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とろけるくらいあまく(3)

 乾杯の前に、藍子のお父さんとは名刺の交換もした。

 それによるとお父さんは県庁にお勤めの地方公務員であらせられるとのこと。安定職、羨ましい。


「どうぞ寛いでください、足も崩して」

 勧められたので俺は上着を脱ぎ、下座に着いた。

 キッチンからは藍子が顔を覗かせて、

「主任、何飲みます? まずビールでいいですか?」

「ああ」

 今、さりげなく俺を『主任』って呼んだな。やっぱり親御さんの前じゃ、名前では呼びにくいんだろうか。

「お父さんは? ビールでいいの?」

「うん。チルドに入ってるやつな、グラスも一緒に持ってきて」

「はーい」

 藍子のいつもより甘えたような返事の直後、冷蔵庫の開く音が聞こえた。すぐに、缶ビール三本とグラスを三個抱えてきた彼女が、居間まで戻ってくる。

「何だ、藍子も飲むのか」

 お父さんは驚いていたが、彼女は口を尖らせて答えた。

「だって、素面だとやってられない気がするんだもん」

 確かに。俺も内心密かに同意する。


 それから藍子と藍子のお母さんは、料理の皿を次々に運んできた。食事というよりはまさに酒の席という印象のメニューばかりだ。刺身の盛り合わせにたけのこや昆布の煮しめ、枝豆、魚介類のマリネ、小魚のフライなどなど。

「石田さんはお魚が好きなんですもんね」

 藍子のお母さんはそう言って、軽く微笑む。

「今日のメニューは藍子が考えてくれたんですよ。『主任はお魚が好きだから』って言って……ね、藍子?」

 水を向けられた彼女は、うん、と聞き取りづらいほど小さな声で答えると、俺の隣にちょこんと座った。

「最近はお料理の練習もしてるんですよ」

 お母さんは更に続ける。

「今までは私たちが言ってもなかなかやろうとしなかったのに、最近になって急になんです。やっぱり彼氏ができると変わるものなんですね」

 それに対して、藍子からの反論は特になし。

 ただ、横目でちらっと俺を見てきたので、話題を変えて欲しいのかなと思った。いや俺的にも今の話は少々興味あるところなんですが。

 やっぱりしてるのか、練習。次は何作ってくれんのかなー。楽しみだなー。

「お父さんには、何にも作ってくれないのになあ……」

 ビールのプルトップに手をかけながら、お父さんがぼやく。

 その言葉と猫背気味の姿勢からは哀愁を感じて、さしもの俺も罪悪感を覚えた。すみませんお父さん、藍子さんは必ず俺が幸せにしますから。


 缶ビールを冷えたグラスに注いで、ひとまず乾杯。

 お父さんと藍子は普通にぐいぐい飲んでいたが、お母さんだけはお神酒用みたいな小さな小さなコップで、ほんの二口ほど飲んだだけだった。そういえば藍子も『母はあんまり飲めないんです』って言ってたっけ。

 となると、藍子が割かし行ける口なのはお父さんの影響なのかもしれない。

「しかしこういうの、憧れだったんですよ」

 気を取り直したようにお父さんは、俺に向かって語る。

「ほら、うちは娘二人ですから。息子ができて一緒にお酒が飲めるなんてのはもう、憧れでしてね。それでなくてもずっと三対一で、私の立場が年々弱くなってく一方で」

 お父さんの視線がすっと動いて、居間に置かれた立派な食器棚の中へと留まる。


 曇りのないガラス戸の向こう、きれいなグラスやティーカップの並ぶ中で、同じように大切そうに置かれているのは大判のフォトスタンドだった。

 どういう場面で撮られたものなのかはわからないが、藍子の背格好から察するに、最近の写真であるのは間違いないと思う。藍子とご両親、それにもう一人、藍子と背丈のそう変わらない女の子が、おめかしした格好で並んで写っている。この距離からだと顔つきまでは見えないが、もう一人の女の子が恐らく、藍子の妹なんだろう。

「下の娘は去年、大学に行きましてね。家を出て一人暮らしをしてて、そっちはそっちで心配なんですが」

 話しながら、お父さんの視線が戻る。

 俺の隣でビールを飲む藍子に、優しい目を向けている。

「藍子は藍子で、これまた気がかりだったんですよ。石田さんならご存知かと思いますが、誰に似たのかやけに真面目で、融通の利かない性格になってしまったもので、この歳まで浮いた話の一つもなくて」

