とろけるくらいあまく(6)
俺が見つめているのに、彼女もすぐ気づいたらしい。
直に口を開いた。
「うちの妹が、今、一人暮らしをしてるんです。あ、さっき言いましたっけ」
「お父さんから聞いた」
話題がまた急転換したような気がする。これは相当酔ってるか。
「妹とは時々電話とか、メールで連絡し合ってるんです。お互いそんなにマメではないですけど、たまに写真とかも送ってくれて。妹は大学生活も一人暮らしもすごく楽しそうで、心配しなくていいって、いつも言ってくれてます。話を聞いてると本当に充実してて、羨ましくなるくらいです」
藍子の妹さんはしっかり者なんだよな。それは聞いてた。
そうだとしてもお父さんは何だかんだ心配してるみたいだったが、藍子もそうなのか。頼りないなんて言われててもやっぱお姉さんなんだなあ、とでれでれしたくなる。
世の中には藍子みたいなお姉さんもいるというのに、俺の姉ちゃんは何なんだ。不公平すぎやしないか。
「でも……」
姉の鑑みたいな彼女が、そこで目を伏せた。
「この間、隆宏さんが『寂しい』って言った時。一人暮らしって本当は楽しいことだらけじゃなくて、寂しい時だってあるのかなって思うようになったんです」
そう言われて、俺は慌てた。
「い、いや、寂しいってのはお前がいなくて、って意味だからな。俺は一人暮らしなんてもう十年以上もやってるし、今更それだけで寂しくなんかならない」
全く不本意なことだが、独り身の生活にはすっかり年季が入ってる。仕事の後で帰った部屋に誰もいないのなんてごく当たり前で、いちいち寂しいなんて言ってたら身が持たない。いくらなんでもそこまで軟弱じゃない。
寂しくなるのは一人だからじゃない。藍子がいないからだ。
突き詰めてしまうと結局はそれだけだった。
誰かと一緒ならいいってわけじゃなく、一人暮らしが辛いってほどでもなく、単に藍子にいて欲しいだけだ。彼女がいれば寂しくないけど、彼女と出会わなければ今、寂しいなんて思う機会もなかった。そのくらい俺は一人の生活に慣れてたし、女の子と縁のない生活にも、慣れたくないのにすっかり馴染みかけていた。藍子と出会って、一緒に過ごす時間が少しずつ増えていくうちに、そういう感覚まで取り戻してただけのことだ。
だからもう今となっては、他の誰かで埋め合わせもできない。俺をここまで寂しくさせてる藍子にきっちり責任取ってもらって、一生付き合ってもらうより他に手段はない。
「わかってます」
事実かどうか、ともあれ藍子は生真面目に頷く。
「妹は、お話ししたようにしっかり者ですから、本当に楽しく一人暮らしをしているのかもしれないし、たとえ本当に寂しくても、そんなことを私には言うつもりないのかもしれません」
小坂家の姉妹関係が実際にはどんなものか、この目で見たわけではないから俺には何とも言えない。頼りない姉と思ってるのは藍子の側だけで、妹さんは口ではあれこれ言いつつも内心は違う風に考えているかもしれない。
しっかり者だと言うなら、家族を心配させまいとあえて強気に振る舞うこともあるだろうし、あるいは彼女の推察通り、初めての一人暮らしが楽しくて楽しくて、親元離れても全く寂しくないって可能性もゼロではない。俺も最初のうちはそうだった。
それに俺も、寂しいなんてそうそう他の奴には言わない。冗談のノリで言うことはあっても、本気で言いたくなる相手は一人だけだ。
「でも、妹が言ってくれないようなことを、隆宏さんは私に言ってくれたんだから、私は隆宏さんの為にこそ頑張らなきゃって思いました」
くしくも、藍子がそんなことを言った。
目が合うと彼女は唇を結び、室内の空気や食べかけのケーキにはまるでそぐわない厳粛な面持ちも続ける。
「隆宏さんに寂しいって言われた時、私は申し訳なく思ったんですけど、でも同時にすごく嬉しいような、誇らしいような気持ちにもなったんです。そう言ってくれるくらい、私のことを信頼してくれてるんだって……」
そうだけど。間違ってはいないが、ここまでストレートに言われると俺も照れる。
でもまあ、誤魔化したり濁したりするようなことでもない。こっちもいい具合に酒入ってるし、はっきり返事をした。
「してるよ。こんなこと、お前にしか言わない」
「ありがとうございます。私、そのお気持ちに報いたいです」
藍子はまた頷き、普段よりも柔らかさを増した、とろけるような笑みを浮かべる。
「これからはもう、寂しい思いなんて絶対にさせませんから。隆宏さんの為なら私、何でもします」
その言葉と表情には、むしろ俺がとろけた。
言ったな。
何でもするって言ったな。
俺はこういうのしつっこく覚えてる方だから、言葉通りこれからは実際に何でもしてもらっちゃうからな。後で酔いの醒めた藍子が『そんなこと言いましたか?』なんて首を傾げようと無駄だ。履行していただこう。
