの中に保管していて、本人が言うにはお守りにしていたらしい。それ自体は健気で一途で可愛らしくて、ここまで想ってくれる子がいるなんて人生捨てたもんじゃないとしみじみ思ったものだが、無欲でも清廉潔白でもない俺としては本来の使途だって無視して欲しくなかった。名刺ならあれの重要ポイントは裏面に記した俺のプライベートの電話番号やらメールアドレスやらなのであって、本物によく似た顔写真だけではない。無闇に個人情報を垂れ流したつもりじゃなかったのに。

 合鍵だったらそれを使って何をするのかという点こそが問題であり、別にワンコインでお守り的なものを作ってやった気にはなってない。それなのになぜ使いもせず後生大事にしまっておくのか。

 藍子は品物本来の用途なんて完全無視して、好きな人にプレゼントされた大切な品を失くさないようにすること、それを一番に考えてる――つくづく犬っぽい要素で構成されてる女の子だ。犬が地面に骨とか埋めるのと同じ意味合いなんだろう。取ってこい、ってフリスビーでも投げたら喜んで取ってくるんじゃなかろうか。うわ、超やりたい。


「いただいた物ですから、肌身離さず持っておきたいんです」

 藍子が人懐っこい表情で言うので、それ見たことかとこっちは苦笑するしかない。くそ、可愛さだけで世の中渡っていけそうなかわいこちゃんめ。誤魔化されそうになるじゃないか。

 それならせめて、次はもっと持たせ甲斐のある品を贈りつけてやらねばなるまい。

「でも定期入れの中に鍵なんて入れといたら、ケース歪まないか?」

 施錠を終えたドアの前から離れ、駐車場へと向かいながら持ちかけてみる。

「いっそキーホルダーとか付けた方がいいんじゃないのか、失くさないように」

 すると彼女はこくんと頷き、

「そうですね、これからは使う機会も増えるはずですし」

「……本当に増えるんだろうな?」

「もちろんです。お買い物から戻ってきた後、また私が鍵を開けますから!」

 一回や二回使ったくらいでそんな勝ち誇った顔されても困るんだが、でもそういう顔も可愛いので許す。こんな些細なことでどや顔とかどんだけラブリーなんだ!

 それはともかく、キーホルダーの話に戻る。

「今度、何か買ってやるよ。定期入れにはしまっとけないような立派なやつ」

「立派なキーホルダー、ですか?」

「おーよ。言っとくが土産物屋で売ってるような地名入りのやつとは違うからな」

「あっ、私、まさにそういうのをイメージしてました」

 彼女は言葉通り、『立派なキーホルダーってどんなのだろう?』って顔をしていたから、きっとそういう想像をしてたんだろうなと思った。

「可愛いの一杯ありますよね、ご当地何とか系」

「あるよなー。駅の売店で並んでんのな、ベタもベタな名産品被ったのとか」

「ストラップも、もう付けられないのについつい買っちゃうんですよね」

「買っちゃうのか。旅先では流されてお金使っちゃうタイプだな、お前」

 俺の指摘に彼女は、ばれちゃいましたかと照れ笑いを浮かべ、俺はいいこと聞いたとばかりにほくそ笑む。すなわち旅に出ると開放的になっちゃうタイプってことですね。記憶しておこう。

「まあ、キーホルダーって言ってもそういうのじゃなくてな。例えば革とかの、もうちょい実用的なやつな」

 話しながらちらっと、彼女の喉元に目をやった。ポロワンピースの襟からすっと伸びた首筋は、ほつれ毛が少し落ちている以外は滑らかで、きれいな肌色をしている。低い位置で結んだ髪はポニーテールなんかよりも揺れはせず、ただふわふわと波打っている。

「サドルレザーとか、渋くて格好いいだろ?」

 俺は一例を挙げてみる。女の子だったら光り物とか、ブランドの物とかの方がいいのかもしれないが、でもこないだ行った藍子の自室や普段の格好を見るに、あんまりきらびやかなのは好きじゃない気がするんだよな。革製品の落ち着いたやつの方が似合うと思う。