「……主任、遠慮せずどんどん召し上がってください。お煮しめとか、美味しいですよ」

 話を逸らす気満々の藍子が、小皿に煮しめを取ってくれた。

 その気配りはもちろん嬉しかったが、俺としては語りたがってるお父さんの気持ちだって蔑ろにはできないし、困ったものだ。

「親としては、そんなに急いで結婚することもないって思うんですがね、しかし浮いた話がないならないで不安にもなるものなんですよ」

 お父さんは実に気分よさそうに話し続ける。グラスのビールもいいペースで減っている。

「でも去年辺りから急に、ついに藍子も色気づいてきたみたいで、ああこれは……と思ってた矢先に石田さんの話ばかりするようになって。父親としては覚悟半分、嬉しさもまあ半分くらいでしばらく見守ってきたわけなんですが」

「主任、ビールの次は何飲みますか? 水割りですか、それともまたビールですか?」

 ものすっごい強引な割り込みを試みてきた藍子。

 いや待て、その振りは無茶だ。

「まだ半分も飲んでないよ」

 持っていたグラスを見せると、藍子は一瞬ぐっと詰まった。しかしすぐに気を取り直した様子で、勢い込んで聞いてくる。

「じゃあ、ケーキはいつ食べましょうか?」

「……お前、話題変えるの下手だな」

 そのぶきっちょさがあばたもえくぼみたいな感じで、俺には可愛く見えちゃうんだが、思わず笑ってしまったところにお父さんの声が飛んできた。

「石田さん、どうですかうちの娘。親の私が言うのも何ですが、可愛いでしょう」

 瞬間、藍子がはっとしたように俺を見た。

 既に酔っ払ってしまったみたいに――って、俺は彼女が酩酊してるところを生で見たことはまだないものの、頬を赤らめて目を潤ませた彼女は俺を見つめてから、上擦ったような声で訴えた。

「あああの、こ、答えなくていいです。本当にいいです。スルーしてください是非っ!」

 そうは言っても、スルーなんぞできっこない。


 お父さんは俺が答えるのを今か今かと待ち構えているし、お父さんの語りっぷりをにこにこと見守っていたお母さんも、今は俺と藍子の方へ視線を移してきているし、答えないわけにはいくまいて。

 何より、ここで適当にお茶を濁したり、スルーしたりするような男など、大事な大事な娘をくれてやるに値しないって親御さんなら思って当然だ。俺は子供なんていたことないしそもそも未婚だが、それでもそのくらいはわかる。親ってのはそういうもんだ。

 そして男ってのは、こういう時にびしっと答えられるようでなくちゃいけない。


 だから、答えた。

「可愛いです、とっても!」

 力の限り答えた。

 本当に本音で答えるなら、俺は藍子のことを軽く一晩は語り続けられるくらいに可愛いと思っている。まあ語り続けたところで最後の方は、言葉にもならない呻きや荒い溜息なんかを連発しつつ、一人身悶えるだけで終わりそうな気もするが、とにかくそのくらい可愛い。藍子の為なら人生懸けてもいいって思ってるし、実際この先の人生設計を考えるにあたって、そこに藍子がいない、という可能性はゼロだと思っている。そのくらい可愛いし、好きだ。

 俺の答えを聞いたお母さんはほっとしたように笑い、お父さんはさっき言ったとおりに覚悟半分、嬉しさ半分くらいの表情になって、ゆっくり肩を下ろした。

「そうでしょう」

 しっかりした声で、心底満足した様子でお父さんは言葉を継ぐ。

「可愛いんですよ、藍子は。親の欲目だけでそう思ってたのかと不安でしたが、よかった。見る目のある方がいてくださって」

 後半はどことなく、冗談めかして続けられた。

 そういう見る目なら、いっそ俺だけが持ってるくらいでもいいんだが。そんなことを思いながらビールのグラスを傾けた時、隣からは吐息交じりの呟きが聞こえた。

「もう……!」

 抗議したいのにできない、言いたいことがあるのに言えないってそぶりで藍子は呟き、それから親御さんには見えないように、テーブルの下でそっと、俺の肘をつまんできた。別に痛くもなく、くすぐったいくらいの感触。