「私、酔っ払ってるのかな……ちょっと喋りすぎですよね」
不意に呟いた藍子が、自分の手を湯上がりみたいな頬に当てる。
今の今まで酔ってる自覚なかったのか、と突っ込みたくもなったが、しかしこれは考えようによってはチャンスではなかろうか。
すなわち、普段は恥ずかしがって言ってくれないようなことをぶっちゃけさせてしまうチャンス。
「喋りすぎってほどでもないだろ。気にせず何でも話せよ」
「そ、そうですか? 何か、いろいろ話したくなっちゃって」
「俺はお前の話がもっと聞きたい」
催促すれば、藍子は安堵したように目を細めた。それから話題を探すように少しの間、沈黙した。
次に口を開いたのは、一分近く経ってからだ。
「隆宏さんは……あの、質問なんですけど」
「どうした、遠慮なく聞けよ」
「じゃあ、えっと、……私がいつから隆宏さんを好きだったか、ご存知ですか」
例によって真面目な調子で、そんなことを聞かれた。
知ってるか知らないかで言うと、多分知ってる。
いつから、という厳密なラインまでは知らない。
そもそも人を好きになるって現象にそういうボーダーラインがあるものなのか、って思う。或る瞬間からいきなり相手が『好きな人』に、すっぱり鮮やかに切り替わるんじゃなくて、少しずつ積み重ねてきた好印象とか、ツボを突くポイントなんかが溜まり溜まって、何となくじわじわと『好きなのかも』って思っていくような、そういうもんじゃないのか。そういえば爪伸びてんなとか、靴底磨り減ってきたっぽいなとか、そんな調子でふとした時に気づくような感覚だ。
藍子が俺をどういうふうに見てきて、どんな段階で好きだって思ったのか、その辺の詳しいことはまだわからない。
大体、初対面から素敵なお兄さんだなんて思われてたって事実も今日聞かされたばかりだ。第一印象から決めてたのだとしたら、途中どっかで幻滅されたり『こんな人だったんだ……』ってがっかりされたりしなかったか、気になる。
そういうことがあったとしても、とりあえず今現在も好きでいてくれてんだから、大した問題でもないかもしれないが。
ともあれ、俺が知ったのはあの時だ。
「歓迎会の時、とか」
話題に上げると、彼女は目を瞬かせた。
「え? 先月のですか」
「今年のじゃないぞ、去年の。お前の時の新歓」
新人が配属されるのは五月から。だから新人の歓迎会も毎年五月に開かれる。今年度のはついこの間やったばかりだ。
でも俺が思い出しているのは昨年度、藍子ががっちがちに緊張した状態で長めの挨拶を披露した、あの夜の出来事だった。
「挨拶は短めがいいって言ったのに、全っ然言うこと聞かなかったよな、お前」
話を振れば藍子はもじもじして、
「そうでした、せっかくアドバイスいただいてたのにすみません。あの時は言いたいことがたくさんあって……」
何やら弁解を始めたから、しょうがない奴だと苦笑したくなる。
お前の欠点、ってほどでもないが、俺からするとたまに困るなって点はそこだ。言いたいことを素直に全部言っちゃうから、わかっちゃうんだよ。
「前もって教えてくれるならともかく、いきなり俺の名前を出されたからびっくりした」
「すみません、重ね重ねご迷惑をお掛けしました」
「迷惑とはまた違うけどな。他の連中にちょっと冷やかされたし」
「そうだったんですか……ま、ますます申し訳ないです!」
あの挨拶のせいで、俺が彼女を日常的に口説いてるんじゃないかって誤解する奴が何人かいた。
してねーって。そりゃ当時から可愛いとは思ってたけど、『次は可愛く撮る』くらいのことは誰にでも言うだろ。新人指導の相手が女の子だったからといって、そこまで見境ない真似はしない。
でもあの挨拶がなければ、今の俺たちだって多分、なかった。
「あれで気づいたんだよ、俺は」
俺の言葉に藍子がきょとんとする。
まさか、自分から聞いてきた質問をもう忘れちゃったんじゃないだろうな。
「お前が俺をどう思ってるか、あの時に知ったんだ」
そう教えてやると、彼女はしばらく考え込むように視線をふわふわ彷徨わせた。そして思案の末にぴんと来たらしく、途端に背筋が伸びた。
「嘘っ、そんなに早くからですか!?」
「早いって何だ。お前はいつ頃からだと思ってた?」
逆に尋ねてみた。
「あの……隆宏さんのお誕生日くらいかなあって。あの日、お酒を飲みに行った帰りに、ばればれだって言われてましたし」
藍子は少なからずショックを受けた様子で、深い溜息をつく。
「今思えば確かに、『ばればれだ』って言うからにはそれ以前からうすうすとでも感づいてたのかなあって気はしますけど……でもそんなに前からだとは思ってもみませんでした」
むしろ、ああいう態度を取っておきながら、どうして感づかれてないと思うのか。