 首輪っぽいし。

「そういうのって高いんじゃないんですか?」

 藍子が心配そうに聞き返してくる。相変わらず男心がわかってない。

「別に高くない。財布とかバッグの比じゃない、もっとちんまいやつだからな」

「そうなんですか……」

「それに、他人から貰おうって物の値段を気にするのは行儀悪いぞ」

 俺の言葉に彼女はどきっとしたようで、すみません、と詫びてから少し笑った。

「でもプレゼントなんていいんですよ。キーホルダーだったらうちにもありますし」

「いいから。俺の部屋の鍵なんだから、俺の好きにさせろよ」

 贈りつけといてこの言い分もどうかと我ながら思ったが、それで彼女は納得したらしい。また笑った。

「じゃあ何か、お値頃なものを選んでいただけたら嬉しいです。その分、私はお料理頑張ります」

「わかってきたな。そういうことだ」

「はい。今日は早速、練習の成果をお見せしますから!」

 気炎を上げる彼女が可愛くて、俺も少し昼飯が楽しみになってきた。

 俺の為に随分とたくさん練習してくれたらしいところも、胸にずしっと来る。そりゃ自信持って、是非ともって意気込んで作りたがるよな。

 今までろくに料理もしてこなかったらしい子が、それだけ頑張ってくれたってとこに愛を感じる。感じるだけじゃなくて、幸せにも思う。じわじわ内側から温められていくような、何かが満たされていく感覚。

 それが何かって考えてもはっきりとはしないが、三大欲求的な単純明快って点だけはわかる。

「んじゃ今度、そっちの買い物にも付き合ってくれ。天気のいい日にでも」

「わかりました。来月は隆宏さんのお誕生日もありますし、私も一緒にお買い物したいです」

 すかさず当たり前みたいに返されて、そういえばと思い出す。

「そうだったな。誕生日かあ……」

 プレゼントはお前でいいんだけど。


 正直に言うと、いや言うまでもなく、俺は藍子がいてくれればいい。

 何よりも藍子を大切にしまっておきたい。外に出したくない。それは無理だってわかってるから、他の人間からの電話も出ないで欲しいし、買い物だって行かずに済むならそうしたい。ずーっと二人っきりで他の誰にも会わずに、だらだらと三大欲求だけを満たすだけの生活を、実に自堕落に過ごしたい。

 でも、そういう爛れた生活に憧れるのとはまた別の次元で、どこか現実を受け入れなければならない気にもなってて、名刺や合鍵と違って彼女は大事にしまっておけないんだよな、と頭のどっかで理解はしている。

 彼女には帰る家もあるし、お互い社会人で仕事してるし、そして俺が藍子の為にって尽くすつもりであれこれ企ててる頃、彼女は彼女で俺の為にって料理の練習なんかしてくれてるんだって事実がある。俺は彼女に甘えてるし相当わがままも言ってるが、それでも彼女のそういう努力を踏みにじれないだけの良心、むしろ惚れた弱みを持ってるし、そして一方通行ではないことに喜びを感じてもいる。俺が尽くした分、彼女も何かで尽くし返そうとしてくれてる、っていうところが。

 人生捨てたもんじゃないよなあって、現実的な状況の中ですら思う。


「プレゼント、何か欲しいものってありますか?」

 声を弾ませて、彼女が聞いてくる。

 俺の欲しいものはやっぱり言うまでもないが、それを貰ったところで大事にしまっておこうとするだけなら、そのうち因果応報みたいに彼女に呆れられてしまうだろうか。それとも俺がどんなにしまっとこうと苦心したって、彼女はまるで犬っぽい敏捷さと知恵の回り具合でするっと逃げ出してしまって、また捕まえるのに骨折らされる羽目になっちゃうだろうか。

「考えとく」

 他の欲しいものなんて今はそうそう思いつかなくて、とりあえず保留にしたら、藍子は屈託のない笑顔と明るい声で返事をした。

「はい、お願いします!」

 それを見て俺は、――ああ、そりゃあ欲しいものなんてこの子以外にあるわけないだろうと重ね重ね思う。痛感する。

 大事に大事にどこか厳重な保管場所へしまっておきたい。それができなくて放し飼いしかないなら、せめて首輪くらいは付けておきたい。とりあえず、いかにも男から貰いましたって感じの、見た目にもわかりやすい首輪は必要だと思ってる。