 俺は藍子のそういう態度が可愛くて堪らなくて、でもおおっぴらにでれでれできない時 にそういうことするなよお前、みたいな気分でちょっとむずむずする。仕方ないから俺の部屋に帰ったら、一人で思い出しでれでれしよう。って言うか、しようって決めておかなくても勝手になるだろうな。

「ところで……こんなことを聞くのも何ですが」

 いろいろ堪えてる俺に対して、藍子のお父さんが尚も問う。

「具体的に、うちの娘のどの辺が可愛いですかね」

「ちょっ、お父さん!?」

 藍子は噛みつくような勢いで、お父さんに向かって声を上げた。しかし向こうは向こうで娘の態度を不満に思っているようだ。どこかしら拗ねた口ぶりで曰く、

「だってお父さんは、藍子が石田さんをどのくらい好きかは散々聞いてきたけど、石田さんがどう思ってるか聞くのは初めてだからな。いろいろ聞いてみたっていいじゃないか」

「言ってない、散々なんて言ってないもん!」

 頑張って否定したがっている藍子だが、そこにお母さんも口を挟んで、

「言ってたじゃない。お母さんもちゃんと覚えてますよ、会社での話をする時は決まって石田さんのことを話してるんだから。主任が優しくて格好よくてって、もう本当にそればっかりで」

「お母さんも! これ以上ばらさなくていいから!」

 否定もできなくなったか、彼女は制止に入る。

 しかしお母さんは全く取り合わず、俺の顔を再びじっと見た。納得したように頷きながら、

「そうそう。目が好きだって言ってたのよね、石田さんの」

 藍子はもう俺の顔すら見なくなり、居た堪れなさの極みといった横顔のまま俯いた。

 そして俺に対し、早口気味にこう言った。

「わ、私、仕事中にそういうことだけ考えてたんじゃなくて、ちゃんと真剣に仕事のことだって考えてたんです。たまにはそういうことも思っちゃったりしてましたけど、でもごくたまにです。本当なんです……!」


 いや、わかってる。わかってるけどな。

 俺としても、親御さんから話に聞く藍子は正直意外すぎて、ちょっと面食らっている。俺と似たようなことを考えてたりしたのか。真面目そうに見えても、実際ものすごく真面目な性格してても、感情部分を簡単に切り離せたりするものではないんだろうな。そういう藍子の方が、親しみも持てるし可愛いけどさ。

 ただ、藍子のこと、結構知ってるつもりでいたのに、知らないことはまだまだあるもんなんだなって思った。

 あと、惚れ直してもらうつもりで来たのに、俺が惚れ直しちゃってどうするんだ、とも思った。


 藍子と藍子のお父さんは、早々にビールを飲み終えた。

 次は何を飲むのかと見守っていれば、お母さんが水差しやらアイスペールやらを手際よく運んできた。お父さんは俺が持参したウイスキーの包装を解きながら、俺に尋ねてくる。

「いただいたばかりですがこれ、早速やってもいいですかね」

「どうぞどうぞ。その為に買ってきました」

 俺が頷くと、お父さんはいそいそとビンの蓋を開ける。嬉しそうな顔をしているから、こっちまで嬉しくなった。買ってきてよかった。

「石田さんはどうします?」

 と、お父さんの視線が俺のグラスに向けられる。ビールの残りは三分の一を切ったところで、二杯目を検討するタイミングではあった。

「水割りでよければお作りしますよ」

 そう言っていただいたなら遠慮する方が悪い。

「じゃあ、俺も水割りで――」

 答えかけたところに、藍子がぱっと腰を浮かせて、

「あ、待って待ってお父さん。主任の分は私が作るから」

「何で」

 食器棚からタンブラーを三つ、取り出してきたお父さん。娘の発言に不満げな顔をする。

「だってお父さんが作るとお酒一杯入るもん。主任が酔っ払っちゃったら困る」

「それは違うぞ藍子。こういう場ではまず酔っ払わせなきゃ話にならん」

「でも、主任は電車で帰るんだから……」

「帰れなくなるほど酔っ払ったら泊まってってもらえばいいじゃないか」

 あっさりとそんなことを言ってから、お父さんは俺の方を見た。

「それに石田さんはお前と一緒で、日頃から飲み慣れてるお仕事なんだろう。水割りの一杯や二杯で酔っ払ったりしない。……ですよね?」

 最後の疑問はもちろん俺に対してのものだ。


 実際その通りではあるんだが、酒が入ると発言がフリーダムになると評判の俺が、よもや藍子の親御さんの前で醜態を晒すわけにはいかない。藍子が止めてくれてる今のうちから、重々気をつけるに越したことはない。