去年の歓迎会の一件で断定されたわけではないものの、でもあの日以降うちの課では、小坂が俺のことを好きだとまではいかないまでも可愛い憧れレベルの好意を抱いている、という認識が発生し始めていた。
それをまた俺がいつものノリで中途半端に口説いてるように受け取られたのか、あんまりからかっちゃ駄目ですよ的なことは何度か、暗に言われてた。聞く耳持ってなかったけど。
そういえば、霧島だってあの時には察してたよな。あいつからはもっときっついことを散々言われたっけ。俺の駄目人間ぶりをよく知ってるからこその反応だろう。
水面下で飛び交った推測や噂や思惑なんかを、でも当の発生源たる藍子が全く気づかずにその日以降も過ごしてきたと言うんなら、それはそれで大したもんだ。
「それまではばれてないって思ってたのか」
「思ってました。隆宏さんも気づいてるそぶりないように見えて、だから……」
藍子はグラスを両手で持ち、俯き加減でアイスティーを飲む。何となくしょげてるようにも見えた。そんなにショックだったのか。
俺もグラスを手に取りつつ、更に尋ねてみる。
「で、実際はいつからだって?」
藍子は俯いたまま、わずかに顔を背けた。
「ええと……」
「ここまで引っ張っといて隠す気はないよな? ちゃんと言えよ」
背けられたばかりの顔を、身を乗り出すようにして覗き込んでみる。俺の影の中、するっと動いた彼女の瞳が、こちらの表情を認めた途端に困惑の色を浮かべる。
うう、と微かな呻き声がした。
「言います、言いますけど……そんなに顔、見ないでください」
「今更照れるなよ」
「無理ですよ、まだ、恥ずかしくて」
彼女が本当に困った様子でいるから、俺は笑いを噛み殺しながら一度身を引いた。そこで藍子はぎくしゃくと顔を上げ、こちらを見ずに言ってくる。
「隣に……、来てください」
「は?」
せっかく噛み殺した笑いが戻ってくる。
「顔見られたくないんじゃなかったのか」
恥ずかしがってる人間の申し出にしては奇妙だ。不思議さ半分、からかいたい気持ち半分で追及すると、彼女は言い訳のように語を継ぐ。
「み、見られなくても済むようにです。向かい合わせじゃなくて、隣がいいです。そっちの方が精神的に安定するって言うか」
普通に考えてそっちの方が恥ずかしくないか、と俺は思うんだが、他でもない藍子の滅多にないような頼み、もしくはお誘いだ。それはもう飛びついた。グラスを持ったまま忍者もかくやというスピードで立ち上がり、彼女のすぐ右隣に意気揚々と座った。
お盆を挟んで向かい合ってた時よりも近い。ちょっと身じろぎをすれば肩とか腕とかがぶつかっちゃう距離。
「わ、私、お酒臭くないですか」
藍子が口元を押さえて尋ねる。
今のところは傍にいても、そういう匂いはしない。と言うか俺の鼻はこの部屋の匂いを堪能するのに忙しくて、他に注意が回らない。
「いや。でも、気になるんなら嗅いでやってもいいぞ」
調子に乗って顔を近づけようとしたら、身を捩って拒まれた。
「わあ、やめてくださいっ。隆宏さんも酔っ払ってます!」
「お前ほどじゃない。それに、俺はいつもこうだろ?」
「あ。そういえば、そうかも……」
五ヶ月も付き合ってれば、さすがに納得されるようになるらしい。
そして俺よりも藍子の方が酔っ払ってるのも事実だ。
さっき顔を近づけた時、半袖から剥き出しになってた彼女の腕が、やけに熱く俺のシャツ越しに触れた。そのまま抱き締めてみたくなるくらい火照っていた。こっちまでいろいろと滾ってくる。
俺から逃げようとしたせいか、気づくと彼女は足を崩していた。いつもより短めのスカートから伸びる足、真っ白いふくらはぎが覗いている。撫でたい。
「さっきの話の続きは?」
誘惑をひとまず振り切り、俺は彼女の横顔に目を戻す。
藍子はこっちを見ない。しきりと瞬きをしているのが、睫毛の動きでわかった。
「いつから、ってことですよね」
「そう。それが聞きたい」
「えっと、去年の歓迎会の少し前くらいです」
だとすると、会ってすぐくらいのタイミングじゃないか。
まさか一目惚れとか? いやー、それはそれで照れるな。そこまで男前って自覚はない。
「優しい方だなって思って、それから、ちょっとずつ……」
逃げ腰の口調で藍子はそこまで言うと、急に早口になる。
「そ、その、やっぱりちょっと恥ずかしくなってきちゃったんですけど」
「気にすんな。俺しか聞いてない」
「や、でも、居間にお母さん――じゃなくて、母がいます」
「ここの声、聞こえるのか?」
こっちのドアも居間のドアも閉まってるし、筒抜けってこともないだろう。聞き耳でも立てられてない限りは。
聞かれてまずいこともしてない、今のところは。
「大きな声を出さなければ、大丈夫だと思います」
今更のように藍子は声を潜めた。これまた素晴らしい泥縄っぷりだった。