 スーパーでの買い物は無駄のない動きで迅速に済ませた。

 買った品はぶりの切り身一パックのみ。購入後は部屋へ取って返し、米を研いで、炊いている間に味噌汁と問題の照り焼きとを作ってもらう。

 味噌汁の具は希望を聞いてくれたので、冷蔵庫にあった大根でお願いした。

「隆宏さんは大根のお味噌汁が好きなんですか?」

「ああ。大根はベストオブ味噌汁の具だと思ってる」

 あのあっさり淡白な風合いが味噌とマッチして実に味わい深く感じられるのがいい。よく煮込んでくたっとなってるのが一番好きだ。

「ちなみに次点はキャベツと油揚げ、ぎりぎりの銅メダルにしじみってとこかな」

「なるほど……覚えておきます!」

 藍子がいい顔でそう言った。嬉しくてちょっとときめく。


 彼女の料理作りは傍目で見る限りは順調だった。

 手際がいいとまでは言わないが、思ったよりあたふたもしなかったし、何より美味しそうな匂いをさせて照り焼きを仕上げてくれた。どうやら手順を丸暗記しているらしく、メモなどで確認することもなかったのを散見するに、俺の知らないところで相当練習したに違いない。


 ご飯が炊き上がったところで正午少し前のいい時間となり、そのまま昼飯にした。

 照りのきれいな、つやつや美味しそうなぶりの照り焼きの他、大根の味噌汁と、箸休めのつもりできゅうりの浅漬けを出してみた。昼食にしてはなかなかのメニュー。二人で居間のテーブルを囲み、手を合わせていただきますを言う。

 気になる照り焼きの味は、焦がした醤油が香ばしい、米飯に合うしょっぱめの味付けだ。表面はかりっとした焼き加減にたれが絡んでいて、しかしながら箸で身を割ると中はしっとりという、恐ろしく理想的な仕上がりにもなっていて、ここまでとはと正直驚いた。

「美味い」

 一口めで賞賛した俺を、藍子はとっさに面を上げ、まんまるい目で見つめてくる。

 お互い驚いてるっぽいこの状況が何かおかしい。でも俺も、彼女がここまで上手く作ってくれるとは思ってなかった。

「いやマジでいい線いってる。予想以上だ、やるな藍子」

「ありがとうございます!」

 惜しみなく誉めたら彼女ははにかんで、

「実はこのレシピ、ゆきのさんに教わったんです」

 と続けた。

「霧島夫人に? へえ」

 相変わらず仲いいよな、女の子同士。いつの間にそんな話なんてしてたんだろう。

「ゆきのさん、教え方も上手なんです」

 そして藍子はまるで自分のことみたいにいきいきと語る。

「調味料の覚えやすい割合とかフライパンで簡単にお魚焼く方法とか、初心者の私にも楽にできるように教えてくれて。お蔭で私にも美味しくできちゃいました」

 そうやって先方を誉めて、手の内までばらしちゃう辺りはいかにも藍子らしい緩さだと思う。

 黙って自分の手柄にする気なんてないんだろうな。正直なのは悪いことじゃないが、たとえ簡単な方法だって美味しく作ったのは彼女自身なんだから、もっと胸張っといていいと思うんだがな。

「そういうの、得意げに話すようなことか?」

 俺が突っ込めば、きょとんとされてしまった。

「え? お、おかしいですか?」

「いいけどな。お前だって練習してくれたんだろ、これ作れるようになるまでに」

「はい。練習しないとお出しできるレベルになりませんから」

 藍子は深々と顎を引く。

 その努力を惜しまないところも、謙虚さも、そして俺の為にって彼女なりのやり方で尽くそうとしてくれるところも、何だかんだで好きだ。好きな子に美味しい飯を作ってもらえて一緒に食べてって、筆舌に尽くしがたい幸福じゃないか。

 また藍子も自分の手料理を、この上なく美味しそうに、一生懸命に食べてたりするから――目でも美味しいってこういうことかと思ったりする。食べても美味しいけど、二人一緒だと尚よろしい。一人暮らしが長いせいか、こうして差し向かいで誰かと飯を食うという状況にはことさら弱い。