 が。――酔っ払わなきゃ話にならないって言葉も、また事実ではある。

 藍子のお父さんはとても気さくな人だが、初対面の、それも娘の彼氏に対して素面で気さくに振る舞うのは難しいことに違いない。そしてそれは、俺だって同じだ。もう少しくらい酔っ払ってしまった方が、もっと遠慮もぎこちなさもなく話ができるかもしれない。

 よし。気をつけて酔っ払おう。


「大丈夫です」

 腹を決めた俺が答えると、お父さんはほっとしたように笑み、藍子は若干気遣わしげな表情になる。もちろん彼女の心配もわかるから、繰り返して念を押しておく。

「大丈夫だよ」

「……無理に付き合わなくてもいいですからね」

 まだ気にしている風でありながらも、藍子は不安を一旦引っ込めてみせた。ただ、お父さんに対してはこう言った。

「一杯目は私が作るから」

 過去に『水割りの似合う女』を目指したことがあるという彼女は、作る手際自体はそう悪くなかった。トングで氷を器用に掴み、タンブラーに入れ、そこに開けたてほやほやのウイスキーを注いでいく。ぱきぱきと氷が鳴る。

 ただいかんせん量が少ない。

「藍子、それじゃ足りない。もうちょっと入れなさいもうちょっと」

「えー。だって、入れすぎたら主任が酔っ払っちゃうってば」

「しかしこれはいくらなんでも薄すぎる。お前が作るといつもそうだ」

「じゃあ、どのくらい? このくらい?」

 恐ろしく慎重な手つきでウイスキーのビンを傾ける彼女。それを、首をぐいっと三時の方向に曲げて、確かめようとするお父さん。

「オーライオーライ、心もち、あとちょっと入れてみよー」

「お父さん、車じゃないんだから……もういいよね?」

「はいストーップ。これが黄金比だからね、覚えとくように」

「多くないかなあ。ねえお父さん、主任に無理強いとか絶対しないでね?」

「何だお前は、さっきから主任、主任と石田さんのことばっかりで」

「お父さんこそ何か変なテンションじゃない? はしゃぎすぎだよ、もう」

 仲良く言い合いをする父娘の様子を、お母さんがくすくすとおかしそうに笑いながら見守っている。


 絵に描いたような一家団欒の空気は、梅雨の夕暮れの薄暗さなんてものともせず、蛍光灯の明かりの下で和やかに流れている。一人暮らしがすっかり染み着いてしまった俺には、どうも眩しいくらいの光景。

 最近の藍子は俺がボケたらいいツッコミをくれるし、からかった時にちょっとむくれたりもしてくれて、俺にも気を許してくれるようになったのかなと思っていたけど、こうして見るとまだまだだ。くだけ方が足りない。

 お父さん、お母さんにするみたいに甘えてくれたり、怒ってくれたり、呆れてくれたりしてもいいんだけどな。俺も『隆宏さんったら、もう』みたいなこと言われたい。超言われたい。


 でも、

「お待たせしました、主任」

 藍子が尻尾振ってる犬みたいな笑顔で水割り入りタンブラーを持ってきて、手渡してくれて、俺が『ありがとう』って受け取ったら期待に目をきらきらさせながら、

「あの、味を見てもらえますか。ちゃんと黄金比になってるかどうか」

 なんて言い出して。

 それで俺が一口味見して、美味いって言ったら思いっきり唇から頬っぺたから全部綻ばせて、よかったあ、なんて可愛い声で言われたりするのも、これはこれでいいなと思う。

「お父さんと石田さんとじゃ、随分態度が違うんだなあ……」

 拗ねた口調でお父さんがマドラーをぐるぐる回していたが、俺としてはその態度の違いも全く悪い気がしない。

 可愛い子に特別扱いされるの最高です。お父さんには実に申し訳ないですが。

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