「あ、よかった。美味しいです」

 頬っぺたに手を当てながら彼女が言う。そうしないとあのぷくぷくした頬が落っこちちゃうからなんだろう。あーもう可愛すぎる。

「美味いよ。また食べたい」

 俺も頷く。

「毎日でもいい」

 さらっと、プロポーズまがいの台詞だって出る。

 いや、わざとですがね。むしろ彼女といれば息を吐くように飛び出してしまう類の台詞ではあるが、だからと言って嘘ではないし冗談でもない。百パーセント本音というか願望です。

「じゃあ、次回の為に是非ご意見をいただきたいです」

 そして藍子が、俺の求婚をさらっとスルーするところまでがいつものお約束だ。毎日食べたい、の意味がわかってないに一票。でもまた作ってくれる気はあるらしいのでよしとする。

「もしかして、リクエストが欲しいとかそういう話か?」

「はい! 何かあったら言ってください、なるべくなら難しくないのがいいですけど」

「難しくないの、なあ」

 どっちかって言うと答える側の方が難しい注文されちゃった気がするんだが、どうしたもんか。


 簡単そうな献立ってどういうのだろうな。手数が少なくて済むやつか?

 難しそうなのなら想像つくんだが、そもそも簡単な、例えば焼き魚なんかだったら自分で作っちゃえるしな。となると自分では作らない煮物とか、揚げ物とか――いや駄目だ。ちっとも簡単そうじゃねえ。

 藍子の他のレパートリーっつったら豚汁かカレーだし、じゃあ似た系統で、シチューとか?

 でもカレーはともかくあっつあつのシチューなんてこれからの季節はいくら可愛い彼女の手作りでもちょっとな。我慢大会になってしまう。

 まずい。何にも出てこない。


「これっていうのは浮かばないな……」

 俺は悩みに悩んでひたすら考え抜き、

「何でも食べるって言ったら、かえって困らないか?」

 最終的に白旗を上げる形で彼女の要求に応えた。

「困らないです。でも、本当に何でもいいんですか?」

 藍子はやや予想外と言う顔つきで聞き返してくる。俺がちゃんと答えを出すことを期待していたのかもしれない。だからって愛が足りないなんて思ってくれるな、俺だってすんげー考えたんだ。

「お前の作ったものなら何でもいい。どんなものでも嬉しい」

 いたく正直に、俺は答える。一パーセントの嘘もない、混じりっけなしの本音だ。

「だからお前もとりあえず自分にできそうなとこから挑めばいい」

 今回の照り焼きに関してはものすごく練習してくれたようだから、そういうのももちろんとても嬉しいんだが、無理だってして欲しくない。藍子のその向上心じゃ、近い将来『料理の勉強の為に有給取って海外行きます!』とか言い出しそうで怖い。武者修行の旅に出て何年も帰ってこないとか、そういうのは勘弁してください。寂しさで俺の胸が張り裂けちゃう。

 旅に出る必要も、修行の必要もない。ごくごく簡単なものから順繰りに、慣れていくみたいに作ってけばいいんだ。俺にとっては何よりも、藍子が俺の為に作ってくれたもので、そして藍子と一緒にそれを食べてるってところが一番重要なんだから。

「本当に、何でもいいから。お前の作ったものなら別に魚料理じゃなくても、肉でも野菜だらけのヘルシーメニューでも、あるいは甘いもんでも構わず食べてやる。で、もっとこうして欲しいって注文があったらそれはちゃんと言うからさ。お前はまず自分の作れそうなやつを、少しずつハードル上げてく感じで作っていけよ」

 ぶっちゃけ失敗したっていいのにな。そんなに裏で練習とかしてなくても、俺を練習台にするくらいでもいい。頑張ってくれるのだって嬉しいけど、単に作ってくれるだけでも、そして一緒に食べてくれるだけでも十分、幸せな食卓に変貌しちゃったりするんだ。だから練習はほどほどにしてとにもかくにも作りに来い。合鍵を使え。

 俺の言葉を聞いた藍子は感銘を受けたみたいにほうっとして、大きな目でまじまじと俺を見つめていた。それから溜息混じりに言われた。

「……優しいですね、隆宏さん」

 彼女の今の呟きにだって嘘はない。冗談でもないのもわかってたが、何と言うかつい、吹き出してしまった。


 別に優しさから言ってるわけでもない。ただちょっと、思うとこがあっただけだ。

 三大欲求って三つに絞り込んでるだけあって、他の欲求で誤魔化しが利かない分、適当に満たすだけならそんなに難しくない。食欲なんてそのうちの最もたるもので、カップ麺でも菓子パンでもとりあえず放り込んどけば腹は膨れる。栄養価が気になるならサプリメントだってある。金さえあれば外食だってできるし、面倒じゃないなら自炊って手もあるし、現によくやる。自分で作って自分一人で食べるのも、それはそれで悪いことじゃないと思う。

 でも彼女と囲む食卓は、ただ食欲を満たすだけじゃない、もっと高度な楽しみ方があるような気がする。

 単に料理が美味いとか、そういうことじゃなくて、誰かと食べる飯はいい。

 それが可愛い子ならもっといいし、その子が俺を深く深く想ってくれてるんだったら最高だ。

 自堕落な軟禁生活もそりゃ憧れだが、こういうささやかな昼飯時だって、ちょっと前までは普通でもなければ手近にもなく、喉から手が出るほど羨ましい光景に違いなかった。ちょうど去年の今頃なんて、恐らく一人ぼっちで迎えるであろう三十歳の誕生日を嘆いて嘆いて嘆いた挙句、どうにか目を背けて過ごせんものかと途方に暮れていたはずだ。

 彼女なしの人生なんて、もはや本気で考えられない。


「愛されてるって感じ、するだろ?」

 優しさの代わりにそう告げたら、藍子は困ったような顔をしてしばし黙った。

 箸を持った手もぴたりと止めて口を閉ざすこと数十秒。やがてためらいがちに、

「隆宏さんは、あの……あ、愛されてるって感じ、してますか?」

 舌が縺れたような物言いで尋ねてきた。

 こっちはためらう必要もないから、迷わず答える。

「まあな。こんだけされといて、愛されてないって言ったら罰当たるよな」

 それで藍子はほっと表情を綻ばせる。

「よかったです! あの私、これからも頑張りますから!」

「ん、まあ、そんなに気負わなくたっていいけどな」

 とりあえず何にもしなくたって傍にいてくれたらいいんだが、でも何かしてくれたら嬉しい。俺が藍子にいろんなことしてやりたいって思うのと同じ次元で、彼女もそんな風に思ってくれたら、思い続けてくれたらそれだけでいい。

「いえ、頑張らせてください。私は隆宏さんの為なら何だってできます!」

 俺の忠告なんか無視して藍子が意気込むから、嘘つけ、と心の中でぼやく。

 何でもって言うほど何でもはしてくんないだろ。そりゃお前は、食欲方面だったらやたらめったら頑張ってくれてるみたいだけどさ。三大欲求の残り二つはどうしてくれる。

「何だって……か。その言葉、さっきソファーにいる時に聞きたかったな」

「あっ」

 指摘すれば今度はわかりやすくまごまごし始めて、

「えっと、何だって……と言うのは料理のことです、料理の!」

「料理以外は何にもしてくれないのかよ」

「そ、そんなことないですよ、します。何でしたらまた忘れ物とか取りに来ますよ!」

「それは合鍵の正しい使い方じゃない」


 そういう目的で渡したつもりもない。

 いいから頻繁に来てくれ。料理の練習も俺の部屋で、俺のすぐ近くでやってくれ。とにかく一緒に過ごす時間を増やしたい。叶えたい夢とか願望とか欲求とか、相反する面白みに欠ける現実とかいろいろあるけど、どれにしたってお前がいなけりゃ何にも始まらないんだから。

 幸せな妄想は、藍子がいればそれこそ無限大に広がっていく。実現には彼女の協力も必要だから、まずは正しい合鍵の使い方に期待しよう。


「ま、いいけどな」

 藍子が藍子なりの『正しい合鍵の使い方』について考えていたようだったから、俺は軽く笑ってそれを制した。

 どうせ考えたって答えは出まい。真相はお前が考えるよりもはるかにシンプルだ。

「今日はもうどこにも出かける予定ないし、お前の言う愛を確かめる時間はたっぷりある。他にどんなことしてもらえるのか、楽しみにしてるからな」

 俺の思う愛は、多分、どんな時間でも共有してもらうことだ。

 健やかなる時も病める時も的なノリで、この先もずっと、一緒にいてくれ。

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